作品一覧

  • 新編 人と人との間 ――精神病理学的日本論

    新編 人と人との間 ――精神病理学的日本論

    ビジネス・実用

    -
    1巻1,397円 (税込)
    精神病理を人間の在り方の一様相として論じてきた著者によるキー概念「間」(「あいだ」)。自己存在の根底にある超個人的な場所としての「人と人との間」は、現代思想に大きな影響を与えた。本書は、ドイツ留学時に思索した日本人論としてこの概念を世に問うた一冊である。日本人特有の精神病的生き方をさまざまな現象を通して思索するとともに、日本的精神症状とされる対人恐怖、貰子幻想の病理を解明。さらに「間」理論を和辻哲郎の『風土』、土居健郎の「甘え」理論と併せて検討して、人間存在の様相を詳らかにする。文庫化にあたり講演「人と人とのあいだの病理」を併録。解説 清水健信
  • 異常の構造

    異常の構造

    ビジネス・実用

    4.4
    1巻1,210円 (税込)
    臨床の場に身を置きつづけながら、綺羅星のような著作および翻訳を遺した稀代の精神病理学者木村敏(1931-2021年)。その創造性は世界的に見ても人後に落ちない。 著者の名を世に広く知らしめるとともに、社会精神医学的な雰囲気を濃く帯びていることで、数ある著作のなかでもひときわ異彩を放つ名著に、畏友・渡辺哲夫による渾身の解説を収録。 「異常」が集団のなかでいかに生み出され、また「異常」とされた人々のうちでなにが生じているのか、社会および個人がはらむ「異常の構造」が克明に描かれる。私たちはなぜ「異常」、とりわけ「精神の異常」に対して深い関心と不安を持たざるを得ないのか。「自然は合理的である」という虚構に支配された近代社会が、多数者からの逸脱をいかに異常として感知し排除するのか。同時に患者のうちで「常識の枠組み」はどのように解体され、またそのことがなぜ「正常人」の常識的日常性を脅かさずにはおかないのか――。 「あとがき」に刻印された「正常人」でしかありえない精神科医としての著者の葛藤は、社会における「異常」の意味を、そして人間が生きることの意味を今なお私たちに問いかけ続けている。(原本:講談社現代新書、1973年) 【本書の内容】 1 現代と異常 2 異常の意味 3 常識の意味 4 常識の病理としての精神分裂病 5 ブランケンブルクの症例アンネ 6 妄想における常識の解体 7 常識的日常世界の「世界公式」 8 精神分裂病者の論理構造 9 合理性の根拠 10 異常の根源 あとがき 解 説(渡辺哲夫)
  • 時間と自己

    時間と自己

    ビジネス・実用

    4.4
    1巻990円 (税込)
    時間という現象と、私が私自身であるということは、 厳密に一致する。自己や時間を「もの」ではなく「こと」として捉えることによって、西洋的独我論を一気に超えた著者は、時間と個我の同時的誕生をあざやかに跡づけ、さらに、ふつうは健全な均衡のもとに蔽われている時間の根源的諸様態を、狂気の中に見てとる。前夜祭的時間、あとの祭的時間、そして永遠の今に生きる祝祭的時間――「生の源泉としての大いなる死」がここに現前する。
  • 自分ということ

    自分ということ

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻1,067円 (税込)
    「自己」とか「自分」とは、私たち個人の内部的ななにものかだろうか。自分の「自」は「おのずから」の「自然」となり、また「みずから」の「自分」となり、両者の間で根源的な生命は躍動する。自己あるいは自分とは、私の内部にあるものではなくて、私と世界との、総じて人と人との「あいだ」にあるのだ。自己の自己性にかかわる危機として分裂病(統合失調症)や離人症を取り上げ、「あいだ」の時間性や、自己の「もの」的ありよう・「こと」的ありように光を当てる。著者の内面の歴史を背景に語られる木村哲学への最初の一歩。
  • あいだ

    あいだ

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻1,067円 (税込)
    自己が生命の根拠に支えられて世界と出会う行為的原理である「あいだ」。その構造を、ゲシュタルトクライス理論に拠りつつ、ノエマ・ノエシスの円環的関係を西田哲学の「行為的直観」と関連づけて、多面的に解き明かす。自己が主体として生きるということは、生命一般の根拠の「おのずから」の動きにかかわると同時に、間主体的な世界を維持することではないか。ユクスキュル、ブーバー、レヴィナスらへの言及を通じて自他の関係を考察し、ダブル・バインド仮説の可能性を改めて問う。独自の学問的地平を切り拓いた著者の世界をわかりやすく示す。
  • 分裂病と他者

    分裂病と他者

    ビジネス・実用

    -
    1巻1,606円 (税込)
    精神病理から人間存在の本質にいたる思索をさらに深め、分裂病者にとっての「他者」の問題を徹底して掘り下げた木村精神病理学の画期をなす論考。ハイデッガー、西田幾多郎らに加え、デリダ、ラカン、レヴィナスなどの構造主義と正面からわたり合い、自己と他者との関係のありかたを「あいだ=いま」という本質的な項を媒介として見つめ直す。研ぎ澄まされた治療感覚をもって、患者の生き方を知覚し、治癒をめざして真摯な長い対話を重ねる著者の思策と営為。今、「臨床哲学」の地平が開かれる。
  • 新編 分裂病の現象学

    新編 分裂病の現象学

    ビジネス・実用

    5.0
    1巻1,716円 (税込)
    実践的な臨床の経験から、分裂病(統合失調症)を治療すべき異常なものとする論理に与することなく、人間という矛盾に満ちた存在そのものに内在している自己分裂に根差したものとする地平から紡ぎだされた珠玉の初期論文。西田哲学における自‐他論や時間論を敷衍し、分裂病者の自閉性や体験の基本的構造に注目することにより、自我障碍よりも人と人との「あいだ」における自己の自己性の危機、自己と身体との乖離を論じる。
  • 自己・あいだ・時間 ──現象学的精神病理学

    自己・あいだ・時間 ──現象学的精神病理学

    ビジネス・実用

    4.5
    1巻1,716円 (税込)
    精神の病態を一時的な疾患としてではなく人生全体の示す歴史的な歩みとして位置づけ、独自の思想を重ねてきた著者の代表的論考のかずかず。自己と他者の「あいだ」の病態として捉えられてきた分裂病を、「時間」の病態として、現象学的な思索を展開する。とりわけ鬱病者の“あとのまつり”的体制に対し、分裂病者が“前夜祭”的な時間体制をもつという新しい構図は世界的に大きな波紋を広げた。他者や世界との「あいだ」、自己自身との「あいだ」の歴史性における患者の生のあり方を追究した本書は、精神病理学と哲学を自由に横断する独創的な学問的達成であるといえよう。
  • からだ・こころ・生命

    からだ・こころ・生命

    ビジネス・実用

    3.7
    1巻990円 (税込)
    著者は、常に臨床の現場に身をおきながら精神病理学と哲学を往還する独創的な学問的地平を切り拓いてきた。症例分析を通じて「もの/こと」や「あいだ」といった柔軟かつ強靱な概念装置を創出し、独自の自己論、時間論を展開、その思索は生命の根拠の探究へと旋回する。「からだ」と「こころ」はどのように関係しあっているのか。「生きる」とは、そして「死」とは? 木村生命論の内実と射程を雄弁に語る好著。解説:野家啓一 (講談社学術文庫)

ユーザーレビュー

  • 時間と自己

    Posted by ブクログ

    時間とは、万人に平等にあるもので、過去から現在そして未来につながる一連の流れのように捉えていました。本書を読むと、私の中の時間に関する常識がどんどん崩れていきます。著者と同じ視座を得るには、私はもっと哲学書を読み込まないといけません。
    何度か読み返し、本書に登場する書籍も読み込むことで、本書の内容を理解できるのだと思いました。

    0
    2026年06月04日
  • 時間と自己

    Posted by ブクログ

    この本は再読しながら少しづつレビューします。

    わたしは生きているというとき、必ずそこには時間が流れている。時間が流れていない状態ではわたしは生きていない。不死だということもできるだろう。

    なぜ時間は流れるのか?
    流れるように感じる時と時間が消失したように感じる時の違いは何だろうか?

    この本には消失した時間(不死のわたし)のミステリーを説くヒントが暗示されている。

    ボルヘスの詩集のように。

    第一部 こととしての時間

    1 ものへの問いからことへの問いへ

    時間の謎を扱う時、ものの世界として対象をとらえるか、ことの世界をわたしが現すのかの違いをまず分別する必要がある。

    ≪時間と関連して速さというようなことについて考えてみる。 速いということは、そのままの姿では決してものではない。しかし、これを速さという形で思い浮かべてみると、それはたちまちものに変わる。≫p5

    ものの世界では私たちは対象を脳で見る。外部空間で対象をとらえる時は眼を使い、内部空間で対象をとらえる時は脳(記憶)を使う。

    ≪外部的な眼で見るにしても内部的な眼で見るにしても、見るというはたらきが可能であるためには、ものとのあいだに距離がなければならない。見られるものとは或る距離をおかれて眼の前にあるもののことである。それが「対象」あるいは「客観」という言葉の意味である。ものはすべて客観であり、客観はすべてものである。景色を見てその美しさに夢中になっている瞬間には、景色もその美しさも客観になっていないということがある。景色や美しさとのあいだになんらの距離もおかれていないから、われわれはその景色と一体になっているというようなことが言われる。主観と客観とが分かれていないのである。そのような瞬間には、われわれの外部にも内部にもものはない。われわれはものを忘れた世界に漂っている。しばらくして主観がわれに返ると、そこに距離が生まれる。景色や美しさが客観になる。そして、われわれは、美しいものを見た、という。≫p5~p6

    見ることを対象化して理解することが西洋哲学・科学の基本姿勢であることは理論(theory)の語源がギリシア語の「見ること」(テオリア)に由来することからも見て取れる。

    例えば「存在とは何であるか?」という問いが不毛なのは、その前提において「存在」が対象化されてしまっており、わたしが今ここに同時に存在しているというナマの現実がすっぽり抜け落ちているからだと言える。

    ≪ものを見るというはたらきが一定の距離をおいてはじめて成立するのに対して、聞くということはー肉声を聞く場合でも心の声を聞く場合でもー私たち自身の間近で生起する。≫p16

    ものを見るには空間的な距離が必要であり、ものは同時に同じ空間を占めることはできないので、外部的にものを見る場合でも、内部的にイメージ(表象)を思い浮かべる場合でも、ふたつのものを同時にとらえることはできない。

    ネットワーク環境に支配された世界では同時に複数のタスクをこなすマルチワーク、いわゆる「ながら作業」が効率的だということで推奨される傾向があるが、木村の主張ではマルチワークは成立しない。

    木村の主張を裏付ける論文はいくつか出ている。
    たとえば2006年3月にアメリカ心理学会(AmericanPsychological association)が編集した『Multitasking:Switching cost』では、人は同時に違う作業はできない、そうしているように見えるのはタスクがシームレスにできているイメージを意識がつくりだしているからだと結論付けている。

    むしろ、マルチタスクは対象をとらえ直すたびに脳に負荷を与えるため、大きなエネルギー消費を要し、集中力が低下する速度をはやくする。

    対象化して見る「ものの世界」とは違う「ことの世界」とはどのようなものか。

    ≪出来事や変化は、私がそれに気づき、意識的に私の存在に、つまり私がいまここにあるということのうちに組み込みうるのではない限り、わたしにとってことにはならない。ことがこととして成立するためには、私が主観としてそこに立ち会っているということが必要である。
    しかし、私のこととして成立しているこれら多くのことは、そのありかたの点でこの上なく不安定である。私がそれに意識を向けるやいなや、それらは純粋なことであることをやめて意識内部のものとなる。ものとなった以上、それらは意識の中で空間的な場所を占めてしまう。そして相互に排除的な現れかたしかしなくなる。ことが純粋なこととしてとどまりうるためには、それはいつでもものとして意識化されるうる可能性をもちながら、しかも意識の集中をまぬがれた未決の状態におかれているのでなければならない。(中略)
    ことは、もののよう内部や外部の空間を占めないが、わたしのいまを構成しているという意味において、私の時間を占めている。≫p17~p18

    ものの世界の時間とことの世界の時間は質が異なる。

    ものの世界の時間、つまり対象化されたものを見る時に流れる時間は時計やカレンダーで数的に計測できる時間量を意味する。いわば空間化された「見える」時間である。

    一方でことの世界の時間はどのようなものか。
    この章では言及がない。
    とりあえず、ものの時間とことの時間は相互の比較が不可能な本性上の差異がある、という点を忘れてはいけないとの注意書きがあるだけである。

    ものの時間とことの時間には比較不能な質的差異があるが、両立しない別種の現象様式というわけではない。
    両者は生きている人にとって共生関係にある。

    「ある」が「存在」に「速い」が「速さ」というものとして意識上に立ち現れるように、ことの状態は不安定で意識に発見されうるものの状態に安定しようとする。

    本来はものである言葉にことを封じ込める形式が詩と呼ばれるものである。

    ≪ことばはそれ自体一種のものでありながら、その中に生き生きとしたことを住まわせている。そこではものとこととのあいだに一種の共生関係があるといってよい。この共生関係を最大限に利用しているのが「詩」と呼ばれる言語芸術だろう。≫p22

    ものとことの共生関係は芸術活動にのみ見られる現象ではない。

    ≪人間の表現行為に属するものならどのようなものでも、ものに即してことを感じとるという構造をもっている。例えば表情といわれるものがそれである。われわれは他人の表情からその人の心の動きを読み取っている。ものの次元にある顔面の動きが、こととしての内心を表している。≫p24

    表情のような変化の激しい安定しないものでなくても、現実の世界ではものとことは共生している。

    わたしは今手に握っているペンにも肘で触れている机にもそのものの背後には表情をもったことの世界があることを感じる。

    このことの世界が奪われた状態が離人症と呼ばれる病態である。

    離人症者は自分の身体についての実在感が奪われると同時に、自己が見失われた状態に置かれる。

    ≪患者はたとえば、なにを見てもそれがそこにちゃんとあるということがわからない、(中略)温度計を見れば今何度だということはいえるのに、暑いとか寒いとかがわからない、喜怒哀楽というものが感じられなくなってしまった、自分はなんの感情も持たないロボットになった、他人がどんな気持ちをもっているかもわからない。≫p26

    離人症者の時間感覚は独特である。
    彼らは時計から時間の量的経過を知ることはできるし、運動の変化が速いか遅いかを見分けることもできる。
    しかし、二つの出来事の間に時間が経ったという感覚が失われているため、離人症者のいまは時間的な持続を持たず、非連続的にめまぐるしく走り去る瞬間的な点として現れる。

    これに対して健常者のいまは未来と過去に挟まれてはいるものの、豊かな内容で充たされた安定した静止状態として体験される。

    こととしてのいまを体験できる健常者は、いまから過去と未来を創り出すので、時間を時と時のあいだで発見できる。

    ≪ことの世界を失った離人症患者においては、このような意味でのあいだとしてのいまが成立しない。患者が「てんでバラバラでつながりのない無数のいまが、いま、いま、いまと無茶苦茶に出てくるだけで、なんの規則もまとまりもない」と語っている真意は、実はいまの不成立ということである。≫p30

    2 あいだとしての時間

    現在社会における通常の時間の観念は等質かつ均速にすすむ物理的な時間を意味するが、なぜか前後で可逆的に進行するとは考えられない。

    ふつうは時間が過去と未来に前後対称的にすすむ連続量とは考えずに、未来の方向に非対称的に動くと考える。

    なぜそう考えてしまうのか。

    ≪物理学の時間に前後非対称な不可逆性が、いいかえれば過去と未来との非互換性が導入されるのは、またそれによってエントロピー増大の法則が成立するようになるのは、けっして計測量そのものの一次的な性質によるのではなく、観測という行為が二次的に加えた操作によるものである。2回目の観測が前の観測と後の観測という順序をもっているという、ただその理由だけのために、そこで観測される「時間」にも不可逆的な前後の方向が与えられてしまう≫p34

    観測しなければ、あるいは観測と観測の間では、時間がどのような振る舞いをしているのかはわからない。

    ベルクソンはものとして空間化された(個々の時刻に区別され、等間隔に配置された)時間と数量化不可能な「持続」としての真の時間と区別した。

    ベルクソンのいう空間化から逃れた純粋なことの世界(純粋持続)は現実的にはあり得ない。

    ものの世界とことの世界はお互いに共生関係にある。
    離人症者のようにこと的なあり方を失ったものの世界が存在できる条件が厳しいのと同様、もの的なあり方を欠いたことの世界もない。

    ≪ことはものに現れ出でている。ものがことを表現しなかったならば、ことはあるとさえいえないだろう。ことはものとの共生関係においてのみ現実の世界に存在することができる。ものとこととのあいだに厳密な様態の差異を見定めるということは、ものとこととを事実的に区別してしまうということとは全然違う。ものから事実的に区別され、ものとは別のものとして立てられたような「こと」は、もはやことであることをやめて、それ自体一つのものになってしまうだろう。≫p41

    ハイデガーが名付けた「存在論的差異」とはこととものとの差異に生きた意識が立ち会う、そのあり方を指す。

    ≪われわれがアナログ時計から時間を感じ取っている場合、われわれの読み取っているのは針の動きそのものではありえない。針の動きそのものの背後に、それとの存在論的差異において、われわれは時間が過ぎていくということを感じ取っているのである。現在の針の位置の背後に、「いまはまだ」とか「いまはもう」とかの形で表現されるような、いまの後と先とへのひろがりを感じ取っているのである。≫p43

    時間の捉え方には動きや変化量など客観的なもの的な切り口と「もう」とか「まだ」とかといった主観的なこと的な切り口がある。

    その重なり合いの違いをハイデガーは存在論的差異と名付けたが、彼の発想の基盤にはアリストテレスの時間論に対する批判が見て取れる。

    アリストテレスの時間論は込み入った推論の末、多くは解決不能なアポリアに行きつくが、一つだけ回答の見込みのありそうな問いが提示される。

    それは「時間とは運動の何なのか?」という問いである。

    ≪アリストテレスは「運動は拡がりに即する」と言っているが、これは運動がその本性上、拡がりと連続性を前提としていること、拡がりと連続性が運動の存在論的根拠となっていることの意味に解さなければならない。(時計の針や天体の運動を数えることによって読み取られる)通俗的時間の根底には「・・・から・・・へ」の拡がりがある。われわれは運動しているものを眼で追いながら、いまはここにある、いまはここにある、という。(中略)運動を追う場合に、そこで運動といっしょに見てとられている「いま」、これが実は時間の正体である。≫p50~51

    ハイデガーの『現象学の根本的諸問題』からの引用が続く。

    ≪われわれが「いま」というとき、それはつねに「いまはもう・・・でない」および「いまはまだ・・・でない」の両方向に向かって開かれている。このことは、時間において数えられる運動や変化が「・・・から・・・へ」という拡がりの性格をもっているということと同じことである。「・・・から・・・へ」の移行を成立させている場所としてのいまは、それ自体のうちに移行的性格を含んでいる。いまそれ自身が拡がりの性格を持っている。われわれは日常、「いま」という言葉で秒単位の短い持続を表現することもあるし、時間単位の長い期間を表現することもある。このようなことが可能なのは、いまそれ自身が拡がりであるからにほかならない。≫p51

    したがって、時間はいまの伸縮する場所、すなわちそのつどのわたし自身に他ならない。

    木村は以上のハイデガーの時間に関する見解がいまの拡がりを欠き、時間と私が同時に非存在となってしまう離人症の症状を正確に言い当てているという。

    次にいまの拡がりに関して考察を進める。

    ≪いまが以前と以降への両方向に向かって拡がっているということは、それが未来と過去をそれ自身から生み出す根源という意味で未来と過去のあいだであるということを意味する。未来と過去がまずあって、そしてその両者の「あいだ」にいまが位置しているというのではない。いまはそれ自身あいだというありかたを示すのであって、それがあいだであるからこそその両方向に未来と過去が考えられるのである。あいだとしてのいまは、それがそれ自身のうちから未来と過去を析出することによってのみ時間制を帯びる。≫p54~55

    いまは過去と未来にサンドイッチされた形であるのではない、そういった考えは一方的にもの的な見方でしかない。

    いまはそれ自身現象することで空間的な位置をもつ、それと同時に前後への拡がりができ、過去と未来、つまり時間が発生する。

    (ベルクソンの純粋持続はいまが現象するとき、空間的な位置をもつときの緊張関係を示唆しているのではないか。しかし、そうだとすれば拡がりを持つ「持続」という言い方はおかしい。純粋に持続が接続されると同時に空間が発生するはずだから。)

    いままでの議論で、「時間」は単独で推移するものではなく、それぞれのいまが以前と以降、いままでといまからの両方向へと拡がったわたし自身であり、時間の推移とはわたし自身の推移であることを確認した。

    以上の概念を理解するために公共的な共同体時間の認識の歴史的な推移を概観する。

    ≪真木悠介氏は原始共同体の無限反復的な時間から、ヘブライズムにおける線分的な(はじめとおわりのある)時間とヘレニズムにおける円環的な時間という二つの回路を経て、近代社会における計量的な直線的時間へと収斂する時間観念の変遷を、「自然からの人間の自立と疎外、それによる自然との共同態の<生きられる共時性>の解体」と、「共同態からの個の自立と疎外、それによる共同態の<生きられる共時性>の解体」との二つの契機を軸にして明快に解釈している。人間と自然との、そして原始共同体内部での「生きられる共時性」が解体して、「知られる共時制」が析出してくるところに時計が成立する。その意味では、時計化され制度化された時間は、そのまま、物象化され客体化された時間だということになる≫p59

    原始共同体における「生きられる共時性」はベルクソンの「純粋持続」と同じで、現在における時間の観念にはそぐわない。
    簡単に言ってそれは時間の不在である。

    ≪物象化と客体化を免れたままの、純粋なこととしての「原時間」とでもいうべき状態は、このすでに物象化されもの性を帯びた時間の側から回顧的に表象された場合にのみ、換言すれば時間のもの性がいったん成立してしまってから事後的にこれを還元するという手続きをとることによってのみ、そこではじめて時間の本質として存在可能になるようなものなのである。≫p60

    したがって、いまの成立に立ち会うわたしは時間の誕生と同時に共同体から析出する。
    時間と個我の誕生は人間の自然とのつながりからの疎外の症状とみなせる。

    言い換えれば、わたしは有限の死すべき存在であるという刷り込みは自然との直接的接続を切断され、個我と時間が共同体から析出された瞬間から現れたといえる。

    第2部 時間と精神病理

    第1部で見たように、「時間について考える」こと自体、非対象的なこととして生きる、存在するという時間の本質を切り捨ててしまっているので、時間を知るための適切な方法ではない。

    時間を知るためには時間から眼をそらし、人が日常、時間にとらわれずに働かせる意識や行動にフォーカスする必要がある。
    (そこには必ずもの的な世界も協働している)

    時間のあり方が極端な方向に振れる精神病者の言動をてがかりに、時間と人の関係を考察する。

    1 分裂病者の時間

    分裂病者には自己が確実な自己性を有していないという共通点がある。

    臨床症状としては、自分の意志や感情や思考が他者によってあやつられているという「させられ体験」とこれとは逆に自分の内面的な意志や感情の動きが何らかの手段でひとりでに他者に伝わってしまう「つつぬけ体験」が二つの特徴として挙げられる。

    周囲の出来事やオープンな報道が自分に向けられたものと思い込む「関係妄想」はこの二つの体験の結果として現れる。

    臨床家としての木村はこの人間印象を以下のようにいう。
    ≪最も多いのは一種の接近遮断感、あるいは心の不通感とでもいうべき印象だろう。それからまた、患者の中でなにかが絶えず出ずっぱりの本番態勢にあって、つねに一種の近寄りがたい緊迫感をただよわせている、という印象もある。患者はいつも真剣で、遊びや余裕に乏しい。仕事や勉強がうまく行かなくてブラブラしている患者でも、どこか思い詰めて緊張しながら無為の時間を送っている、という感じがある。≫p71

    分裂病者はつねにむき出しになっている「私の心」を守るため、先手先手で防御姿勢を取ろうとする。

    もの的な(カレンダー的な)過去・現在・未来の線上に時間が並べられているのではなく、いまだ来ない未来がいまを侵食し、時間を支配している状態なので、現在の自己に対して否定的な態度をとったり、未知なるものを先食いしようとする性急さを示したりする。

    具体的には無計画な受験や就職、結婚のやり直し、頻回な整形手術、改名、出自の妄想などの行動、考えがよく見られる。
    同時に、実生活とは縁のない学問、例えば天文学、考古学、哲学、神秘思想などへの傾倒を示す人も多い。

    守られるべき「私」が危機に直面するとき分裂病者の症状が出現する。
    その出現の仕方は独特で、例えば健常人が「・・・としての」私の基盤を奪われたときに示すような仕方とは異なる。

    上場企業の正社員としての私、父親としての私、日本人としての私、といった仕方で構成される私は他者による承認を必要とするがゆえにはっきりした外部をもつ。

    一方で分裂病者が危機にさらされる「私」はより内部的で直接的な事態であり、本来自分がいて体験する場所そのものが奪われる危機である。

    分裂病者が過去を根本から変更しようとしたり、荒唐無稽な未知なるものを現在の直後に呼び寄せたりしたがるのは、彼の自己が自己としての自己として十分に成立していないからである。

    ≪自己の自己性は二つの互いに異なった私のあいだの同一としてのみ成立しうるのである。自己の自己性は、いわば差異の同一、同一の差異としてしか現れてこない。その場合、一方の私はもう一方の私にとって他者の立場に立ちうることになり、自己の自己性についてのこの内部他者による認知ということも当然言えることになる。自己の自己性とは、言い換えれば自己自身による自己認知のことだといってよい。≫p77

    この辺りは本書でも最も理解が難しい箇所ではあるまいか。

    過去と未来の間に空間が開かれた「いま」にいる私は、その時点で「いま」の空間に位置しているので、すでにその時点でものの世界に参入しているが、分裂病者はこの私がそこにうまく定位できない事態に陥っている。

    分裂病者は「いま」の空間に身体が位置している私をものの世界を作り出すかけがえのない私と重なり合えることができない。

    世界を見る、世界に見られる私といまここにいる私は同じではないが、全く別の空間にいるわけではない。
    健常者はそこの違いをうまく修正しながら世界とつながることができるが、分裂病者の私はバラバラの空間に散らばってしまっている。

    では、二つの私はどのようにしてつながっているのだろうか。
    木村は二つの私を「二つの互いに異なった私のあいだの自己同一」p79と表現するが、単純に二つの私の差異を発見するというタスクにしてしまったほうがわかりやすいように思う。

    木村は二つの私をものの世界で活躍するつねに人生の舞台の主人公である「主語的な私」とものの対象としてはとらえられず、そのつど動詞的に使われる「述語的な私」に分類して、同窓会での昔話や音楽鑑賞を例にとって説明している。

    ≪同窓会かなにかで旧友たちと昔話に花が咲いている。「だれだったか、あのとき崖から落ちて怪我をして、、、」という王なことが話題になる。私の記憶が甦って、「あ、それはぼくのことだ」という。それまで誰のことか定かでなかった人物が、そしてその人物を中心とする当時の状況が、私によって私のことと認知される。その人物は友人たちそれぞれの歴史の舞台では相変わらず周辺的な一登場人物にとどまるだろうが、私の歴史の舞台では一挙に中心人物の地位を獲得し、主語的な私の同一性の中に組み入れられることになる。≫p81

    一人の歴史上の登場人物が述語的な私によって私として再発見されることで、「彼」は主語的な私に転換され、その文脈に落とし込まれる。

    主語的な私はものとして操作されうる。
    述語的な私が意識の舞台を開いてそこに主語的な私に同一性、継続性を付与することでアイデンティティは保たれる。

    ≪主語的な私は、一見きわめて安定した不変の同一性を保っているように見えるけれども、実はその存在を私ということの述語的な認知作用に負うているということになる。私の述語的な認知がなされなかったならば、主語的な私は私の同一性としては成立しえないのである。≫p82

    述語的な私は主語的な私に先立って存在する。(述語的私>主語的な私)

    幼児がはじめて自分であるものと自分でないものを弁別したとき、主語的な私の同一性の発端が開かれたといえる。
    そしてその時以来、新しい自己を認知するごとに述語的作用を反復することで主語的な私の同一性の厚みが増していく。

    主語的な私を根拠づけるものが述語的な私だとすれば、述語的な私を根拠づけるものは何だろうか?

    ここが本書の大きなポイントであろう。

    述語的な私を根拠づけるものは主語的な私との関係性のなかにしか見いだせない。

    ≪つまり主語的な自己と自己の述語作用とは、互いに一方が他方の成立の根拠となっている関係のうちにある。そして、われわれが自己の自己性と呼ぶ事態、つまりこれまでずっと私であり続けていたし、これからも私としてしか自己を見出さないという事態は、まさにこの主語的自己と自己の述語作用とのあいだの関係そのもののことである。≫p84

    主語的自己と述語作用のあいだとは距離であり、差異であり、その差異を綜合しようとする不安定な均衡状態が私だとサルトルはいうが、この場合、私は私であるという運動が前提されているので、この私は対自的な私と言わねばならない。

    それではその運動の行先である、あるいは出発点である私はどこに位置づけられるのか。

    サルトルはその私を「自我は、一つの超越的な即自として、人間的世界の一生存者としてあらわれるのであって、意識に属するものとして現れるわけではない」『存在と無』p271というが、そうであるなら、即自の私と対自構造にとらわれる私は別物になってしまう。

    これでは私の意識はいまここで同一であるという直観を説明できない。
    (評者はウィトゲンシュタインのようにそれは語りえないものなのだというのもアリだとは思う)

    木村は即自的な私と対自的な私をつなげる関係性に着目する。

    ≪私が私と呼んでいる私の自我は、われわれの日常の意識活動が正常に営まれるためにどうしても欠かせないものである。それはサルトルが言うような意識を超越した幻影的な即自などではなく、我々自身の意識そのもののありかたとして意識に属している。それは、それ自身との一致であらぬ「意識(についての)意識」という対自的な差異構造からそのつど生み出される、それ自身対自的なありかたを持つ特別な関係それ自体のことである。≫p86

    それでは、この対自構造における私の在り方がいかなるものか、さしあたり分裂病者の場合を例にとって説明する。

    ≪分裂病者の患者は、つねに未来を先取りし、現在よりも一歩先を読もうとしている。彼らは現実の所与の世界によりも、より多く兆候の世界に生きていると言ってよい≫p87

    ≪分裂病特有のこの未来先取的なありかたを、私は従来から「アンテ・フェストゥム的」と呼んできた。アンテ・フェストゥムというラテン語はもともと「祭りの前」という意味で、J・ガベルがプロレタリアートの未来希求的なユートピア意識をそう名付けて、ルカーチがかつてブルジョワジーの保守的な意識に与えた「ポスト・フェストゥム的」という形容と対比させたものである。日本語で言えば「前夜祭的」とでもいうことになろうか。プロレタリアートが自由と革命を希求する強烈な未来意識は、新しい時代の到来という祝祭的な気分をすでに先取的に予感している点で、アンテ(前)・フェストゥム(夜祭)というにふさわしい。≫p87

    ここで木村の代名詞とでもいえる「アンテ・フェストゥム」の概念が出てくる。
    この概念が臨床にどのように生かせるかは以下のように説明される。

    ≪われわれがここで問われなければならないのは、この分裂病性のアンテ・フェストゥム意識が、患者の自己の自己性の不確実さとどのような関係にあるのかということである。さらには「前(アンテ)」というような時間の方向性が、自己意識のどのような構造から生み出されるのかということである。≫p88

    来るべき未来という時間様態は「未来が自己に到来する」という意味を内包しているが、このとき自己がいままでの自己として固定されていないと未来は到来すべき場所を失う。

    この未来が到来すべき場所としての自己が奪われた状態が分裂病者の世界だという。

    ≪分裂病者は、いままでそのようにあり続けてきた自己の積み重ねとしての現在を、ハイデガー的にいえば既存性としての事実性を、自己実現の根拠として引き受けることができない。そのために、彼は諸事物のもとにも自己が現在おかれている現実の中にも、静かに安住することができない。≫p90

    では、分裂病者が陥る「奪われた自己」とはどういう状態を指すのだろうか?

    ≪分裂病者が自己自身であろうとして必死に努力しながら遂に自己自身でありえないと言う絶望感を抱くとき、そこにはつねに他者性の影が落ちている。さきにも例を挙げて述べておいたように、分裂病性の事態とは、例外なく他者性による自己の主権簒奪の事態だといってよい。≫p91

    ≪この事態は、分裂病者が今までの自己の歴史やいままでの自己の歴史や現在の自己の在り方を自己自身の根拠として引き受けていないということと対応している。いままでの自己の同一性の歴史は、分裂病者にとってよそよそしいもの、他者性を帯びたものとして経験されている。≫p91

    分裂病者の他者体験と健常者の他者体験はどのような違いがあるのか?

    ≪われわれがふつうに出会う他者は、すでにある意味で自己の自己性によって取り込まれた、既知性をおびた他者である。われわれはふつう、初対面の他者ですら、いままでの他者体験の歴史的同一性の関連枠の中へ取り込んで、主語的自己の同一性を保持しうるような仕方で出会っている。(中略)分裂病者のアンテ・フェストゥム意識の中で出現してくる他者性は、それが既知の他者経験にとって絶対的に未知なるものであるという意味で、自己性にとって徹頭徹尾否定的・破壊的な作用しか及ぼさない。それは非自己であるだけにはとどまらず、反自己的の原理ですらある。≫p91~92

    とはいえ、健常者の他者体験が自己性の構造になじむかたちで出現する、自己の述語作用の効果により他者が認知しうるかたちで到来する、といった事態はたんに幸運なだけで必然的というわけでもない。

    なんとなれば、人間にはすべて自己性の構造になじまない、自己の述語作用の効果をうけない未来、つまり死を回避することは不可能だからである。

    分裂病者に絶望をもたらす未知なる他者性はわれわれの生を無化する死の影の別名に他ならない。

    人が他者に直面した時or未来が到来した時、そのつど私がほかならぬ私として見出されるのは、私が死によって規定された有限の存在だからである。

    私が神のように無限に遍在する存在なら、「私」や「自己」といった事態は発生しない。

    さらにいうなら、時間の不可逆性も人が有限の存在だという事実が生み出した現象である。

    原理的には過去にも未来にも等質性を有するはずの時間が以前と以降、過去と未来などといった区別と不可逆的な流れという外観が与えられているのは、有限の存在としての人間が時間を(こと的世界として)生きて、(もの的世界として)観測しているからである。

    ≪われわれが自己と呼んでいるものも、時間と呼んでいるものも、実はわれわれの死とのかかわりかたの様態にすぎない。そして分裂病者とは、一般の人とは違った仕方で、しかし死本来の意味から当然予想しうる特定の仕方で、死とかかわっている人のことにほかならないのであろう。≫p95

    分裂病者が死の影によって述語的自己生成を妨げられ、未来=他者を歴史的同一性の関連枠にうまく位置づけできないのに対し、健常者が未来=他者を自己の可能性の契機として認知できるのは、死の原理にいわば保護膜をかぶせて遮光しているからだと木村は言う。

    ≪この保護膜の材質や強度は、われわれのひとりひとりにおいて千差万別であるだろう。(中略)保護膜があまりに強固であるために、未来がほとんど確定的な既知性のもとにしか到来せず、従前の路線の予定通りの延長である以上の新しい意味をほとんど持ちえないような人もいるだろうし、一方では保護膜が脆弱すぎて、ことあるごとに最初から自己を発見しなおさなければ自己の自己性を保ちえない人もいるだろう。≫p96

    そして、分裂病者は保護膜が脆弱なタイプの極端な例だと木村は判定する。

    分裂病タイプは、未来の可能性を先取りし、未来の先を越すという仕方で自己実現を達成しようとする、職業でいうと理論物理学者、哲学者、精神科医、革命家などに多い。

    一方で、容易に未来を既知の他者として確信的な歴史に裏付けられた自己性に取り込もうとする保護膜が強固なタイプは、実務家、実業家、保守的政治家、外科医などに多いという。

    以上で本書の約半分を評したが、後半は前半の補足のようなものなので、ダイジェストとしては上記内容で十分かと思う。

    2 鬱病者の時間

    鬱病者の妄想に共通する「とりかえしのつかぬことになった」という気分は、秩序愛好性とでもいうべき秩序への強い指向性、秩序にはまり込んで抜け出せないといった状態を伴う。

    したがって、子供の出産、家族の死、転職、失業、病気、などといったこれまでの秩序を揺るがすイベントが誘発要因となって発病することが多い。

    鬱病タイプは自分を秩序の中に閉じ込めて出て来れない「空間性の標識」と外部状況に対して自分が後れを取ることに対する負い目を負ってしまう「時間性の標識」に特徴づけられる。

    簡単に言って、「これはやらなければならないことだからわたしはやらなければならない」と「みんながやっているのにわたしだけができていない」という二種類の強迫観念がマッシュアップされた状態といえる。

    ≪外部状況の思わぬ変化のためにこの努力が目標を失うようなことがあると、そこから、自己自身に決定的におくれをとり、負い目を負うという、とりかえしのつかない内面状況が出現することになり、これが鬱病の発病状況を構成する。≫p107

    そして環境の急激な変化がこの種の強迫観念を励起させる。

    このような鬱病タイプに親和的な時間を木村は分裂病神話タイプの「アンテ・フェストゥム」に対して「ポスト・フェストゥム」と名付ける。

    ≪すでに分裂病のところで見ておいたように、ふつうに「未来」といわれているものに関しても、これをいままでの自己を基礎に置いた自己実現の場としての将来的な未来として捉えるか、いままでの自己に対しては否定的にはたらいて、新しい自己の生成を促す未知なる未来として捉えるかは、そのつど自己が自己自身をどう理解しているかによって根本的に違ってくる。≫p109

    いままでの自己の延長線上に到来する未来としてみる鬱病タイプと新しい自己が生成する場にその都度到来する未来としてみる分裂病タイプによって、時間のとらえ方は異なる。

    鬱病者にとって過去は現在の自己形成の大部分であり、決して過ぎ去ったものではなく、現在に蓄積されている。
    それは過去というより、現在完了形でしか語りえない、つまり所有の助動詞が必ず用いられる類の現在である。

    一方で、分裂病者にとっての現在は過去に果たされなかった夢として再構成される場でしかなく、そこでは私の位置は不確かであり、ただ過去も現在も未来も同じ場所に投げ込まれている。

    いいかえれば、分裂病者は最初から私の現在地が見失われているのに対し、鬱病者は秩序=過去=所有が失われた状況下で私が現在に追いつけていないという焦りが私を逆照射する。

    「私が追いつけていない」刻印が押されたまま積み重ねられる過去は鬱病者を苦しい立場に追い込む。

    ≪鬱病者においては、時間が全体としてポスト・フェストゥム的に「とりかえしのつかない未済」の相のもとに意識されるため、いっさいの現在が未済のまま過去へと向かって押し流され、しかもこの過去が巨大な未済の蓄積として、恐るべき仮定法的可能性の集団として、現在完了的に、現在のこととして経験されるのである≫p113~114

    鬱病者の時間を未済から決済へと導く契機は、所有の継続を保証する社会的役割に求められる場合が多い。

    したがって、鬱病者の自我は社会的役割に大きく依存することが多い。
    健常人が自我同一性と役割同一性の間に距離をとり、自我を役割(例えば父親、会社員、夫など)の外側に設定することで自我を保存するのに対し、鬱病者は役割同一性が自我同一性の肩代わりをしてしまっている。

    そして、その役割同一性が転職や離婚、死別などで破れたときに鬱病が発病する。

    分裂病者がそのつど他者との出会いの場としてのあいだを、つねに未知性、未来性の相のもとに経験するのに対し、鬱病者の出会いの場は未知性を可能な限り排除し、既知性に塗り込められた、具体的には役割同一性が継続される経験として設定される。

    これを文法的な文脈で言い換えると以下のようになる。

    ≪(鬱病者の)あまりにも自明な役割同一性は主語的自己の同一性をほとんど吸収しつくして、述語作用によるそのつどの自己現前が、つねにこのあらかじめ確立された役割同一性の反復的確認という形でしか遂行されない。≫p124

    したがって

    ≪彼らの存在を脅かすのは役割期待者としての具体的他者や共同体全体なのであって、自己性に対する否定的原理としての他者性ではない。≫p125

    ≪彼らにとって、自分への役割期待を通じて自己の役割同一性を補完してくれる他者は、単に自分にとって既知のものというだけではなくて、だれにとっても既知のものである。そしてこのような他者の集合体としての共同体は、まさにこの既知性の源泉である。≫p126

    鬱病者の自己構造からは存在の時間性より、共同体が共有する時間により多くの注意を向ける傾向が見て取れる。

    社会の近代化とともに、古代人の生きた存在の時間性が共同体の時間にとって代わるのは必然の成り行きであることから、鬱病者の時間はそのまま現代人の時間ともいえる。

    その時間性を「とって代わる」契機について木村は以下のように説明する。

    ≪一切の個我意識成立以前の、自然の懐に抱かれたままの「生きられる共時性」においては、個々のいまはいまとして独立していないのであるから、時間について語ることがそもそも無意味であろう。それは時間以前の「純粋持続」の状態である。この状態からの時間の目覚めと個我意識の成立とは、厳密に同時的である。それは同時に、個体的自己の有限性が最初に自覚される瞬間でもあるだろう。自らを有限な個としてようやく自覚し始めた自己の端緒が、はじめて個々のいまを別々のいまとして分離し、そこに不可逆的な新旧の別をもうけることによって時間の生成に立ち会うことになる。≫p128

    自然と一体化した純粋持続の状態では未分化な時間は、他者との共有された空間のなかで自己否定や自己肯定を通じて個我が析出されることで、有限となり、前後をもったいまの地平が開かれる。

    言い換えれば、自然と一体化していた未知の時間は、共同体や他者からの是認を通じて、あるいは是認を先取りして、既成の自己が肯定されうる述語的な時間に進化した。

    未知の時間への傾倒を示す分裂病タイプが古代史や宇宙の神秘に惹かれやすいという指摘は本書でもあったが、それは「純粋持続」への憧憬の現れかもしれない。

    3 祝祭の精神病理

    この第2部第3章では、前2章で取り上げたような日常性の外部環境への自己の逸脱ではなく、日常性の内部構造自体の解体を伴う狂気を扱う。

    その特徴は日常性を保証する理性的認識の座としての意識の解体としてまとめることができ、具体的な精神疾患としては非定型精神病の急性錯乱状態及び癲癇の発作症状などが挙げられる。

    ここでいう意識と何だろうか?

    ≪純粋無垢なことそれ自身は意識を超えている。意識は志向作用によってことにもの的な対象性と個別性を与え、それによって、ものとことのあいだの緊張をはらんだ共生関係を作り出すことをもってその職分としている。意識された限りにおいて、ことはすでにものによる汚染を蒙っている。≫p135

    これを一般的な言い方に言い換えると以下のようになる。

    ≪意識は個別性・特殊性を普遍性に移すはたらきをするものではなくて、むしろ普遍性を個別性に移すはたらきをするのである。そのうえでさらに、この意識された個別性が高次の反省の作用によって知識の普遍性にまで移されるかどうかは、意識本来の仕事とは無関係な、副次的な理性的加工にかかわる問題に過ぎない。≫p136

    さらにこれを現在人の危機の分析に当てはめると。

    ≪意識をこのようなものとして理解するなら、それはまた、近代個人主義社会における日常性の基盤となっている合理的思考の成立の場でもあるということになる。われわれの日常性は、自他や生死の区別、個体の個別性と自己同一性などを確かな標識とする合理的思考によって徹底的に支配されている。いいかえると、もの的論理によってこと的現実が完全に制御されている。だから意識のこの統制力が減弱するときには、日常性はその成立の基盤から危機にさらされることになり、日常性の真っ只中に非合理性という形での非日常性が姿を現すことになる。≫p136

    はたしてこの現在人の日常性の「破れ」は危機なのだろうか。むしろ「祝福」なのではあるまいか。

    木村は「祝祭の精神病理」の代表格として癲癇を挙げ、発作中の時間経過の特殊性を指摘する。

    ≪発作の襲来と終結はきわめて突然であって、日常性内部での時間の流れは完全に寸断される。患者はもとより、発作を目撃した第三者ですら、発作がはたして秒単位で経過したものなのか、それとも数分を要したものなのかについて的確な報告をしてくれない。(中略)いってみれば、日常の時間は発作中完全に停止して、無時間の空白が忽然として出現する。時間の見積もりは、時間の連続性を前提にしてはじめて可能になる。時間が突然途絶えて、再び出現した場合に、この途絶の時間を見積もるということは本来不可能なことなのだろう。≫p142

    H・プリュッゲはこの発作による時間の途絶を主体の連続性の断絶として捉えている。

    ここで主体の定義をヴァイツゼッカーを引用して説明している。この定義は木村の哲学全般で重要な部分だと思われる。

    ≪要するに有機体と環界との間の相即関係の原理あるいはその存在論的根拠である。このような主体は、当然実体的なものではありえず、こと的なあり方を示すと考えなくてはならない。それは、私が個別的自我として、有限な有機体の形をとって、与えられた環界との絶えざる相即関係を通じて私自身でありうる可能性の根拠なのである。≫p143

    木村=ヴァイツゼッカーによれば、主体は有機体と環界とのあいだの相即の原理と定義づけられる。

    そして、癲癇発作時に招来する主体存続の危機、連続する時間の途絶をアウラ体験として自身が癲癇患者でもあるドストエフスキーがその作品でなまなましく表現している、という。

    以下ドストエフスキーの引用が続いた後、日常に流れる時間とは比量しえない全く別種の時間の相のもとに生が照らされた事態がアウラ体験だと指摘し、その特殊な時間性の成り立ちについて説明を加える。

    ≪いまが以前と以降、いままでといまから、ひいては過去と未来という互いに交換不可能な二つの方向に分極し、そのことによって絶えず走り去るものとして意識されるのは、いまを意識しているわれわれの個別的生命の有限性のためである。なんらかの事情によってこの有限性が止揚され、個別的生命が無限の普遍的生命に触れる瞬間には、いまはもはやそのような前後の方向性を失って、何物も到来せずなにものも過ぎ去ることのない瞬間として、永遠の停止として意識されるに違いない。そのようないまは、もはやもの的に体験することはできない。≫p147~148

    この辺りは頻繁にドストエフスキーを引用する。ドストエフスキーが描く「いま現在の豊かさ」は分裂病患者に見られる他者の未知性に近いが、そこには恐怖は全くない。

    ≪ドストエフスキーの意識における現在のこの豊かさは、彼がアウラ体験において死の淵から生を眺めた時の壮麗な光景と、どこかで深くつながっているのではあるまいか。死は、生の側から未知の可能性として眺められたときには、身も縮こまるような恐怖の源となるだろう。しかしもし死を現在直接に生きることができたなら、それはこの上なく輝かしいものであるに違いない。≫p151

    時間の途絶、主体の連続性の断絶が産むアウラ体験あるいはイントラ・フェステムは死に近い場所で起きる。

    以下、ビンスヴァンガーからの引用。
    《仮面舞踏会と葬礼との関係はよく知られている。生がその祝祭を祝うのは、必ず死の間近においてである。生が高揚すればするほど、それだけ生は死に近づく。われわれが躁鬱病と呼ぶもの、それはこの普遍的な生と死の原理の、すなわち、死が生の中に、生が死の中に深く食い込んでいるというこの普遍的な原理の病的増大、ないし病的発現に他ならない。生に内在する生と死のアンチノミーが、躁鬱病においてドラスティックに表現されている。》p154

    鬱病者にとっての死が日常的な生の秩序を破壊する生に対立する原理であるのに対し、躁病者にとっての死は歓喜の中に内在する生の本質的契機であり、一切の個別的な生がそこから生まれ出る生の源泉である。

    イントラ・フェステム的契機は意識の連続性が止揚され、過去の出来事が現在のこととして起きる時、印象の記憶と現在の感情が二重化する時起こりうる。

    木村はある癲癇患者の例を挙げる。

    《私が診察したある癲癇患者は、会社でコンピュータを扱う仕事をしていて、ある日「これを操作すればコンピュータの機能が一瞬のうちに停止してしまう装置」を発明したという男の訪問をうけ、その話を聞いているうちに大発作を起こした。彼が言うには、その物騒な装置の説明を聞いているうちに、自分の扱っているコンピュータが現在すでに完全な麻痺状態になっているかのような気持ちに襲われて、その瞬間、意識を失ってしまったのだという。》p168

    この場合、客観的時間軸上の過去と未来が直接的現前に引きずり込まれ、個別的自我が現在の海に消失してしまっている。

    人間の歴史上、このような時間のあり方は特に珍しいものではない。
    むしろ、個人の一回限りの生と死が集団全体の生と死から分離し、個人間の差異が現れることで、時間の不可逆的な「以前と以降」が析出するようになったのは近代社会が成立してからとみなせる。

    たとえば
    ≪アフリカ原住民にとって存在する時間様態はスワヒリ語でいう「ササ」と「ザマニ」の2種類のみであるという。「ササ」はまさに起ころうとしていること、現に起こっていること、あるいはたった今経験済みのこと、換言すれば生きられる現在の持続の中で捉えられた事象に与えられる時間様態である。これに対して「ザマニ」は「無窮の過去」として「あらゆるものを溶かし吸収する大洋、万物の貯蔵庫、時間の一領域というよりは恒久的な実体的存在の領域とみなすべきものである。たとえば、死者は肉親や友人に記憶されている限り「ササ」にとどまるが、「知己の最後の一人が死んだときに、、、ザマニに入って完全に死者になる」≫p170

    このように「未来が時間として存在しない」アフリカ原住民は、未来を発見するとき、現在完了的な時制において意識される過去としての既存性を発見するとき、「個我の自覚」が析出してくる。

    第3部 時間と自己

    今まで扱ってきた精神病は、時間と自己に関する異常を示しているが、それは健常者に無縁なものではない。
    時間に対応する自己が「こと」としてつつがなく生きる仕方には、潜在的にすべての方向に生きる可能性をまといながら、状況によってある決まった方向に自己を適応させる力が働いている。

    その力が働いているときは精神的な健康は維持されるが、それが弱体化したとき、各種精神病様の兆候が発生する。

    この複雑で繊細な力の調整を担う役割は言葉に課される。

    動物は「もの」を指示する記号を使うが、「こと」を表現する言葉を持たない。
    例えば、動物は特定の餌を指示することはできるが、二つを「同じもの」と表現することはできない。(自然界には同じものはない)

    「こと」は「もの」が私に加工された形で、私が立ち会う場において発生する。
    「もの」はそのまま自然界に存在するわけではないが、私によって加工される前の姿(他者)として表象される。
    しかし、私はソレが私によって加工される前の姿なのか後の姿なのかはっきりとは判別できない。
    なぜなら、「もの」もまた私によって表象されている(弱く加工されている)と言わざるを得ないからだ。
    全く加工されていない「もの」の世界は外側を持たない無限であり、言葉も存在しない。

    加工する道具そのものである言葉はものを表象する際にも、ことを加工する際にも必ず使われるが、私により近い場所で使用される場合は「こと」を自然に近い場所で使用される場合は「もの」を成果物として作り出す。

    いずれにしてもなにがしかを作り出すので、それは意識として機能する。

    ≪「こと」が「こと」自身ではない「もの」として意識されることによってのみ、「こと」自身でありえるのは、人間の意識が自己自身による触発をまってはじめて自己自身にかかわりうるようになるからである。このようにして、人間が「こと」の自己実現の媒体としてのことばを有するということと、人間が自己自身を意識しているということは、結局同じ一つのことに、つまりハイデッガーが存在論的差異と呼んだ一つの存在構造に帰着する。≫p178

    ものに対応する時とことに関わる時では構え方に違いがある。機械への対応と愛する人間への対応との違いと言っても良い。

    機械への対応では私とものの距離が明瞭でそれを媒介する論理や言葉(数字や記号)の輪郭もハッキリしている。

    一方で愛する人間への対応では私とあなたの距離は曖昧で、そこを媒介する論理や言葉(詩やスラング)の輪郭もハッキリしない。

    「私は」と感じたり、考えたり、言い出した時点で距離は発生しているので、そこにはゼロ距離の「私」という想定不可能な状態(死)の間に必ず存在論的差異が生じる。

    「私」が絶対的に捉えきれないものだとしても、自己触発によって「私」が「私は」になる瞬間を捉えることはできないだろうか。

    デリダは独り言という現象を材料にこの私が現れる瞬間を時間論の立場から考察する。

    《自己触発によって自己が自己となる今の瞬間が、ひとつのいまでありうるためには、いまはもう一つ別のいまの中に自らを把持しなければならず、ひとつの新しい根源的な顕在性ーこのアクチュアリテにおいて、当のいまは過ぎ去ったいまとしての非いまとなるーによってそれ自身を触発しなければならない。こうして「生ける現在は、自己との非ー同一性と過去把持的痕跡の可能性から湧出する。生ける現在は、つねにすでにひとつの痕跡である」》p180

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    2026年05月25日
  • 異常の構造

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    多分伊坂幸太郎さんだと思うがどこかでインタビューに出てきて読みたいと思って読んだ本

    古い本なので分裂病という古い呼び名になっているが、精神の異常、狂気というものをどう考えたらよいのかかなり興味深い観点だった。

    常識を疑う、常識から外れてみることは必要だと思った。分裂病、統合失調症に限らずにコミュニケーション障害や自閉スペクトラムにも関係する考え方だなと思う

    自分も過労から抑うつ状態になる手前で涙が止まらなかった時期があるが、同時に「わたしがつらいからなんなんだ?わたしが泣いているからなんなんだ?どうでもよくないか?」と思ったことがあり、個物の同一性を手放しかけてた時期があったように思う

    自分の理解メモ
    ・異常は常識から外れた状態
    ・常識とは実態ではなく感覚。共通の感覚=コモンセンス
    ・その感覚から外れたところにあるのが異常、狂気
    ・人は異常を恐れながら知りたいと考えている
    ・非合理な、というのは人々が生きるために自然に対して当てはめたルールから外れるものであり、これも本当に真理というものがあるわけではなく、大多数のルールに沿っているか否かでしかない
    ・世界の見方の原則1.個物の個別性2.個物の同一性3.世界の単一性 これらの原則に沿わない感覚=統合失調症の人が見てる世界
    ・作者は分裂病の原因の一つに家庭環境があると睨んでいる。自分が個の人間であることを確立していく=自分と世界とを他者と共通の感覚で認識する常識の創造過程で、親と適切なコミュニケーションが取れない場合に発症しうると考えている。
    →これは一因にはなり得るが必ずしもそうとは言い切れないと思う。若者の発症に限らないし、家庭以外のコミュニティも要因になりうると思う。今の統合失調症と分裂病の指す範囲は必ずしもイコールで無いかもしれないが。。


    以下抜書き
    分裂病患者の内面生に触れ、その内部をかいまみるとき、私たちがふつうに揺るぎない確実性をそこに見てとっている日常的合理性の枠組が、いかにもろいものであり信頼のおけなきものであるかがわかって、愕然とすることが多い。

    右の症例の後半に再録した患者の私との対話も、常識的合理性の立場から見ればまったく無意味でトンチンカンな内容でしかないだろう。これは従来からの教科書にある分裂病性滅裂思考の見事な実例である。常識的に言うならば、患者は私の質問をまったく「理解」しておらず、まったく「つじつまのあわぬ」、「まとをはずれた」返答をおこなっている。しかし、いま私たちが一歩常識の立場から足を踏み出して、個物がそれ自身の個別性と同一性をもたず、あるものはそれ自身でありながら別のものであり、「である」と「でない」とが同じことであり、世界が単一ではなくて正反両世界の重複であるような、そういった分裂病的世界の立場に身を置いてみることができさえするならば、この問答においてトンチンカンなのは、実は患者の返答ではなくて私の質問のほうだということになるだろう。

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    2026年05月08日
  • 異常の構造

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    哲学に精通した精神科医が統合失調症の事例を参考に正常と異常の間への線引きを検証した力作。

    通常、普通の人は「私/誰か」の線引きを当然のようにできるが、統合失調症の患者はこれができない。

    ≪「わたしがOさんになってOさんがわたしになって」「一つが二つ、二つが一つ」になって、彼女とOとは完全に一体となる。私はかつてこの種の恋愛妄想の構造を示す図式として、「現実の不可能を非現実の可能に変える」と述べておいたが、この図式はこの症例にもあてはまる。彼女が時々つぶやいていた「ヘンコウ」という言葉は、まさにこのことを示しているかもしれない。この患者に限らず、多くの分裂症患者は「表と裏」「なにもかもさかさま」「ポジとネガ」というような言い回しを用いることが多いが、これらの表現にあらわされている「反転」も、いわば同様の事態を述べていると考えて差し支えない。≫(p101)

    われわれが普段、統合失調症の患者のような混乱を起こさないのは、対人的状況における場での実践的感覚が機能しているからであり、これを著者は「世間的日常性の公理についての実践的な感覚」と名付ける。

    この感覚が正常に働かないと、
    ≪「どこがおかしいかわからないが、どこかおかしくなる。自分の立場がない感じ。自分で自分を支配していない感じ。なにかにつけて判断しにくい。周囲の人たちがふつうに自然にやっていることの意味が分からない。皆も自分と同じ人間だということが実感としてわからない。なにもかも、少し違っているみたいな感じ。」≫(p89)
    のような事態に陥る。

    著者は”正常人”が無意識に身体化している「世間的日常性の公理」を3つの原理に分解して検討を加える。

    ①個物の個別性
    わたしが持っているこの万年筆とあの万年筆は個物をして別のものであり、それぞれが一つの同じ万年筆だということにはならない。
    この図式を「自分」にあてはめると、私の自分はこの世にただ一つであり、私以外の同じ自分がこの世に別に存在することはあり得ない。
    にもかかわらず、統合失調症の患者は私の自分が他の自分と入れ替わったり、取り違えたりしてしまう。

    ②個物の同一性
    私のこの万年筆は昨日も同じ万年筆だったし、明日も同じ万年筆であり続ける。私が誰かにこの万年筆をプレゼントしたとしても同じ万年筆には変わりはない。
    同じように、昨日の「自分」と今日の「自分」が違うことはないし、引っ越し前の「自分」と引っ越した後の「自分」の間に決定的な断裂があるわけではない。

    しかし、とここで著者はこの原理に関して留保をつける。
    川の流れは同じでありながら別の様相を呈する、人間の身体も常に細胞が入れ替わり形も変化する、このように形状や性質が変化することは必ずしも常識に反しない。

    統合失調症の患者が欠損している常識はそういうことではなく、形状や性質がみせる現象の底にあってそれを担っている本質、実体としての同一性を指す。

    ③世界の単一性
    私が現在いるこの世界は、私以外の誰もがその中にいる世界で、私たちはすべて同じ一つの世界にいる。
    言い換えれば、人間の考えうるかぎりでの時間的空間的領域のすべては一つの世界である。

    これは第一の原理と同じことを意味する。
    「表と裏の世界」があり、「私自身が二重になって、二人いるみたい」と患者が告白するとき、この第三の原理は破綻している。

    著者はこれらの常識的日常性の世界に関する三原理を単一の公式であらわし、これを「世界公式」と名付ける。

    1=1
    これが私たちの「世界公式」にほかならない。(中略)自然科学の全領域が、それだけではなく私たちの生活をすみずみにまでわたって規制している社会規範のすべてが、この基本的な公式のうえに組み立てられている。私たちの生活の全体がこの証明不可能な公式の上に成り立っている。(p115~116)

    A=AであってA=notAである、とは常識的には想像できない。
    わたしたちはこのような合理性のある世界で生きている。
    ところが、いくつかの対概念を事例として検証してみると、思っているほどこの合理性が堅牢ではないことがわかる。

    たとえば、有ー無を考えた場合、「有であって有でないが無ではない」という論理構造は世界公式から逸脱しているように見えるが、絶対に成立しないとは言えない。
    (同様に「無ではないが有でもないが有る」もありうる)
    他にも美ー醜、善ー悪、真ー偽などの対概念にも、この「逸脱」は妥当するように見える。

    そして、このように判断する根拠たる合理ー非合理の対概念でさえ、この逸脱の罠から逃れられるわけではない。

    非合理の否定は合理ではない、という世界公式からの逸脱は世間的日常性の公理の正当性を揺るがすポテンシャルを秘めている。

    統合失調症の患者はこの力の重力圏に常在するということもできるのではないか。

    さらに言えば、”正常人”もこの重力圏から無関係ではいられないし、逆にこの重力圏から完全に切り離された場所、つまり、合理ー非合理、有ー無等々がクリアカットに分離した場所に常在する人間は”正常”とは思えない。

    評者はそのタイプの人間の典型例に昨今何かと話題の”テクノリバタリアン”を思い起こさずにはいられない。

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    2026年02月16日
  • 異常の構造

    Posted by ブクログ

    「異常の構造」がこの1冊でわかるというよりも、なぜ「異常」がまったく理解され難いものなのかということに主眼を置き、複数の事例の徹底的な観察を通して、いかに「異常」の発生するシステムが複雑であるか、いかに「異常」を「正常」に戻すことが不可能極まりないことであるかを著している。非常に難しくはあるが、それなりに読み進めていくことはできる。終盤の哲学的思索が難解で咀嚼しきれなかった部分もあるので、必ず再読したい。

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    2026年01月05日

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