ホメロスによる西洋文学最初期の英雄叙事詩。ギリシア神話中のトロイエ戦争を材に取っている。このトロイエ戦争とは、アカイア勢(ギリシア軍)が小アジア(現在のトルコ地域にあたる)にあるトロイエのイリオスに遠征軍を送って行われた戦争で、主な登場人物は、ギリシア側ではアガメムノン,アキレウス,パトロクロス,オ
...続きを読むデュッセウスら、トロイエ側にはヘクトル,ラオコーンらがいる。「トロイの木馬」とラオコーンの逸話でも知られているが、本詩中では取り上げられていない。なおホメロスは『イリアス』と『オデュッセイア』の二大叙事詩の作者として一般に知られているが、そもそもホメロスという一個人が実在したかどうか、正確なところははっきりしていない。
一読して、ホメロスの描く人物には、奥行きが無い印象を受ける。ホメロスが描いた以外の語られない部分へと想像が全く向かっていかない、内面が無い、充足したそれ自体しか無い、否定性が無い。登場人物の心情が、描写に於いて全てが剥き出しにされていて、そこで完結してしまっているように感じられるのである。精神史上の「内面の発見」(B.スネル)以前に於ける、叙事詩の叙事詩たる所以であろうか。
凡そ英雄譚というのは、どれも野蛮で血腥い代物だ。「戦さは男の仕事、・・・」「・・・、今日のこの日に己れの意志で戦いを怠る男が、このトロイエの地から無事に帰国するようなことがあってはならぬ、ここで野犬の玩具になればよいのだ」「・・・、今こそ男子たる面目にかけ、己れが武勇のほどを思い起こしておけ」「いや、トロイエ人は一人たりとも、険しい死とわれらの手とを免れさせてはならぬ、母の胎内にいる赤子といえども、男児であるからは見逃してはならぬ、彼等は一人残らず跡も残さず、このイリオスから根絶やしにしてやらねばならぬのだ」。他者=敵を浄化せんとする殲滅思想、男は戦争・殺し合いをする存在でしかなく、女は愛欲と生殖の為の存在でしかない。そこに文化的な意匠が施されている点だけが動物との唯一の差異か。西洋文学の最初期から人間の即物的な醜悪さは今も変わらぬ。その暗澹たる事実を見せつけられる。
精神史上は、古代ギリシアのこの時期は、概念を神として具象化・擬人化し神話(ミュトス)という物語を生成し解釈していくことを通して生を紡いでいった、神話という神々の物語の解釈を以て思考としていた。それは理性・論理(ロゴス)に基づき抽象概念を用いて為される哲学的思考とは根本的に異なっていた。思考や生の機制が、現代とは全くその形態を異にしていたと云える。則ち、近代的な内省に於ける自己対話 monologue の代わりに、内面に於いて常に神々と対話していたのではないか、神々とともにある自己と対話していたのではないか。「彼とても、いつかその気を起こし、またいずれかの神が促して下さるならば、戦いに加わるであろう」 「だがその責めはわしにではなく、ゼウスならびに運命の女神[モイラ]、そして闇を行くエリニュスにある。その方々が集会の場でわしの胸中に無残な迷い[アテ]を打ちこまれたのであった――このわしがアキレウスの受けた恩賞(の女)を奪い取ったあの日のことだが。だがわしに何ができたであろう、神というものはどのようなことでも仕遂げられるのだからな」
古代ギリシアの文化とキリスト教以降の西欧文化との差異を考えさせられた。多神教のギリシア神話に現れる神々はみな人間臭く、一神教のキリスト教の神に観られる「神性」は一切無い。気紛れで心変わりしては両軍の人間たちを翻弄し・人間を唆して戦さをさせ・神々の間でも両陣に分かれて戦争を始め・愛欲には打ち負かされ・謀略を企てては取引をし・反目し合い・そして逡巡もするギリシアの神々は、決して揺るぎない「善」――キリスト教的「最高善」――を体現することはない。その反照として古代ギリシア神話には悪魔という存在が登場しない。そもそもキリスト教的な悪魔という観念が無かったのではないか。キリスト教世界に於いて初めて、神のアンチテーゼとしての悪魔の観念が誕生し、擬人化された悪魔から概念化された悪の観念も生まれたのではないか。上で引用したが、神々に自らの責めを転嫁するかのようなアガメムノンの言葉から長い思想的変遷を経て、人間の自由意志としての悪という観念がアウグスティヌスの時代に生まれる。
ギリシア神話の神々は、世界万象そのもの、神話という物語のうちに投影された人間的生の運命そのものであり、キリスト教的な超越的存在ではない、世界を超越した造物主ではない。だから「創世記」の類を記そうという発想も無かったのではないか。「聖書」「聖典」の類も存在しない。則ち、「此岸」から超越した別次元の「彼岸」という観念が古代ギリシアには無かった。ギリシアには、「神話」は在っても「神学」という知性の方向はついに生まれ得なかった。「神学」は、一神教の下でなければ生まれ難いのだろうか。アガメムノン(人)も血筋をたどるとゼウス(神)に行き着くという。勿論アガメムノンは神話中の英雄ではあるが、人と神との間の形而上的断絶という思考は、当時の人間にはそれほど強くなかったのではないか。プラトンによってイデア界/仮象界という二元的世界観・形而上学が構想されることで、人間は初めて自分たち以外の世界という観念をもつに到る。それまでは、人間も神々も同じ世界に並立していた一元的世界観であった。世界は神々の下に統べられているというよりも、神々の躍動とともに在った。そして神々が与える不条理を人間は運命として解釈することで受け容れていたのだ。そういう「生」を営んでいたのだ。