西垣通のレビュー一覧
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西垣通の新刊。集合知は、ゼロ年代のweb2.0のときに微妙に流行って、オープンとかシェアとかあのへんのネットカルチャー的な耳あたりのよいバズワードとも相性が良かった。ノマドだとか新しい民主主義だとか一般意思2.0だとか、10年代の議論にも連なるかもしれない。
しかし、著者はそんな意識が高くナイーブな理想論に与しない。その一見新しく見える思想自体が、20世紀を通じて支配的であった論理主義的な前提に依拠していると指摘する。それらは20世紀においてさんざん議論されたことの変奏あるいは焼き直しでしかなくすでに限界が見えているとして、彼らのユートピア的な幻想ははっきりと否定される。
そうした問題意識のもと、知のあり方そのものをあらためて検討し再定義を行うこと、そうして再構築された前提から集合知の可能性を見出していくことが本書の目指すところとなる。
では、知とはなにか、知のあり方いかなるものなのか。著者は、知の原型を、徹底的に主観的で身体的な、本来的には共有不可能な一人称的なものだとする。それらは再帰的・循環的な閉鎖システム(オートポイエーシス)において生じる。
そのような閉鎖系からいかにしてコミュニケーションが生まれどのように知が共有されるのか。ここで著者が提示するのがHACS(階層的自立コミュニケーションシステム)であり、ここに至って著者の研究の集大成ともいえる大著「基礎情報学」「続 基礎情報学」との接続が果たされる。
さらにマーク・ハンセンによるSEHS(システム環境ハイブリッド)、あるいは西川アサキによる数理的な検討であるアサキモデルを手がかりに、閉鎖システム間のコミュニケーションから知識や秩序が生成されるメカニズムを紐解いていく。
こうして丹念に考察してきた集合知とその可能性は、いわゆるバズワードの集合知とは大きくことなり、地味で面白みのないのものである。社会の状況を一変させるような即効性もなければ、意識高い系を喜ばせる派手さもない。そこでにあるの生命と技術とか並存する社会状況であり、それを冷静に見つめる姿勢が求められる。
一時期もてはやされた集合知という言葉も、いまとなってはすでに過去のものになりつつある。しかし、一過性の流行として消費され尽くす前に、集合知の可能性をあらためて検討し直すことは決して無意味なことではない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ情報論の西垣さんの本。
原発事故との絡みも多く、面白い。
過度の専門分化と予算不足からくる産学協同の推進が専門知のレベルを落とした。
専門知の普遍性と一般性の崩れ。
正解のない問題
正解の推測より「物事の決め方」へ
依然として「みんなの意見」より専門的権威を信じているという事実
数理社会学者スコット・ペイジ「多様な意見はなぜ正しいか」
一番問題なのは客観的な世界が存在し、しかるべき評価作業をおこなえば透明度がまして世界の様子がわかってくるという単純な思い込み。
...もっと大切なのは、自分が生きる上でほんとうに大切な知を、主体的に選択して築き上げていくことのはずである。
近代知ー普遍性の追求
デカルト、ニュートン、ライプニッツ
20世紀
論理主義の影響力
そこに対抗するように実存主義、構造主義などの相対主義系統
論理主義ーいまだに圧倒的な影響力
フレーゲ「述語論理」
ラッセル、ホワイトヘッド「プリンキピア・マテマテカ」
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」
公理と記号論理にもとづく厳密な推論が数学の基礎をつくり、哲学は数学的論理にもとづく厳密で分析的な言語で経験を記述するもの。
→論理実証主義/ウィーン学団
ルドルフ・カルナップ
経験、実証を重んじる←ポパーから検証可能性の批判
自然言語は論理的厳密性を備えているのか?
ー分析哲学
コンピュータ(論理主義をふまえて)
ノイマン(数学基礎論)、チューリング
ヒルベルト(フレーゲ、ラッセルの影響下:数学を論理学の中に包含してしまおうとした)ー形式主義
「事物を記号であらわし、記号を形式的なルールに基づいて論理操作することにより、事物についての正確な知が得られる。」
↓
ゲーデルにより無矛盾系が否定される
ヒルベルトのテーゼについてゲーデルと同じ否定的結論をチューリングが示す(チューリングマシン「オートマトン」)
AIからIAに(コンピュータをつかって人間の知識を活かす)
刻々と変化する状況の中で、常識と直観を働かせ、臨機応変に行動することが生物が機会より優れている点。
人間の知と機械の知の境界線に目を凝らさない限り見えてこない?
オートポイエーシス、サイバネティクス、自己組織化、複雑系、そういったところのやっかいな言葉の使い分けに関して。
平野啓一郎『私とは何か』のなかで分人
西川アサキ『魂と体、脳ー計算機とドゥールズで考える身体問題』
オープンになり過ぎもだめ、適度な「閉鎖性」が必要。
論理主義への猛批判がちょっと目についたけど、依然としてそれがある程度ドミナントな価値観なのであればそれが「閉鎖性」に結びつくこともあるのではないか?と思った。
ある程度の完全性への希求みたいなものは諦めるとしても、論理が好きという「趣味」の人もいるわけだし。
感情だけにそって話すとかなり厳しい状況になるのは確かだ。
もちろんそのルールが「論理性」が適しているところと「感情、感覚」が適しているところと、その中間みたいなところもたくさんあるとして。
線形世界や通常科学が「局所的真実」としてその居場所を残している、って言うところがこの辺できいてくる。
Anyway, 結構面白かった! -
Posted by ブクログ
情報学的転回は「人間中心ではなく生物中心」で、「人間の機械化を否定」し、ITと生命活動との新たな可能性を探る。組織の生命的な活性度を上げるためのタイプIIIアプリケーションを模索せよ。大量生産/大量消費と個人間の熾烈な市場競争にもとづくいわゆる知識社会とは異なる、集合知と共有財にもとづく近未来社会のイメージ。野中郁次郎の知識創造企業論、公文俊平の情報社会論との共鳴。
# 本書のテーマ
- 個人と組織の学習(知識の形成)
- “人間=機械”複合系
# キーワード
- 階層的自律コミュニケーション・システム (Hierachichical Autonomous Communication System: HACS):構造的な変化を起こしながらも定常的に自己を維持し続けるシステム。コミュニケーション生成に寄与する下位の自律システムが「他律システム」のごとく機能する。自律と他律を併せた「両義的存在」。
- オートポイエティック・システム (Autopoietic System: APS)
- システム(HACS)の活性度:状況変化に柔軟に対応する動的な性格
- 経験的抽象:形象的(figurative)な抽象化。一次的。
- 反省的抽象:操作的(operative)な抽象化。二次的。
- 社会的抽象:概念同士の論理的関係から生まれた抽象概念。社会的な次元で抽象されたもの。三次的。
- 生命的組織(vital organization):一定数の構成メンバーが定常的にコミュニケートし合いつつ、一種の生存活動を行うような共同体的な組織。近似的にHACSとみなせる。
- 組織の学習:意味ベースに準拠し、コミュニケーションにおいて両立性を満たす意味構造/概念構造(意味ベース)が更新されること。「組織の意味ベース」の析出。そのような意味作用をもたらし意味構造を形成するものが「情報」。
## 知の種類(集合知の位置づけ)
- ミクロレベルの知:個人の経験的抽象/反省的抽象によって形成される、体験と結びついた意味構造/概念構造。
- メゾレベル/ミディアムレベルの知:集合知。社会的抽象で得られた専門知識を実践的観点から再構成/再編集したものが理想。ダンバー数以下の組織規模から。
- マクロレベルの知:専門家による社会的抽象を通じて確立される。
## アプリケーション
- タイプI(過去):三人称的な思考機械。計算や記号処理を行う。エキスパートシステム。第五世代コンピュータ。
- タイプII(現在2008年):一人称的な対話機械。人間を包む環境を生成する。生命活動の新たな局面展開を助ける。GUI。ダイナブック。対話によって静的なコンピュータと動的な生命体との間に橋が架かる。思考自体はヒトがおこない、ヒトの周囲状況(環境)をコンピュータがつくりだすという役割分担。
- タイプIIIアプリケーション(未来):人称の区別を乗りこえた有機機械(organic machine)。“生命的組織”(“人間=機械”複合系)のダイナミクスをコンピュータが支援し、実生活を創発的な場に変えていく。生命的な組織において、構成メンバーとその属する組織、言い換えれば個人(の心身)とその周囲状況(環境)とが、身体行為を介して互いにそのアイデンティティを組みかえていく。まず集合知から。
# メモ
APSの「閉鎖性」を理解するには:
- 「客観世界から主観世界へ」(ユクスキュルの環世界論)
- 「システムの内部へ視点を移すこと」(マトゥラーナによるカエルの視覚の研究からオートポイエーシス理論へ)
→「幻想と現実の区別が不可能」であるような意味で、認知行為を内側から観察するならば「閉鎖性」としか言いようがない。
基礎情報学は、シャノンの機械的な情報通信モデルを根底から批判し、人々が信じている「社会における意味の伝達(社会情報の伝達)」を基礎から位置づけ直す。
機械情報をいつのまにか社会情報と同一視するのが、技術中心の楽天主義的なメディア論の特徴なのだ。(メディア論、マクルーハン)
社会的なコミュニケーションとは実話、巷間信じられているような「主体的な人間同士の情報伝達/メッセージ交換」などではなく、自律的な閉鎖系において自己言及的におこなわれる出来事。
またく人間が参加せず、コンピュータ・エージェントだけが参加する社会的なHACSはそもそも存立しえない。それは他律的なプログラム制御系となってしまうのである。
客観世界の存在を信憑することは勝手であるが、その存在を証明することは不可能なのである。とはいえ、この主張は「一切は空だ」といった神秘主義につながるものではない。むしろ学問的手続きを重んじようという主張なのである。(…)まずは客観世界の不在を前提に議論を進めるのが誠実な学問的態度と言えるであろう。(…)客観世界とその精緻な表象という前提が消滅したとき、個々人がそれを共通知識として獲得するという情報伝達モデルは崩壊する。
グレイザーズフェルドのラディカル構成主義:認知主体である人間が、世界についての知識を外部から獲得するのではなく、これを認知主体の内部で自ら構成(construct)していく。試行錯誤と通じて周囲状況に「適応(fit)」するのが人間の認知活動なのだ。
ピアジェの発達心理学:行動スキーマ、同化、調節。 → グレイザーズフェルドはこれをフィードバック図式として解釈する。
概念とは生命活動と関わっており、外部から与えられるのではなく、むしろ内発的な存在である。(ヘルンスタインらによるハトの学習実験から)
- 再現前化(re-presentation):自らが過去に経験したイメージを、自己言及的に、繰り返し再構成する営為に他ならない。この心的作用が、一次的な経験的抽象と、二次的な反省的抽象とを結びつけるのである。
- シンボル:シンボルの連合作用によって、自分が過去に経験したイメージが喚起され、よみがえってくる。
- 両立可能性(compatibility):コトバの意味の共有(sharing)ではなく両立可能性によりコミュニケーションが成立する。
知識というのは学習者が自らの経験を通じて内的に構成していくものであり、それによって生存の可能性を拡大していくことが大切なのである。
客観世界と普遍的概念体系にもとづく小包的コミュニケーション論への批判。
肝心なのは、天下りの客観世界を記述した固定的知識の処理だけを情報技術の目的だと見なす安易な思い込みに対し、批判的な距離をとることなのである。
自己言及という行為は、本質的に生命体に特有のものであり、したがって決して回避すべきものではないのである。
設計された時点で、いわば時間的に宙づりにされた存在が機械に他ならないのである。それに対し、あらゆる生命体は本質的に通時的/動的な存在である。
静的な機械情報とはもともと動的な生命情報から派生したものである。生命体とはつねに自らを更新し乗りこえていく存在であり、ヒトも、ヒトのつくる社会的な組織も例外ではない。したがって、コンピュータを応用する際には、そういうダイナミズムを抑圧しないような留意が不可欠となるのである。
一人称(主体)としての「私」と、三人称(客体)としての「私」の違い。
一人称的記述を無視する粗雑な態度から、人間のどんな思考活動もコンピュータで代替できないはずがないという素朴な楽観主義が生まれてくるのである。
行動とはいわば、対話的なものであって、情報処理というよりは意味生成をあらわしている。身体行為は「脳、身体、環境にまたがる集合的現象」。
生命の本質は自己超克的なダイナミズムにある。
生命体が自らのアイデンティティ(自己同一性)を維持するためには、「生命体は自分自身をこえなくてはならない。現在の状況を、いまこの状態におけるアイデンティティを、こえていこうと渇望しなくてはならない」。
タイプIIアプリケーションは、一人称的な心(意識)の内部に直接踏み込むのではなく、ITを活用して魅力的な周囲状況(環境)をつくりあげることで心(意識)に間接的な影響を与える。
形式論理的な記号処理をコンピュータに代行させると、情報学的には大きな変容が起きる。記号操作の効率化/精密化/省力化の代償として、意味解釈の柔軟性や融通性がまったく失われ、その部分は形式論理的に固定されてしまう。社会的組織のなかで固定部分が増してくると、当該組織は生命的な活性度を失っていく。
セカンドライフの生活には、生理的欲求がない。タイプIIの変種にすぎず、要するに刺激的な人工環境をつくるだけで、われわれの生きる営みの根幹部分を支えるITアプリケーショントハなりえないのである。
生命的組織とタイプIIIアプリケーション:アイデンティティは具体的には、対応するHACSの意味構造/概念構造(意味ベース)で与えられる。このときもはや、経験的抽象と反省的抽象は個人の心(頭脳)のなか、社会的抽象は社会的組織のなか、と概念が形成される場面をはっきり峻別するための境界線は曖昧になっていく。両者は、通常言われる間主観性の域をこえ、動的に、緊密に結びついてしまうのである。
タイプIIIアプリケーションは、機械的組織から生命的組織への移行を促進する。
機械は他律システム。タイプII的「対話」の楽天的な追求は行き詰まる。ヒトと同じ生物であるかのような誤解をしてはならない。
タイプIIでは「個人」と「パソコン(personal computer)」。タイプIIIでは生命的組織と「個人」は「階層関係にあるHACS同士」。「個人」が解体されていく。
セカンドライフには多重人格や融合人格が出現しうる。
アルコールによって普段と違う人格が出現するように、個人のなかには多様な人格が潜在している。統一的な人格、つまり首尾一貫した論理にもとづいて行動する個人というのは、むしろ社会的な組織が要請するものと言ってよい。ゆえにもしITが、いくつかの組織のためのプラットフォームを準備できれば、われわれは自らの身体や記憶をリソースとして、それぞれの組織のコミュニケーションのための素材を提供すること、換言すれば、複数の人格になることもできるのである。
個人とは、遺伝子が生きのびる上での一つの単位にすぎず、これを絶対的な単位として特権視することの根拠は明らかではないと言っても過言ではない。
生命的組織は、“人間=機械”複合系である。あたかも細胞が集まって多細胞生物をつくるように、ヒトやヒトのグループ同士がコンピュータやインターネットを介して多様なモードで相互連携する。
意味ベースの更新維持がIT(コンピュータ・エージェント)による支援と密接に関係する。生命情報の曖昧な「意味」を、明示的な表現として記述し、共有可能なものとして蓄積していく。
階層関係のあるHACS同士は、非対称な関係を保ちつつ、相互に相手を変革していく。どのHACSでも、コミュニケーションを継続し意味ベースを形成するために、いかなる連辞的メディアと範列的メディアをいかに用いるかが、生命的組織の成否の鍵を握ると考えられる。
(タイプIIIアプリケーションの)具体的なイメージとしては、ITベースのインフラのもとで、企業組織の長が観察者となり、従業員の発言を総括し、これをそれぞれの従業員にフィードバックしながら、組織全体の意見をまとめていく、といったプロセス。ここで観察者は、評論家のような三人称的/客観的な記述ではなく、当該組織の当事者としてむしろ一人称的/主観的な記述をおこなうことが望ましい。換言すると、あくまで組織の創造的発展のための内的視点に立つのである。したがって、単に論理のつじつまを合わせるのではなく、上意下達でもなく、構成メンバーのなかに潜在する無意識の、あるいは直感的/身体的な部分をすくいあげるように努めることが大切である。
※『一般意志2.0』に似ている! だが「一人称/主観的な記述」というあたりが違う。なるほど「無意識」「直感的/身体的な部分」(これは「動物的」と換言できる)を「すくいあげる」ためには、「当事者」として「一人称/主観的」に記述しなければならない。これは納得。
キーポイントとしては、従業員のミクロな発言の揺らぎが相互に共振して、大きなうねりを生じ、組織のマクロな意見として収斂し、明確化されていかなくてはならない。
HACS内の情報創出の内実とは、「下位のHACS間でおこなわれる情報伝達/情報蓄積/情報処理の総体」に他ならない。主観と客観の対立も、一人称的記述と三人称的記述の対立も消滅する。意味内容はあくまでHACS内部で自律的/自己言及的に発生するのだから、「誤解」とか「文脈によるゆらぎ」などはもともと存在しない。意味内容の「正しさ」は、ただ、上位レベルのHACSにおいてその意味内容が果たす機能/実効性によって判定されるだけなのだ。
- ノイマン/シャノン流の他律システム論的なパラダイム → 人間や社会の機械化 → 生命特有の柔軟性が排除され、創造性が枯渇する → 社会全体が衰退と破滅に向かう
- ウィーナー流の自律システム論的なパラダイム → オートポイエーシス理論 → 基礎情報学
「情報公開によるエンパワーメント」批判:新聞、テレビ、インターネットなどで公開されるのは機械情報に過ぎない。人々が機械情報を単にアクセスできるようにすることと、それを_生存に真に役立てること_の間には大きな隔たりがある。大量の機械情報の洪水のなかで、人々がむしろ思考停止に陥ることは珍しくないのだ。
個人間を隔てる壁こそが現在のIT応用の限界をなしている。真の集合知を実現するには、この限界を乗りこえることが必要不可欠なのだ。
物理的な肉体は一種の「リソース」にすぎない。むろん、肉体が生命活動のベースである以上、人格と肉体の関係は複雑微妙ではあるが、HACSから情報現象を考えていくことで、肉体のみに限定されない、いっそう自由な生命活動をITによって実現することも不可能ではないのである。
人称の区別を乗りこえた有機機械(organic machine)。人称の区別の乗りこえを可能にするのは「身体」。機械情報と生命情報とを直結(言語化を経ない)させるという新ルートを考えてみよう。身体の中にある暗黙の領域を巻き込みながら、生命的な活性度の高い社会的組織の実現をめざすはずだ。
※necomimiを想起した。
いま求められているのは、生命的組織をもたらすタイプIIIアプリケーションであり、またそれを実現するタイプIIIアプリケーションなのである。生命独特の自律的/オートポイエティックなパラダイムを組み込まない限り、ヒトと機械とが巧みに複合し、生命活動を活性化するタイプIIIアプリケーションを開花させることは決してできない。われわれは現在、二一世紀をひらくIT活用の道を真剣に探求すべき岐路に立っているのである。
〜〜〜
メモ:
裁判がコンピュータ化された未来を想像した。コンピュータ裁判官が出力した判決案を、人間の裁判官がチェックして、問題があればアルゴリズムを修正する。つまり裁判官はプログラマーである。その修正によって過去の判例にどれほど影響が出るのかは瞬時に計算される。その影響を評価した上で、人間の裁判官は「従来の判例を踏襲する」か否かを判断する。基本的には従来の判例データベース(意味ベース)の範囲内で形式論理的な記号操作を通じた司法判断が自動的になされるのだが、ときには人間(専門家としての裁判官)の意志が介在して「プログラム」を書きかえるべきときがある。そのような契機を制度に組み込んでおく。…と思ったが、このようなことは難しそうだ。そもそもプログラムに入力されるのは機械情報だけなのであって、それでよいのか? という司法の原理レベルからの問い直しが必要だ。 -
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西垣さんは、後書きでも書かれているとおり、ところどころで「知的暴力」という過ちをおかしており、論証力という部分において、ちょっと突っ込みたくなる部分があるのだが、一冊通して読むと、得るところが多い書き手なのが魅力である。
今回は、オートポイエシスという概念に、アフォーダンスという概念を交差させ、生命的情報の本質に迫ることに成功している。そして、ヒトという生物がアフォーダンスからはみ出た存在であることの指摘においては、鋭いとしか言いようがない。
以下抜き書き。
・すなわち生物とは、いわば歴史を抱え込んだ存在なのです。非生物であるモノを記述するにはその物理的な構造からはじめればよいのですが、生物の認知活動を記述するには、歴史的側面を無視することはできません。そして、この歴史性すなわち時間的累積性こそが、〈情報〉(※生命情報)の本質的特徴なのです。
・現代社会においては記号の意味作用を安定させる強力な規範化権力がはたらいていること、そしてそのことが工学的な機械情報の重視、情報処理技術の進歩発展と深く結びついているということなのです。
・規範化権力は、辞書とか、学校教育とか、法体系といった近代的制度のなかに組み込まれています。
・われわれヒトは、自分の知覚だけではなく他者との言語コミュニケーションをもとに環境世界を認知し、そのイメージを作り上げていきます。つまり厳密には、ヒトは決して自分一人で環境正解を解釈しているのではなく、他者をまきこみ、共同で解釈をおこなっている、ということになるのです。
・文字という情報テクノロジーの登場によって、ヒトの社会には〈抽象化〉と〈普遍化〉という方向性が鮮明にあらわれた。逆に言えば、一つの語句の意味作用が抽象化・普遍化され、規範によって安定化されなくては、その語句は小さな共同体の枠をこえて何千何万もの人々のあいだで通用することはできないでしょう。
・端的に言うと、印刷技術の登場とともに、はるかな父祖の威光をひきつぎ聖なる声を発する存在である「王」は死んだのでした。
・近代国家では政治と宗教はふつう分離されます。宗教は共同体の統合をつかさどる社会的装置から、個人の内面にかかわる心理的装置へと重心を移していきます。
・文字を一次元にならべた印刷本はヒトの視覚だけを特権化し、感覚の比率を狂わせるとマクルーハンは批判します。
・優れた詩というものはすべて、見慣れた日常世界を組み替え、環境世界に新たな異なる〈意味〉を付与することができます。
・国民国家が「国語」を独占できる時代は、過去のものとなりつつあります。もちろん、二一世紀にも国家が無くなることなどないでしょうが、その形態や機能は、絶対的な政治単位からゆるやかな国際連合体の要素という方向に変わっていくかもしれません。そういう潮流のなかで、いかに自分の言葉をとらえ直し、自分のアイデンティティを見つめ、地球上のコミュニケーションに参加していくか、それがいま、問われているのです。 -
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
地球上に生命が誕生した三十数億年前に、情報も同時に誕生した。
情報とは生命の意味作用であり、ヒト特有の言語もその発展形にほかならない。
すなわち、ヒトの“心”とは“情報”が織りなすダイナミックなプロセスなのである!
それでは、動物の心を根底にもちながら、一方で機械(コンピュータ)で心をつくろうという野望を抱く、現代人の心とはいったい何か?
オートポイエーシス、動物行動学、アフォーダンス、人工知能といった理系の知と、現象学、言語学、社会学などの文系の知を横断しながら、まったく新しい心の見方を提示する、冒険の書。
[ 目次 ]
第1章 情報から心をみる(情報学からの展望 心は情報処理機械か ほか)
第2章 機械の心(機械が言葉をしゃべるとは 人工知能の挑戦 ほか)
第3章 動物の心(生命の誕生と歴史 心的システムの進化 ほか)
第4章 ヒトの心(言語が生まれる 原型言語 ほか)
第5章 サイバーな心(もとめられる身体性 イメージ商品としての機械情報 ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
AIが人間の意思決定を凌駕するシンギュラリティは来ないという。なぜなら、AIは意味解釈ができず、意志を持たないから。
2016年の本でLLM以前だからもう古くなってしまっていることは否めない。意志をもたないことは今でも同じだと思うが、意味解釈についてはかなり実現してしまった。というかむしろそもそも人間の意味解釈自体が確率論的連想にすぎなかったなんじゃないかということがわかってきたと理解している。
AIは道具ということはごもっとも。
「インターネットや人工知能技術の基層には、高みを目指す一神教的な理想主義と宇宙観があるのだ」という考え方には、プロ倫的な意外性に面白さは感じるが、根拠は希薄でちょっとついていけない。偏見にもつながる。 -
Posted by ブクログ
2019年 中公新書ラクレ
AIと倫理を考えるにあたり、それぞれを定義する必要がある。例えばAIであれば、推論プログラムを用いるもの、膨大な情報から瞬間的に抽出するもの、深層学習を行うもの、対話型プログラムを行うもの等々が存在する。
倫理は、功利主義、自由平等主義、自由至上主義、共同体主義等の観点がある。(優位性は無い)
しかしAIと倫理の諸問題を考える際、それぞれを十分に整理された状況ではなく、論じることが出来ない。そもそもAIは他律型機械(プログラミングによって答えを出す)為、客観的責任を撮ることが出来ない。
その為自動運転、監視選別社会、AIによる創作物等は、官民学の連携が必要である。(例えば、自動運転で誤作動による事故の責任は、プログラミングした人ではなく、国が補償する)
感想
AIや倫理には様々な段階、種類があり、一概にAI責任論について論じる事は出来ないというのは確かにその通りだと思った。ただ、人工知能が「責任」を取れないからと言って国が補償するのは、極論では無いか?と思った。シンギュラリティやデータ至上主義、AIが人間社会よりも優位性を持つ事は、ユダヤ教やキリスト教に基づくSFであるという著者の意見
が興味深いと思った。
ハラリ
人間の代わりにAIが意思決定をする。
人間至上主義から機械的なデータが信頼されるデータ至上主義に変更する。
フロリディ
ハイパーヒストリー時代
コペルニクス革命、ダーウィン革命、フロイト革命、情報革命 -
Posted by ブクログ
こういう本は、連載の時にリアルタイムで読みたい。
とは言え毎日新聞の読者になる気もない。
デジタル庁に関しては、あまり期待してないと解釈した。
初代デジタル庁長官が、
NECをぶっつぶせ!
とわめいていたのをニュース映像で見た。
期待できないなと思った。
次の地元の選挙区では落選した。
比例区で生き返ったりはしたが。
次のICU出身の女性長官もいつの間にか
いなくなった。
3代目は時々プッツンする人だ。
私はデジタルの意味がわからない。
少なくともアナログに対するデジタルの意味くらい分かっている。
ロジックの回路図くらいはわかる。
行政屋がアバウトに言うデジタルって
インターネットのこと
自動読み取りのこと?
デジタル放送なんて始まって4半世紀が経つ。
デジタル社会
の定義ってなんなのか?
デジタル → 非物質化
デジタル社会とは → デジタル技術を応用した社会
などとネットには書いてある。
そのデジタル技術の定義は?
AI って?
ディープ・ラーニングって?
松尾豊教授は別として、
意味がわかって使っている人ってどの程度?
いつもしゃべる時に、結論を言わずに、言えずに
アバウトなことしか言わない某国の総理大臣みたい。
漠然としているのがデジタル社会??
デジタル社会 もアバウトな概念で 皆さん自分の都合よく解釈してるんだろうね。 -
Posted by ブクログ
デジタル社会の現況と情報学を幅広に捉えた一冊。総花な感じで焦点がぼやけるか?
全5章から成り、1章は新型コロナ以後の日本の官民デジタル社会現況、2章はAIとメタバースの現況、3章は情報学のうち多様な主観性を重視する考え方の概論、4章は分断アメリカ社会、5章がまとめと提言の構成。
1・2・4章に新しい発見や驚きは正直あまりなくて、読むべきは3章と5章か。
とはいえ、3章は情報学素人の私は完全に置いてけぼりをくらった。著者の専門分野で真骨頂発揮の章なのだと思うけど、情報を哲学的に捉える視点・イメージ・理論がさっぱりわからない。これは別の本で学ぶべきことか。
5章は、日本人の気質(保守的でトップダウンのムラ社会)とデジタル社会(変化し続けるオープンな自己責任社会)の相性の悪さは納得。
人もシステムも社会も、ベータ版が許容されない日本の環境と気質のままでは、いつまでたっても国際デジタル社会のフォロワーだろうなと感じた。
巨大IT企業が作り出す金やビジネスに偏重したデジタル社会は、負の側面と格差拡大ばかりが目立っているような気がしてならない。 -
Posted by ブクログ
シンギュラリティ仮説への批判。
最終章にすべてのエッセンス。
素朴実在論に立脚し得ない点は既に決着済。フレーム問題や記号接地問題は解決し得ない。相関主義哲学に基づけばシンギュラリティーはありえない。唯一の可能性は思弁的実在論によるものであろうが、その場合、現在喧伝されているような楽観的なシンギュラリティー後の社会は描き得ない。
シンギュラリティー仮説の背後にある、創造神、ロゴス中心主義、選民思想、この3つがセットとなった一神教的世界観。
過去の蓄積に準拠する機械と、創発性のある生命体との相違。
AIよりもIA Intelligence Amplifierと捉えるべき。