ゴーゴリのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
「鼻」
コミカルに軽快に書かれていた。
なんだか落語を読んでいるみたい。
ありえないのだけれど、形を変えて起こることもあるのかもしれない、と思いを巡らせようとしてしまう。
突然、思いもよらないことが我が身に降りかかった混乱ぶりが、どこか分かる気がした。
「外套」
アカーキー・アカーキエヴィチには、つい微笑んでしまう。
決して悪い人ではない。
自分の能力の範疇で、自分の喜びとともに、日々生きてきた人だ。
苦労して外套を新調した、その喜びに浸って、何が悪いことがあろうか。
しかし、残念なことに、この新たな変化が人生の大きな変わり目になってしまった。
切ない話だ。
役人の滑稽さが上手く描かれていて、笑った。
「査察官」
それほど面白くなかったかな。
横暴なしょうもない権力者が痛い目を見るのは気持ちいいけれど。
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Posted by ブクログ
・『鼻』、場面が奇妙すぎて、ちょいちょい誤読してるのかと思った。「鼻が制服を着て歩いてる」って言われましても。想像力が追いつけないよ。
・『鼻』の締め方良すぎる。この話と同じくらいわけのわからんこと、現実でもたしかに起こるわ。
・『外套』、まじめな小心者が舞い上がった直後に落とされるの辛い。終盤の怪奇小説パートでなんだか救われた。世間を見返してやれてよかったね。
・『査察官』、フレスタコフのしょうもないクズっぷりが清々しくて好き。登場人物がみんな親近感の湧くクズ。慌てふためくクズを遠目に観察する感じのブラックコメディ。
・落語調の訳の主張が強すぎたな...。 -
Posted by ブクログ
この新訳は落語調になっているときいたのでどうなんだろうと多少心配しながら読んだが、話となかなかあっていて読みやすく面白かった。
別の訳で読んだことがある人はどうおもうかはわからないけど…私はこれがはじめてだったので違和感は感じなかった。
『鼻』は、ある日鼻が顔からなくなっていてその鼻が服を着てそのへんを歩き回っており…という話でシュール。
これは落語調じゃなければ余計意味わからん…って思いそうな話ではあった。
『外套』は、貧しい役人が頑張って新しい外套を手に入れるものの…という話。
これは語り口のおかげで笑える場面も多かったが、基本的にはロシアの下層民の憐れさ、それでも生きているし尊重すべきであるというのがえがかれているのかなとおもった。
そういうところがドストエフスキーにも影響を与えたのかな、と。
一番面白かった。
『査察官』は、ドタバタ勘違いコメディな戯曲。
査察官でもなんでもない男を査察官だと勘違いした村の人々は…という話。
想像してたのはもっと暗い話だったのでこんなギャグみたいな話だったのかとびっくり。
いままでは検察官と訳されてたらしいけど査察官のほうがあってるらしい?
たしかに読んでみるとこれは検察官ではないよな、とおもった。 -
Posted by ブクログ
ゴーゴリというと名前だけは聞いたことがあるけれど
全く読んだことがなかったロシアの文豪??
ドストエフスキーはゴーゴリがいたから
自分の小説が書けた、みたいなことを言っているくらいの
すごい偉い人なんだろうなぁという印象だけはあった。
で、今回初ゴーゴリだったわけですが
ぶっ飛びました。
なんだ、このバカバカしさは!!
これは凄い。笑えます。
今の作家でいうと町田康なんかは近いのかも。
でもぶっ飛び具合のスケールが違う。
「鼻」という短編なんかは
朝起きたら虫になっていたというカフカどころではなくて
鏡を見たら鼻がなくなっていて
探しに町へ出たらその鼻が偉そうな格好で
町で紳士然と闊歩しているという話ですからね、
鼻が服着て歩いてるんですよ(笑)
意味わかりません(笑)
「外套」という短編も面白い。
ストーリー的には小学生が作りそうなレベルなところが凄い。
でも、なんか響くんですね。
何の取り柄もなく新しい外套を買うことが
何よりも楽しみになる、という小市民な男の話が。
ロシアではドストエフスキーとかトルストイよりも
ゴーゴリが人気がある、ということですが
なんとなくわかる気がします。
ついでに翻訳が落語みたいで読みやすいのも良いです。 -
Posted by ブクログ
このドタバタが、やっと終わった!という感じ。
第一部ではからだの丸い謎の男チーチコフが一癖も二癖もある貴族たちのもとを飛び回り、彼らに取引を持ちかける。
その取引というのが、事実死んではいるけれど書類上まだ死んだことになっていない農奴(役所の負荷を減らすために死亡登記は年一回とかだったらしい)を安く、あるいは無料で引き受けようというもの。
心よく無料でさしだす者もあれば、死んだ農奴の相場がいくらか・騙されたのではないかと猜疑心にとらわれる者、生前の農奴の特徴や長所を強調して値段をふっかける者、なんだかよくわからないがとにかく賭けがしたくてたまらない者……などなど。
まるでダンテの地獄篇のようでありながら、作者はこれらの者たちがまったくもってロシア的、驚くべきほどロシア的であることを強調してみせる。
プーシキンは農奴が、しかも死んだ農奴が、物のように扱われるのを見て「ロシアはなんて憐れな国だろう!」と嘆かれたそうだ。
さて第二部はというと、これは作者がその一部を暖炉に放り込んで焼いてしまった……まあそのくらい苦心惨憺して書かれたものらしい。
ゴーゴリは「死せる魂」を三部構成の小説、ダンテの「神曲」のように魂の浄化・救いのようなものが書きたかったらしいのだが、これは見事に失敗している。ナボコフもこの第二部はてんで相手にしていない。
ゴーゴリはとにかく細部にこだわった。愚劣さ低俗さ、それからロシアの自然の美しさの細部に…。
しかしどうだろう。数日たったらこの小説の内容はてんで覚えていなさそうである。掛け合いは確かにおもしろい……しかし惜しむらくは、古めかしい日本語訳のために内容の軽妙さと語のあいだにギャップができてしまってることだろう。
小島信夫の解説からの以下抜粋。
〈美しさといったものなら、細かに書かないで、むしろ文章を節約して思い浮かべる方がよい。だが愚劣さは、微細に書くに限るのである。〉
〈極端にいうとリアリストというものにはテーマはない。それにテーマがつくのは、作者が進んで何かをいわんとするときである。そのとき本当のリアリストになるわけである。デテイルに酔うあまり、ゴーゴリはいわんとすることより、低俗さそのものが面白かった。プーシキンは、ある意味ではゴーゴリの奥底にある「いわんとするもの」をゴーゴリよりよく知っていたともいえる。〉