西垣通のレビュー一覧
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書名には「流行り」に合わせて「集合知」と冠してあるのだが、内容のほとんどはクオリア論やオートポイエイシス論に立つ「情報とは」についての解説である。著者はエンジニア出身ではあるが、Webテクノロジーそのものの専門家ではなく、社会学など人文系との境界領域を専門とする。したがて本書の内容もテクノギーク向けの読み物とはいえない。だが、理数が嫌いな人からみても、数学・科学臭さがあり、ジャーゴンもある程度知っていないと読みにくいので、新書としては中途半端なところかもしれない。どちらかと言えばWeb2.0やSNSを安易に民主主義の変革に結び付けるような軽薄な風潮については、はっきりと反対の立場を表明してある。
サイバネティックスからルーマン社会学へと展開していく第4章あたりが、非常に面白かった。
ただ、まえがきや第一章で、原発と専門知云々についてのあたりは、情緒的で不安定な感じがする。想定読者層を考えて「掴み」として書くようにすすめた編集のアドバイスなのかもしれないが、逆効果ではないか。 -
Posted by ブクログ
タイトルは「情報学の基礎」の意味ではなく「基礎情報の学」。”情報”の統一的な基礎付けをしようという意欲的な著作。だから、油断して読みだすととたんに迷子になること請け合い。
情報といえば、シャノン=ウィーバーの情報理論なのだけど、あれは情報の定量化による通信可能性に関する理論であって、情報の持つ意味内容にはいっさい手をつけていない(だからこそ情報を定量的に取り扱うことができた)。でも、情報とは何かという根本的な問いを立てたのなら、それが含有する意味内容、そしてそれが与える影響にまで踏み込無必要がある。
というわけで、西垣の基礎情報学になるわけだけど、ここで西垣は情報を「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」と定義する。一般的な情報の理解とはかなり異なる定義だが、それは情報が持つ意味内容までを包括した理論化を目論んでいるから。意味内容の視点から考えるのであれば、必ずそれを受容し利用する生物の存在に行き着かざるを得ない。「生命から社会へ」という副題の意味はそこにある。
そして、こうした情報と生物との関係を記述するために、西垣はオートポイエーシス理論を援用した分析を試みる。マトゥラーナ=ヴァレラが提唱した自律的・自己言及的な生命システム像であるオートポイエーシス理論は、生物の構成を閉鎖的なもの、外的な刺激とその反応の連鎖として捉える。その後ルーマンによって社会学・システム論に応用されるのだけれど、西垣はそこに情報を位置づけることで、生命に対する意義を見出そうとする。
ここまででも相当に普通の情報学とは違って理解が難しい。続編の「続 基礎情報学」はこれに輪をかけて難しい。そもそも、西垣の主張、構想の妥当性も正直良くわからない。それでも情報の統一的な基礎付けを行うという挑戦には夢があるし、好奇心も刺激される。
【読書メモ】
・情報とは「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」
・情報は生命の世界認知活動「意味」と関わるはず→しかし情報工学は意味を排除する方向に。
・社会は「人」の集まりではなく「コミュニケーション」を構成素とするオートポイエティック・システム
・近代は「機能的分化社会」→それぞれのサブシステムの中でコミュニケーションが自律的に生成消滅し、意味が伝達
・マスメディアは「現実ー像」を提供→現実に一定の解釈をほどこし、斉一的な「説明」として人々に提示される一種の虚像 -
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今、自分が漠然と感じていたことを、きれいに問題として整理してくれた。
最初のあたりこそ、ところどころ「おいおい、それは論証不足じゃないかね?」と突っ込みたくなる部分が何カ所かあったが、後半はぐいぐいと立証していく。つまり、あたらしいかたちでのコンピューター(めメディア?)と人間の関係。右脳=感情を支える技術、副題の「生きるための情報学」の模索。
・数値比較できない「私」をのばしていくのが、本来の教育ではないのか。
・身体が感情の原器。
・ノイマンとウィーナーの晩年。
◎身体をつかって生きるという行為そのものが、世界の創出につながるのである。
・生命情報、社会情報、機械情報。
・人間とはコミュニティへの身体的共感なしには、生きてはいけない生物だ。
・声は時間とともに流れ消えていくが、文章命題の論理はある一時点で、いわば空間的に成立するものだ。
・ITは逆に身体性の回復のために用いられなくてはならないのだ。
・人間を機械部品化するITではなく、人間の身体や心をやさしくつつんでくれるITが必要なのだ。 -
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想像していた以上に重厚な内容だった。
AIのベースとなる技術を巡る第1章は、他の専門書で既に通ってきた道なのでさして刺激はない。
一方で第2章の視点は面白い。ITを生業とする身としては、クローズドな汎用機などは時代の遺物であって、イノベーションを阻害し、エンジニアが学び・成長する環境を妨げ、旧態依然とした体質を温存し、人を環境に縛り付けるような悪しき象徴として見えている。
しかし、日本人の国民性という部分を考慮すると説得力は確かにある。
必ずしもアジャイルで、スピーディで、自由度や競争を前提とした環境が日本人にマッチするかというと疑問はあって、我々に合ったやり方を模索する意義は大いにあるだろう。
第4章と第5章は随分と思い込みが激しいように感じる。
内容は複雑だが、アナロジーをそのまま敷衍するにはいささか強引なのではなかろうか。
4章の対称性・非対称性の件と、5章の三位一体の件は、それぞれ中沢新一氏の影響が大きく、どちらも「そういう見方もあるよね」の域を出ない。納得するには、直接中沢氏の著作そのものを一度繙いてみる必要がありそうだ。
ただ結論として、資本主義という一つの形式に則った形でAIが発展し、それによって人間への疎外が昂進していくのは大きな問題だ。それは間違いない。
一神教的視点一辺倒のAI開発や、AIの利用によるユーザ内部の情報学転回が進んでしまうことを見直し、循環的、東洋的、共生的なエコシステムをデザインしていく必要はあるように思う。
本書を読んでいて、哲学史のおさらいをしているような気分になった。
人類学も裾野が広いので本のタイトルも間違ってないと思うが、文化人類学や人類考古学、あるいは生命進化学の当たりを期待していた身としてはややうっちゃりを食った気分だった。 -
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「AIは人間をしのぐ知的存在になるのか?」
「日本はなぜデジタル化で立ち遅れたのか?」
に対する著者の答えは最終章に書いてある。
その最終章に本書のサマリーが簡潔にまとめられているので、ダイパを意識するなら、ここを先に読んで各章にあたるのもありだろう。
中沢新一やレヴィ=ストロース、ソシュール、ユクスキュルなどの鍵概念が詳しい説明もなくポンと出てくるので、もっぱら技術論を期待していた読者は戸惑うかもしれない。
AI技術の発展がユダヤ教の世界観と深くつながっているという解説は、個人的にとても面白かった。
ただ、人間の身体性(とそれに基づく認識)と無意識が(ぜんぶでないにせよ)いずれAIに解き明かされることってないのか、という懸念はなかなか拭いされない。 -
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昨今のAIブームを哲学的に考察していそうだと思い購入。
著者は哲学の専門家ではなく、基礎情報学を専門とし、民間企業もアカデミックも経験している筋金入りの理系であるところも興味をそそられた。
著者が情報系の専門家といっても、いわゆるIT用語はほとんど用いず、また哲学用語も最低限に抑えて書かれているため、専門知識がなくても読み進められるところも好感が持てる。
深層学習(ディープラーニング)、ChatGPT、生成AI等のいわゆる第3次AIブームにより、人類社会の未来に対する楽観論と悲観論が様々なメディアを通して交錯しているが、著者も昨今のAIに対するヒートアップした論調に警鐘を鳴らすべく、持論を展開している。
AIに対する楽観論は、生成AIやChatGPTを活用した新規ビジネスの創出、業務効率化、生産性向上など仕事関連のテーマがほとんどである。
対して悲観論は、カーツワイルのシンギュラリティ仮説をネガティブに捉え、人間の仕事がAIに奪われるとか、人類はAIの奴隷になるなど”近未来の悪夢"的な論調が多い。
しかしながら本書は、楽観でも悲観でもなく、人類とAIとの関係性を哲学と宗教の視点から中立的に考察し、今後のAIとの付き合い方を指し示してくれる。
哲学面では、カンタン・メイヤスーが提唱する「思弁的実在論」に、宗教面ではキリスト教における「三位一体論」に立脚しているが、この展開は哲学的思考や一神教にあまり馴染まない日本人には理解しにくいかもしれない。
ただ、AIに限らず、新しいテクノロジーやパラダイムが人類社会に与えるインパクトを考察する際、哲学的・宗教的視点がその本質に迫る手助けをしてくれることを改めて本書は教えてくれる。
本書が書かれた時期は2017年末で、まだコロナ禍やChatGPTブームの前であるが、2020年代半ばに差し掛かった現在においても、また今後新たなAIサービスが普及したとしても、原点回帰できる著作といえる。
加えて、最終章において論点を総括してくれているところも、学術的な書きぶりで理解の助けとなった。
とかく専門的になりがちなAIの本質論を、分かりやすくかつ200ページ足らずで書き上げた著者に敬意を表したい。 -
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「客観的な世界の様子を記述する知識命題は存在しない。所詮は誰かが行った解釈」
科学的という手法に惑わされてはいけない。
集合知が「生命の知」であると言うならば、一人一人の主観を結晶化させたものを集めていくことが、「種への貢献」に繋がるということだ。
その意味で言えば、当事者研究にこそ、生命の知の純度を高めていける可能性があるということだ。
「対話」は、そのための手段。
*科学的手法、統計などをつかって「すでにある」と想定した普遍をあぶり出そうとするのが近代科学の考え方。
そうではなく、「対話」によって普遍的なものを二者以上で創出していこうとする視点がプロパゲーション。そちらのほうが、暗黙知についてより浮き彫りにできるし、生命の知の本質にたどり着けると考えている。
「暗黙知とは、包括的存在を認識するというダイナミクスの中で、いわば意識から隠れてしまう知のこと」→故に「黙過」もその必要性があれば、起こりうるのだと言える。
→「下位の要素的な諸細目を身体で感知しつつ、対象を全体として包括的に捉える作用が必要」
=これこそが、黙過を捉えていく術だ。
生気情動の調律、この流れが黙過を生み、その発生における身体的なものを介した相互理解が黙過を防ぐ鍵となる。 -
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西垣さんの本は1988年出版の「AI――人工知能のコンセプト」を最初に読み、それから数冊ではありますが、読んできています。
そのこともあって、シンギュラリティ否定論や、人間はAIに置き換えられるという見解の否定については想定どおりでした。
DXについて、日本の文化的伝統の根源に遡って考えるというのがテーマになっており、「新実在論」などの興味深い見解の紹介もありましたが、正直にいいますとやや議論に付いていけない部分もありました。
「意味とは本来、『主体である誰かにとっての価値』であり、誰かが生きることと切り離せない。たとえば下戸である筆者にとって、ワインの良し悪しなど『意味がない』のである」(第三章から引用) -
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ビッグデータ、人工知能両方の初心者の立場として本書を手に取りました。副題が「可能性と罠を見極める」ということで、本書はまさにその両方について書かれているのは理解できました。ビッグデータと人工知能はセットで考えるべきであること、また両者が掛け算されることでディープラーニングというテクニックが可能となって、ここから汎用人工知能や人知を超える?人工知能の可能性が議論されている、といったことが書かれていました。そして著者の一貫した主張は、「人工知能は人間を超えない」です。私自身はこの主張は説得力があったと思います。確かに特定分野では人間の能力を超えて何かができるとは思いますが、それをもってして人間を超えた、と判断するのは間違っているでしょう。この分野の新聞、雑誌記事は少し冷静な視点でこれから眺めてみたいと思いました。本書が面白かったのは、かなり哲学的な要素も入っていたことです。主観と客観の対比、オートポイエーシス理論、また宗教観などで、その多くは私も共感しました。情報学の中身に入ると、やさしく書かれているとはいえやはり意味がわかりづらい箇所が多かったのですが、大枠の意味は伝わりました。興味深く拝読させてもらいました。