木村敏のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ非常に面白かったし、こんなに豊かなものを人は書けるのだなということに感動して、充実した読書時間になった。
ペンを持っていることは、ペンなしでそのことを感じることができないというように、「もの」なしで「こと」は成立し得ないということを前提として、精神病者の時間がどのように成り立っているのかを論じている。それは健常者とは別のもののよううに私たちは考えるのだが(もちろん実際そうとも言えるのだが)、精神病者/健常者として最初から区別できるような絶対的な特徴はない。誰にでも時間の変容が起こりうるし、身近にある問題である。その意味で、この本は誰に対しても開かれているものであるし、また時間や自分自身について -
Posted by ブクログ
時間を見るときは、時間そのものではなく、いつまでに何分たったまでの、時間のあり方を見ている。
すべてのものは何らかのこと的なあり方をしている。
存在者の存在と、あるということそれ自体には根本的な違いがある。
自己の自己性とは、自己自身による自己認知なのである。
主語的自己と、述語的な私。
鬱→メランコリー型→真面目な人に多い。
→インクルデンツ(秩序の中に自分を閉じ込める)、レマネンツ(負い目を負う)
→所有の喪失
役割同一制
癲癇→アウラ体験:主観的で絶頂的な発作。現在が永遠に思える。
→現在が永続的かつ、それだけで満たされている状態。
アフリカ→時間の感覚:ササとザマ二のみ
ササ→生 -
Posted by ブクログ
「もの」としての時間と、「こと」としての時間。
われわれは「もの」として意識することでしか、すなわち「もの」化することでしか、「こと」を意識できないのであって、それは時間についても同じである。
カレンダーや時計などの計量される時間が、まさにその代表。
しかし、「もの」としてしか意識できないとしても、「こと」としてある「いま」。
この「いま」について、木村敏は次のようにいっている。
「いまは、未来と過去、いまからといままでとをそれ自身から分泌するような、未来と過去とのあいだなのである」(傍点略)
われわれが未来あるいは過去についてなにかしらを語るとき、われわれはあたかも未来または過去なる -
Posted by ブクログ
「こころの病に挑んだ知の巨人」 (ちくま新書)を読んで木村理論を知りたくなって購入したものの、私には難しかった。
最後のあとがきの言葉が、気になって頭から離れない。どういう意味なのか?
私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか。夢を見ている人が夢の中でときどきわれに返るように、私たちも人生の真只中で、ときとしてふとこの「だれか」に返ることができるのではないか。このような実感を抱いたことのある人は、おそらく私だけではないだろう。
夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときど