あらすじ
言葉を超えたことばを追及、近現代詩の巨人。
萩原朔太郎は1886年(明治19)、群馬・前橋の医家の長男として生まれた。文学や音楽の才能に恵まれながらも学業では中退を繰り返し、多感な青年時代を過ごす。そして1917年、第一詩集『月に吠える』を発表、以後も数々の名詩集を世に出し、日本の近代詩が現代詩へと変貌する、その原動力となった。朔太郎は、詩のことばを、意味やリズムに仕えるだけのものだとは考えなかった。誰も表現することのできない、たとえば「こころ」などといったものを表現できる、それこそが「詩のことば」なのだと考えた。そのため、彼の詩のことばは、今まで誰も考えなかったような比喩に満ちあふれ、真理を追求しようとする彼の真摯な態度は私たち読者のこころを突き動かす。ページを繰れば、その豊穣なことばの世界に圧倒されるはずだ。結婚生活は収録した58篇すべてに、詩人・高橋順子による鑑賞解説付き。
永遠の詩シリーズは、今日的に意義のある詩人をとりあげ、代表作を厳選しました。わかりやすい解説で、詩があなたにもっと近くなります。
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Posted by ブクログ
萩原朔太郎は、高校の頃に憧れて、岩波文庫を他の何人かの詩人とともに買って読んでいた記憶があります。
解説の高橋順子さんは巻頭の「言葉以上の言葉」という文章で、日本の近・現代詩は萩原朔太郎抜きにしては何も語れないといってよい。生涯にわたって、詩の言葉と闘い、言葉にいのちを吹き込んだ無二の詩人だったと歴史的にも内容的にも大変褒めていらっしゃいます。
しかし、今、また読み返してみると、これは一介の、田舎の高校生が読んでわかるといった詩ではないのではなかったのかという気がものすごくします。
だいぶん背伸びをして、カッコいいからとか(誰かに読んでいることを話した訳ではありませんが)そういう浅はかな気持ちだったのではないかと思いました。
なぜなら、今読むと、はっきり言ってかなり病的な詩が多く含まれているような気がします。
文学的価値とか、そういう難しいことを考えずに読むとですが。
もちろんもの凄いほとばしる才気をかんじることは確かなのですが。
「遺伝」
人家は地面にへたばって
おおきな蜘蛛のように眠っている。
さびしいまっ暗な自然の中で
動物は恐れにふるえ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えています。
のをあある とをあある やわあ
もろこしの葉は風に吹かれて
さわさわと闇に鳴ってる。
お聴き! しずかにして
道路の向こうで吠えている
あれは犬の遠吠えだよ。
のをあある とをあある やわあ
「犬は病んでいるの?お母さん。」
「いいえ子供
犬は飢えているのです。」
遠くの空の微光の方から
ふるえる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あわれな先祖のすがたをかんじた。
犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
のをあある とをあある のをあある やわああ
「犬は病んでいるの?お母さん」
「いいえ子供
犬は飢えているのですよ。」
<解説より>
犬の遠吠えを詩人は「のをあある とをあある やわあ」と聞く。非常に耳のいい人である。薄気味悪いが面白い。犬が「あわれな先祖のすがたをかんじた。」というのは、つまり、犬は犬の亡霊を見たということだろうか。
『月に吠える』の犬よりも確かな線描をもち、影を濃くしている犬である。「犬は病んでいるの?」と子供は母親にたずねるのだが、健康で強圧的な母親は、野良犬だから飢えているに決まっている。と思うのである。実母の面影があるか。
「旅上」「冬」「殺人事件」「陽春」「愛隣」「見しらぬ犬」「閑雅な食慾」「蝶を夢む」もよかったです。
萩原朔太郎(はぎわら・さくたろう)
1886年(明治19)~1942年(昭和17)
群馬県前橋市に医家の長男として生まれる。
文学や音楽の才能に恵まれながらも、
学業では中退を繰り返す。1917年刊の
第一詩集『月に吠える』は大きな反響を呼び、
以後の日本の近現代詩に深い影響を与えた。
Posted by ブクログ
こころをば何にたとえん を表紙にもってくればよかったのに!と思いました 笑
今まで読んだ詩人さんのなかで一番ピンとくるひとでした。
「言葉にならないものを言葉にしようとした」という説明がすべてのような気がします。
表現が大変たおやかですね。
第一詩集の「月に吠える」をまとめて読んでみたい…
Posted by ブクログ
萩原朔太郎の詩集ですね。
萩原朔太郎の詩集を見たのは久しぶりにでしたが、飄々としたイメージがあったかのように感じていたのが、一変しました。
森鴎外も認めた才能は確かだと思います。今の時代に読んでみてもさほどの古さを感じないように思います。
解説の高橋順子さんも「近代詩と現代の、美果がともにみられよう。」と述べられています。
朔太郎は『詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である』と《月に吠える》の序文で語っています。
読んでいてかなり内省が激しく、時として無力感の投げ出しのような言葉で綴られて虚無感を感じさせられます。が、美しい言葉使いもあり、詩の表現にかなり試行錯誤を詩人は重ねたようにも見受けられます。
高橋順子さんは、また、
「 誰にも書けない独得の文語体で、詩人ゆえの悲劇を言語化した。
生涯にわたって、詩の言葉と闘い、言葉にいのちを吹き込んだ無二の詩人だった。」と結ばれています。
虚無の鴉
我はもと虚無の鴉
かの高き冬至の屋根に口を開けて
風見の如くに咆号せむ。
季節に認識ありやなしや
我の持たざるものは一切なり。
詩人のまさに吠えるような詩集の一部に圧倒されました。
このシリーズは、朔太郎の全詩より五十八篇を選ばれているそうです。もとより一部にすぎませんので、機会があれば各詩集を読んでみたいですね。