長編小説を読み始める直前の、あの期待のこもった緊張感が好きだ。これから数か月、この本が描く世界とともに生活していくのだと思うと、まるで長い旅に出る前夜の眠れない気の高ぶりに似たわくわく感が胸を満たす。
登場人物の来歴、信条、性格、容姿などが細かく描写されている作品はすべからく名作である——これが私の持論だが、本作はその条件を完璧に満たしていた。そして『風と共に去りぬ』第1巻を読み終えた今、やはりそれは間違っていなかったと確信した。
主人公のスカーレット・ハラは、笑ってしまうほどわがままで高慢ちきだ。最初は「大丈夫か、この子は」と呆れながら読んでいたのだが、物語が進むにつれてその印象は一変する。
彼女のわがままさは、決してブレることのない一本の太い芯に基づいている。だからこそ、次第に強烈な魅力として映り始める。特に第1巻の終盤、未亡人となった彼女が世間の冷たい目を跳ね返し、バトラー船長からのダンスの誘いを引き受けるシーンの爽快感たるや。「あっぱれ」と膝を打ちたくなる名場面であった。
本作を通して当時のアメリカの情勢を知るのも面白い。「ヤンキー」という言葉が、アメリカ人全体ではなく「北部人」を指す言葉だったとは恥ずかしながら知らなかった。
一方で、疑問に思う点もあった。「自由の国」というイメージに反して、当時の南部社会には息が詰まるほどの強固なジェンダーステレオタイプが存在していたことだ。女性は自然体など論外で、か弱く、男性に守られるべき「淑女」であることが絶対に求められた。
歴史の浅い新興国であり、既存の社会規範に不服な人々が移り住んでできたはずのアメリカ(南部)で、なぜこれほど人間を縛るステレオタイプが形成されたのか。
これは、南部独特の事情によるものではないか。広大な綿花農園と奴隷制の上に成り立つ南部白人社会は、ヨーロッパの「貴族社会や騎士道精神」への強烈な憧れを抱いていたのではないか。自分たちの社会規範の正当性を示し、奴隷制という階層秩序を維持するためには、「強い男性と守られる女性」という明確な役割分担が必要不可欠だったのだろうと思われる。あくまで自分の想像なので、このことについて調べてみたい。
スカーレットが壊していく南部の「淑女規範」だが、その完成形として描かれるのがメラニー・ハミルトンである。
最初は大人しく、弱弱しい印象を受けるメラニーだが、彼女はスカーレットとは全く異なるベクトルで芯の強い女性であった。それが最もよく表れているのが、戦争のために自身の「結婚指輪」を寄付するシーンだ。
スカーレットが愛してもいない亡夫の指輪を「鬱陶しいから」と処分したのに対し、メラニーは最愛の夫アシュリとの大切な絆である指輪を、迷うことなく即座に差し出した。他者への無償の愛と絶対的な信頼。そこから生まれる彼女の自己犠牲と決断力は、ときに刃物のような強さを発揮する。
人間の偽善を見破る天才であるバトラー船長(レット)が、古い南部の気取りを嫌いながらもメラニーにだけは最初から深い敬意を払っていたのは、彼がメラニーの行動に一切の「嘘」がないことを見抜いていたからだろう。
エゴイズムと野性的な生命力で突き進むスカーレット。 無私の精神と高潔な信念で周りを包み込むメラニー。真逆の強さを持ったこの2人が、これから南北戦争という巨大な時代の渦の中でどう生き抜いていくのか。第2巻を読むのが楽しみだ。