木村敏のレビュー一覧
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ネタバレ非常に面白かったし、こんなに豊かなものを人は書けるのだなということに感動して、充実した読書時間になった。
ペンを持っていることは、ペンなしでそのことを感じることができないというように、「もの」なしで「こと」は成立し得ないということを前提として、精神病者の時間がどのように成り立っているのかを論じている。それは健常者とは別のもののよううに私たちは考えるのだが(もちろん実際そうとも言えるのだが)、精神病者/健常者として最初から区別できるような絶対的な特徴はない。誰にでも時間の変容が起こりうるし、身近にある問題である。その意味で、この本は誰に対しても開かれているものであるし、また時間や自分自身について -
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時間を見るときは、時間そのものではなく、いつまでに何分たったまでの、時間のあり方を見ている。
すべてのものは何らかのこと的なあり方をしている。
存在者の存在と、あるということそれ自体には根本的な違いがある。
自己の自己性とは、自己自身による自己認知なのである。
主語的自己と、述語的な私。
鬱→メランコリー型→真面目な人に多い。
→インクルデンツ(秩序の中に自分を閉じ込める)、レマネンツ(負い目を負う)
→所有の喪失
役割同一制
癲癇→アウラ体験:主観的で絶頂的な発作。現在が永遠に思える。
→現在が永続的かつ、それだけで満たされている状態。
アフリカ→時間の感覚:ササとザマ二のみ
ササ→生 -
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木村敏さんの初期論文集で、古いもので1965年から、70年代にかけての論文が収められている。
第3章の一つめ、「精神分裂病症状の背後にあるもの」が一番古いが、これはさすがに、あまりにも西田幾多郎の影響が顕著すぎて露骨だが、後年の論文と読み合わせると、著者の思考がどんどん固有のものに結晶化してゆくのがわかる。
はじめ躁鬱病患者を診せられたが、離人症の研究で開眼、待ち望んでいた分裂病(統合失調症)の研究へと歩を進める。
精神病理学においても、現象学的アプローチはすでに古くさく見えていることだろう。時代はなんでもかんでも器質的な説明の方を要求しているから。
しかし統合失調症の分析をとおして、人間の本 -
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「もの」としての時間と、「こと」としての時間。
われわれは「もの」として意識することでしか、すなわち「もの」化することでしか、「こと」を意識できないのであって、それは時間についても同じである。
カレンダーや時計などの計量される時間が、まさにその代表。
しかし、「もの」としてしか意識できないとしても、「こと」としてある「いま」。
この「いま」について、木村敏は次のようにいっている。
「いまは、未来と過去、いまからといままでとをそれ自身から分泌するような、未来と過去とのあいだなのである」(傍点略)
われわれが未来あるいは過去についてなにかしらを語るとき、われわれはあたかも未来または過去なる -
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以下の文章が印象に残った。
フロイトの精神分析が神経症理論から出発したものであることについては、いまさら書くまでもないことだろう。神経症と精神病、特に精神分裂病との違いは、世間一般では軽症と重症の違いとして理解されることが多いようだが、精神医学の専門的な立場からいうとそれほど単純なものではない。むしろこの二つを区別する最大の特徴は、その病態が神経症の場合には患者自身の自己の内部に限定されるのに対して、分裂病の場合には患者をめぐる対人関係を巻きこみ、自己世界と他者世界との関係の障害として表面化してくるという点だといってよいだろう。
神経症=心理療法家(河合隼雄)のテリトリー
精神病=精神科医( -
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ちくま学芸文庫 木村敏 「自己・あいだ・時間」
精神科医である著者が「時間」「あいだ」「自己」の概念など 現象学を用いて、躁鬱病と分裂病(統合失調症)の特徴を解明した本。現像学だけで 診断確定していることに驚く
印象に残ったのは、鬱病の「後の祭り」的性格と 分裂病の「先走り」的性格の違い。鬱病と分裂病では時間感覚が全く違う
まえがき「人間が人間であること、自己が自己自身であることは、人間が歴史的存在であり、自己が時間的存在であって、はじめて可能になる」という言葉は この本の命題になっているように思う
「躁鬱病は、人間である限り、だれしもその危険と可能性を有している、一つの人間存在様 -
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「こころの病に挑んだ知の巨人」 (ちくま新書)を読んで木村理論を知りたくなって購入したものの、私には難しかった。
最後のあとがきの言葉が、気になって頭から離れない。どういう意味なのか?
私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか。夢を見ている人が夢の中でときどきわれに返るように、私たちも人生の真只中で、ときとしてふとこの「だれか」に返ることができるのではないか。このような実感を抱いたことのある人は、おそらく私だけではないだろう。
夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときど