木村敏のレビュー一覧
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以下の文章が印象に残った。
フロイトの精神分析が神経症理論から出発したものであることについては、いまさら書くまでもないことだろう。神経症と精神病、特に精神分裂病との違いは、世間一般では軽症と重症の違いとして理解されることが多いようだが、精神医学の専門的な立場からいうとそれほど単純なものではない。むしろこの二つを区別する最大の特徴は、その病態が神経症の場合には患者自身の自己の内部に限定されるのに対して、分裂病の場合には患者をめぐる対人関係を巻きこみ、自己世界と他者世界との関係の障害として表面化してくるという点だといってよいだろう。
神経症=心理療法家(河合隼雄)のテリトリー
精神病=精神科医( -
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ちくま学芸文庫 木村敏 「自己・あいだ・時間」
精神科医である著者が「時間」「あいだ」「自己」の概念など 現象学を用いて、躁鬱病と分裂病(統合失調症)の特徴を解明した本。現像学だけで 診断確定していることに驚く
印象に残ったのは、鬱病の「後の祭り」的性格と 分裂病の「先走り」的性格の違い。鬱病と分裂病では時間感覚が全く違う
まえがき「人間が人間であること、自己が自己自身であることは、人間が歴史的存在であり、自己が時間的存在であって、はじめて可能になる」という言葉は この本の命題になっているように思う
「躁鬱病は、人間である限り、だれしもその危険と可能性を有している、一つの人間存在様 -
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「こころの病に挑んだ知の巨人」 (ちくま新書)を読んで木村理論を知りたくなって購入したものの、私には難しかった。
最後のあとがきの言葉が、気になって頭から離れない。どういう意味なのか?
私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか。夢を見ている人が夢の中でときどきわれに返るように、私たちも人生の真只中で、ときとしてふとこの「だれか」に返ることができるのではないか。このような実感を抱いたことのある人は、おそらく私だけではないだろう。
夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときど -
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あとがきにある「人生をひとつの夢として夢見ているような、もうひとつ高次の現実が私たちのすぐ傍らに存在しているらしいということだけは、真理に対して謙虚であるためにも、是非とも知っておかなくてはならないように思う」という言葉、なぜか『鋼の錬金術師』を思い出させる。
また、「夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときどきに、私たちはこの『だれか』をいつも以上に身近に感じとっているはずである。(…)「時と時とのあいだ」のすきま(…)に見えてくる一つの顔(…)の持主が夢を見はじめたときに、私はこの世に生まれてき(…)、その「だれか」が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。この夢の主 -
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「自己とは何か」を追求する著者が行った二つの講演をまとめたもの。
・第一講演「身心相関と間主観性」
「主観/主体」を手がかりに、身心二元論を乗り越えようと試みている。
・第二講演「人間学的医学における生と死」
第一講演の生命論を「生と死」という主題にまで発展させ、それを基盤に現代医学のあり方を問い直している。
各講演とも40頁程度で、かつ5,6の節に分けられているので、初学者であっても読み進め理解することが可能。
ただ、なんとなくわかったような気にはなるが、完璧な理解には程遠い。心の経験をより積んでいけばもっと身を持って理解できるようになるのだろうか。 -
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学生のときに勢いで著者の『自己・あいだ・時間』や『分裂病と他者』などの代表作を読んだ。『生命のかたち/かたちの生命』『偶然性の精神病理』『自覚の精神病理』といった本も続けて読んでいるので、何か重要なものがそこにあると感じていたのは間違いない。精神病理を現象学的に捉えたということで、どこか人間心理の深い真実に連れていってくれているような気がしていたのだ。同時に、その思想の根幹について、分かったような分からないような状態で読んでいたのもまた確かだ。という思いをもって、久しぶりに読んだ木村敏の著作は、最近の二本の講演をもとにした比較的短いものであった。
「心的経験には単なる脳のソフト機能以上の、つ -
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上から見下ろした知識がいっぱい詰まっている
その割に面白く読み始められたのは
知識をつなぎ合わせているところに少しだけスリルがあるからだろう
しかしそのスリルもじきに飽きてくる
なぜなら継ぎ接ぎだらけで、全体を包んでいるしなやかな心がないからだろう
「もの」と「こと」を語りながら、話は掻き集めた知識ばかりの「もの」的でしかなく、底が浅い。
下野に降りて語れる勇気と力さえ持っていれば
くたびれずに読めるだろうにと、残念に思う
ともあれ西洋的学問から抜け出せていない古臭さがある
にもかかわらずどことなく一歩踏み出しているような
おもしろさも感じられた
あとがきに至ってこれ -
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ネタバレ[ 内容 ]
時間という現象と、私が私自身であるということとは、厳密に一致する。
自己や時間を「もの」ではなく「こと」として捉え、西洋的独我論を一気に超えた著者は、時間と個我の同時的誕生を跡づけ、さらに精神病理学的思索を通じて、ふつうは健全な均衡のもとに蔽われている時間の根源的諸様態を、狂気の中に見てとる。
前夜祭的時間、あとの祭的時間、そして永遠の今に生きる祝祭的時間――「生の源泉としての大いなる死」がここに現前する。
[ 目次 ]
第一部 こととしての時間(1 ものへの問いからことへの問いへ 2 あいだとしての時間)
第二部 時間と精神病理(1 分裂病者の時間 2 鬱病者の時間 3 祝祭 -
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木村は、精神科医であり、思想家でもある人で、その豊かな臨床経験と、哲学の概念をうまく調合して、独自の生命観を記述している。
この本は木村は、生命一般の根拠というものを記述している。以下は、自分の簡単なまとめ。
コモンセンスは日本語では「常識」って訳すけど、これだと成文化が可能な何らかの知識だと思ってしまう。例えば事務マニュアルに載ってる諸規則は、これに該当する。なら、事務マニュアルを全て暗記することによって、初めてその仕事のコモンセンスを習得することができ、仕事が円滑に進むのかと言うと、そうでもない。第一、そんなこと不可能。一方、コモンセンスを直訳するとい「共通感覚」。哲学者ヴィーゴはコモ