あらすじ
生きるための言葉に満ちた希望の詩。
弱ったこころを勇気づけ、希望に導いてくれた詩人、茨木のり子。そこにはいつも生きるための言葉があった。亡き夫への想い溢れる最後の詩集『歳月』も収録。詩人・高橋順子による鑑賞解説付き。
永遠の詩シリーズは、今日的に意義のある詩人をとりあげ、代表作を厳選しました。わかりやすい解説で、詩があなたにもっと近くなります。
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Posted by ブクログ
『自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ』
もうタイトルを見た瞬間、読まなくちゃと思った。
茨木のり子さんの作品は二つだけ知っていた。
『わたしが一番きれいだったとき』と『女の子のマーチ』「女を見くびるなよ」という感じの勇ましさと戦争は絶対NOと突きつける激しさに惹かれた。
予想通り、激しい喝を入れられた。
自分を甘やかす隙間など微塵も与えぬ迫力だった。
「はい、すみません」と謝るしかなかった。
『夢』『恋歌』『(存在)』と亡くなった夫を偲ぶ詩にも慄然としながら惹かれた。
愛と死
命のあはれを感じる。
Posted by ブクログ
人生で最初に好きだと思って、今も一番好きな詩人はこの人。本当にありがたい。2006年に急逝されたとのことで、同じときに生きていたことに驚きと感謝。
これからも読み続けたい。読み続けなければならない気がする。
自分の感受性くらい
はもちろん、今回響いたものはこちら。
「ギラリと光るダイヤのような日」
世界に別れを告げる日に
ひとは一生をふりかえって
じぶんが本当に生きた日が
あまりにすくなかったことに驚くだろう
「怒るときと許すとき」
女がひとり 頬杖をついて
慣れない煙草をぷかぷかふかし
油断すればぽたぽた垂れる涙を
水道栓のようにきっちり締め
男を許すべきか怒るべきかについて
思いをめぐらせている
「汲む」
あらゆる仕事 すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている
「一人は賑やか」
恋人よ
まだどこにいるのかもわからない 君
一人でいるとき 一番賑やかなヤツであってくれ
「時代遅れ」
そんなに情報集めてどうするの
そんなに急いで何するの
頭はからっぽのまま
「歳月」
たった一日っきりの 稲妻のような真実を
抱きしめて生き抜いている人もいますもの
---
こうやって書き写してみると、ひらがなと漢字の絶妙なバランスにも気づく。こういうところ、まねしていきたい。
Posted by ブクログ
茨木のり子さんの詩集は、以前にも何冊か読んでいますが、この詩集の高橋順子さんの解説によると、意味を取り違えて読んでいたものがありました。この「永遠の詩」シリーズは解説が1作ごとにあり、とてもわかりやすく、選詩も、選りすぐりのものばかりで、評価されるべきシリーズだと思います。
「落ちこぼれ」
落ちこぼれ
和菓子の名につけたいようなやさしさ
落ちこぼれ
いまは自嘲や出来そこない謂
落ちこぼれないための
ばかばかしくも切ない修業
落ちこぼれにこそ
魅力も風合いも薫るのに
落ちこぼれの実
いっぱい包容できるのが豊かな大地
それならお前が落ちこぼれろ
はい 女としてはとっくに落ちこぼれ
落ちこぼれずに旨げに成って
むざむざ食われてなるものか
落ちこぼれ
結果でなく
落ちこぼれ
華々しい意志であれ
<解説より>
この国では、目立たないように身を処していないと、後ろ指を指されて生きにくいことになる。それゆえ、出足ががにぶい人、遠回りしている人には「落ちこぼれ」という美しくも、ありがたくないレッテルが貼られる。いまこの国の大地は、落ちこぼれの葉っぱを収容すべき弾力を失っているように、筆者には見える。この詩を書いたころの茨木は、みなさん、意志的に落ちこぼれようではりませんか、と檄をとばしていたのだが…。
さて、『作家のおやつ』(平凡社コロナブックス所収・2009年)によると、茨木が好きだった和菓子は名古屋の養老軒の白と黒の外郎。山形県鶴岡の栃餅だったそうだ。『寸志』所収。
「ぎらりと光るダイヤのような日」「わたしが一番きれいだったとき」「小さな娘が思ったこと」「一人は賑やか」「兄弟」「食卓に珈琲の匂い流れ」「恋唄」「(存在)」「歳月」もよかったです。
茨木のり子(いばらぎのりこ)
1926年(大正15)~2006年(平成18)。
敗戦後、結婚前後から詩を書き始め、川﨑洋とともに詩の同人誌「櫂」を創刊。
ヒューマニズムと批判精神溢れる詩で多くの読者の心を鼓舞した。
戦後を代表する女性詩人にして、エッセイスト、童話作家でもあった。
Posted by ブクログ
心に、ぐっと迫ってくる詩ですね。
詩は、あまり…ほとんど読みませんが…
こういう詩があるんだな~と、
ひとつひとつ、詩の背景の解説もあるので、
より、わかりやすく、初心者に良いです。
掲載している詩集名ものっているので、
それぞれを借りたくなりました。
著者の年齢的な、時代背景などでも、詩の内容が変わってくるのが面白いです。
Posted by ブクログ
お気に入りの書店の本店にて。
うずたかく積まれた数多の書籍の中の一冊。
旅先だから、出逢えた『茨木のり子』なのかも。
『嘘がつけない人だった。
詩においても、生活においても
ーーーーーー谷川俊太郎(詩人)』
そんな茨木のり子さんに、" 清々しいまでの潔さ " を感じ、カッコいい〜と痺れています。
やはり、『自分の感受性くらい』は、最高だし、ファンの多い『わたしが一番きれいだったとき』も、ほんとうに素敵。
だけど、わたしは、変わらず『汲む』が痺れるほど好き。 それは、初心に帰れるから。 自分で自分を包み込むような感覚を覚えるから。
そして、今回は、『知命』に、共感。
今のわたしの想いそのものだった。
もう一つ。 『時代おくれ』。
『何が起ころうと生き残れるのはあなたたち
まっとうとも思わずに
まっとうに生きているひとびとよ』
このラストは、心に沁みた。
それまでの
『そんなに急いで何をするの
頭はからっぽのまま』や、
『便利なものはたいてい不快な副作用をともなう』
から、シッキムやブータンの子らへと思いは流れ、ラストの文章へ。 ガツンとやられた。
やはり、茨木のり子は素敵でした。
Posted by ブクログ
茨木さんの詩集2冊目。
前回の詩集と若干ダブっている。
好きな詩は2作品。
『知命』:
「知命」とは「五十にして天命を知る」(論語)から五十歳の称らしい。
小包の紐のほどき方やこんがらかった糸の束をなんとかしてよ、と人から言われ鋏で切ったら、と言っても了解しないので、もそもそと手伝う。
「ある日/卒然と悟られる/もしかしたら/たぶんそう/沢山のやさしい手が添えられたのだ/一人で処理してきたと思っている/わたくしの幾つかの結節点にも/今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで」
これまで何事も一人でしてきた、とおごっていてはいけない。
周りの誰かのやさしい手がさりげなく差し伸べられたに違いないのだから。
五十歳を目前に控えた私にはドキッとする詩だった。
『倚りかからず』:
楽して誰かに、他の何かに安易に頼っていてはいけない。
つい神頼みしたくはなるけれどね。
「じぶんの耳目/じぶんの二本足のみで立っていて/なに不都合のことやある/倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ」
気の抜けたご時勢に物差しで背中を叩く音が聞こえてくるような詩、とは解説の方も巧い。
私も頼るのなら椅子の背もたれくらいにしておきたい、けれどなかなかね…。