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時間という現象と、私が私自身であるということは、 厳密に一致する。自己や時間を「もの」ではなく「こと」として捉えることによって、西洋的独我論を一気に超えた著者は、時間と個我の同時的誕生をあざやかに跡づけ、さらに、ふつうは健全な均衡のもとに蔽われている時間の根源的諸様態を、狂気の中に見てとる。前夜祭的時間、あとの祭的時間、そして永遠の今に生きる祝祭的時間――「生の源泉としての大いなる死」がここに現前する。
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Posted by ブクログ
分裂症やうつ病などの症状を、時間と自身の在り方から捉えてみることができるという考え方をこの本で初めて知った。 本書の中で、"もの"と"こと"は区別され、本質的な"こと"について考えようと思うことで、"もの"となってしま...続きを読むうため、健常な状態では"もの"と"こと"を区別することはできない。ということと、「言葉」の「言(こと)の葉」という成り立ちをみるに、言葉は"こと"の一側面しか表現しえないということころが、特に印象に残っている。 うつ病者は自己同一性と役割同一性の区別が上手く機能していないという記述にはなるほど、、、と思いながら読んだ。
この本は再読しながら少しづつレビューします。 わたしは生きているというとき、必ずそこには時間が流れている。時間が流れていない状態ではわたしは生きていない。不死だということもできるだろう。 なぜ時間は流れるのか? 流れるように感じる時と時間が消失したように感じる時の違いは何だろうか? この本には...続きを読む消失した時間(不死のわたし)のミステリーを説くヒントが暗示されている。 ボルヘスの詩集のように。 第一部 こととしての時間 1 ものへの問いからことへの問いへ 時間の謎を扱う時、ものの世界として対象をとらえるか、ことの世界をわたしが現すのかの違いをまず分別する必要がある。 ≪時間と関連して速さというようなことについて考えてみる。 速いということは、そのままの姿では決してものではない。しかし、これを速さという形で思い浮かべてみると、それはたちまちものに変わる。≫p5 ものの世界では私たちは対象を脳で見る。外部空間で対象をとらえる時は眼を使い、内部空間で対象をとらえる時は脳(記憶)を使う。 ≪外部的な眼で見るにしても内部的な眼で見るにしても、見るというはたらきが可能であるためには、ものとのあいだに距離がなければならない。見られるものとは或る距離をおかれて眼の前にあるもののことである。それが「対象」あるいは「客観」という言葉の意味である。ものはすべて客観であり、客観はすべてものである。景色を見てその美しさに夢中になっている瞬間には、景色もその美しさも客観になっていないということがある。景色や美しさとのあいだになんらの距離もおかれていないから、われわれはその景色と一体になっているというようなことが言われる。主観と客観とが分かれていないのである。そのような瞬間には、われわれの外部にも内部にもものはない。われわれはものを忘れた世界に漂っている。しばらくして主観がわれに返ると、そこに距離が生まれる。景色や美しさが客観になる。そして、われわれは、美しいものを見た、という。≫p5~p6 見ることを対象化して理解することが西洋哲学・科学の基本姿勢であることは理論(theory)の語源がギリシア語の「見ること」(テオリア)に由来することからも見て取れる。 例えば「存在とは何であるか?」という問いが不毛なのは、その前提において「存在」が対象化されてしまっており、わたしが今ここに同時に存在しているというナマの現実がすっぽり抜け落ちているからだと言える。 ≪ものを見るというはたらきが一定の距離をおいてはじめて成立するのに対して、聞くということはー肉声を聞く場合でも心の声を聞く場合でもー私たち自身の間近で生起する。≫p16 ものを見るには空間的な距離が必要であり、ものは同時に同じ空間を占めることはできないので、外部的にものを見る場合でも、内部的にイメージ(表象)を思い浮かべる場合でも、ふたつのものを同時にとらえることはできない。 ネットワーク環境に支配された世界では同時に複数のタスクをこなすマルチワーク、いわゆる「ながら作業」が効率的だということで推奨される傾向があるが、木村の主張ではマルチワークは成立しない。 木村の主張を裏付ける論文はいくつか出ている。 たとえば2006年3月にアメリカ心理学会(AmericanPsychological association)が編集した『Multitasking:Switching cost』では、人は同時に違う作業はできない、そうしているように見えるのはタスクがシームレスにできているイメージを意識がつくりだしているからだと結論付けている。 むしろ、マルチタスクは対象をとらえ直すたびに脳に負荷を与えるため、大きなエネルギー消費を要し、集中力が低下する速度をはやくする。 対象化して見る「ものの世界」とは違う「ことの世界」とはどのようなものか。 ≪出来事や変化は、私がそれに気づき、意識的に私の存在に、つまり私がいまここにあるということのうちに組み込みうるのではない限り、わたしにとってことにはならない。ことがこととして成立するためには、私が主観としてそこに立ち会っているということが必要である。 しかし、私のこととして成立しているこれら多くのことは、そのありかたの点でこの上なく不安定である。私がそれに意識を向けるやいなや、それらは純粋なことであることをやめて意識内部のものとなる。ものとなった以上、それらは意識の中で空間的な場所を占めてしまう。そして相互に排除的な現れかたしかしなくなる。ことが純粋なこととしてとどまりうるためには、それはいつでもものとして意識化されるうる可能性をもちながら、しかも意識の集中をまぬがれた未決の状態におかれているのでなければならない。(中略) ことは、もののよう内部や外部の空間を占めないが、わたしのいまを構成しているという意味において、私の時間を占めている。≫p17~p18 ものの世界の時間とことの世界の時間は質が異なる。 ものの世界の時間、つまり対象化されたものを見る時に流れる時間は時計やカレンダーで数的に計測できる時間量を意味する。いわば空間化された「見える」時間である。 一方でことの世界の時間はどのようなものか。 この章では言及がない。 とりあえず、ものの時間とことの時間は相互の比較が不可能な本性上の差異がある、という点を忘れてはいけないとの注意書きがあるだけである。 ものの時間とことの時間には比較不能な質的差異があるが、両立しない別種の現象様式というわけではない。 両者は生きている人にとって共生関係にある。 「ある」が「存在」に「速い」が「速さ」というものとして意識上に立ち現れるように、ことの状態は不安定で意識に発見されうるものの状態に安定しようとする。 本来はものである言葉にことを封じ込める形式が詩と呼ばれるものである。 ≪ことばはそれ自体一種のものでありながら、その中に生き生きとしたことを住まわせている。そこではものとこととのあいだに一種の共生関係があるといってよい。この共生関係を最大限に利用しているのが「詩」と呼ばれる言語芸術だろう。≫p22 ものとことの共生関係は芸術活動にのみ見られる現象ではない。 ≪人間の表現行為に属するものならどのようなものでも、ものに即してことを感じとるという構造をもっている。例えば表情といわれるものがそれである。われわれは他人の表情からその人の心の動きを読み取っている。ものの次元にある顔面の動きが、こととしての内心を表している。≫p24 表情のような変化の激しい安定しないものでなくても、現実の世界ではものとことは共生している。 わたしは今手に握っているペンにも肘で触れている机にもそのものの背後には表情をもったことの世界があることを感じる。 このことの世界が奪われた状態が離人症と呼ばれる病態である。 離人症者は自分の身体についての実在感が奪われると同時に、自己が見失われた状態に置かれる。 ≪患者はたとえば、なにを見てもそれがそこにちゃんとあるということがわからない、(中略)温度計を見れば今何度だということはいえるのに、暑いとか寒いとかがわからない、喜怒哀楽というものが感じられなくなってしまった、自分はなんの感情も持たないロボットになった、他人がどんな気持ちをもっているかもわからない。≫p26 離人症者の時間感覚は独特である。 彼らは時計から時間の量的経過を知ることはできるし、運動の変化が速いか遅いかを見分けることもできる。 しかし、二つの出来事の間に時間が経ったという感覚が失われているため、離人症者のいまは時間的な持続を持たず、非連続的にめまぐるしく走り去る瞬間的な点として現れる。 これに対して健常者のいまは未来と過去に挟まれてはいるものの、豊かな内容で充たされた安定した静止状態として体験される。 こととしてのいまを体験できる健常者は、いまから過去と未来を創り出すので、時間を時と時のあいだで発見できる。 ≪ことの世界を失った離人症患者においては、このような意味でのあいだとしてのいまが成立しない。患者が「てんでバラバラでつながりのない無数のいまが、いま、いま、いまと無茶苦茶に出てくるだけで、なんの規則もまとまりもない」と語っている真意は、実はいまの不成立ということである。≫p30 2 あいだとしての時間 現在社会における通常の時間の観念は等質かつ均速にすすむ物理的な時間を意味するが、なぜか前後で可逆的に進行するとは考えられない。 ふつうは時間が過去と未来に前後対称的にすすむ連続量とは考えずに、未来の方向に非対称的に動くと考える。 なぜそう考えてしまうのか。 ≪物理学の時間に前後非対称な不可逆性が、いいかえれば過去と未来との非互換性が導入されるのは、またそれによってエントロピー増大の法則が成立するようになるのは、けっして計測量そのものの一次的な性質によるのではなく、観測という行為が二次的に加えた操作によるものである。2回目の観測が前の観測と後の観測という順序をもっているという、ただその理由だけのために、そこで観測される「時間」にも不可逆的な前後の方向が与えられてしまう≫p34 観測しなければ、あるいは観測と観測の間では、時間がどのような振る舞いをしているのかはわからない。 ベルクソンはものとして空間化された(個々の時刻に区別され、等間隔に配置された)時間と数量化不可能な「持続」としての真の時間と区別した。 ベルクソンのいう空間化から逃れた純粋なことの世界(純粋持続)は現実的にはあり得ない。 ものの世界とことの世界はお互いに共生関係にある。 離人症者のようにこと的なあり方を失ったものの世界が存在できる条件が厳しいのと同様、もの的なあり方を欠いたことの世界もない。 ≪ことはものに現れ出でている。ものがことを表現しなかったならば、ことはあるとさえいえないだろう。ことはものとの共生関係においてのみ現実の世界に存在することができる。ものとこととのあいだに厳密な様態の差異を見定めるということは、ものとこととを事実的に区別してしまうということとは全然違う。ものから事実的に区別され、ものとは別のものとして立てられたような「こと」は、もはやことであることをやめて、それ自体一つのものになってしまうだろう。≫p41 ハイデガーが名付けた「存在論的差異」とはこととものとの差異に生きた意識が立ち会う、そのあり方を指す。 ≪われわれがアナログ時計から時間を感じ取っている場合、われわれの読み取っているのは針の動きそのものではありえない。針の動きそのものの背後に、それとの存在論的差異において、われわれは時間が過ぎていくということを感じ取っているのである。現在の針の位置の背後に、「いまはまだ」とか「いまはもう」とかの形で表現されるような、いまの後と先とへのひろがりを感じ取っているのである。≫p43 時間の捉え方には動きや変化量など客観的なもの的な切り口と「もう」とか「まだ」とかといった主観的なこと的な切り口がある。 その重なり合いの違いをハイデガーは存在論的差異と名付けたが、彼の発想の基盤にはアリストテレスの時間論に対する批判が見て取れる。 アリストテレスの時間論は込み入った推論の末、多くは解決不能なアポリアに行きつくが、一つだけ回答の見込みのありそうな問いが提示される。 それは「時間とは運動の何なのか?」という問いである。 ≪アリストテレスは「運動は拡がりに即する」と言っているが、これは運動がその本性上、拡がりと連続性を前提としていること、拡がりと連続性が運動の存在論的根拠となっていることの意味に解さなければならない。(時計の針や天体の運動を数えることによって読み取られる)通俗的時間の根底には「・・・から・・・へ」の拡がりがある。われわれは運動しているものを眼で追いながら、いまはここにある、いまはここにある、という。(中略)運動を追う場合に、そこで運動といっしょに見てとられている「いま」、これが実は時間の正体である。≫p50~51 ハイデガーの『現象学の根本的諸問題』からの引用が続く。 ≪われわれが「いま」というとき、それはつねに「いまはもう・・・でない」および「いまはまだ・・・でない」の両方向に向かって開かれている。このことは、時間において数えられる運動や変化が「・・・から・・・へ」という拡がりの性格をもっているということと同じことである。「・・・から・・・へ」の移行を成立させている場所としてのいまは、それ自体のうちに移行的性格を含んでいる。いまそれ自身が拡がりの性格を持っている。われわれは日常、「いま」という言葉で秒単位の短い持続を表現することもあるし、時間単位の長い期間を表現することもある。このようなことが可能なのは、いまそれ自身が拡がりであるからにほかならない。≫p51 したがって、時間はいまの伸縮する場所、すなわちそのつどのわたし自身に他ならない。 木村は以上のハイデガーの時間に関する見解がいまの拡がりを欠き、時間と私が同時に非存在となってしまう離人症の症状を正確に言い当てているという。 次にいまの拡がりに関して考察を進める。 ≪いまが以前と以降への両方向に向かって拡がっているということは、それが未来と過去をそれ自身から生み出す根源という意味で未来と過去のあいだであるということを意味する。未来と過去がまずあって、そしてその両者の「あいだ」にいまが位置しているというのではない。いまはそれ自身あいだというありかたを示すのであって、それがあいだであるからこそその両方向に未来と過去が考えられるのである。あいだとしてのいまは、それがそれ自身のうちから未来と過去を析出することによってのみ時間制を帯びる。≫p54~55 いまは過去と未来にサンドイッチされた形であるのではない、そういった考えは一方的にもの的な見方でしかない。 いまはそれ自身現象することで空間的な位置をもつ、それと同時に前後への拡がりができ、過去と未来、つまり時間が発生する。 (ベルクソンの純粋持続はいまが現象するとき、空間的な位置をもつときの緊張関係を示唆しているのではないか。しかし、そうだとすれば拡がりを持つ「持続」という言い方はおかしい。純粋に持続が接続されると同時に空間が発生するはずだから。) いままでの議論で、「時間」は単独で推移するものではなく、それぞれのいまが以前と以降、いままでといまからの両方向へと拡がったわたし自身であり、時間の推移とはわたし自身の推移であることを確認した。 以上の概念を理解するために公共的な共同体時間の認識の歴史的な推移を概観する。 ≪真木悠介氏は原始共同体の無限反復的な時間から、ヘブライズムにおける線分的な(はじめとおわりのある)時間とヘレニズムにおける円環的な時間という二つの回路を経て、近代社会における計量的な直線的時間へと収斂する時間観念の変遷を、「自然からの人間の自立と疎外、それによる自然との共同態の<生きられる共時性>の解体」と、「共同態からの個の自立と疎外、それによる共同態の<生きられる共時性>の解体」との二つの契機を軸にして明快に解釈している。人間と自然との、そして原始共同体内部での「生きられる共時性」が解体して、「知られる共時制」が析出してくるところに時計が成立する。その意味では、時計化され制度化された時間は、そのまま、物象化され客体化された時間だということになる≫p59 原始共同体における「生きられる共時性」はベルクソンの「純粋持続」と同じで、現在における時間の観念にはそぐわない。 簡単に言ってそれは時間の不在である。 ≪物象化と客体化を免れたままの、純粋なこととしての「原時間」とでもいうべき状態は、このすでに物象化されもの性を帯びた時間の側から回顧的に表象された場合にのみ、換言すれば時間のもの性がいったん成立してしまってから事後的にこれを還元するという手続きをとることによってのみ、そこではじめて時間の本質として存在可能になるようなものなのである。≫p60 したがって、いまの成立に立ち会うわたしは時間の誕生と同時に共同体から析出する。 時間と個我の誕生は人間の自然とのつながりからの疎外の症状とみなせる。 言い換えれば、わたしは有限の死すべき存在であるという刷り込みは自然との直接的接続を切断され、個我と時間が共同体から析出された瞬間から現れたといえる。 第2部 時間と精神病理 第1部で見たように、「時間について考える」こと自体、非対象的なこととして生きる、存在するという時間の本質を切り捨ててしまっているので、時間を知るための適切な方法ではない。 時間を知るためには時間から眼をそらし、人が日常、時間にとらわれずに働かせる意識や行動にフォーカスする必要がある。 (そこには必ずもの的な世界も協働している) 時間のあり方が極端な方向に振れる精神病者の言動をてがかりに、時間と人の関係を考察する。 1 分裂病者の時間 分裂病者には自己が確実な自己性を有していないという共通点がある。 臨床症状としては、自分の意志や感情や思考が他者によってあやつられているという「させられ体験」とこれとは逆に自分の内面的な意志や感情の動きが何らかの手段でひとりでに他者に伝わってしまう「つつぬけ体験」が二つの特徴として挙げられる。 周囲の出来事やオープンな報道が自分に向けられたものと思い込む「関係妄想」はこの二つの体験の結果として現れる。 臨床家としての木村はこの人間印象を以下のようにいう。 ≪最も多いのは一種の接近遮断感、あるいは心の不通感とでもいうべき印象だろう。それからまた、患者の中でなにかが絶えず出ずっぱりの本番態勢にあって、つねに一種の近寄りがたい緊迫感をただよわせている、という印象もある。患者はいつも真剣で、遊びや余裕に乏しい。仕事や勉強がうまく行かなくてブラブラしている患者でも、どこか思い詰めて緊張しながら無為の時間を送っている、という感じがある。≫p71 分裂病者はつねにむき出しになっている「私の心」を守るため、先手先手で防御姿勢を取ろうとする。 もの的な(カレンダー的な)過去・現在・未来の線上に時間が並べられているのではなく、いまだ来ない未来がいまを侵食し、時間を支配している状態なので、現在の自己に対して否定的な態度をとったり、未知なるものを先食いしようとする性急さを示したりする。 具体的には無計画な受験や就職、結婚のやり直し、頻回な整形手術、改名、出自の妄想などの行動、考えがよく見られる。 同時に、実生活とは縁のない学問、例えば天文学、考古学、哲学、神秘思想などへの傾倒を示す人も多い。
難しい本でしたが、過去に精神疾患を経験した者としても、当時の自分や周りで悩んでいる人と照らし合わせて、多くの気づきが得られました。 文明の進化により時間を理解する概念が遷移していった過程は、身につまされるような感覚を覚えました。
使われている精神医学の用語や内容は、本書が書かれた1982年当時のものであることを前提として読む必要がある。それでもなお、思弁的のみならず、臨床的にも示唆に富む本だと感じた。臨床場面で患者さんと接しているときに、自分自身の時間感覚も同調しているように感じることは多く、一日の臨床のなかで、時間の流れは...続きを読む一定ではない。患者さんのためにも、医療従事者が己を知り守るためにも、ここに書かれているような内容を知っておくことは有益だと思う。
時間を見るときは、時間そのものではなく、いつまでに何分たったまでの、時間のあり方を見ている。 すべてのものは何らかのこと的なあり方をしている。 存在者の存在と、あるということそれ自体には根本的な違いがある。 自己の自己性とは、自己自身による自己認知なのである。 主語的自己と、述語的な私。 鬱→メラ...続きを読むンコリー型→真面目な人に多い。 →インクルデンツ(秩序の中に自分を閉じ込める)、レマネンツ(負い目を負う) →所有の喪失 役割同一制 癲癇→アウラ体験:主観的で絶頂的な発作。現在が永遠に思える。 →現在が永続的かつ、それだけで満たされている状態。 アフリカ→時間の感覚:ササとザマ二のみ ササ→生きられる現在 ザマ二→恒久的で全てを飲み込む過去 現状を維持するために未来を見るか、現場から逃げるために未来を見るか 時間が時間として流れている感覚と自分が自分として存在していると言う感じは同じ 現在の一瞬は人間が永遠の死と真正面に向き合って存在の充満を生きる輝かしい瞬間 人間に関するいかなる施策は死を真正面から見つめたものでなければいけない 私たちは時間を色付けて生きている。
最高の出来。まさに天才的。時間論をここまで縦断的に、かつ切れ味よく語れたものとは思わなかった。あまり知られていない名著の一つ。
自己とは時間であり、時間とは自己である。私がいまいるということ。 未来への希求と恐れによる統合失調症、既成過去の役割期待に縛られた鬱病、そして癲癇と躁病の祝祭的な現在。 こんなふうに乱暴にまとめてしまうことからさて勉強の始まりである。
「もの」としての時間と、「こと」としての時間。 われわれは「もの」として意識することでしか、すなわち「もの」化することでしか、「こと」を意識できないのであって、それは時間についても同じである。 カレンダーや時計などの計量される時間が、まさにその代表。 しかし、「もの」としてしか意識できないとして...続きを読むも、「こと」としてある「いま」。 この「いま」について、木村敏は次のようにいっている。 「いまは、未来と過去、いまからといままでとをそれ自身から分泌するような、未来と過去とのあいだなのである」(傍点略) われわれが未来あるいは過去についてなにかしらを語るとき、われわれはあたかも未来または過去なるものが、あらかじめ未来や過去を起点として存在しているかのような、いわば「分断点」としてそれを意識しがちである。 しかし、そのような過去/未来がまずあって、その「あいだ」に「いま」がはさみ込まれているのではない。 「あいだとしてのいまが、未来と過去を創り出すのである。」 このような「あいだ」という「こと」的な感覚。 平常われわれはこの感覚とともに、未来と過去、いままでとこれからの「あいだ」にある「いま」を、「…から…へ」という移行性のなかで生きている。 ところが、この「こと」としての時間感覚が失われる場合がある。 本書では、そうしたなにかしらの均衡が失われた時間感覚について、精神病と関連づけながら論じられている。 時間感覚から精神病についてみていくことが大変興味深く、その病気について理解が深まるとともに、「自己」と「時間」のつながりが、あるいは「自己」である「時間」、「時間」であるところの「自己」を考えさせられる。 新書のわかりやすさ、手に取りやすさを有しつつも、よくある多くの新書よりもはるかにタメになり、かつ興味深い一冊!
鬱病者と分裂病者の時間感覚について論じたもの。とてもわかりやすく読みやすい。「鬱病者にとって、自己を規定しているのは役割演技」であるという旨の記述はとても納得できる。
こんなにワクワクする本、今まで読んだ事がありませんでした。 この「時間と自己」から読書にハマりました。 また近いうちに読みます。
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