あらすじ
陸軍将校もまた、生身の人間だった。日本における天皇制と教育との関わりとはどのようなものであったのか。満州事変から太平洋戦争へと至る、戦時体制の積極的な担い手はいかなる存在であったのか。旧軍関係者への聞き取りを行うとともに、旧軍文書や文学評論、生徒の日記など膨大な史料を渉猟し、その社会化のプロセスをつぶさに浮かび上がらせる。下巻には、「第2部 陸士・陸幼の教育」第3章から「結論 陸軍将校と天皇制」までを収録する。教育社会史という研究領域の新生面を切り拓いた傑作。
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Posted by ブクログ
天皇への崇敬は、教育と自己啓発とにより内面化されたが、エリート意識、陸士が皇室に近いことが内面化を促しているし、立身出世や親への孝の方がより位置づけが高いのが一般的であったし、陸士においてそれが否定されることはなかった。
日清戦争から陸士の大量養成が始まると、昭和期には将官へ出世できる割合が2割から1割に半減し、連隊長は中大佐であったものを大佐とし、連隊付き佐尉官などなかったのを新たに設け、少尉の仕事を大尉が、大佐の仕事を少将がやり、更に大量の少佐の馘首をという状況になった。(霞が関の状況に鑑み、実に身につまされるところ)
少尉から奏任官で俸給も帝大卒と比しても低いとまでは言えなかったが、俸給が引き上げられた1920年の大尉でも年俸1600円から2,100円であり軍装品や交際費などを考慮すると生活は厳しく、民間の社員や東京市の幹部よりも低く、中の下程度であった。また、大尉の定年は48歳、少佐50歳、中佐53歳、大佐・少将55歳と定年も早く天下り先も限られていた。
陸士・陸幼における天皇制イデオロギー教育は、教化の段階で自発性・自立性による内面化を求めたが、立身出世の肯定や機械的・形式的教育になっている例もみられた。また、将校生徒の内面化の過程を支えたのは、エリート意識や主体的契機であった。さらに、立身出世や孝行は原動力であり、天皇制イデオロギーと予定調和であって、「滅私奉公」ではなく「活私奉公」であった。