佐藤俊樹のレビュー一覧
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『桜が創った「日本」』というタイトルから、日本人の伝統的な美意識を象徴するソメイヨシノが、じつは江戸末期に登場した品種であるという「神話」を解体する、といった内容を予想していましたが、いい意味で裏切られました。
著者の議論は、「本来の日本の桜はヤマザクラ」といった、ソメイヨシノの「神話」を相対化しようとするまなざしが、ソメイヨシノの「神話」を前提に成立していることにまで及んでいこうとします。
近代日本の種々の「神話」を解体するカルチュラル・スタディーズにはやや食傷気味でしたが、「神話」を相対化しようとする試みがみずからのまなざしをのぞき込むように反転するスリリングな議論構成には、新鮮な驚きを感じました。 -
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ネタバレ《序章「情報化」の時代》
【メディアの脱近代―「情報化社会」その1】
グーテンベルクの活版印刷術の発明以来、人類は視覚系メディアが圧倒的に優位の状態に入る。①中央集権的で②個人を基本的な単位とする社会、つまり近代社会がつくりだされたわけだ。p15
《第1章 「情報化社会」とは何か》
【情報化社会の実体】p50
「情報化社会」とは何か―その答えは、なぞめいているが、「何でもない」。もちろん、それは裏返せば「何ででもある」。一言でいえば、「情報化社会」とは空虚な記号(シニフィアンゼロ)=ゼロ記号なのだ!
【「情報化社会」の歩き方】p81
①身近で具体的な技術をあつかうこと
②社会的な文脈に目を配ること
③わからないことはわからないということ
《第2章 グーテンベルクの銀河系/フォン・ノイマンの銀河系 人間-コンピュータ系の近代》
<2 グーテンベルク・テクノロジーの幻想>
【メディアがつくる個人?】p95
『グーテンベルクの銀河系』『メディア論』より
(1) 音声メディアは聴覚の優位をもたらし、文字メディアは視覚の優位をもたらす
(2) 文字メディアは反復性・線形性をもつ
【電子メディアによる<個人>化】p107-108
要するに、自己表現という書き方が誕生するためには、まずメタ自己をもつ<個人>が生まれていなければならない。(1)自己自身によって制御され(2)過去・現在・未来にわらって一貫した自己―そうした<個人>の観念があって、はじめて書くことが自己記録・自己表現の手段となりうるのである。
逆にいえば、別に書くことだけが<個人>を育む手段ではない。そうした自己を表現し記録する営みであれば、文字メディアである必要さえないのである。(1)反省を可能にするだけの記録性があり、(2)そこに記録されているのが「この私」だと信じられてさえいれば、音声メディアであっても少しもかまわない。「作文」と同じ効果が期待できる。
その意味では、現在のコンピュータメディアはむしろ個人化を進める方向に働く可能性が高い。コンピュータは音声も含めて、すべてのメディアをビット列に変換して、その内容を記憶する装置になるからである。それによって「この私」が記憶され、自分自身をふくめて不特定多数の人間によって見聞きされるようになれば、否応なしに<個人>としてふるまわざるをえない。それに画像や音声が加わったとしても、メディアの使い方自体が変わらないかぎり、何か特別な変化が起こるわけではない。
マクルーハンやオングをはじめ、ほとんどのメディア社会論がまちがっているのは、この点である。メディアの技術的特性よりも、そのメディアを社会の側でどう使っているかが重要なのだ。
<3 メタ自己というしくみ>
【電脳社会論の問いかけ】p111
メディア社会論系の議論は基本的に誤っている。メディア技術が<個人>をつくるわけではない。<個人>の観念とそれにかかわる社会制度がメディア技術の使い方を決めているのだ。もし「メディア技術が個人を変える」ように思えるとしたら、それはたんにメディア技術だけしか見てないからにすぎない。
【<個人>とは何か?】p122
制御される自己/制御する自己=メタ自己の二つ。
ミシェル・フーコーはこうした近代的な個人のあり方を「経験的=超越論的二重体」と呼ぶ。(『言葉と物』)
【情報技術と個人】p145
図2-9 社会と情報技術と個人のトライアド
《第4章 近代産業社会の欲望 「情報化」のインダストリー》
〈1. 残された謎〉
【夢を見せるしくみ】p203
図4-1 「情報化」を語る社会=「情報化」社会
図4-2 従来の「情報化社会」のイメージ
〈4. 「情報化社会」産業〉
【「先端」のサーフィン】p237
本章3節で見たように、情報化社会論が生まれるきっかけは「情報産業」の発見だったわけだが、情報化社会論自体がきわめて産業社会的な情報産業になっている。そのありさまは、まさに「情報化社会」産業と呼ぶにふさわしい。
【夢の果てに】p240
情報化社会論はいわばその実質を失うことで、つまり空虚な記号になることによって生き残ってきたのである。
そう、そへはまるでファウストと悪魔との契約を思わせる。情報化社会論は永遠の若さと引き換えにその魂を売り渡した。情報化社会論が50年間死ななかったのは、それがすでに死んでいたからにほかならない。「生きている死体 living dead」ー情報化社会論がどこかホラー映画の悪夢を思わせるのも無理はない。
おそらくこれからもこうした「情報化社会」産業は生きのびていくだろう。産業資本主義のしくみのなかで、情報技術の技術革新は次々と起こっていく。新しい技術がどんどん開発され、市場に投入される。その一方で、社会制御の夢は技術決定論に説得力をあたえてしまう。そのなかで、「情報化社会」の神話もくり返し生産され、消費されていくはずである。今後も、次々と新たな「革新的な情報技術」が脚光をあびて、それを紹介する本や記事が大量生産されていくだろう。
それは誰のせいでもない。これは一つの産業であり、需要があるかぎり供給はつづくのだ。私たちが「情報技術が社会を変える」という神話を信じたいと願っているかぎり、その神話は供給されつづける。それは近代産業社会のしくみがつくりだす幻影であり、「情報化社会」産業はそれを、ほとんど意識もせずに、きわめて産業社会的なやり方で利用しているのである。
それが私たちのこの「情報化」社会、すなわち「情報化」を夢見る社会の実態なのだ。
《第5章 超(ハイパー)近代社会への扉 21世紀の社会と情報技術》
〈1. 原(プロト)近代の再生〉
【近代産業社会の未来】p244
一言でいえば、「情報化社会」というのは、近代産業社会がその内部にはらんでしまう夢なのだ。
〈2. 超(ハイパー)近代への途〉
【21世紀的感性】p265
あえてその超近代社会のイメージを描くとしたら、「内なる無限」という言葉で表すことができるだろう。19世紀型近代社会は外へ外へと無限に拡大しようとした。21世紀型の超近代社会はそうした外部をもはやもちえない。むしろ、有界な空間内部で無限運動をつづけていく社会になるだろう。
《補章 情報化社会その後 15年後の未来から》
【境界作用のミクロとマクロ】p288-289
ミクロにみれば、介護の例のように、「人間である」境界線は他の場面での線引きを参照しながら、たえず引き直されている。その集積のいわば平均値をとったのが「人間」のコード、すなわち「人間である/でない」を決める社会規範と呼ばれるものである。(→第2章3節)。マクロな社会規範があってミクロな場面を制御してるのではない。ミクロな線引き群のマクロな平均値が「規範」なのである。 -
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ネタバレ桜は日本の美、と言い切る人のための本。
今、日本の各地で見る事ができる染井吉野という桜の一品種が作り出されたのは、江戸時代のこと。
染井吉野という花の特徴は、葉よりも先に花が咲いて、しかもその花が大きいために、一カ所に多数の木が植えられた状態で開花すると、とても見応えがあること。
それに、染井吉野の木は、同じ木から接ぎ木して創った個体、いわば同一人物ですので、開花時期が地方ごとに綺麗にそろう事も特徴である。
そのあたりを普段はあまり意識しないけれども、他の桜(例えば、山桜や紅枝垂桜、大島桜、寒緋桜など)とは大きく違う特徴であることの解説から始まり、桜について語る時に日本人が作りだしてきた想像の源泉を辿り、桜に託されて来た幻想がどのように構築されてきたかを丁寧に解説している。 -
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96年に出版されたIT論/情報化社会論の書籍を、2010年に最新の話題を組み込みつつ出版される-この事実が何よりも本書の特徴を物語っている。それは著者が主張していた事がWindows95からスマートフォンの時代になろうとも、全くブレがなかったということだ。
本書の主張はこうだ。
「ITや技術が社会を変えると言うが、それは半世紀も前からずっと言われてきた言葉だ。
情報化社会という理想も近代社会から必然的に生まれてくる夢であり、幻想なのである」と。
これだけをとると、悲観的な主張に見えるかもしれない。しかし、著者が主張したいのは、技術を語る以前に僕らの社会に目を向けるべきだという警句である。どれだけITが便利で高性能でも、それはあくまで社会によって使われるものだし、社会の形態以上に使われることはないのだと。僕らは技術を使う時、その技術の使い方を選択しているのだから「技術が社会を変える」なんて安易な決定論にすがるのでなく、この社会自体に目をむけようとする主張は決して悲観的ではないと思う。
20世紀は確かに技術の時代だった。それは夢を現実にしていく過程であり、世の中は格段に便利になった。
だけど、もしかしたら21世紀は夢が現実に塗り潰されていく時代なのかもしれない。それは良い事だろうか、それとも悪い事なのだろうか。 -
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ネタバレ[ 内容 ]
一面を同じ色で彩っては、一斉に散っていくソメイヨシノ。
近代の幕開けとともに日本の春を塗り替えていったこの人工的な桜は、どんな語りを生み出し、いかなる歴史を人々に読み込ませてきたのだろうか。
現実の桜と語られた桜の間の往還関係を追いながら、そこからうかび上がってくる「日本」の姿、「自然」の形に迫る。
[ 目次 ]
1ソメイヨシノ革命(「桜の春」今昔 想像の桜/現実のサクラ)
2 起源への旅(九段と染井 ソメイヨシノの森へ 桜の帝国 逆転する時間)
3 創られる桜・創られる「日本」(拡散する記号 自然と人工の環)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
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技術が社会を変える、という説に多くの人は疑問を感じない。けれど、技術革新と社会の変化は実際には疑似相関にすぎないのだ、と筆者は言う。ではなぜ人は技術決定論に飛びつくのか、ひいては「(なぜ)社会は情報化の夢を見る(のか?)」という疑問に答えてくれるのが、本書。
面白かったのは、ここ五十年の情報化社会論の有り様を自動車産業にたとえているところ。「新しい情報技術が社会を変えてくれる」という論が形を変えて何度も語られてきた様は、たしかにモデルチェンジを繰り返す自動車のようだ。それ自体商品となってしまっている情報化社会論に対して、「もう、やめようよ」というのが筆者がこの本で一番伝えたいことらしい。
ただやはり読んだ後の思いとしては、十年後二十年後にも通じてしまう本だと思った。 -
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8冊目です。
ついこのまえまで格差社会という言葉がメディアなどでよく取り上げられていました(今もそうかもしれませんが・・)。
それと同時に使われたのが「勝ち組と負け組」という言葉でした。負け組というのは一日数百円で暮らしている人たちなど社会的に負けと思われている人であり勝ち組とは一日で何百万もの金を稼ぐ「ヒルズ族」の方々などを指す言葉としてその年の流行語となるほど世間を賑わせました。
でこのときにいわゆる勝ち組という方々がよく言っていたのが「自己責任」という言葉でした。つまり、「負け組になり下がったのは本人の努力の
問題であって努力しなかった人が悪いのだ。だから自己責任の結果起こった問題なのだ」と。
ですがなぜこの自己責任という言葉で片付けられるのでしょうか。それはすべての人たちがすべて平等な状況で生まれてきているということが前提になっているからです。この点を詳しく説明しましょう。現在の資本主義社会では市場、競争がすべてです。とするならばもし負け組の人たちが競争で負けたということなら確かに自己責任ということで正しいでしょう、なぜならただ単に負け組の人たちが競争に負けただけだからです。たとえば100m走で考えるとわかりやすいでしょう。この場合みんながヨーイドンで一斉スタートして1,2・・位という順位がつきます。このとき誰も最下位の人を可哀想だからこの人を一位にしようとは誰もいいません。それはかけっこが最初にゴールした人から順位をつけるというルールだからです。このルールを
市場とすれば負け組の人たちはただ単に競争に負けただけであってその限りでは自己責任です。その点では完全に勝ち組人たちの言うことは正しいです。が果たして本当に勝ち組の人たちは正しいのでしょうか。もしこの競争が最初から勝負の決まっているレースならば同じことが言えるでしょうか、
つまりもし100m走で人によってゴール近くにいる人やスタート地点から遥か後方にいる人が同時にスタートするようなレースが公平なレースだ
といえるでしょうか。もしそうならこの自己責任という反論は当てはまりません。なぜなら公平なルールという前提が覆されるからです。
ではもし現代で各々の公平、不公平となる基準は何なのでしょうか。それが「階層」というものです。
普段意識することのない階層という概念ですが平たく言えば職業、文化的側面によって決まるグループ分けのことです。これが実は世代間で
連続しやすい(たとえば親が医者なら子供も医者になりやすいとか)ということを示したのが本書「不平等社会日本」です。上の例のように
階層というのはいわば遺伝するようなもので実は生まれた環境によって強く規定されるというのを示したのが本書の面白いところです。
この基となった統計データがSSM調査というものなのですがこのデータの分析の仕方が大変勉強になりむしろこういった統計データの
分析法について多くのページ数が割かれていて統計のべんきょうにもなります。たとえばかつてのSSM調査によれば確かに中流といわれる
人たちが増えているように見えるのですがある年代だけ取り出してみると実はそうでもなくむしろ階層間格差が広がっているように
みえるなどデータの見方を変えるだけで結果ががらりと変わるのは面白いところです。このほかにもいろいろと社会学の勉強になるようなことが
数多く含まれていてそちらの勉強にもなり興味深い内容となっています。
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日本は本当に総中流社会? 日本は本当に機会均等社会? そのような常識とされている疑問に対して、統計データの分析を通じて、真っ向から反論する意欲作。最近流行の「下流社会」よりも、この本の方が、より実証的で説得力を伴う。これまでの人生で漠然と感じていた『階級の再生産』というものが、空恐ろしいほどにこの書では証明されている。これこそ現代日本の現実であり、目を背けたい現実でもある。各々のデータの分析は良く分からないまま読み飛ばし、分かるとことだけ読んでいても楽しめる学術書だろう。自分が偉大なる権力者であれば、発禁にしたくなるくらい痛いところを突いている一冊である。
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私は佐藤俊樹という名前を知っている。サブカルチャーも語れる社会学者である。たぶん、いちばん話題になった著書は「社会は情報化の夢を見る」ではないかと思うが、90年代〜2000年代にかけて、名前を見かけることは多かった。
しかし、本書の佐藤俊樹が、あの佐藤俊樹とは思っていなかった。読むまで同名の植物学者か誰かだと勘違いしていた。
私が知らなかっただけで、20年前にも桜に関する著書を出しているそうなのだが、どうにもあの佐藤俊樹と桜が結び付かなかったのである。
牽強付会にはなるが、本書における「桜」も、個人もしくは社会におけるイメージと、史実的もしくは生態学的な事実のずれに大きく焦点があてられる。
特におもしろかったのはユスラウメを巡る認識である。
これは、もともとは日本の桜と中国の桜はちがう、中国の桜はユスラウメである、という説があり、それは戦前に否定された。しかし、なぜか戦後になってユスラウメ説は復活する。それも俗説レベルではなく、学会レベルでの復活である。
戦前に否定されたとおり、中国の桜も桜であり、中国の桜=ユスラウメ説はまちがいなのだが、なぜこのようなまぬけな話になったのか。著者はそれを敗戦と結びつけるのだが、納得いくといえばいくし、強引といえば強引ではある。
とりあえず、著者の桜への愛情はよくよく伝わる一冊ではある。 -
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<目次>
第1章 「さくら」と「桜」
第2章 花たちのクロスロード
第3章 東アジアの花の環
第4章 「桜の春」再訪
第5章 桜の時間と人の時間
終章 旅の終わり
<内容>
「桜」について、キレイだと思うし、満開を待ち望むし、有名なところへの行ってみたいと思うが、「桜は日本の魂だ」みたいには思わない。でも文学界や市部の人たちはそう思っているらしい。著者はそれを正したくて(優しく言うと誤解を解きたくて)、この本を書いたようだ。つまり、桜は東アジアに多く見られる花だ。ただ日本以外では花のみを観賞することは少ない。花と「実=サクランボ」の両方を愛でていたようだ(もともと植物は、種や根や葉などを食するために育てた)。日本では比較的食べるものが多かったため、桜の花としての観賞が強まったらしい。
詳細な検証をしていくので、ちょっと食傷したけど、まあわかった。著者も「日本=桜」のむやみやたらな強調を避けてほしいらしい。そこの証明が意識されているようだ。 -
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日本で桜と言えばソメイヨシノ。その起源と、日本の桜の大半(8割)がソメイヨシノになったルーツを探る。
よく言われている通り、日本に咲くソメイヨシノは同じ種から接ぎ木や挿し木で増えてきた「クローン」であり、そのため一定の条件下で一気に咲き、散っていく。桜の性質である「種で自己増殖せず、周囲の環境に合わせて体質を変化させていく」「接ぎ木でクローンを産み出しやすい」があり、日本人の「一斉に、均一に」という性質等が重なりあって、今の日本の桜事情になっていったようだ。
桜には怪しい魅力がある、という話もまたよく知られている。梶井基次郎の小説の一説である「桜の樹の下には屍体がある」も知られている。これに関しては本書では「均一に一斉に咲いて散るクローンの不気味さ」が背景にあるのではという見方をしている。それもありか、と思いつつも、私は
・出会いと別れの季節の郷愁
・季節の変わり目で体調を崩して亡くなる人が多い
・生暖かくなる季節で人の心がざわつく
という人間側の事情が作用しているのではないかと考えている。 -
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ソメイヨシノは同じ土地だとほとんど一斉に咲いてさっと散ってしまう。エドヒガンとオオシマザクラの掛け合わせでできたソメイヨシノは、差し木や継ぎ木でふえるクローンなので、そうなるという。江戸時代までの日本は、2か月ぐらいいろいろな桜が楽しめたという。ソメイヨシノだけでなく他の品種でも差し木や継ぎ木をするのは藤原定家の「明月記」にも記されているという。(「明月記」は超新星爆発についての記載の辺りを原文で読んだけどなあ。安倍家なども出てきて面白い)ソメイヨシノが明治時代あたりから広がっていったのは、花だけが先に咲くことやすぐに育つことかららしい。たくさんの桜の木が花だけで見事に雲のように咲き、パッと散るのは確かに見事だが、日本人に浸透し、日本という観念と結びついていったのは、昭和になってからで、さらに広がったのは戦後のこととか。平安の時代から歌人たちが桜に抱く理想の姿とソメイヨシノの姿が合致した。戦後、ソメイヨシノが余りに席巻したため、ヤマザクラ(特に吉野の)こそ日本の桜の原点だという逆噴射の考えも出てきた。なるほど。(吉野はしばらく荒れていて、整備されだしたのは明治になってかららしいから、勇み足か)桜は桜であって、それにいろいろな思いを抱くのは人間の勝手であるらしい。確かに、ソメイヨシノもいいし、八重桜も他の桜もそれぞれにいいよね。
とまあ、自分の覚書でだらだらと書いてしまったが、要するにある意味この本は情報源になっても、実は論じられている日本論はちっとも面白くなかったということなのだ。うーん、なんだろ、この筆者とは合わないということなのだろう。