哲学に精通した精神科医が統合失調症の事例を参考に正常と異常の間への線引きを検証した力作。
通常、普通の人は「私/誰か」の線引きを当然のようにできるが、統合失調症の患者はこれができない。
≪「わたしがOさんになってOさんがわたしになって」「一つが二つ、二つが一つ」になって、彼女とOとは完全に一体となる。私はかつてこの種の恋愛妄想の構造を示す図式として、「現実の不可能を非現実の可能に変える」と述べておいたが、この図式はこの症例にもあてはまる。彼女が時々つぶやいていた「ヘンコウ」という言葉は、まさにこのことを示しているかもしれない。この患者に限らず、多くの分裂症患者は「表と裏」「なにもかもさかさま」「ポジとネガ」というような言い回しを用いることが多いが、これらの表現にあらわされている「反転」も、いわば同様の事態を述べていると考えて差し支えない。≫(p101)
われわれが普段、統合失調症の患者のような混乱を起こさないのは、対人的状況における場での実践的感覚が機能しているからであり、これを著者は「世間的日常性の公理についての実践的な感覚」と名付ける。
この感覚が正常に働かないと、
≪「どこがおかしいかわからないが、どこかおかしくなる。自分の立場がない感じ。自分で自分を支配していない感じ。なにかにつけて判断しにくい。周囲の人たちがふつうに自然にやっていることの意味が分からない。皆も自分と同じ人間だということが実感としてわからない。なにもかも、少し違っているみたいな感じ。」≫(p89)
のような事態に陥る。
著者は”正常人”が無意識に身体化している「世間的日常性の公理」を3つの原理に分解して検討を加える。
①個物の個別性
わたしが持っているこの万年筆とあの万年筆は個物をして別のものであり、それぞれが一つの同じ万年筆だということにはならない。
この図式を「自分」にあてはめると、私の自分はこの世にただ一つであり、私以外の同じ自分がこの世に別に存在することはあり得ない。
にもかかわらず、統合失調症の患者は私の自分が他の自分と入れ替わったり、取り違えたりしてしまう。
②個物の同一性
私のこの万年筆は昨日も同じ万年筆だったし、明日も同じ万年筆であり続ける。私が誰かにこの万年筆をプレゼントしたとしても同じ万年筆には変わりはない。
同じように、昨日の「自分」と今日の「自分」が違うことはないし、引っ越し前の「自分」と引っ越した後の「自分」の間に決定的な断裂があるわけではない。
しかし、とここで著者はこの原理に関して留保をつける。
川の流れは同じでありながら別の様相を呈する、人間の身体も常に細胞が入れ替わり形も変化する、このように形状や性質が変化することは必ずしも常識に反しない。
統合失調症の患者が欠損している常識はそういうことではなく、形状や性質がみせる現象の底にあってそれを担っている本質、実体としての同一性を指す。
③世界の単一性
私が現在いるこの世界は、私以外の誰もがその中にいる世界で、私たちはすべて同じ一つの世界にいる。
言い換えれば、人間の考えうるかぎりでの時間的空間的領域のすべては一つの世界である。
これは第一の原理と同じことを意味する。
「表と裏の世界」があり、「私自身が二重になって、二人いるみたい」と患者が告白するとき、この第三の原理は破綻している。
著者はこれらの常識的日常性の世界に関する三原理を単一の公式であらわし、これを「世界公式」と名付ける。
1=1
これが私たちの「世界公式」にほかならない。(中略)自然科学の全領域が、それだけではなく私たちの生活をすみずみにまでわたって規制している社会規範のすべてが、この基本的な公式のうえに組み立てられている。私たちの生活の全体がこの証明不可能な公式の上に成り立っている。(p115~116)
A=AであってA=notAである、とは常識的には想像できない。
わたしたちはこのような合理性のある世界で生きている。
ところが、いくつかの対概念を事例として検証してみると、思っているほどこの合理性が堅牢ではないことがわかる。
たとえば、有ー無を考えた場合、「有であって有でないが無ではない」という論理構造は世界公式から逸脱しているように見えるが、絶対に成立しないとは言えない。
(同様に「無ではないが有でもないが有る」もありうる)
他にも美ー醜、善ー悪、真ー偽などの対概念にも、この「逸脱」は妥当するように見える。
そして、このように判断する根拠たる合理ー非合理の対概念でさえ、この逸脱の罠から逃れられるわけではない。
非合理の否定は合理ではない、という世界公式からの逸脱は世間的日常性の公理の正当性を揺るがすポテンシャルを秘めている。
統合失調症の患者はこの力の重力圏に常在するということもできるのではないか。
さらに言えば、”正常人”もこの重力圏から無関係ではいられないし、逆にこの重力圏から完全に切り離された場所、つまり、合理ー非合理、有ー無等々がクリアカットに分離した場所に常在する人間は”正常”とは思えない。
評者はそのタイプの人間の典型例に昨今何かと話題の”テクノリバタリアン”を思い起こさずにはいられない。