木村敏のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ哲学に精通した精神科医が統合失調症の事例を参考に正常と異常の間への線引きを検証した力作。
通常、普通の人は「私/誰か」の線引きを当然のようにできるが、統合失調症の患者はこれができない。
≪「わたしがOさんになってOさんがわたしになって」「一つが二つ、二つが一つ」になって、彼女とOとは完全に一体となる。私はかつてこの種の恋愛妄想の構造を示す図式として、「現実の不可能を非現実の可能に変える」と述べておいたが、この図式はこの症例にもあてはまる。彼女が時々つぶやいていた「ヘンコウ」という言葉は、まさにこのことを示しているかもしれない。この患者に限らず、多くの分裂症患者は「表と裏」「なにもかもさかさ -
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ネタバレ非常に面白かったし、こんなに豊かなものを人は書けるのだなということに感動して、充実した読書時間になった。
ペンを持っていることは、ペンなしでそのことを感じることができないというように、「もの」なしで「こと」は成立し得ないということを前提として、精神病者の時間がどのように成り立っているのかを論じている。それは健常者とは別のもののよううに私たちは考えるのだが(もちろん実際そうとも言えるのだが)、精神病者/健常者として最初から区別できるような絶対的な特徴はない。誰にでも時間の変容が起こりうるし、身近にある問題である。その意味で、この本は誰に対しても開かれているものであるし、また時間や自分自身について -
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時間を見るときは、時間そのものではなく、いつまでに何分たったまでの、時間のあり方を見ている。
すべてのものは何らかのこと的なあり方をしている。
存在者の存在と、あるということそれ自体には根本的な違いがある。
自己の自己性とは、自己自身による自己認知なのである。
主語的自己と、述語的な私。
鬱→メランコリー型→真面目な人に多い。
→インクルデンツ(秩序の中に自分を閉じ込める)、レマネンツ(負い目を負う)
→所有の喪失
役割同一制
癲癇→アウラ体験:主観的で絶頂的な発作。現在が永遠に思える。
→現在が永続的かつ、それだけで満たされている状態。
アフリカ→時間の感覚:ササとザマ二のみ
ササ→生 -
Posted by ブクログ
木村敏さんの初期論文集で、古いもので1965年から、70年代にかけての論文が収められている。
第3章の一つめ、「精神分裂病症状の背後にあるもの」が一番古いが、これはさすがに、あまりにも西田幾多郎の影響が顕著すぎて露骨だが、後年の論文と読み合わせると、著者の思考がどんどん固有のものに結晶化してゆくのがわかる。
はじめ躁鬱病患者を診せられたが、離人症の研究で開眼、待ち望んでいた分裂病(統合失調症)の研究へと歩を進める。
精神病理学においても、現象学的アプローチはすでに古くさく見えていることだろう。時代はなんでもかんでも器質的な説明の方を要求しているから。
しかし統合失調症の分析をとおして、人間の本 -
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「もの」としての時間と、「こと」としての時間。
われわれは「もの」として意識することでしか、すなわち「もの」化することでしか、「こと」を意識できないのであって、それは時間についても同じである。
カレンダーや時計などの計量される時間が、まさにその代表。
しかし、「もの」としてしか意識できないとしても、「こと」としてある「いま」。
この「いま」について、木村敏は次のようにいっている。
「いまは、未来と過去、いまからといままでとをそれ自身から分泌するような、未来と過去とのあいだなのである」(傍点略)
われわれが未来あるいは過去についてなにかしらを語るとき、われわれはあたかも未来または過去なる -
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ネタバレ本書は1996年の秋に開催された『生命論』シンポジウムでの木村氏の発表原稿をまとめたもので、120ページ弱の小品だが、内容は興味深い。
「私とは何か」という大ネタに関する卓抜なアイデアが随所にみられる。
たとえば
≪わたしたちが生きていくためのさまざまなソフト機能が、身体というハード機能のおかげで営まれていることは、至極当然のことであって、そこからは何も難しい哲学的な問題など出てきません。
ところが、「肺呼吸相関」や「胃消化相関」が原理上格別に困難な問題を引き起こさないのと違って、身心相関(脳ーこころ)の方は古代ギリシア以来、西洋哲学を一貫して流れている最も解決困難な問題のひとつになってい