あらすじ
昭和天皇は、その生涯に三度、焦土に立った。皇太子として訪れた欧州の、第一次世界大戦の激戦地。摂政として視察した関東大震災。東京大空襲で焦土と化した東京。こうした体験は、「戦争と平和」をめぐる天皇の観念に何を及ぼしたのか。激動する国際情勢のなかで、天皇はどのように戦争に関わり、歴史の「動力」となっていったのか。そして、「昭和の戦争」は、平成の天皇に何を残したのか。「象徴天皇の時代」を大幅に加筆!
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Posted by ブクログ
大正天皇の皇太子、摂政として活躍した時代から第2次世界大戦までの昭和天皇を中心に描く歴史だが、思ったより天皇が出る幕はなかった、普通の日本史という印象である。著者はむしろ立憲民主主義の象徴天皇に近い存在として、一貫してその歩みを捉えているように感じた。蒋介石も毛沢東も、昭和天皇を戦争に導いた軍に対する国民の側と考えて、戦争責任を問う考えは無かったという説明は納得がいく。1921年6月22日にはフランスのヴェルダン戦跡を訪問し、「戦争とは実に酷いものだ」と呟いたとの記述があるとのこと。天皇自身が決断する場面は少なかったとは良く言われるが、2・26事件の投降を促された村中孝次の質問に対して、山下奉文が「お前の考えて居ることは、敗戦の時分に陛下の御命であるとすると、陛下に御責任が及ぶと云う風に考えて居るのではないか。日本軍に敗戦と云う事があるか、必勝の信念のない奴だ」と答えたと山下が述べているとのこと。1936年の時点で敗戦の天皇責任に関するやり取りがあったとは実に興味深い話だと思う。そして「大本営政府連絡会議」なる機関を立ち上げ、天皇は臨席するが一切発言しないという仕組みを作っていたとのこと。これは敗戦後の天皇の無答責任を証明する上で有効だったとは、当時の政治家の見識を表しているように感じた。
大杉栄については高松宮が「彼の随筆は好きで読んだ。親しみが感じられる人だった」との日記があるとのこと、実に興味深い。美濃部達吉が機関説批判に対して貴族院での答弁に際して古事記の崇神天皇の言葉を引用していた!これも面白い発見である。