【感想・ネタバレ】時間と自己のレビュー

あらすじ

時間という現象と、私が私自身であるということは、 厳密に一致する。自己や時間を「もの」ではなく「こと」として捉えることによって、西洋的独我論を一気に超えた著者は、時間と個我の同時的誕生をあざやかに跡づけ、さらに、ふつうは健全な均衡のもとに蔽われている時間の根源的諸様態を、狂気の中に見てとる。前夜祭的時間、あとの祭的時間、そして永遠の今に生きる祝祭的時間――「生の源泉としての大いなる死」がここに現前する。

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Posted by ブクログ

分裂症やうつ病などの症状を、時間と自身の在り方から捉えてみることができるという考え方をこの本で初めて知った。

本書の中で、"もの"と"こと"は区別され、本質的な"こと"について考えようと思うことで、"もの"となってしまうため、健常な状態では"もの"と"こと"を区別することはできない。ということと、「言葉」の「言(こと)の葉」という成り立ちをみるに、言葉は"こと"の一側面しか表現しえないということころが、特に印象に残っている。

うつ病者は自己同一性と役割同一性の区別が上手く機能していないという記述にはなるほど、、、と思いながら読んだ。

1
2022年01月09日

Posted by ブクログ

時間とは、万人に平等にあるもので、過去から現在そして未来につながる一連の流れのように捉えていました。本書を読むと、私の中の時間に関する常識がどんどん崩れていきます。著者と同じ視座を得るには、私はもっと哲学書を読み込まないといけません。
何度か読み返し、本書に登場する書籍も読み込むことで、本書の内容を理解できるのだと思いました。

0
2026年06月04日

Posted by ブクログ

この本は再読しながら少しづつレビューします。

わたしは生きているというとき、必ずそこには時間が流れている。時間が流れていない状態ではわたしは生きていない。不死だということもできるだろう。

なぜ時間は流れるのか?
流れるように感じる時と時間が消失したように感じる時の違いは何だろうか?

この本には消失した時間(不死のわたし)のミステリーを説くヒントが暗示されている。

ボルヘスの詩集のように。

第一部 こととしての時間

1 ものへの問いからことへの問いへ

時間の謎を扱う時、ものの世界として対象をとらえるか、ことの世界をわたしが現すのかの違いをまず分別する必要がある。

≪時間と関連して速さというようなことについて考えてみる。 速いということは、そのままの姿では決してものではない。しかし、これを速さという形で思い浮かべてみると、それはたちまちものに変わる。≫p5

ものの世界では私たちは対象を脳で見る。外部空間で対象をとらえる時は眼を使い、内部空間で対象をとらえる時は脳(記憶)を使う。

≪外部的な眼で見るにしても内部的な眼で見るにしても、見るというはたらきが可能であるためには、ものとのあいだに距離がなければならない。見られるものとは或る距離をおかれて眼の前にあるもののことである。それが「対象」あるいは「客観」という言葉の意味である。ものはすべて客観であり、客観はすべてものである。景色を見てその美しさに夢中になっている瞬間には、景色もその美しさも客観になっていないということがある。景色や美しさとのあいだになんらの距離もおかれていないから、われわれはその景色と一体になっているというようなことが言われる。主観と客観とが分かれていないのである。そのような瞬間には、われわれの外部にも内部にもものはない。われわれはものを忘れた世界に漂っている。しばらくして主観がわれに返ると、そこに距離が生まれる。景色や美しさが客観になる。そして、われわれは、美しいものを見た、という。≫p5~p6

見ることを対象化して理解することが西洋哲学・科学の基本姿勢であることは理論(theory)の語源がギリシア語の「見ること」(テオリア)に由来することからも見て取れる。

例えば「存在とは何であるか?」という問いが不毛なのは、その前提において「存在」が対象化されてしまっており、わたしが今ここに同時に存在しているというナマの現実がすっぽり抜け落ちているからだと言える。

≪ものを見るというはたらきが一定の距離をおいてはじめて成立するのに対して、聞くということはー肉声を聞く場合でも心の声を聞く場合でもー私たち自身の間近で生起する。≫p16

ものを見るには空間的な距離が必要であり、ものは同時に同じ空間を占めることはできないので、外部的にものを見る場合でも、内部的にイメージ(表象)を思い浮かべる場合でも、ふたつのものを同時にとらえることはできない。

ネットワーク環境に支配された世界では同時に複数のタスクをこなすマルチワーク、いわゆる「ながら作業」が効率的だということで推奨される傾向があるが、木村の主張ではマルチワークは成立しない。

木村の主張を裏付ける論文はいくつか出ている。
たとえば2006年3月にアメリカ心理学会(AmericanPsychological association)が編集した『Multitasking:Switching cost』では、人は同時に違う作業はできない、そうしているように見えるのはタスクがシームレスにできているイメージを意識がつくりだしているからだと結論付けている。

むしろ、マルチタスクは対象をとらえ直すたびに脳に負荷を与えるため、大きなエネルギー消費を要し、集中力が低下する速度をはやくする。

対象化して見る「ものの世界」とは違う「ことの世界」とはどのようなものか。

≪出来事や変化は、私がそれに気づき、意識的に私の存在に、つまり私がいまここにあるということのうちに組み込みうるのではない限り、わたしにとってことにはならない。ことがこととして成立するためには、私が主観としてそこに立ち会っているということが必要である。
しかし、私のこととして成立しているこれら多くのことは、そのありかたの点でこの上なく不安定である。私がそれに意識を向けるやいなや、それらは純粋なことであることをやめて意識内部のものとなる。ものとなった以上、それらは意識の中で空間的な場所を占めてしまう。そして相互に排除的な現れかたしかしなくなる。ことが純粋なこととしてとどまりうるためには、それはいつでもものとして意識化されるうる可能性をもちながら、しかも意識の集中をまぬがれた未決の状態におかれているのでなければならない。(中略)
ことは、もののよう内部や外部の空間を占めないが、わたしのいまを構成しているという意味において、私の時間を占めている。≫p17~p18

ものの世界の時間とことの世界の時間は質が異なる。

ものの世界の時間、つまり対象化されたものを見る時に流れる時間は時計やカレンダーで数的に計測できる時間量を意味する。いわば空間化された「見える」時間である。

一方でことの世界の時間はどのようなものか。
この章では言及がない。
とりあえず、ものの時間とことの時間は相互の比較が不可能な本性上の差異がある、という点を忘れてはいけないとの注意書きがあるだけである。

ものの時間とことの時間には比較不能な質的差異があるが、両立しない別種の現象様式というわけではない。
両者は生きている人にとって共生関係にある。

「ある」が「存在」に「速い」が「速さ」というものとして意識上に立ち現れるように、ことの状態は不安定で意識に発見されうるものの状態に安定しようとする。

本来はものである言葉にことを封じ込める形式が詩と呼ばれるものである。

≪ことばはそれ自体一種のものでありながら、その中に生き生きとしたことを住まわせている。そこではものとこととのあいだに一種の共生関係があるといってよい。この共生関係を最大限に利用しているのが「詩」と呼ばれる言語芸術だろう。≫p22

ものとことの共生関係は芸術活動にのみ見られる現象ではない。

≪人間の表現行為に属するものならどのようなものでも、ものに即してことを感じとるという構造をもっている。例えば表情といわれるものがそれである。われわれは他人の表情からその人の心の動きを読み取っている。ものの次元にある顔面の動きが、こととしての内心を表している。≫p24

表情のような変化の激しい安定しないものでなくても、現実の世界ではものとことは共生している。

わたしは今手に握っているペンにも肘で触れている机にもそのものの背後には表情をもったことの世界があることを感じる。

このことの世界が奪われた状態が離人症と呼ばれる病態である。

離人症者は自分の身体についての実在感が奪われると同時に、自己が見失われた状態に置かれる。

≪患者はたとえば、なにを見てもそれがそこにちゃんとあるということがわからない、(中略)温度計を見れば今何度だということはいえるのに、暑いとか寒いとかがわからない、喜怒哀楽というものが感じられなくなってしまった、自分はなんの感情も持たないロボットになった、他人がどんな気持ちをもっているかもわからない。≫p26

離人症者の時間感覚は独特である。
彼らは時計から時間の量的経過を知ることはできるし、運動の変化が速いか遅いかを見分けることもできる。
しかし、二つの出来事の間に時間が経ったという感覚が失われているため、離人症者のいまは時間的な持続を持たず、非連続的にめまぐるしく走り去る瞬間的な点として現れる。

これに対して健常者のいまは未来と過去に挟まれてはいるものの、豊かな内容で充たされた安定した静止状態として体験される。

こととしてのいまを体験できる健常者は、いまから過去と未来を創り出すので、時間を時と時のあいだで発見できる。

≪ことの世界を失った離人症患者においては、このような意味でのあいだとしてのいまが成立しない。患者が「てんでバラバラでつながりのない無数のいまが、いま、いま、いまと無茶苦茶に出てくるだけで、なんの規則もまとまりもない」と語っている真意は、実はいまの不成立ということである。≫p30

2 あいだとしての時間

現在社会における通常の時間の観念は等質かつ均速にすすむ物理的な時間を意味するが、なぜか前後で可逆的に進行するとは考えられない。

ふつうは時間が過去と未来に前後対称的にすすむ連続量とは考えずに、未来の方向に非対称的に動くと考える。

なぜそう考えてしまうのか。

≪物理学の時間に前後非対称な不可逆性が、いいかえれば過去と未来との非互換性が導入されるのは、またそれによってエントロピー増大の法則が成立するようになるのは、けっして計測量そのものの一次的な性質によるのではなく、観測という行為が二次的に加えた操作によるものである。2回目の観測が前の観測と後の観測という順序をもっているという、ただその理由だけのために、そこで観測される「時間」にも不可逆的な前後の方向が与えられてしまう≫p34

観測しなければ、あるいは観測と観測の間では、時間がどのような振る舞いをしているのかはわからない。

ベルクソンはものとして空間化された(個々の時刻に区別され、等間隔に配置された)時間と数量化不可能な「持続」としての真の時間と区別した。

ベルクソンのいう空間化から逃れた純粋なことの世界(純粋持続)は現実的にはあり得ない。

ものの世界とことの世界はお互いに共生関係にある。
離人症者のようにこと的なあり方を失ったものの世界が存在できる条件が厳しいのと同様、もの的なあり方を欠いたことの世界もない。

≪ことはものに現れ出でている。ものがことを表現しなかったならば、ことはあるとさえいえないだろう。ことはものとの共生関係においてのみ現実の世界に存在することができる。ものとこととのあいだに厳密な様態の差異を見定めるということは、ものとこととを事実的に区別してしまうということとは全然違う。ものから事実的に区別され、ものとは別のものとして立てられたような「こと」は、もはやことであることをやめて、それ自体一つのものになってしまうだろう。≫p41

ハイデガーが名付けた「存在論的差異」とはこととものとの差異に生きた意識が立ち会う、そのあり方を指す。

≪われわれがアナログ時計から時間を感じ取っている場合、われわれの読み取っているのは針の動きそのものではありえない。針の動きそのものの背後に、それとの存在論的差異において、われわれは時間が過ぎていくということを感じ取っているのである。現在の針の位置の背後に、「いまはまだ」とか「いまはもう」とかの形で表現されるような、いまの後と先とへのひろがりを感じ取っているのである。≫p43

時間の捉え方には動きや変化量など客観的なもの的な切り口と「もう」とか「まだ」とかといった主観的なこと的な切り口がある。

その重なり合いの違いをハイデガーは存在論的差異と名付けたが、彼の発想の基盤にはアリストテレスの時間論に対する批判が見て取れる。

アリストテレスの時間論は込み入った推論の末、多くは解決不能なアポリアに行きつくが、一つだけ回答の見込みのありそうな問いが提示される。

それは「時間とは運動の何なのか?」という問いである。

≪アリストテレスは「運動は拡がりに即する」と言っているが、これは運動がその本性上、拡がりと連続性を前提としていること、拡がりと連続性が運動の存在論的根拠となっていることの意味に解さなければならない。(時計の針や天体の運動を数えることによって読み取られる)通俗的時間の根底には「・・・から・・・へ」の拡がりがある。われわれは運動しているものを眼で追いながら、いまはここにある、いまはここにある、という。(中略)運動を追う場合に、そこで運動といっしょに見てとられている「いま」、これが実は時間の正体である。≫p50~51

ハイデガーの『現象学の根本的諸問題』からの引用が続く。

≪われわれが「いま」というとき、それはつねに「いまはもう・・・でない」および「いまはまだ・・・でない」の両方向に向かって開かれている。このことは、時間において数えられる運動や変化が「・・・から・・・へ」という拡がりの性格をもっているということと同じことである。「・・・から・・・へ」の移行を成立させている場所としてのいまは、それ自体のうちに移行的性格を含んでいる。いまそれ自身が拡がりの性格を持っている。われわれは日常、「いま」という言葉で秒単位の短い持続を表現することもあるし、時間単位の長い期間を表現することもある。このようなことが可能なのは、いまそれ自身が拡がりであるからにほかならない。≫p51

したがって、時間はいまの伸縮する場所、すなわちそのつどのわたし自身に他ならない。

木村は以上のハイデガーの時間に関する見解がいまの拡がりを欠き、時間と私が同時に非存在となってしまう離人症の症状を正確に言い当てているという。

次にいまの拡がりに関して考察を進める。

≪いまが以前と以降への両方向に向かって拡がっているということは、それが未来と過去をそれ自身から生み出す根源という意味で未来と過去のあいだであるということを意味する。未来と過去がまずあって、そしてその両者の「あいだ」にいまが位置しているというのではない。いまはそれ自身あいだというありかたを示すのであって、それがあいだであるからこそその両方向に未来と過去が考えられるのである。あいだとしてのいまは、それがそれ自身のうちから未来と過去を析出することによってのみ時間制を帯びる。≫p54~55

いまは過去と未来にサンドイッチされた形であるのではない、そういった考えは一方的にもの的な見方でしかない。

いまはそれ自身現象することで空間的な位置をもつ、それと同時に前後への拡がりができ、過去と未来、つまり時間が発生する。

(ベルクソンの純粋持続はいまが現象するとき、空間的な位置をもつときの緊張関係を示唆しているのではないか。しかし、そうだとすれば拡がりを持つ「持続」という言い方はおかしい。純粋に持続が接続されると同時に空間が発生するはずだから。)

いままでの議論で、「時間」は単独で推移するものではなく、それぞれのいまが以前と以降、いままでといまからの両方向へと拡がったわたし自身であり、時間の推移とはわたし自身の推移であることを確認した。

以上の概念を理解するために公共的な共同体時間の認識の歴史的な推移を概観する。

≪真木悠介氏は原始共同体の無限反復的な時間から、ヘブライズムにおける線分的な(はじめとおわりのある)時間とヘレニズムにおける円環的な時間という二つの回路を経て、近代社会における計量的な直線的時間へと収斂する時間観念の変遷を、「自然からの人間の自立と疎外、それによる自然との共同態の<生きられる共時性>の解体」と、「共同態からの個の自立と疎外、それによる共同態の<生きられる共時性>の解体」との二つの契機を軸にして明快に解釈している。人間と自然との、そして原始共同体内部での「生きられる共時性」が解体して、「知られる共時制」が析出してくるところに時計が成立する。その意味では、時計化され制度化された時間は、そのまま、物象化され客体化された時間だということになる≫p59

原始共同体における「生きられる共時性」はベルクソンの「純粋持続」と同じで、現在における時間の観念にはそぐわない。
簡単に言ってそれは時間の不在である。

≪物象化と客体化を免れたままの、純粋なこととしての「原時間」とでもいうべき状態は、このすでに物象化されもの性を帯びた時間の側から回顧的に表象された場合にのみ、換言すれば時間のもの性がいったん成立してしまってから事後的にこれを還元するという手続きをとることによってのみ、そこではじめて時間の本質として存在可能になるようなものなのである。≫p60

したがって、いまの成立に立ち会うわたしは時間の誕生と同時に共同体から析出する。
時間と個我の誕生は人間の自然とのつながりからの疎外の症状とみなせる。

言い換えれば、わたしは有限の死すべき存在であるという刷り込みは自然との直接的接続を切断され、個我と時間が共同体から析出された瞬間から現れたといえる。

第2部 時間と精神病理

第1部で見たように、「時間について考える」こと自体、非対象的なこととして生きる、存在するという時間の本質を切り捨ててしまっているので、時間を知るための適切な方法ではない。

時間を知るためには時間から眼をそらし、人が日常、時間にとらわれずに働かせる意識や行動にフォーカスする必要がある。
(そこには必ずもの的な世界も協働している)

時間のあり方が極端な方向に振れる精神病者の言動をてがかりに、時間と人の関係を考察する。

1 分裂病者の時間

分裂病者には自己が確実な自己性を有していないという共通点がある。

臨床症状としては、自分の意志や感情や思考が他者によってあやつられているという「させられ体験」とこれとは逆に自分の内面的な意志や感情の動きが何らかの手段でひとりでに他者に伝わってしまう「つつぬけ体験」が二つの特徴として挙げられる。

周囲の出来事やオープンな報道が自分に向けられたものと思い込む「関係妄想」はこの二つの体験の結果として現れる。

臨床家としての木村はこの人間印象を以下のようにいう。
≪最も多いのは一種の接近遮断感、あるいは心の不通感とでもいうべき印象だろう。それからまた、患者の中でなにかが絶えず出ずっぱりの本番態勢にあって、つねに一種の近寄りがたい緊迫感をただよわせている、という印象もある。患者はいつも真剣で、遊びや余裕に乏しい。仕事や勉強がうまく行かなくてブラブラしている患者でも、どこか思い詰めて緊張しながら無為の時間を送っている、という感じがある。≫p71

分裂病者はつねにむき出しになっている「私の心」を守るため、先手先手で防御姿勢を取ろうとする。

もの的な(カレンダー的な)過去・現在・未来の線上に時間が並べられているのではなく、いまだ来ない未来がいまを侵食し、時間を支配している状態なので、現在の自己に対して否定的な態度をとったり、未知なるものを先食いしようとする性急さを示したりする。

具体的には無計画な受験や就職、結婚のやり直し、頻回な整形手術、改名、出自の妄想などの行動、考えがよく見られる。
同時に、実生活とは縁のない学問、例えば天文学、考古学、哲学、神秘思想などへの傾倒を示す人も多い。

守られるべき「私」が危機に直面するとき分裂病者の症状が出現する。
その出現の仕方は独特で、例えば健常人が「・・・としての」私の基盤を奪われたときに示すような仕方とは異なる。

上場企業の正社員としての私、父親としての私、日本人としての私、といった仕方で構成される私は他者による承認を必要とするがゆえにはっきりした外部をもつ。

一方で分裂病者が危機にさらされる「私」はより内部的で直接的な事態であり、本来自分がいて体験する場所そのものが奪われる危機である。

分裂病者が過去を根本から変更しようとしたり、荒唐無稽な未知なるものを現在の直後に呼び寄せたりしたがるのは、彼の自己が自己としての自己として十分に成立していないからである。

≪自己の自己性は二つの互いに異なった私のあいだの同一としてのみ成立しうるのである。自己の自己性は、いわば差異の同一、同一の差異としてしか現れてこない。その場合、一方の私はもう一方の私にとって他者の立場に立ちうることになり、自己の自己性についてのこの内部他者による認知ということも当然言えることになる。自己の自己性とは、言い換えれば自己自身による自己認知のことだといってよい。≫p77

この辺りは本書でも最も理解が難しい箇所ではあるまいか。

過去と未来の間に空間が開かれた「いま」にいる私は、その時点で「いま」の空間に位置しているので、すでにその時点でものの世界に参入しているが、分裂病者はこの私がそこにうまく定位できない事態に陥っている。

分裂病者は「いま」の空間に身体が位置している私をものの世界を作り出すかけがえのない私と重なり合えることができない。

世界を見る、世界に見られる私といまここにいる私は同じではないが、全く別の空間にいるわけではない。
健常者はそこの違いをうまく修正しながら世界とつながることができるが、分裂病者の私はバラバラの空間に散らばってしまっている。

では、二つの私はどのようにしてつながっているのだろうか。
木村は二つの私を「二つの互いに異なった私のあいだの自己同一」p79と表現するが、単純に二つの私の差異を発見するというタスクにしてしまったほうがわかりやすいように思う。

木村は二つの私をものの世界で活躍するつねに人生の舞台の主人公である「主語的な私」とものの対象としてはとらえられず、そのつど動詞的に使われる「述語的な私」に分類して、同窓会での昔話や音楽鑑賞を例にとって説明している。

≪同窓会かなにかで旧友たちと昔話に花が咲いている。「だれだったか、あのとき崖から落ちて怪我をして、、、」という王なことが話題になる。私の記憶が甦って、「あ、それはぼくのことだ」という。それまで誰のことか定かでなかった人物が、そしてその人物を中心とする当時の状況が、私によって私のことと認知される。その人物は友人たちそれぞれの歴史の舞台では相変わらず周辺的な一登場人物にとどまるだろうが、私の歴史の舞台では一挙に中心人物の地位を獲得し、主語的な私の同一性の中に組み入れられることになる。≫p81

一人の歴史上の登場人物が述語的な私によって私として再発見されることで、「彼」は主語的な私に転換され、その文脈に落とし込まれる。

主語的な私はものとして操作されうる。
述語的な私が意識の舞台を開いてそこに主語的な私に同一性、継続性を付与することでアイデンティティは保たれる。

≪主語的な私は、一見きわめて安定した不変の同一性を保っているように見えるけれども、実はその存在を私ということの述語的な認知作用に負うているということになる。私の述語的な認知がなされなかったならば、主語的な私は私の同一性としては成立しえないのである。≫p82

述語的な私は主語的な私に先立って存在する。(述語的私>主語的な私)

幼児がはじめて自分であるものと自分でないものを弁別したとき、主語的な私の同一性の発端が開かれたといえる。
そしてその時以来、新しい自己を認知するごとに述語的作用を反復することで主語的な私の同一性の厚みが増していく。

主語的な私を根拠づけるものが述語的な私だとすれば、述語的な私を根拠づけるものは何だろうか?

ここが本書の大きなポイントであろう。

述語的な私を根拠づけるものは主語的な私との関係性のなかにしか見いだせない。

≪つまり主語的な自己と自己の述語作用とは、互いに一方が他方の成立の根拠となっている関係のうちにある。そして、われわれが自己の自己性と呼ぶ事態、つまりこれまでずっと私であり続けていたし、これからも私としてしか自己を見出さないという事態は、まさにこの主語的自己と自己の述語作用とのあいだの関係そのもののことである。≫p84

主語的自己と述語作用のあいだとは距離であり、差異であり、その差異を綜合しようとする不安定な均衡状態が私だとサルトルはいうが、この場合、私は私であるという運動が前提されているので、この私は対自的な私と言わねばならない。

それではその運動の行先である、あるいは出発点である私はどこに位置づけられるのか。

サルトルはその私を「自我は、一つの超越的な即自として、人間的世界の一生存者としてあらわれるのであって、意識に属するものとして現れるわけではない」『存在と無』p271というが、そうであるなら、即自の私と対自構造にとらわれる私は別物になってしまう。

これでは私の意識はいまここで同一であるという直観を説明できない。
(評者はウィトゲンシュタインのようにそれは語りえないものなのだというのもアリだとは思う)

木村は即自的な私と対自的な私をつなげる関係性に着目する。

≪私が私と呼んでいる私の自我は、われわれの日常の意識活動が正常に営まれるためにどうしても欠かせないものである。それはサルトルが言うような意識を超越した幻影的な即自などではなく、我々自身の意識そのもののありかたとして意識に属している。それは、それ自身との一致であらぬ「意識(についての)意識」という対自的な差異構造からそのつど生み出される、それ自身対自的なありかたを持つ特別な関係それ自体のことである。≫p86

それでは、この対自構造における私の在り方がいかなるものか、さしあたり分裂病者の場合を例にとって説明する。

≪分裂病者の患者は、つねに未来を先取りし、現在よりも一歩先を読もうとしている。彼らは現実の所与の世界によりも、より多く兆候の世界に生きていると言ってよい≫p87

≪分裂病特有のこの未来先取的なありかたを、私は従来から「アンテ・フェストゥム的」と呼んできた。アンテ・フェストゥムというラテン語はもともと「祭りの前」という意味で、J・ガベルがプロレタリアートの未来希求的なユートピア意識をそう名付けて、ルカーチがかつてブルジョワジーの保守的な意識に与えた「ポスト・フェストゥム的」という形容と対比させたものである。日本語で言えば「前夜祭的」とでもいうことになろうか。プロレタリアートが自由と革命を希求する強烈な未来意識は、新しい時代の到来という祝祭的な気分をすでに先取的に予感している点で、アンテ(前)・フェストゥム(夜祭)というにふさわしい。≫p87

ここで木村の代名詞とでもいえる「アンテ・フェストゥム」の概念が出てくる。
この概念が臨床にどのように生かせるかは以下のように説明される。

≪われわれがここで問われなければならないのは、この分裂病性のアンテ・フェストゥム意識が、患者の自己の自己性の不確実さとどのような関係にあるのかということである。さらには「前(アンテ)」というような時間の方向性が、自己意識のどのような構造から生み出されるのかということである。≫p88

来るべき未来という時間様態は「未来が自己に到来する」という意味を内包しているが、このとき自己がいままでの自己として固定されていないと未来は到来すべき場所を失う。

この未来が到来すべき場所としての自己が奪われた状態が分裂病者の世界だという。

≪分裂病者は、いままでそのようにあり続けてきた自己の積み重ねとしての現在を、ハイデガー的にいえば既存性としての事実性を、自己実現の根拠として引き受けることができない。そのために、彼は諸事物のもとにも自己が現在おかれている現実の中にも、静かに安住することができない。≫p90

では、分裂病者が陥る「奪われた自己」とはどういう状態を指すのだろうか?

≪分裂病者が自己自身であろうとして必死に努力しながら遂に自己自身でありえないと言う絶望感を抱くとき、そこにはつねに他者性の影が落ちている。さきにも例を挙げて述べておいたように、分裂病性の事態とは、例外なく他者性による自己の主権簒奪の事態だといってよい。≫p91

≪この事態は、分裂病者が今までの自己の歴史やいままでの自己の歴史や現在の自己の在り方を自己自身の根拠として引き受けていないということと対応している。いままでの自己の同一性の歴史は、分裂病者にとってよそよそしいもの、他者性を帯びたものとして経験されている。≫p91

分裂病者の他者体験と健常者の他者体験はどのような違いがあるのか?

≪われわれがふつうに出会う他者は、すでにある意味で自己の自己性によって取り込まれた、既知性をおびた他者である。われわれはふつう、初対面の他者ですら、いままでの他者体験の歴史的同一性の関連枠の中へ取り込んで、主語的自己の同一性を保持しうるような仕方で出会っている。(中略)分裂病者のアンテ・フェストゥム意識の中で出現してくる他者性は、それが既知の他者経験にとって絶対的に未知なるものであるという意味で、自己性にとって徹頭徹尾否定的・破壊的な作用しか及ぼさない。それは非自己であるだけにはとどまらず、反自己的の原理ですらある。≫p91~92

とはいえ、健常者の他者体験が自己性の構造になじむかたちで出現する、自己の述語作用の効果により他者が認知しうるかたちで到来する、といった事態はたんに幸運なだけで必然的というわけでもない。

なんとなれば、人間にはすべて自己性の構造になじまない、自己の述語作用の効果をうけない未来、つまり死を回避することは不可能だからである。

分裂病者に絶望をもたらす未知なる他者性はわれわれの生を無化する死の影の別名に他ならない。

人が他者に直面した時or未来が到来した時、そのつど私がほかならぬ私として見出されるのは、私が死によって規定された有限の存在だからである。

私が神のように無限に遍在する存在なら、「私」や「自己」といった事態は発生しない。

さらにいうなら、時間の不可逆性も人が有限の存在だという事実が生み出した現象である。

原理的には過去にも未来にも等質性を有するはずの時間が以前と以降、過去と未来などといった区別と不可逆的な流れという外観が与えられているのは、有限の存在としての人間が時間を(こと的世界として)生きて、(もの的世界として)観測しているからである。

≪われわれが自己と呼んでいるものも、時間と呼んでいるものも、実はわれわれの死とのかかわりかたの様態にすぎない。そして分裂病者とは、一般の人とは違った仕方で、しかし死本来の意味から当然予想しうる特定の仕方で、死とかかわっている人のことにほかならないのであろう。≫p95

分裂病者が死の影によって述語的自己生成を妨げられ、未来=他者を歴史的同一性の関連枠にうまく位置づけできないのに対し、健常者が未来=他者を自己の可能性の契機として認知できるのは、死の原理にいわば保護膜をかぶせて遮光しているからだと木村は言う。

≪この保護膜の材質や強度は、われわれのひとりひとりにおいて千差万別であるだろう。(中略)保護膜があまりに強固であるために、未来がほとんど確定的な既知性のもとにしか到来せず、従前の路線の予定通りの延長である以上の新しい意味をほとんど持ちえないような人もいるだろうし、一方では保護膜が脆弱すぎて、ことあるごとに最初から自己を発見しなおさなければ自己の自己性を保ちえない人もいるだろう。≫p96

そして、分裂病者は保護膜が脆弱なタイプの極端な例だと木村は判定する。

分裂病タイプは、未来の可能性を先取りし、未来の先を越すという仕方で自己実現を達成しようとする、職業でいうと理論物理学者、哲学者、精神科医、革命家などに多い。

一方で、容易に未来を既知の他者として確信的な歴史に裏付けられた自己性に取り込もうとする保護膜が強固なタイプは、実務家、実業家、保守的政治家、外科医などに多いという。

以上で本書の約半分を評したが、後半は前半の補足のようなものなので、ダイジェストとしては上記内容で十分かと思う。

2 鬱病者の時間

鬱病者の妄想に共通する「とりかえしのつかぬことになった」という気分は、秩序愛好性とでもいうべき秩序への強い指向性、秩序にはまり込んで抜け出せないといった状態を伴う。

したがって、子供の出産、家族の死、転職、失業、病気、などといったこれまでの秩序を揺るがすイベントが誘発要因となって発病することが多い。

鬱病タイプは自分を秩序の中に閉じ込めて出て来れない「空間性の標識」と外部状況に対して自分が後れを取ることに対する負い目を負ってしまう「時間性の標識」に特徴づけられる。

簡単に言って、「これはやらなければならないことだからわたしはやらなければならない」と「みんながやっているのにわたしだけができていない」という二種類の強迫観念がマッシュアップされた状態といえる。

≪外部状況の思わぬ変化のためにこの努力が目標を失うようなことがあると、そこから、自己自身に決定的におくれをとり、負い目を負うという、とりかえしのつかない内面状況が出現することになり、これが鬱病の発病状況を構成する。≫p107

そして環境の急激な変化がこの種の強迫観念を励起させる。

このような鬱病タイプに親和的な時間を木村は分裂病神話タイプの「アンテ・フェストゥム」に対して「ポスト・フェストゥム」と名付ける。

≪すでに分裂病のところで見ておいたように、ふつうに「未来」といわれているものに関しても、これをいままでの自己を基礎に置いた自己実現の場としての将来的な未来として捉えるか、いままでの自己に対しては否定的にはたらいて、新しい自己の生成を促す未知なる未来として捉えるかは、そのつど自己が自己自身をどう理解しているかによって根本的に違ってくる。≫p109

いままでの自己の延長線上に到来する未来としてみる鬱病タイプと新しい自己が生成する場にその都度到来する未来としてみる分裂病タイプによって、時間のとらえ方は異なる。

鬱病者にとって過去は現在の自己形成の大部分であり、決して過ぎ去ったものではなく、現在に蓄積されている。
それは過去というより、現在完了形でしか語りえない、つまり所有の助動詞が必ず用いられる類の現在である。

一方で、分裂病者にとっての現在は過去に果たされなかった夢として再構成される場でしかなく、そこでは私の位置は不確かであり、ただ過去も現在も未来も同じ場所に投げ込まれている。

いいかえれば、分裂病者は最初から私の現在地が見失われているのに対し、鬱病者は秩序=過去=所有が失われた状況下で私が現在に追いつけていないという焦りが私を逆照射する。

「私が追いつけていない」刻印が押されたまま積み重ねられる過去は鬱病者を苦しい立場に追い込む。

≪鬱病者においては、時間が全体としてポスト・フェストゥム的に「とりかえしのつかない未済」の相のもとに意識されるため、いっさいの現在が未済のまま過去へと向かって押し流され、しかもこの過去が巨大な未済の蓄積として、恐るべき仮定法的可能性の集団として、現在完了的に、現在のこととして経験されるのである≫p113~114

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2026年05月25日

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難しい本でしたが、過去に精神疾患を経験した者としても、当時の自分や周りで悩んでいる人と照らし合わせて、多くの気づきが得られました。
文明の進化により時間を理解する概念が遷移していった過程は、身につまされるような感覚を覚えました。

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2025年01月13日

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ネタバレ

非常に面白かったし、こんなに豊かなものを人は書けるのだなということに感動して、充実した読書時間になった。
ペンを持っていることは、ペンなしでそのことを感じることができないというように、「もの」なしで「こと」は成立し得ないということを前提として、精神病者の時間がどのように成り立っているのかを論じている。それは健常者とは別のもののよううに私たちは考えるのだが(もちろん実際そうとも言えるのだが)、精神病者/健常者として最初から区別できるような絶対的な特徴はない。誰にでも時間の変容が起こりうるし、身近にある問題である。その意味で、この本は誰に対しても開かれているものであるし、また時間や自分自身について考える良い機会を与えてくれている。

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2021年08月12日

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時間を見るときは、時間そのものではなく、いつまでに何分たったまでの、時間のあり方を見ている。
すべてのものは何らかのこと的なあり方をしている。
存在者の存在と、あるということそれ自体には根本的な違いがある。
自己の自己性とは、自己自身による自己認知なのである。
主語的自己と、述語的な私。

鬱→メランコリー型→真面目な人に多い。
→インクルデンツ(秩序の中に自分を閉じ込める)、レマネンツ(負い目を負う)
→所有の喪失
役割同一制

癲癇→アウラ体験:主観的で絶頂的な発作。現在が永遠に思える。
→現在が永続的かつ、それだけで満たされている状態。

アフリカ→時間の感覚:ササとザマ二のみ
ササ→生きられる現在
ザマ二→恒久的で全てを飲み込む過去

現状を維持するために未来を見るか、現場から逃げるために未来を見るか
時間が時間として流れている感覚と自分が自分として存在していると言う感じは同じ

現在の一瞬は人間が永遠の死と真正面に向き合って存在の充満を生きる輝かしい瞬間
人間に関するいかなる施策は死を真正面から見つめたものでなければいけない

私たちは時間を色付けて生きている。

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2021年02月12日

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最高の出来。まさに天才的。時間論をここまで縦断的に、かつ切れ味よく語れたものとは思わなかった。あまり知られていない名著の一つ。

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2013年11月13日

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自己とは時間であり、時間とは自己である。私がいまいるということ。
未来への希求と恐れによる統合失調症、既成過去の役割期待に縛られた鬱病、そして癲癇と躁病の祝祭的な現在。
こんなふうに乱暴にまとめてしまうことからさて勉強の始まりである。

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2012年09月24日

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「もの」としての時間と、「こと」としての時間。

われわれは「もの」として意識することでしか、すなわち「もの」化することでしか、「こと」を意識できないのであって、それは時間についても同じである。
カレンダーや時計などの計量される時間が、まさにその代表。

しかし、「もの」としてしか意識できないとしても、「こと」としてある「いま」。
この「いま」について、木村敏は次のようにいっている。

「いまは、未来と過去、いまからといままでとをそれ自身から分泌するような、未来と過去とのあいだなのである」(傍点略)

われわれが未来あるいは過去についてなにかしらを語るとき、われわれはあたかも未来または過去なるものが、あらかじめ未来や過去を起点として存在しているかのような、いわば「分断点」としてそれを意識しがちである。
しかし、そのような過去/未来がまずあって、その「あいだ」に「いま」がはさみ込まれているのではない。
「あいだとしてのいまが、未来と過去を創り出すのである。」

このような「あいだ」という「こと」的な感覚。
平常われわれはこの感覚とともに、未来と過去、いままでとこれからの「あいだ」にある「いま」を、「…から…へ」という移行性のなかで生きている。

ところが、この「こと」としての時間感覚が失われる場合がある。
本書では、そうしたなにかしらの均衡が失われた時間感覚について、精神病と関連づけながら論じられている。

時間感覚から精神病についてみていくことが大変興味深く、その病気について理解が深まるとともに、「自己」と「時間」のつながりが、あるいは「自己」である「時間」、「時間」であるところの「自己」を考えさせられる。

新書のわかりやすさ、手に取りやすさを有しつつも、よくある多くの新書よりもはるかにタメになり、かつ興味深い一冊!

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2012年04月02日

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ネタバレ

もの と こと の関係において、時間を考えることができる。
もの は、時間を考えなければ、そのまま同じ状態である。
こと が起きると、時間とともに変化していく。

自己についても、こと と 時間の関係で描写できるだろう。

ps.
野口 悠紀雄著 「続「超」整理法・時間編―タイム・マネジメントの新技法 」 の参考文献に本書が掲載されている。

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2011年09月27日

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鬱病者と分裂病者の時間感覚について論じたもの。とてもわかりやすく読みやすい。「鬱病者にとって、自己を規定しているのは役割演技」であるという旨の記述はとても納得できる。

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2011年02月22日

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こんなにワクワクする本、今まで読んだ事がありませんでした。
この「時間と自己」から読書にハマりました。
また近いうちに読みます。

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2010年02月15日

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 時間という現象と、私が私自身であるということは、厳密に一致する。自己や時間を「もの」ではなく「こと」として捉え、西洋的独我論を一気に超えた著者は、時間と個我の同時的誕生を跡付け、更に精神病理学的思索を通じて、普通は健全な均衡のもとに蔽われている時間の根源的諸様態を、狂気の中に見て取る。前夜祭的時間、あとの祭的時間、そして永遠の今に生きる祝祭的時間――「生の源泉としての大いなる死」がここに現前する。

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2012年02月16日

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難しい箇所も多くあって全ては理解できなかったものの、色々な意味での自分の状態をはっきり言い当てられたような気がした一冊。

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2026年03月24日

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「こころの病に挑んだ知の巨人」 (ちくま新書)を読んで木村理論を知りたくなって購入したものの、私には難しかった。
最後のあとがきの言葉が、気になって頭から離れない。どういう意味なのか?

私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか。夢を見ている人が夢の中でときどきわれに返るように、私たちも人生の真只中で、ときとしてふとこの「だれか」に返ることができるのではないか。このような実感を抱いたことのある人は、おそらく私だけではないだろう。
夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときどきに、私たちはこの「だれか」をいつも以上に身近に感じとっているはずである。夜半に訪れる今日と明日のあいだ、昨日と今日のあいだ、大晦日の夜の今年と来年のあいだ、去年と今年のあいだ、そういった「時と時とのあいだ」のすきまを、じっと視線をこらして覗きこんでみるといい。そこに見えてくる一つの顔があるだろう。その顔の持主が夢を見はじめたときに、私はこの世に生まれてきたのだろう。そして、その「だれか」が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。この夢の主は、死という名をもっているのではないのか。

あとがきに、この文章を入れた木村敏さんの意図、わからない。これは禅の公案かもしれない。

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2024年07月19日

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「永遠のドストエフスキー」(中公新書)を読んで、精神疾患に時間感覚が関係することが分かった。積読本を整理中にパラ見をしたら、関連部分があるので読むことにした。
「今」との関係が、精神疾患の現れ方を決める。時間と精神疾患について「こと」と「もの」を着眼点に展開される。
「私」ということは、私にとって取扱注意(不自由)かと思った。

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2024年05月03日

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冒頭の我々の周りの「もの」と「こと」の解釈から引き込まれた。
そこから精神病への展開は難解で、一回読んだだけでは理解が追いつかないが、とても興味深い。
そして最後のまた映画のマトリックス的な自身の他者性についても、共感できるところも。

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2023年06月23日

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あとがきにある「人生をひとつの夢として夢見ているような、もうひとつ高次の現実が私たちのすぐ傍らに存在しているらしいということだけは、真理に対して謙虚であるためにも、是非とも知っておかなくてはならないように思う」という言葉、なぜか『鋼の錬金術師』を思い出させる。
また、「夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときどきに、私たちはこの『だれか』をいつも以上に身近に感じとっているはずである。(…)「時と時とのあいだ」のすきま(…)に見えてくる一つの顔(…)の持主が夢を見はじめたときに、私はこの世に生まれてき(…)、その「だれか」が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。この夢の主は、死という名をもっているのではないか。」という文章、小さい時から居間に一人で横になっているときに感じた感覚とも似ていて、サブイボが立つのを感じた。

時間ってなんだろうという興味から以前に岩波の緑表紙の『時間』という本を手に取って読んでみたが、哲学書すぎて意味がわからず手放した。その経験から一応中身はさっとでも読んでから買おうと思い、さっと読んで買ったつもりだったが、思っていた内容とは違っていた。笑 違っていたが、これはこれで面白かった。

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2022年03月13日

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 精神病患者の精神世界から、人間の時間と自己に対する認識について書かれた本。過去・現在・未来の捉え方、時間概念は全ての人、時代、世界に等しいものではない。

 やや難しく感じたので、また読み直したいと思う。

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2022年02月05日

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 症例を祭りのまえ、あとという時間軸でとらえたところが学びどころ。
 祭りの前、こういうことがあったらどうしよう、不幸になるのではないかという不安。
 祭りの後、なにかとりかえしのつかないことをしてしまった、もう不幸なのではという不安。
 病名にこだわらず、内容をつかむと、意外にみんなもっている不安だとも言える。
 私の考えだと、祭りの前は、可能態の不安、祭りの後は、欠如態の不安。どちらも自己や現実をそのままに(現実態)とらえていない。現実態としてものごとをとらえる(→研究方法)のは難しい。

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2020年04月12日

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哲学からの引用及び哲学的解釈も含まれるのである程度集中して噛み砕きながら読むことをお勧めします。この本で言われている時間とは物理学的な時間のことではなく、人間の認知における時間概念のことであり、人間にとって時間とは何か、時間を認識しているとはどう言う状態なのか等を離人症・分裂症・鬱病・癲癇患者等の時間感覚を比較・分析しながら考えて行くという興味深い内容。

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2016年06月25日

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上から見下ろした知識がいっぱい詰まっている
その割に面白く読み始められたのは
知識をつなぎ合わせているところに少しだけスリルがあるからだろう
しかしそのスリルもじきに飽きてくる
なぜなら継ぎ接ぎだらけで、全体を包んでいるしなやかな心がないからだろう
「もの」と「こと」を語りながら、話は掻き集めた知識ばかりの「もの」的でしかなく、底が浅い。
下野に降りて語れる勇気と力さえ持っていれば
くたびれずに読めるだろうにと、残念に思う

ともあれ西洋的学問から抜け出せていない古臭さがある
にもかかわらずどことなく一歩踏み出しているような
おもしろさも感じられた

あとがきに至ってこれを最初に読んでいれば
本文を随分と素直に読めただろうと思った
内容としては丸ごと同感であったからこそ
随所で面白さに惹かれていたのだとわかった
わずかなズレが魅力となるかと思えば違和感ともなることを
証明してくれたような本であった

論文というものの固さによる危うさかもしれない
だとしたら読み手がその分しなやかであらねば調和できない
硬さと柔らかさで脈打つことが現象の条件だともいえる
脈打ち損なえばそれまでのことで
リラックスして混沌という羊水に体を委ねて反芻してみよう

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2012年03月08日

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ネタバレ

[ 内容 ]
時間という現象と、私が私自身であるということとは、厳密に一致する。
自己や時間を「もの」ではなく「こと」として捉え、西洋的独我論を一気に超えた著者は、時間と個我の同時的誕生を跡づけ、さらに精神病理学的思索を通じて、ふつうは健全な均衡のもとに蔽われている時間の根源的諸様態を、狂気の中に見てとる。
前夜祭的時間、あとの祭的時間、そして永遠の今に生きる祝祭的時間――「生の源泉としての大いなる死」がここに現前する。

[ 目次 ]
第一部 こととしての時間(1 ものへの問いからことへの問いへ 2 あいだとしての時間)
第二部 時間と精神病理(1 分裂病者の時間 2 鬱病者の時間 3 祝祭の精神病理)
第三部 時間と自己-結びにかえて
あとがき

[ POP ]


[ おすすめ度 ]

☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

[ 関連図書 ]


[ 参考となる書評 ]

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2011年03月29日

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木村敏さんの思想に、私としては目新しいことはほとんどなかったが、新書ということもあり、いつもより平易な語り口で、木村敏入門として、よくまとまった本だと思う。

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2010年05月07日

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精神病理学という、精神医学のなかの、あるいはそれを批判する学問分野で有名な人の本。哲学的な人間学的な観点から精神病を分析する。独特の理論がこの本で軽く説明されている。哲学の入門にもいい本だと思う。ハイデッガーが分かるようになるかも。

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2010年06月11日

Posted by ブクログ

ネタバレ

難しくて半分もわかっていないが。
時と感情の関係とでもいうのか。
それを言語化した本。自分はあまりそういうの読んだことがなかったので新鮮。30年以上も前に書かれたもの。

あとがきに。
私たちが普段確かな現実だと思い込んでいるこの人生を一つの夢として夢見ているような、もうひとつ高次の現実が私たちのすぐ傍らに存在しているらしいということだけは、心理に対して謙虚であるためにも、ぜひとも知っておかなくてはならないように思う。

時間は、物理的にデジタルにはかれるものではない。
多分、同じ事象に対しても、時間の流れや感じ方が違うんだろうな。ふと、何事も怖くないような気持にもなる。

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2018年09月13日

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大学の先生がテキストに選んだ本です。初めて、哲学的な視点でものを見ることを教わりました。目には見えない時間を、頭の中でイメージすることは難しい…

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2009年10月04日

「学術・語学」ランキング