【感想・ネタバレ】世界哲学史4 ──中世II 個人の覚醒のレビュー

あらすじ

13世紀、ヨーロッパは都市の発達、商業の成長、教育と大学の充実など様々な面で大きな発展を遂げ、世界史の舞台の中心へと歩を進めた。一方でモンゴル帝国がユーラシア大陸を横断的に征服したことで、世界は一体化へと向かっていった。その中で、世界哲学はいかに展開したのか。ユーラシア大陸の両端に現れた鎌倉仏教と托鉢修道会の運動など、超越的なものへの受動的な服従に還元できない個人の覚醒のありようを、同時代の諸文化の影響関係を視野に入れながら考察していく。

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中世Ⅱ 個人の覚醒

本書は、12,13世紀の中世に光を当てる

「12世紀ルネサンス」という言葉があるこの時代は英雄譚や騎士道精神が誕生し、ヨーロッパのアイデンティティがしていく時代。
都市の発展、商業の成長、教育と大学の発達なヨーロッパは様々な面から大規模な発展を遂げていく。
自らが聖書をよみ、人々が個人に目覚めていく時代、哲学は、個人の救済という問題に向き合うようになっていく。

気になったことは次です。

・16世紀のルターらの宗教改革は、実は第2ステップであった。その原点は、15世紀にチェコがおきたフスの宗教改革だ。個人が聖書に向き合うための準備をしたのがこの時代だった。

・トマス・アクィナスの神学大全など、宗教が哲学を取り入れ、キリスト教信仰と理性が融和する壮大な体系が生み出されていく

・修道会の勉学への重視は、やがて、パリ大学の神学教授を占めるようになっていく。それが、修道会と、それに所属しない聖職者の間で論争になっていく。

・中世ヨーロッパの哲学の中心は、スコラ哲学であって、アリストテレスの関係で語られる。彼の著作を原点に哲学が発展していくことで、アリストテレスは、中世哲学者の教師であった。

・トマス哲学の争点は、存在と本質との区別である。

・ユダヤ教のトマス・アクィナスである、マイモニデスは、ユダヤ教と哲学を融合し、大全を著作した。そして「迷えるものの導き」で、宗教と哲学とのあるべき境界線を引いていく。その境界の中であれば、哲学として議論ができるという限界なのである。

・イスラーム世界へも、アリストテレスが伝播していく。ギリシア語からアラビア語へと翻訳された彼の書が、アヴィセンナという大哲学者のもとで、宗教と哲学の融和が起こっていくのである。

・すなわち、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という3大一神教が、アリストテレスの哲学で体系化し、宗教と哲学が融合していく。これが12世紀のルネサンスである。また、それぞれの宗教で注釈書によって、その境界点がさだめられているのも、興味ぶかい。

本書半ばにて、再び、中世哲学への振り返りがはいる。西洋中世哲学は、理性と信仰とをごった煮した思想である、厳密には哲学とはとても言えないのだと。

・普遍論争の中で、実在論と、唯名論が西洋中世哲学から分離していく。「この世界に実在する個物のうちに、普遍が実在的に内在する」というテーゼをとる実在論に対して、「この世界に実在するものは、徹底的に個物でしかない」という立場を唯名論はとる。

・個人という意識の台頭により、哲学の世界にも、社会共同体論なる概念が生まれ、階層的な秩序構造や、共同体内の人間同士の関わり合いについても思考が及んでいく。

・東アジアでの動きについては、中国の朱子学と、日本の鎌倉仏教がのべられている。

・中国儒教にとって、科挙の再開と仏教との出会いが新しい転機である朱子学を生んだ。それは誰もが学問を修めることによって聖人に至ることができるというものだ。朱子学を「理学」とよび、
朱子学を批判する、陽明学を「心学」という。

・良知を致す 性善説で心の働きに重きを置く、陽明学は、格物窮地たる知の追求を行う、朱子学を鋭く批判する。しかして、本書は、近代以降の学問研究において、学を窮めるということに
ついては、朱子学の「窮理」が受け継がれているのではないかとの示唆をおこなっている。

・日本では、平安時代から続く、顕密仏教から離れて、「顕密、浄土、禅」というキーワードで、仏教界に巨人が多数現れる。

・法然、聖道門と、浄土門の2つの教えから、末法の時代にあったものは、浄土門であり、方法も、正しい行、正行と、雑多な行、雑行があり、正行は、南無阿弥陀仏と、称名をとなえることと主張した。

・弟子親鸞は、阿弥陀本願の第18願である、全ての衆生は本願が成就しているのですでに阿弥陀仏に救われているとの立場に立つ。法然のそれを、念仏為本というのに対し、信心為本という

・達磨を祖とする禅宗も興隆した。栄西は、興禅護国論を著し、天台と密教の混然一体になった仏法をといた。

・禅宗は、五山と林下に分かれたが、幕府の庇護のもと、京都と、鎌倉に寺院をおいた五山が栄えた。

・道元は、正法眼蔵を著し、その中で、自己を忘れることが大事であることを解く。臨済禅として伝わった十牛図の考えとも関連しているのだろうか。

・日本でも、仏教と神道との融和が起こり、仏教側が神祇との関係を模索し、神身離脱や、仏教擁護、神仏隔離などの主張に対して、鎌倉仏教は新しい回答を用意した。神は本来心の外に存在するものであったが、それが心の中に入りこんだという。西洋では、哲学が果たした、融合を、密教が胎蔵した膨大なテキスト群を有する仏教が果たしている。この関係は、明治まで続いていく。

目次は以下の通りです。

はじめに

第1章 都市の発達と個人の覚醒
 1 13世紀と哲学
 2 都市という集住形式
 3 中世における個体と個人

第2章 トマス・アクィナスと托鉢修道会
 1 トマスの思想体系の基本的特徴
 2 托鉢修道会の基本的特徴
 3 パリ大学と托鉢修道会

第3章 西洋中世における存在と本質
 1 歴史の中の中世哲学
 2 存在と本質
 3 本質と形而上学

第4章 アラビア哲学とイスラーム
 1 イスラーム地域への哲学の伝播
 2 アヴィセンナによる哲学統合プロジェクト
 3 宗教と哲学の対立
 4 その後の展開

第5章 トマス情念論による伝統の理論化
 1 基本概念と思想源泉
 2 多様な情念をどう理解するか
 3 情念論の目的と背景

第6章 西洋中世の認識論
 1 「志向性」の問題
 2 光学と志向性
 3 感覚認識
 4 知性認識

第7章 西洋中世哲学の総括としての唯名論
 1 西洋中世哲学と普遍論争
 2 唯名論的な哲学がもつ二つの特徴
 3 唯名論的な哲学の現場 オッカムとビュリダン


第8章 朱子学
 1 中国儒教の再生と「個人の覚醒」
 2 心学としての朱子学
 3 理学としての朱子学
 4 朱子学から考える

第9章 鎌倉時代の仏教
 1 全体図
 2 顕密仏教の営み
 3 新たに登場する諸宗
 4 まとめ

第10章 中世ユダヤ哲学
 1 異邦の思想
 2 マイモニデス 中世ユダヤ哲学の頂点
 3 ユダヤ教文化のなかの哲学へ

あとがき
編・執筆者紹介
年表
人名索引

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2022年10月27日

Posted by ブクログ

第1章 都市の発達と個人の覚醒
第2章 トマス・アクィナスと托鉢修道会
第3章 西洋中世における存在と本質
第4章 アラビア哲学とイスラーム
第5章 トマス情念論による伝統の理論化
第6章 西洋中世の認識論
第7章 西洋中世哲学の総括としての唯名論
第8章 朱子学
第9章 鎌倉時代の仏教
第10章 中世ユダヤ哲学

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2022年05月24日

Posted by ブクログ

第四巻は13世紀を舞台とした思想群が紹介されている。歴史の流れとして12世紀は成長の時代(騎士道精神、大恋愛)、13世紀は西洋中世の最盛である。本書の目的は哲学の流れはそこに呼応しているのか解明するところにある。際して、都市の発達、商業の成長、教育と大学の発達、托鉢修道会の成功などが論じられ、日本においての大思想家の誕生などまで様々なことが論じられている。中でも「存在と本質」、「普遍論争」に関してはとても興味深かった。
そこで簡単にまとめてみようと思う。
存在と本質
存在はesseとexsistentiaの二つがありそれは明確に区別されている。本質は形相としてそれをそれたらしめているものであり、形象においても認識される場合、それらをまとめて本性(naturaという。存在、すなわち「在る」というのは、現実に在る時、すなわち質量によって規定される場合exsistentiaとして使われ、形相によって規定される場合essentiaとして使われる。同じ在るということでも2種類考えられるということである。
トマス、スコトゥスにおける存在と本質の区別はどちらも人間の知性を必要とする点で共通している。トマスにおいてはより形而上的に、スコトゥスにおいては’命題’として論理学的に、それを区別していると私は理解した。
対してオッカムは、「オッカムの剃刀」という信条の元、存在と本質は文法的な機能が異なるのみで同義であると結論している。exsistentiaの世界とessentiaの世界は人間の知性を介在として対応することはないということである。それ故に存在することに先行する本性なるものはない。オッカムは「犬」という普遍は我々の心の中にある概念や言葉として実在していれば十分だと考えたのだ。そしてそれはアウグスティヌスの「記号としての言葉」や「内的言葉」とも繋がる。そこから唯名論の「この世界に実在するものは、徹底的に個物でしかない」というテーゼが提出される。
認識について
認識には「感覚認識」と「知性認識」の二つがある。感覚認識とは身体器官を通じて把握することであり、知性認識とは知性によって音や光の性質を学習、観測し把握することである。この認識の枠組みは、実在論も唯名論も一致する。しかし、この枠組みが外界の事物とどのように関わりあうかという説明は当然異なっている。共通するのは、我々の認識は、感覚であれ知性であれ、その出発点となっているのは、広い意味で「心の中」の働きであるということである。そしてそれは近世の観念論につながっていくらしい。それは国家であり、社会であり、環境倫理学や政治哲学、個人の尊厳、倫理と繋がっていく。らしい。ここまでが私の理解です。特に印象に残ったのでまとめてみました。間違ってたらすみません。

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2021年09月08日

Posted by ブクログ

世界各地の思想や宗教で、同じような対立や弁証法的な関係が散発して存在している。この一点だけでも、「世界哲学史」を学ぶ価値がある。ちくま新書という専門レベルが大事だ。

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2020年10月08日

Posted by ブクログ

全8巻の世界哲学史も第4巻と半分までやってきた。時代的には13世紀あたり。

第4巻の編者の山内さんは、都市の発達にともない個人の覚醒が世界同時多発的に生じ、哲学でもそういう傾向が生まれた、とする。

なるほど、面白い視点だな〜と思いつつも、章ごとの記述は、かならずしも「個人の覚醒」という感じでもないのかな〜、テーマごとの総括的な記述が中心で、今ひとつ、しっくりこなかったかな?

さて、13世紀になると、いよいよ西欧が世界の中心として浮上してくる感じがあって、哲学思想も西欧が最先端として勢いがでてくるという印象。

むしろ第2〜3巻くらいのほうが、文明ごとの哲学の差と交流みたいなのが描かれているが、4巻では、哲学でも西欧中心の世界システムができてきている感じ。

ギリシアに生まれた哲学が、アラビアに引き継がれそこで精緻化され、それが西欧に翻訳されてもどってくるところで、アリストテレスなどのギリシャ思想がキリスト教と緊張関係をもちながらも一体化していく。

4巻では、そういうわけで、いわゆるスコラ哲学の説明が多い。トマス・アクィナス、ロジャー・ベイコン、ドゥンス・スコトゥス、ウィリアム・オッカムなどの面々が展開するいわゆる神学論争の数々。

いろいろな本で何度読んでも意味がわからない「普遍論争」とか、これを読んでもやっぱわからない。

でも、そこでの議論が、いわゆる神学論争と揶揄されるようなものとはちょっと違っていて、現在の哲学にも通じていく議論であることはだんだんわかってきたかな?

編者は、この時代に西欧でうまれた托鉢修道会と日本の鎌倉仏教の対応関係に注目していて、大きな期待をもった。が、鎌倉仏教についての記述は、いわゆる鎌倉時代におきた新しい仏教運動だけでなく従来からの仏教との関係を含む、その時代の日本における仏教を俯瞰的にみるもので頭の整理にはなったが、世界哲学における意味という観点では、やや食い足りない感じかな?

第5巻のバロックの哲学での展開に期待。

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2020年04月13日

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