学校教育が何をしているのか、学校教育ができることは何なのかを明らかにしている。経験では学びきれない知を扱っていることを、現代の学校教育は忘れている。
日本の子どもに対する教育はほとんど家庭と学校によって行われている。特に、学校は(現状)唯一の教育機関であるから、最大かつ際限なく教育活動を拡張させてきた。一部の教師による「すごい授業」「すごい指導」は再現できないものが蓄積されてきた。
「私は『教育(education)』を定義するとき、『教育とは、誰かが意図的に、他者の学習を組織化しようとすることである』という定義を与えています。」(p18)
「もう一つ、他者という点で重要なのは、教育する側にいる自分が望ましいとか必要だとか思うものを、他者、つまり被教育者がそのように取ってくれるとは限らないということです。」(p22)
「教育の定義の三つ目のポイントは、被教育者の学習を『組織化しようとする』です。もって回った言い方になっていますが、『しようとする』なのです。だから、失敗するかもしれません。でも成功するか失敗するかにかかわらず、それは教育だと考えます。」(p24)
「教育の難しさのポイントの一つは、教育をしても学習が発生しないことがあるし、逆に、教育なしでも学習は発生するということです。」(p26)
「学校教育の影響力は限定的だということです。」(p32)
「第一に、学級という他から切り離された空間に、子どもたちを囲い込むことで、他の社会化エージェントの影響を遮断します。……第二に、教師—生徒という上下関係のある役割構造によって、それぞれのふるまい方を決めてしまいます。……第三に、学級という制度は、時間と場所とメンバーを固定して、継続的に教育的な相互行為が可能になるように作動します。……第四に、教師と他の生徒とのコミュニケーションは、自分に何が欠けていて、何を学ばなければいけないのかを生徒に確認させます。……第五に、成績評価(記録でもあり選別でもある)を通じて、長期的な参加を個々の生徒に動機づけます。……最後に、建物や教師の確保、カリキュラムなどの『補助的装置』が、持続的な教育作用を支えています。」(p35-36)
「もう一つの補足は、そういう制度的仕掛けに対して、違和感や嫌悪感を抱いたり、つらさを感じたりする、一部の子どもがいるということです。」(p37)
「教師たちはしばしば、学校教育の限定的な影響力をもっと高めようとさまざまな手を打っていきます。……一つには、学校でのあらゆる活動を『教育化』しようとしたり、その結果、過度な統制が生じたりする、ということです。……学校の外の、他の社会化エージェントを抑圧したり取り締まったりして、子どもの身の回りの環境を『教育的』なもので満たしてしまいたいという衝動を、しばしば大人は持っています。」(p38-40)
「目的は、意図して『こういうことをやろう』『やるべきだ』ということです。昨日とは、何かの作用が生じる、生じているということです。」(p52)
「それはともかく、この条文で私が注目したいのは、『平和で民主的な国家及び社会の形成者』という部分です。……いわば、『一人ひとりが未来の新しい社会を作り出していく主人公のような存在になること』が目指されているのです。」(p55)
「教師は『教育の目的』を見失わないようにしながら、教えていることの意義や面白さを、自分では明確に意識しながら教えるべきだと思うのです。……もう一つには、『勉強の仕方をいろいろ工夫させる、考えさせる』ということを、学習指導の際のポイントの一つとして、もっと重視していけばいいと思うのです。」(p75)
「学校で教えられる知は、子どもの日常生活を超えた知だからこそ重要だということです。ただし、そうであるがゆえに、その内容は子どもにとってなじみにくいものだ、ということも説明します。」(p87)
(以前は親のもとで育ち、親と同じ仕事をして生きればよかったが、)「社会が発展して複雑になり、子どもたちが親とは異なる生き方をするようになっていくと、『提示』だけでは不十分になっていきます。……『この結果、おとなが自らの生活を生きて見せる『提示』とは別に、社会的・歴史的文化のうち、経験によっては子どもが到達し難い部分を何らかの仕方で彼らに知らせてやるという課題が生じる。』……学校は、この世界がどうなっているかということを、言葉や記号を使って子どもたちにk学ばせる役割を果たすというのです。」(p88-89)
「日常の生活世界での経験では学べないものが、『カリキュラム化された知』として学校で学べます。……重要なのは、それによって、子どもたちはより広い世界に出ていくことが可能になるということです。」(p96)
「いずれにせよ、多くの子どもたちに『勉強がつまらない』というふうに映るのは、学校の知の本質です。つまらないと思った人は多いと思いますが、学校はそういうものです。身近な日常経験とは切り離されたものを教わっているので仕方がありません。」(p100)
「経験は狭いし、経験し続けることでこの世の中のいろいろなことを学べるほど人生は長くない、ということです。」(p101)
(道徳について)「一つは、『あなたはどう生きるか』という、個人的な生き方やふるまいに関する主題ばかりが大半を占めていて、その結果、社会や世界で起きている複雑な出来事についてきちんとした善悪を判断できるようになる、という視点が十分でないと思うのです。」(p130)
(バウマンの説について)「道徳が問題になるときの焦点は精神的な『距離』だというのです。精神的な距離が遠くなると道徳的無関心が生じる。」(p138)
「『人類が作り上げてきたよりすぐれた知的財産』をすべての子どもにできる限り多く学ばせるというのが、学校教育として望ましいことになります。」(p163)
(個別最適化の学びについて)「一つには、みんなで一緒に共同で学ぶことそれ自体の意義が失われかねないということです。学習の孤立化です。……どの子も自分の学力に見合った学習ができるということが語られますが、家庭環境の差の影響を増幅させることになります。」(p172)
「もちろん、先生の中には、上手に工夫した教え方で、この世界の真理や真実に目を開かせてくれて、驚きや感動に満ちた授業をしてくれる先生もいるかもしれません。でも、カリキュラムはギッチギチだし、先生は忙しいし、何よりも教師からの思いが生徒に伝わるとは限らないから、全国の学校のすべての授業が驚きと感動にあふれることは、とても期待できません。」(p213)
「学校が提供するのは、せいぜい『仮のアイデンティティ』です。『勉強がよくできてほめられる私』とか、『志望校入学に向けて頑張っている私』といったアイデンティティは当面の学校生活を充実したものにしれくれます。……しかし、これらはいずれも、学校を卒業した後まで続いていくものではありません。」(p217)
「学校は『世界を集約した知』だというお話をしましたが(第3章)、その知は網羅的で、しかも概括的なものにすぎないから、そのまま何か特定のものについての関心や問題意識を与えてくれるわけではありません。」(p219)