実に、実に久しぶりのドストエフスキーさん。
「罪と罰」「悪霊」「白痴」「貧しき人々」「虐げられた人々」「カラマーゾフの兄弟」。
以上の作品を新潮文庫で読んだのは、中学生か高校生のとき。もう25年くらい前のお話です。
そのときのことを正直に述べると、「良く判らん。でも、時折、恐ろしく面白い。そして、読
...続きを読むみ終わった時に、面白かった!と思った」。
それからずいぶん時間が経って。19世紀ロシアの事情とか、キリスト教、ロシア正教的なこととか、ロシアの貴族階級、社会制度のこととか。
そういうことが判らないと、ホントに隅から隅まで楽しめる訳がないんだな、と。
なんだけど、そういうのを差し引いても面白いから、翻訳が何十年も売れているんでしょう。もう、100年になりますか。
さて、「地下室の手記」。
本当は、新訳で「罪と罰」とか読み直したいなあ、と思っていたんです。
けれども、同時に、「読んだことない本を読みたいなあ」という思いもあって、妥協点がこの本になりました。
1864年発表だそうです。ちなみに、明治維新が1868年です。たしか。
ドストエフスキーさんが、金持ちの若き息子で、理想に燃えるやや社会主義的な小説家だった時代がありまして。
それで警察につかまって、死刑になって。でも土壇場で恩赦になってシベリアで4年、働いて。
そこから復帰して、再び小説家デビューします。
そんな、再デビュー後、間もない小説です。
この後に、「罪と罰」とか、超ド級の小説を書いていくことになります。
そういう、「後記の、ほんまにすごかったドストエフスキーさんの、精神のエッセンスが詰まっている」と、研究家の人たちから言われるのが、この「地下室の手記」だそうです。
いやあ、凄かった。
主人公は、「40代の、小役人」。
何ていうか、貧民という階層ではないのだけど、ホワイトカラーでインテリ、という層の中では、貧しい。
そして、独身。独り暮らし。
性格は気難しく、孤独。友人はほぼ、いない。体格も貧弱で、ブ男。
でも、インテリで、色んなことを考えている。そして、プライドが高い。でも人前で上手くふるまえない。
恥をかくのが怖い。孤独も怖い。貧乏も怖い。人から見下されるのは嫌だ。
そして、他人に対して、優しくない。常に威張りたがる。
まあつまり、かなりイヤな奴。
ポイントは、イヤな奴なだけではなくて、哀れな男。惨めな勤め人。
そして、この男が、どうやらちょっとした小銭を相続したんですね。
だから、もうとにかく、外の実社会に出るのが嫌になっちゃった。
地下室に籠ります。こもって妄想します。自分を認めない世界を呪詛します。罵倒します。
自分を見下した人々を、自分が見下せる人々を、強い物、勝利者、恵まれた人々を、非難、批判、論難、侮辱します。
そしてそれを延々と書き付けます。
そして返す刀で自己嫌悪します。後悔します。
そしてそれも、延々と書き付けます。
もう、これで判りますね。そうです。これって、永遠不変の人間臭さなんですね。
ま、今で言えば引きこもり。ネット生活ですね。
それって、大なり小なり、誰でも抱いている気持ちですよね。
僕たちはみんな、誰しもが自分の「地下室」を多少なり抱えて生きている訳です。
主人公は、そういう、イヤで惨めな男なんですけど、
同時に、まるで小説家のドストエフスキーさん自身かのように、
一方で非常に知性がある。学がある。高い高い自意識がある。そこで、この小説の味噌としては、その主人公の自意識を、膿をいじってつぶすように、ねちねちと苛めて自己告白させます。
これぁ、すごい迫力です。
で、じゃあ何の話題をしているのか、というと、前半、三分の一くらいまでは、正直哲学的というか、恐らく当時の哲学的命題についての議論が多いです。
19世紀ロシア西欧のそうした意識をはっきり判るのは難しいのですが、
「2×2は、4である」という言葉に代表される、理性というか、科学というか。
そこから敷衍して、人間の合理性、啓蒙性みたいな考え方。
それに対して、ドストエフスキーさんが、いや、違った主人公が。「人間そんなわけぁ、ないでしょう」という主張を繰り広げます。
このあたりについては解説を読むと、やはりドストエフスキーさんとしては、キリスト教(ロシア正教?)というものがやっぱり大事だよね、というパスカル的な話をしたかったそうです。
なんだけど検閲とかで、削られちゃったそう。まあ、その辺はいまひとつピンと来ません。
それはさておいて。後半になると、まず小説の時間が、
「40代の主人公が回想する、昔の話。主人公が30代?20代の頃かな?」という時間になります。
この後半は、割と、物語になっています。
主人公は、貧しく惨めでかっこつけてばかり。
その上、楽しい趣味も喜びもなく。女性にもてないし。妄想はしても単調な日々。結局、恐らくは今の日本で言うところの性風俗に人に隠れて通い詰めています。
で。友人たちとの社交で、しくじって、惨めでみっともない思いをします。
もう、ここのところの心理描写が、エグくて、スゴくて、読ませます。
誰でもありえる、惨めな心の動き。仲間になりたくて、でも面倒で、尊厳は保ちたくて、うまくやりたくて、やれなくて惨めで、孤立して不安で、みたいな…。
そんな主人公が、性風俗の売春宿?の若い娼婦に、なんだかカッコつけて説教たれます。
いや、説教というのではなくて…自らの思想を述べるというか。俺は凄いんだぞ的なことを言う。
その引き合いで、むしゃくしゃした気分で、その娼婦を辱めて貶めるようなことを言う。
なんだけど、その娼婦に恋してもいる。
で、いろいろあってその娼婦が自宅に来る。
で、混乱しちゃって、結局その女性を受け入れることができない。侮辱しちゃうような別れ方をする。
で、そうした直後に大後悔。雪の街に出て探すけど、もう見つからない、という。
いや、これは、凄い小説ですね。
ブンガク史的な、というか、物語歴史的な意味で言うと、もう、これは確実に一里塚、記念碑、金字塔ですね。
太宰治だって誰だって、もう、この心理的な描写に比べたら、真似事だけで弱いのでは?と思ってしまいます。
また、解説に書いてあって面白かったのは、ウディ・アレンが、この作品のパロディを書いている、という。
確かに、これ、ちょっと乾いて諧謔味を増せば、ウディ・アレンなんですよ。
というか、ひょっとしたら、もともとの「地下室の手記」を書いたドストエフスキーの想いとしては、誇張して笑えるでしょ?という思いがあったのかもしれませんね。
ただ、翻訳してブンガクとして謹上されると、諧謔味はなくなりますね。
もっと言えば、ラスト、娼婦のリーザを辱めて、自分の部屋から追い出しちゃう主人公。
でも後悔して、すぐに雪の街に追いかけていく主人公。
ここは読んでいるときから、「ああ、これって”ブロードウェイのダニー・ローズ”の最後の場面に似ているなあ」と思いました。
(映画の方は、それでもって心温まるラストになるんですけどね)
宗教とか、大家族制とか、身分制度とか、農村の閉鎖性とか。
そういうものが、徐々に、都会でもって消費でもって、貨幣経済で情報で新聞で社交で自由で個人で…というものに襲い掛かられていきます。
そうすると、やっぱり個人なんですね。なんだけど、淋しいんですね。なんだけど、プライドを肥大させていくと、こもっちゃうんですね。
そして、どうしてそうなるかというと、賢くなったからなんですね。知性が高くなるからなんですね。理性を持つからなんですね。自意識ですね。
そういうことが、きっと西欧を筆頭に、19世紀くらいから起こる訳です。
そこで先頭切って、ドストエフスキーさんはその救いの無さの濃厚な人間ドラマを書いちゃったんですね。
この本の中で、主人公は「実際の生活」とか「人生」とか、そういうものに憧れています。
つまりは、実際の恋愛。尊厳ある幸せな友情、交際。やりがいのある仕事。興奮するような快活な遊び。レジャー。そんなようなことです。
同時に、自分がもうそういうものは得られないと絶望しています。
そして、そういうモノゴトに、嫌悪と憎悪も持っています。
言葉はともかく、2014年現在の日本で言うところの、「リア充」「非リア充」みたいな考え方。
もう、150年くらい前に、ドストエフスキーさんが、言ってるんですね。
で、だからって、安易な解決も救いも何にもありません。
でも、面白いですね。ドロドロの人間ドラマ。葛藤。
そして、どこかしら、自分の姿をチラっと鏡で見せられたような。そんな、ハッとしちゃう感じ。ドキッとしちゃう感じ。
いやあ、これはタマラないですね。
濃厚ブルーチーズを食べたような。
苦いけど、旨い。
脱帽。パチパチ。
いつも通り、光文社古典新訳文庫。読み易かったです。