からだ・こころ・生命

からだ・こころ・生命

ビジネス・実用
990円 (税込)

4pt

3.7

著者は、常に臨床の現場に身をおきながら精神病理学と哲学を往還する独創的な学問的地平を切り拓いてきた。症例分析を通じて「もの/こと」や「あいだ」といった柔軟かつ強靱な概念装置を創出し、独自の自己論、時間論を展開、その思索は生命の根拠の探究へと旋回する。「からだ」と「こころ」はどのように関係しあっているのか。「生きる」とは、そして「死」とは? 木村生命論の内実と射程を雄弁に語る好著。解説:野家啓一 (講談社学術文庫)

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からだ・こころ・生命 のユーザーレビュー

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感情タグBEST3

    Posted by ブクログ

    現象学を医学の現場で、科学の視線を持って実践して著者が辿り着いた知の領域。
    適切な例を挙げて説明されている為、間主観性への理解が乏しくても話について行ける。

    整理された思考。
    整然とした論理展開。
    丁寧な説明。
    どれを取っても満点なのですが…

    自分の知識や思考力不足の為に分からないところがあるので⭐️一つ減^^;
    本のせいではありません。今後著者の本やヴァイツゼガーの著書を読んでまたチャレンジしたいです。

    0
    2023年09月10日

    Posted by ブクログ

    「自己とは何か」を追求する著者が行った二つの講演をまとめたもの。

    ・第一講演「身心相関と間主観性」
    「主観/主体」を手がかりに、身心二元論を乗り越えようと試みている。
    ・第二講演「人間学的医学における生と死」
    第一講演の生命論を「生と死」という主題にまで発展させ、それを基盤に現代医学のあり方を問い直している。

    各講演とも40頁程度で、かつ5,6の節に分けられているので、初学者であっても読み進め理解することが可能。
    ただ、なんとなくわかったような気にはなるが、完璧な理解には程遠い。心の経験をより積んでいけばもっと身を持って理解できるようになるのだろうか。

    0
    2021年01月24日

    Posted by ブクログ

    学生のときに勢いで著者の『自己・あいだ・時間』や『分裂病と他者』などの代表作を読んだ。『生命のかたち/かたちの生命』『偶然性の精神病理』『自覚の精神病理』といった本も続けて読んでいるので、何か重要なものがそこにあると感じていたのは間違いない。精神病理を現象学的に捉えたということで、どこか人間心理の深い真実に連れていってくれているような気がしていたのだ。同時に、その思想の根幹について、分かったような分からないような状態で読んでいたのもまた確かだ。という思いをもって、久しぶりに読んだ木村敏の著作は、最近の二本の講演をもとにした比較的短いものであった。

    「心的経験には単なる脳のソフト機能以上の、つまり脳というハード機構にはどうしても還元できない、なんらかの特別なありかたが備わっているからに違いありません」という著者の主張に対しては、それは自明なことではないと今は考える。ネーゲルの「コウモリであるとはどのようなことか」を持ち出し、その主張にある程度寄り添いながら、心身相関の問題を単なる主観性の問題ではなく著者が主によって立つ概念である「間主観性」の問題であるとする。そして、主体を環境世界との「境界」こそが、主体それ自体であると主張するのである。

    ということで、、、やはりわからんなというのが、最新の感想でもあるのだな。

    0
    2016年03月07日

    Posted by ブクログ

    8割くらい分からない。しかし,この分からない感じが面白い。第2講は第1講に比べれば理解しやすいと思った。個人と集団,主観/主体,共同的な主体性,今取り組んでいる現象と密接に関連することなので,定期的に読み直してみる。理解の深さの変遷や発想の展開が楽しみだ。

    0
    2025年01月14日

    Posted by ブクログ



    #講談社学術文庫
    #木村敏 「からだ・こころ・生命 」

    ヴァイツゼッカー 「 ゲシュタルトクライス 」の主体概念から生命論に展開した講義録

    とても難解。相即を含めた主体概念と アクチュアルな「生と死」が つながるまで時間がかかった


    著者が論じる主体概念に基づく生命論は〜生きものは 世界との関係 や 境界を生き、関係や境界は いつも「相手」をもち、死ぬということは 関係や境界が消滅する、といっているのだと思う


    著者が最後に伝えたのは「医学に主体概念を導入し、医者が患者と二人称的な関係に立つことにより、生きている現実として生命を捉えた 人間学的な医学が実践される」というもの


    相即とは
    生きものが、その生存を保持するために知覚と運動の両面を動員して、環境世界とのあいだで保っている接触のこと

    主体とは
    生きものと環境世界との接触現象そのものであり、有機体と環境との「あいだ」の現象のこと〜主体は 環境世界との相即が保たれているかぎり主体として存続することができる

    主体概念により、生きものは物理的環境に身を置く「からだ」であると同時に、環境との境界で営まれる相即活動を通じて「こころ」としてはたらくことを実現する

    二重の主体性
    人間は、一方では生物の一種として集団的主体性を生きる存在であり〜他方では「各自性」をもった 個的存在でもある〜各自性とは「私はいつも ほかならぬ私である」ということ

    「生命そのものは決して死なない。死ぬのは個々の生きものだけである」

    生命そのものを 実在(リアリティ)でなく、生きているという現実(アクチュアリティ)として捉える

    生きものが生きているとは、環境世界から独立していながら、環境世界との接触を失わないということ

    あらゆる生きものはその周囲の環境と接触し、他の個体と接触することによって生命を保っている。生きものの存在の意味は、生き続けること、生命を保つこと以外ありえない

    個体生命が「もの」でなく「生きているもの」である限りにおいて、環境との境界を生きる存在である


    だれかが死ぬという出来事は〜二人称的な関わりにあった人にとっては、アクチュアルで主体的な出来事として体験される〜死の連帯性

    二人称的な関わり
    「わたし」と「あなた」が一つの親密なまとまりをつくっている「われわれ」の場面









    0
    2024年11月23日

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    本書は1996年の秋に開催された『生命論』シンポジウムでの木村氏の発表原稿をまとめたもので、120ページ弱の小品だが、内容は興味深い。

    「私とは何か」という大ネタに関する卓抜なアイデアが随所にみられる。

    たとえば
    ≪わたしたちが生きていくためのさまざまなソフト機能が、身体というハード機能のおかげで営まれていることは、至極当然のことであって、そこからは何も難しい哲学的な問題など出てきません。
    ところが、「肺呼吸相関」や「胃消化相関」が原理上格別に困難な問題を引き起こさないのと違って、身心相関(脳ーこころ)の方は古代ギリシア以来、西洋哲学を一貫して流れている最も解決困難な問題のひとつになっているのです。≫p16~17

    確かに、呼吸機能は肺に消化機能は胃腸にそれぞれ還元して診断しやすいが、こころの機能を脳に還元して診断するのは難しい。
    精神科医は脳内化学物質や脳の血流量などによってある程度こころの具合を評価することはできるが、肺機能や消化機能のように「これが原因です」と言って納得できる患者は少ないだろう。

    定量的な検査結果から「セロトニン量が少ないのがこころの不調の原因です」と言われても、「いや、それは結果じゃないですか」とふつうは反応する。
    「胃酸が出すぎてるから胃が痛いんですね」と言われたときとは納得の程度が違う。

    なぜ、こころは胃や肺のように客観的な指標の威力を受けにくいのだろう。

    木村はこう答える。

    《物理主義的還元とは客観性増大の方向への移行、言い換えれば個人に、あるいは人間という種に固有の主観的視点への依存度の減少を意味します。ところが心的経験の本質がほかならぬこの主観的視点への依存にあるのだとすると、心的経験に関する限り、このような還元はわたしたちの理解を現象の本質から遠ざけてしまうことになります。≫p18

    こころの観察に客観的な指標が使えないとすると、個人の認識を制御する統一原理として何が使えるのだろうか?

    木村は「主観」と「主体」の違いに着目する。

    ≪日本語の「主観」と「主体」はそれぞれまったく違った意味に理解されてますが、どちらの場合も認識や行為を行う個人の側の統一原理として用いられることには変わりがありません。≫p23

    さらにこの個人に内在する主観/主体を複数の主観/主体たちが共通の志向対象を共有する「間主観性」という概念に組み入れることで、客観性の光の中に引きずり出す。

    ≪わたしたちがそれぞれ個性をもった個人でありながら、認識の面でも行動の面でも他人と共通の基盤に立ちうるのは、めいめいの主観/主体をひとつにまとめて客観性を保証する「間主観性」のおかげだ、というわけです。≫p24

    「間主観性」は一定の訓練を受ければ誰でも同じ認識で参加できる間主観性を「公共的」、当人にだけしか感じられない共生的な関係にある人たちに分有される認識を「私的」と2種類に分けることができる。

    「私的間主観性」の具体的な例を以下に挙げる。
    ①子供のけがを目にした母親が激しい痛みを感じる
    ②本物の人間とマネキンの違いが遠目からもわかる
    ③長年連れ合った夫婦が申し合わせたような行動をしめす

    この「私的間主観性」は生物一般が備えている同種選別の原理であり、対象の客観的知覚に伴ってつねに「暗黙のうち」に感じ取られる「経験以前の経験」の感覚といえる。

    ヴァイツゼカー哲学のキー概念である「相即」は「私的間主観性」を別角度から解釈したもので、生き物がその生存を保持するために、知覚と運動の両面を動員して環境世界との間で保っている接触を指す。

    ≪すべての有機体は、環境世界との接触を保ってそこに相即を成立させているかぎり、その接触箇所において主体として生きているのです。≫p36

    それでは、相即が成立する接触箇所とはどこにあるのだろうか?

    ≪生物が身体として存在しているというそのことが、身体全体のレベルでも器官のレベルでも細胞のレベルでも、そのまま生物と環界との境界を形成しているのです。それだけではありません。生物にとって環界といえるのは外部世界だけではないのです。有機体の内部状況も、いわゆる「内部環境」の形で相即の対象になります。生物が外界から栄養を取り入れるのは、餌が眼に見えたからというよりもむしろ、空腹が感じられるからなのです≫p41

    ここでは主体は自身を成立させるために環界に出立しなければならないが、同時にこの境界そのものが主体それ自身だという奇妙な論理が垣間見える。

    それでは、この論理では「わたしはほかならぬわたしである」という人間特有の自己意識はどこに位置づけられるのか?

    ≪人間の心的経験の主要な部分をなしているのは、対象を意識の上で思い浮かべる表象作用です。表象作用は、英語ではrepresentationといいますが、これは「再び現前させる」という意味です。つまり表象作用とは、現在目の前に知覚されていない、非現前の対象をふたたび現前させる作用なのです。この表象的再現前によって過去と未来が現在の中に取り入れられ、それによって時間が一本の連続した流れとなり、そこではじめて「歴史」ということが成立するわけです。人間の自己意識は、自分の存在がそのつど一回きりのもので厳密な意味での繰り返しは不可能だいう「一回性」、自分は全宇宙にただ一人しかいないという「唯一性」、自分の存在は他人と取り換えることができないという「交換不可能性」などの特徴を伴っていますが、それはこの自己意識が、他人と絶対に共有不可能な歴史によって裏付けられているからです。≫p47

    人間特有の自己意識と環界との境界面での主体的なアクション「相即」の関係はどうなっているのか?

    ≪人間という特殊な生物の社会生活では、自己が「わたし」であるという歴史的個別性についての意識が圧倒的な重要性を持っていて、一般の生物種たちと共有している二重主体性、つまり個別主体と集団主体との複合は、この特殊人間的な対他的自己意識のもとに完全に埋没しています。≫p49
    ≪わたしたちの「からだ」そのものが、物質的・機械的な物体としての身体と、わたしたちが環境との間で営む相即的・適応的な行動との境界として、わたしたちの「こころ」なのです。≫p50

    第一部のまとめ。
    (過去~未来を生きる)歴史的個別性にくりぬかれたわたしの自己意識は対象を存在者(リアル=もの)として認識するが、環界との相即でその都度立ち上がるわたしは対象(わたし)を存在(アクチュアリティ=こと)としてとらえる。

    存在の二つの形態とその操作
    ①リアリティ、存在者、歴史的個別性、歴史的・通時的次元、個体の死、意識の中や周囲に存在するもの、意識の対象、ノエマ、(操作可能性大)

    ②アクチュアリティ、存在、環界との相即、空間的・共時的次元、不死の生命、実践的なこと、行為的直観、意識する働きの意識、意識作用の面、ノエシス、(操作可能性小)

    ③表象によるリアリティの創発は②→①へと操作する手段、常に動く動画から静止画の切り抜き、ゼノンのパラドクス、トラウマの威力

    ④訓練によるアクチュアリティの創発は②(未完)→②(完成)へと操作する手段、動画から動画の再構成、大喜利、

    ⑤ ①と②が交わる場所、存在論的差異、Aはそれ自体Aと非Aの差異、もしくは関係、音の連なりとしての音楽、

    医療はそもそも目的論的、価値観を前提にするので、②を捕まえることができない。

    ≪境界には、内部と外部の対立がないのと同様に閉鎖と開放の対立もないはずです。生き物は絶えずそれ自身を環境との境界として生み出し続けている、これが「オートポイエシス」と呼ばれる事態の本来の意味なのでしょう。≫p70

    とはいえ、「ほかならぬこのわたし」が常に環境との境界に溶け込んでいるわけではない。わたしはリアリティ(表象)とアクチュアリティ(行為的直観)の両方の境界をまたぎ、行き来する。

    ≪環境との境界を具現しているそれぞれの個体は、各自の個別的な志向性の担い手であると同時に、集団全体の志向性の担い手(論理空間の担い手)でもあるという意味で、いわば二重の身分を持つことになります。集団全体の主体性と各個体の主体性が、各個体において二重構造を構成していると言ってもよいでしょう。≫p75

    個別的な志向性の担い手としてわたしは自他の区別とともに「もの」を操作し(それと同時に死を抱え込む)、集団全体の志向性の担い手としてわたしは「こと」を実践し、境界に溶け込む。

    0
    2026年02月23日

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