安岡治子のレビュー一覧
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ロシアの文豪、ドフトエフスキーの処女作。
貧しい47歳の小役人と同じく貧しい10代後半の少女との文通形式の小説。
この小説が書かれたのは1846年ということは日本で言えば江戸時代の後期ということになる。
江戸時代に書かれた小説の登場人物の心情がこれほど豊かに描写されているということを今の時代に普通に読めるということがまず奇跡的。
主人公の小役人マカールが少女ワルワーラを自分の娘のようにあるいは孫のように、しかし実は本当に女性として真に愛している状況が読み取れ、それが涙をさそう。
最終的には悲恋となるが、この小説は「人を本当に思いやる」ということがどのようなことなのかを教えてくれる。
どんな時代であっても人の心は変わらないのだ。 -
購入済み
自意識過剰と書いているけど、実際は人の悪意を正面から受け止め過ぎた悲しい主人公だと思いました。人間は脳髄で考えているのではなく手足からつま先に至るまで、それぞれ別々に考えている。頭も尻もない下等動物の連中が暑い寒いを正確に判断したり、喰い物の選り好みをするのはまだしも、人間の脳髄なんぞが寄っても附けない鋭敏な天気予報までもはっきり表しているのだから。主人公は言動だけでなく人間の態度や、ささいな行動からも人の悪意を感じ取ってしまうのではないだろうか。
この主人公の考え方は狂っているように見えるが、それは他の人より目立っただけだと思う。 -
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ネタバレドストエフスキーの「貧しき人々」を読んでみた。「古典文学」の魅力に取りつかれつつある?(笑)。そもそも「古典文学」の定義はどうなのか?
日本文学では「近代文学」に対し、江戸以前のものを「古典文学」と呼ばれるのが一般的らしい。が、ともかく、日本に限らず、世界の「名作」と呼ばれるもの、時代を越えて、歴史に名を残した作家たちの作品と出会ってみたくなってきた(もちろん再会も)。
今回のきっかけもツヴァイクの「四人の巨匠」を起点として、3人目の巨匠ドストエフスキーを選んだが、まずはビギナーとして、氏の処女作であり、しかも輝かしいデビューを果たしたという本作を選んでみた。
最初の「訳者(安岡治子さん)まえがき」は貴重だ。この作品にまつわる背景を簡潔に説明してくださっている。
「『貧しき人々』は、一八四六年に二十四歳のドストエフスキーが発表した処女小説です。舞台はペテルブルグ、四十七歳の下級官吏マカール・ジェーヴシキンと、若くして両親を失った薄幸の娘(おそらく十八歳ぐらいの)ワルワーラ・ドブロショロワ(愛称ワーレンカ)の半年にわたる往復書簡の形で書かれています。マカールは・・・。一方ワーレンカは・・・。」と
もちろんのこの二人の主人公が貧しい生活の中でお互いの貧困生活にもがき、なかなか抜け出せないという生活が描かれているが、そのなかに、お互いに対する思いやり、あるいは愛情が描かれ、また周囲の人たちへの感情(怒りとか悲しさとか)も描かれており、総じてドスエフスキーが見事に、当時のロシア社会の様子を描き出した作品でもあるようだ。
このドストエフスキーの処女作は、世に出る前に、何度も推敲が重ねられたようで、そして本作が完成した際に、それは詩人ネクラーソフの目にとまり、さらに偉大な批評家ベリンスキーに「この小説は、今まで誰も考えたこともなかったほど鮮やかに、ロシアの生活と人物の神秘を明かしてみせた。これは、我々が手にした初めての社会小説だ」と言わしめたことからも明らかだ。
往復書簡の場面は、4月8日の春先から9月30日の秋口まで。この約半年に二人が交わした書簡が小説を構成している。こういう往復書簡形式の小説は、それまでもあり(探してみるのも興味深い・・・)、ただしこの時期ではやや時代遅れの感があったようだ。
本作だが、この半年の間、ほぼ前半からずーっと二人の貧しい生活の描写が続き、謙虚で相手を思いやる気持ち、むしろ自己犠牲に近いと思われるほどの思いやりの会話で、「貧しい生活の中にも美しい心」というものを感じつつも、「この年齢差の二人の愛情とはどういうものなのか」とか、「たった庭をはさんだだけのお隣さん同士なのに、どうして直接会わないで、書簡交換ばかりしているんだろう」とか、「貧困からの脱出は難しい反面、そういう貧困の中になんとか喜びを見出そうとしているな」とか、読者に様々な考えを想起させてくれる。当時のロシアの社会は、むしろこのような姿が典型的だったということだ。
考えてみれば、年齢差の愛情の在り方や、コミュニケーションの在り方にふと疑問を持った自分も、いま目の前の社会を見てみると、SNSを通じた様々な愛情の形があり、会社の隣の席同士でメール交換をしている実態があり、時代に応じた姿がありうるんだなとも思えた。
そして、小説は後半から終盤にかけて、一気に急展開し、たった半年の月日の流れの中で、これほどまでに変わるのかという結末へと進んでいく。人の心も、環境がかわることで影響を受け、変わってしまう現実というものがある。しかしながら、環境がかわっても変わらない「大切なもの」があるということも、この作品は教えてくれているようだ。
訳者のあとがきの中で述べられている、「身を削られるような極貧を体験する中で、二人の主人公が結局知り得たのは単純な真実である。幸せをもたらすのはお金ではない。人生に喜びを与えてくれるのは、互いの不幸を思いやり相手の幸せを心から喜ぶことのできるような隣人をもつことなのだ。貧困が広がる中で、人と人との繫がりがますます希薄になっている現代にこそ、もう一度読み直されるべき小説ではなかろうか。」との言葉は、読後の自身もそう思う。
本作は、ドスエフスキーの処女作ではあるが、作中に出てくるゴーゴリやプーシキンなどの作品のプロットは絶妙だそうで、自分のような素人には、まだまだそこまで読み取れなかった。ただ、巻末の「ドスエフスキー年譜」をみて、本作が世に出る前年に、ドストエフスキーはバルザックの本の翻訳をしていたようで、「文学の世界はつながっているんだな~」と感じた次第です。 -
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自意識が肥大化し、現実との乖離に苦悩する男の手記。合理主義で結果を残す人物を浅はかと笑い、分析麻痺的に行動できない自分を、"周りより賢いのだからタチが悪い"と評している。
一方でこれが本質的に何も産まないことも理解しており、自己嫌悪のループに陥っている。
メタ認知が優れた手記の男は、同時に自意識が肥大化しており、何もかもうまくいかない。
メタ認知力と自意識過剰は相反する性質だと考えていたが、同時に存在した場合、この主義の男のような状況に陥るのかもしれない。
2章の男は、友人にも女性にも素直になれず、最後に感情が暴発し破滅している。
ここまで行くと流石に感情移入できないが、メタ認知力からくる自己嫌悪に基づく自罰意識は理解できた。
この男は合理性があまりにも欠けているところが、味わい深いところでもあり、私には理解の及ばないところであった。 -
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Ⅰ 地下室
前置きとしての独白。正直、全然何言ってるか頭に入ってこなかった。呪うことは人間だけ、人間は時として苦しみを猛烈に熱愛することもある、平穏無事な幸福だけを愛するなんて、どこか見苦しい気さえする、等々。たまに面白い言葉があった。
Ⅱ ぼた雪に寄せて
主人公の卑屈で面倒臭い自意識、たまんない。
"俺は、自分の際限のない見栄ゆえに、つまりは自分自身に対する止め処ない要求の高さゆえに、しばしばひどい嫌悪感と言えるほどの猛烈な不満を抱いて、自身を見ていたので、心の中で自分の厳しい眼差しを、他のすべての人間にも当てはめていたのだ。"
強そうなやつへの劣等感を何とかするための方法がそいつにわざと道でぶつかるなの可愛い、頑張って達成してえらい。
あまり仲良くない友達の家にふらっと行ったらそこで嫌いな奴の送別会を開く話を聞いて、嫌がられてるのに無理やり参加するって言った挙句金がないからすっぽかそうって、嫌がられることに存在を見出そうとするタイプの相当厄介なやつ。
親友ができそうになるも、魂を際限なく支配しようとして周りと縁を切らせようとし、いざ自分に依存すると突き放す。打ち負かすため、服従させるために必要だっただけ。まさに精神的暴君。
情婦に説教するシーン、説教してること自体はキモイけど言ってることは現代にも通ずるような話だった。愛なんかなくてもどうにでもできるような女の愛を苦労して買うやつはいない(セフレになったら付き合えない)。身体の関係があって愛してるって言ってくるやつに結婚を持ちかけてみると、笑われるかぶん殴られるかだろう。若さを当てにして金を稼いでいても、そんなもの駅馬車みたいにあっという間になくなり、どんどん人生落ちていく、健康も若さも美貌も希望も、何もかもを無くしながら。
暗いけど希望は素敵ってない感じの捻くれ加減が良かった、現代にこそ刺さるところが多いと思った。 -
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弱者おじさんと孤児少女のラブレター
ドストエフスキーの入門書として手に取ってみたが大正解だった。デビュー作ということもあってか短めで読みやすく、それでいて彼の世界観や巧みな表現力を楽しめる1冊だと思う。
内容の9割が下級役人マカール(47歳)と孤児少女のワーレンカ(推定18歳)の手紙のやり取りを通して展開される。この2人は現代の言葉で平たくいうと若い女性に貢ぎ困窮していく独身弱者おじさんと、両親を失いメンタルが不安定な孤児少女というキャラクターである。貧困故に共依存的なラブレターでお互いを励まし合う姿は時代や国を越えて普遍的な生々しさがある。
特に印象的だったのは、マカールの自分の気持ちを父性愛と主張する図々しさや自分を大きく見せようとする虚栄心、また物資等の援助は不要と言いながらも上手くそれを利用するワーレンカの(ずる)賢さや浮き沈みの激しさである。
私の読解力や考察力では、いわゆる社会の隅っこにいるような男女にスポットライトを当てた物語に捉えられ、24歳でこんな物語を書いた当時のドストエフスキーは時代や国の背景はあれど「社会の闇」的なものが好きな人物だという印象を受けた。
しかし考察等を読んでいると、マカールの貧しくも善人であろうとしたり自己の尊厳を保とうとする姿勢や、女性が自立しづらい社会の中でも独り懸命に生きるワーレンカの力強さに気付かされ、見方が大きく変わる点もあった。
物語や登場人物を通して描かれたドストエフスキーの価値観や当時のロシアの貧困や閉塞感、また作品理解の為の時代・文化知識の重要性に気付かされるいい1冊だった。 -
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「オブローモフ」が無気力・怠惰・沈滞の象徴人物として有名らしいのですがそれも始めて知った。
その名前の主は長編『オブローモフ』の主人公。こちらはその第一部第九章を独立させて文庫化したものだそうで、この部分は長編を書く前に発表されたので長編の土台のようなものらしい。
長編『オブローモフ』は怠惰な独身貴族オブローモフの怠惰な人生、そしてこの『オブローモフの夢』は、彼が寝床でゴロゴロして見た子供時代の情景になっている。
『オブローモフの夢』
イリヤ・オブローモフは領地のオブローモフカの村を夢に見ている。ここは緩やかな大地で気候も穏やか、人々も刺激を好まず暮らしている。例えば手紙が来ても「悪い知らせだったらどうするんだい」と数日放置、やっと開封して「返事をかかなきゃ。…今日こそ書くぞ。…今日こそ机に向かったぞ」でそのまんまになる。道に誰かが倒れていても「よそ者だったら放っとけ、手間が増える」でそのまんま。知識も知恵もない方が良い。村の人達は昼食後に昼寝をする。お屋敷も、村も完全に時間が止まる。…大丈夫か?(^_^;)
そんなイリヤ・オブローモフは幼少期から母や乳母に過保護に過保護に過保護に育てられた。「走っちゃ駄目よ!ぶつかって怪我するわ!」「太陽が出ているんだから家に入りなさい!疲れちゃうでしょ!」「学校?あと三日でお祭りなのに?三日間休んじゃいなさいよ」という感じ。…大丈夫か?(^_^;)
学校というのは、隣の領地のドイツ人シトリツ氏の開いているもので、息子のシトリツとは大人になってからも友達。過保護により無気力・停滞のオブローモフを活力ある生活に導こうとするがうまくいかないらしい。(これは『夢』以外の部分の話)
こんな「自分でなにかしちゃいけない」「領地からの収入で、仕事しなくていい」環境にあったオブローモフは、すっかり怠惰で無職で独身のまま停滞し日々を送るのでした。
本書の後半は長編『オブローモフ』の抄訳が収録されている。
オブローモフのような地主は、土地管理は管理人に任せて自分たちは都会で暮らす。彼も領地の上がりで暮らせるため、仕事もあっさり辞めて一日中ベッドでゴロンゴロンゴロンゴロンしているオブローモフ。怠け者ってだけじゃなく、ベッドから起きる必要がない。何もしないことこそ自分の人生、自分の求めるもの。召使サーハブもモノグサで家はすごく汚い。(何らかの病気になってると思う…)
でも管理人から「領地の収入は少なくなっている」との連絡もあり、自分も家賃も滞納しているので、本人が思っているほど余裕ないんじゃないの?そうだとしてもオブローモフはどーでもいい。そんな彼でも友人が誘いに来る。面倒臭いので断る。悪友に金をたかられたりする。
幼馴染のドイツ人アンドレイ・シトリツは、そんな彼を動かそうとする。シトリツは活動的で合理的。「労働こそが人生の目的」と考える。
シトリツはオブローモフにオルガという女性を紹介した。オブローモフは彼女に熱烈に恋をした。この「自分は恋をしているのか!?」のあたりは抄訳ながら文章が生き生きしていた。引きこもりだったオブローモフは、散歩して、読書して、外見は生き生きとしていく。
さあオブローモフ、生者の世界に入ってゆくのか!?
…いえ、失恋しました。
オブローモフは停滞。オリガは前進と生命力。オブローモフは、彼女が愛しているのは理想の自分であり、自分が現実の結婚生活を送ることができるとは思えない。
また引きこもるオブローモフは、彼にたかるタランチエフとイワン・マトヴェイチに領地の上がりのほぼ全部を毟り取られる。そしてイワンの妹で子持ち未亡人アガフィアの家に下宿する。アガフィアは考えが足りず体もずんぐりしているが、階級が上のオブローモフに憧れ甲斐甲斐しく世話を焼く。
さて、元婚約者のオリガはアンドレイ・シトリツと結婚して、全てを話し合え、喜びの人生を楽しんでいた。しかし年月が経つにつれ、オリガも以前のように常に前に進むことができなくなる不安を持つようになっていた。それでもともに行きてゆくシトリツとオリガ。そして二人は人生に沈んでいるようなオブローモフを気にかけてゆく気持ちを持ち続けている。
シトリツがオブローモフを訪ねた時に、オブローモフはアガフィアとその子供たちと、貧しくも(本当は大金持ちのだが、全部たかり取られているので)小さな小さな幸せを送っているようだ。あまりの貧しさに驚いたシトリツは、オブローモフにたかっていたタランチエフとマトヴェイチを追い払う。
だがもうオブローモフは沈滞から浮上することはできない。そのままダラダラ生きて死んだ。
二人の間にはアンドレイという息子が生まれていた。シトリツとオリガはアンドレイを引取り(アンドレイ、はシトリツの名前から取った)り養育する。アガフィアは「私は身分が違います」と質素な生活を続けた。
なぜオブローモフは、純粋で、優しく、子供の頃は闊達で、上品で、頭だって悪くないのに破滅してしまったのか?
「オブローモフシチナさ。」 -
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ネタバレ金持ちが気まぐれに差し出す金は慈善として高く評価され人々の心を打つが、貧乏人が必死に自分を削ってまで少しだけ金や物を与えても、感謝されることは少ない。主人公は見栄っぱりで、お茶にも入れなくていい砂糖を入れるタイプの初老男性。彼には大切な娘のように思っている親戚の女性と手紙のやりとりをして、己の貧しさを理解しながらも、一番大切なお金をその女性にこまごまと差し出していた。それは真心からくる優しさであり、彼女に優しい人間だと思われたいからだった。しかし、彼女はお金がない生活に耐えきれず結婚を決意してしまう。もう手紙のやりとりはできない。主人公らのささやかな友情も、最後には良い思い出の終着点としてしか残ることはない。お金があれば幸せになれるとは限らないが、お金がなければ何も始まらない。孤独と貧しさの中で、彼はもう幸せを見出せない。
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ドストエフスキーの処女作。(1846年発表 日本は江戸時代 鎖国)
中年男性マカール(下級役人)と孤児で病弱な娘ワルワーラの手紙のやりとり。書簡体小説は馴染みがなく(『あしながおじさん』ぐらい)、長い手紙にちょっとびっくり、かつ新鮮でした。
2人共に、貧しく切羽詰まった生活の中、自分の全てをさらけ出して、思いのたけを表出していました。お互いがお互いを思う気持ちに溢れ、喜怒哀楽が切実に伝わり、せつなくなりました。一方で、年の差のある2人の強い心の結びつきは、純粋そのものでした。
日常生活が不自由になるほど、物が買えない状況に、幸いにも私はなったことがありません。2人の立場に自分が置かれたら耐えられるかどうか、自信がないです。
手紙の内容は深刻なものばかりでなく、マカールの冗談もあり、ほっとさせられるところもあります。しかし、多くは自分1人で抱えきれない悲しみです。2人の行く末が最後の最後まで、気になって仕方がない気持ちになる作品です。