全部が全部賛同できるわけではない。
「教育の問題」など、突っ込みどころはあるが、概ね「共感」できる。この人は底辺から這い上がってある意味での頂点にいるからこそ、そこから見られる景色があるし、底辺と頂点の両方について述べることが出来る、鋭敏な感性をもっている。底辺やその渦中にいる者が、客観的に己が観られるなんて、稀だ。そこから抜きんでることが出来たまれびとなのだ、北野武は。
本屋によく立ち寄る北野がそこで出会った万引き監視員のおばさんと、3回しか会っていないのに、3回目の最後にはきちんと出会いがドラマになっている、これは映画にできないかと考え込んだというエピソード。
これ自体はどうということのない話だが、このドラマを感じる感覚は、インターネットの本屋では体験できない。コンピュータの前に座っていたら、そういう体験は絶対にできない。そういう話になっている。
これには身につまされる。リアルだからこそ感じ取れることだし、感性も働かせられる、きちんとひとつの「出会い」になっている。ネットでも出会いはあると言われようが、リアルのなかで脳を回転させながら、コミュニケーションを取りながら感慨を味わうという感覚は、格段に違う感覚なのではないか。「ネット社会でしか人間になれない人々」がもう発生しているのではないか。ネットでは生きられるけど、現実社会では全く使いものにならない。大地震か何かが起きて、外に引きずり出されるような事態が起こった時、ネット社会でしか生きられない人々はどうなるのだろう‥‥などと、眩暈が起こりそうなことを思ったりした。
もうひとつ。これはそのまま引用する。
「CG画像を拡大したらドットの集まりが見えてくるように、メールのやりとりをすればするほど隙間は大きくなる。その隙間の感情が見えないから、じゃんじゃん不安になる。自分だけ仲間外れにされている気がして、またメールに齧りついてしまう。そういう底なし沼に落ち込んでいるんじゃないか。俺たちの世代なら、そんなもの解決するのは簡単だ。会って話しゃいいじゃねぇか。腹が立っているなら、殴り合いの喧嘩をすればいい。好きなら、どうして手を握らない。」
ネットでそんな議論に出くわしている。ボードを隔てている。だからこそ文字を尽くして言葉を尽くして紳士的にやろうじゃないかというところなんだろうけど、やはり私は思うんだな。会って話しなよって。その方が早いって。会ったってわからんもんはわからないかもしれない。でもそれはそれでいいじゃん、て。FACEBOOKに参加している自分が言うことではないか。
一番感動したのは以下のエピソードだ。はるばるフランスからやってきたふたりの北野のファンと行きつけの呑み屋さんで呑んで、そこの夫婦と仲間も交えてカラオケに行った。日本語、英語、フランス語が飛び交う中で馬鹿騒ぎして、ふっと正気に戻った北野がカラオケを止めさせて言うのだ。「今日はいつもの店で飯を喰って、いつものように酒を飲んで、いつものように遊びました。これが嘘も偽りもない、本当の北野武です。君たちは俺に思い入れがあるみたいだから、ひょっとしたら今日の北野武を見てがっかりしたかもしれない。でも、俺は今日、君らに会えてとっても嬉しかった。ありがとう。またいい映画作るよ」
北野、心からの言葉だったのだろうと確信する。「本気」で「思って」「やってきた」からこそ言える言葉だ。じんと来た。
そんなことが言えるようになってみたい。