あらすじ
地球温暖化も、携帯電話による人類総奴隷化も、すべての危機は、気づいたときには手遅れだ。道具の発明で便利になれば、その分だけ人間の能力は退化する。人類は叡智を結集して、破滅しようとしているのか!? 生死、教育、人間関係、作法、映画――五つの角度から、稀代の天才・北野武が現代社会の腐蝕を斬る。世界の真理に迫る傑作エッセイ!
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
笑いの「間」とは、客の笑いが収まる瞬間を見極めて即座に次の笑いを打ち込む技術。少しでも速いと、聞き逃した客が不快になり「冷めて」しまう。逆に遅いとしらけてしまう。
「友情」とは無償のもので、保険の掛け合いとは違う。「お前が困ったら、いつでも助ける。俺が困ったら、お前の前には絶対現れない」
Posted by ブクログ
239円
★再読
2026/09/10
著者:ビートたけし 本名・北野武。1947年東京都足立区生まれ。浅草フランス座で芸人としてデビュー後、1972年に漫才コンビ「ツービート」を結成、人間の「建前と本音」「理想と現実」との落差を舌鋒鋭く突きまくる芸風で漫才ブームの牽引役となる。テレビに進出後、『オレたちひょうきん族』『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』などの人気番組を次々と手掛ける。映画監督としても『その男、凶暴につき』『ソナチネ』『HANA‐BI』などの話題作を多数世に送り出す。2016年にレジオン・ドヌール勲章、2018年には旭日小綬章を受章。近年は小説執筆にも力を入れている。著書に『弔辞』(講談社)、『不良』(集英社)、『浅草迄』(河出書房新社)など。
「俺自身の脳味噌の働き方は、かなり理科系的だ。 今でも数学の問題を解くのは楽しみだし、オイラーの定理とか非ユークリッド幾何学なんて話を聞くと妙に心が騒ぐ。もし数学者になっていたら、どんな人生だったろう、などと夢想してしまうのだ。 映画監督という、昔は思ってもみなかった仕事をするようになっても、やっぱり俺は理科系だなと思う瞬間がある。シナリオを書いていて、因数分解みたいな作業を無意識のうちにやっている自分に気づくのだ。」
—『全思考』北野武著
「理工学部機械科の学生には、とにかくチンプンカンプンな世界なだけに、それだけ余計に憧れが募った。それになにより、哲学だの文学だの、学生運動の話をしていると女の子にけっこうモテた。俺がすらすらと喋れる話題といえば、ホンダのエンジンがどうしたとかいうくらいのもので、そんな話をしても、女の子にはちっともウケないわけだ。情けないけれど、自分の将来に自信が持てなくなったのには、そういう理由もあったかもしれない。 それに、大学生になって、世の中の仕組みが朧気にも見えてくれば、これから出世するなら官僚のキャリア組だとか、メーカーは給料が安いということがわかってくる。」
—『全思考』北野武著
「だいたい、今の社会は、人生とは何かとか、人間の生きる意味は何かみたいなことを、言い過ぎる。若い人には、それが強迫観念になっている。何かというと、そういうことを言う大人が悪いのだ。自分たちだって、生きることと死ぬことの意味なんか、絶対にわかってないくせに。 天国や地獄が本当にあるのかも、神様がいるのかいないのかも、誰も証明したことがないわけだ。そういう曖昧な状態なのに、生きる意味を探せなんてことを言われたら、誰だって迷うに決まっている。自分の能力だけで、その迷いから抜け出せる人間なんて、ほんの一握りなのだ。 火星に人間を送り込むくらいなら、生きることと死ぬことの意味を、人類の総力を挙げて研究するというプロジェクトに取り組むべきだ。その金を使って、世界中の学者が研究をすれば、いつか答えを出せるんじゃないか。 宗教というものが生まれたのも、つまりはそういうことがわからないからだ。 もし死ぬことが怖くないということになったら、宗教なんていらなくなる。人が宗教に頼る最大の理由は、やっぱり死への恐怖なのだ。死後の世界を誰も知らないから、それを教えてくれる宗教を求めるわけだ。そして、天国と地獄という概念が生まれた。 そんなことを言うと、お前は信じていないのかと言われる。 正直に答えれば、信じてはいないけれど、でも完全に否定しているわけでもない。お布施だの寄付だのをすれば、天国に行けるなんて話は、もちろん完璧に人の作り事だと思っている。すべての宗教がそうだと言うつもりはないが、大昔からそうやって金儲けをしてきた人々がいるのは事実だろう。」
—『全思考』北野武著
「人間はみんな平等だなんて、嘘っぱちだってことを、あの頃から叩き込まれていた。 そもそもウチの近所なんて、子供が「医者になりたい」って言えば、親は「無理だよ、お前馬鹿なんだから」。「新しいグローブが欲しい」って言えば「駄目だよ、ウチは貧乏だから」。それで終わり。馬鹿と貧乏で、ほとんどが解決していた。 一所懸命努力すれば、きっとできるよなんて絶対言わない。「お前は、馬鹿なんだからやめなさい」「学校なんか行かなくていいよ、どうせ頭悪いんだから」「欲しけりゃ将来金持ちになって買いな。ウチは貧乏だから買えないよ」 そういうことの繰り返しだから、子供は自然と自分の分をわきまえるようになった。諦めたり、我慢したりすることを、当たり前のこととして憶えるのだ。」
—『全思考』北野武著
「戦後民主主義だかなんだかで、人間はみな平等ということになった。その平等は、あくまでも法の下の平等であって、金持ちも貧乏人も、同じ法律で裁かれて、同じ基本的人権を与えられますよというだけの話だ。実際には、その平等だってかなり怪しいものだが、とりあえずタテマエとしては、そういうことになった。 それで、勘違いしてしまった。人間はみな平等だ、と。 法の前では平等であっても、人間そのものが平等なわけはない。 顔だって、背の高さだって、頭の中身だって、百人いれば百通りだ。 そして世間を見渡せば、道端の雑草を喰って飢えをしのぐ年寄り夫婦がいたかと思えば、もう一方には自家用ジェットで外国まで飯を喰いにいく金持ちもいる。 どう考えたって、平等なんかじゃない。なのに、どういうわけかみんな平等だってことにしたくて、努力すればなんとかなる、なんてことを言いだした。 子供に「お前は馬鹿なんだから」と言うより、そっちの方がよっぽど残酷だ。」
—『全思考』北野武著
「今の教育のように、人は平等なんだからみんな手をつなぎましょうなんていうのは、裏で喧嘩しろといってるようなものだ。 全員でリレーをさせて、負けたのは全員のせいだなんて教師が言ったって、ほんとうは誰のせいで負けたのかを、みんな知っている。 さっきの話とまったく同じだ。足の速いヤツは速いし、遅いヤツは遅い。馬鹿は馬鹿だし、ブスはブス。平等なんかじゃないことは、子供の目には明白だ。 なのに、表じゃそういうことを言ってはいけないことになっているから、裏で延々と言い続けてしまう。序列がつけられないから、無抵抗な弱い子を叩いて自分の順位を仲間に誇示しようとする。昔と反対に、弱い者イジメで仲間意識を確認するようになったというわけだ。」
—『全思考』北野武著
「話してわからないから殴るのだ。それを、殴っちゃいけない、話せばわかるなんて言っているから、いつまで経ってもわからないままなのだ。 自分で稼いだ金で、子供に飯を喰わせてるのに、子供に舐められてどうする。 殴るのは、虐待につながるなんて馬鹿なことを言うヤツもいる。 自分の子供をなんとかしようと思って殴るのと、殺したり痛めつけようと思って殴ることが同じだとでもいうのだろうか。」
—『全思考』北野武著
「話してわからないから殴るのだ。それを、殴っちゃいけない、話せばわかるなんて言っているから、いつまで経ってもわからないままなのだ。 自分で稼いだ金で、子供に飯を喰わせてるのに、子供に舐められてどうする。 殴るのは、虐待につながるなんて馬鹿なことを言うヤツもいる。 自分の子供をなんとかしようと思って殴るのと、殺したり痛めつけようと思って殴ることが同じだとでもいうのだろうか。「そういうことをする人間がいる。だから、子供を殴るのはやめよう」と言うなら、轢き逃げをする人間がいるから、クルマに乗るのも一切禁止にした方がいい。 そもそも、子供を虐待するような親が、世間じゃ子供を殴っちゃいけないということになったからといって、虐待をやめるわけがない。 子供を殴る話と、虐待をごっちゃにしてはいけない。 それにしても、学校の先生も大変だと思う。 今じゃ生徒を叩いたら、暴力教師のレッテルが貼られてしまう。下手をすると、怒鳴りつけたくらいのことでも、学校に文句を言ってくる親がいるらしい。 猛獣使いに、鞭を使わずに調教しろと言っているようなものじゃないのか。子供なんてものは、どこかでガツンとやってやらないと、どんどんつけあがる生き物なのだ。放っておけば、学級が崩壊するのも当然だ。 昔は学校で先生に殴られても、親には絶対に言わなかったものだ。そんなこと喋ろうものなら、「また悪戯したのかっ!」と、親にまで殴られる。 今の子供は、親が学校に文句を言ってくれるから、そのまま親に言いつける。そして、教師は子供を叱らなくなる。教育環境はどんどん悪化する。子供は叱られ慣れていないから、社会に出てもロクに使い物にならない。」
—『全思考』北野武著
「人間は人間に進化する前、まだ鼠みたいな小さなほ乳類だった頃、さんざん恐竜に喰われてきた。その記憶が DNAのどこかに残っているから、蛇のような爬虫類を恐れるのだという説がある。 マラソンや駅伝のレースで、ランナーがふらふらになりながら走っていく姿を見て、人が無性に感動するのも、話は同じなのかもしれない。 つまりあれは、人間がシャケだった時代を思い出しているんじゃないか? シャケに限らず、渡り鳥でも鯨でも、出産をするために、ものすごい過酷な旅をする種類がいる。人間にいたるまでの長い進化の過程のどこかにも、そういう時代があったのかもしれない。」
—『全思考』北野武著
「そりゃ俺の影響を受けたと言われれば嬉しい気もするが、正直言って残念なのは、彼らの作る番組が、ほとんど俺たちのやってきたことをなぞっているだけなことだ。何だこれ? というびっくりするような笑いが、まだほとんど生まれていない。新しいと思ったことは、まだ一度もない。 今のお笑いは、明らかに停滞期に入っているんだろう。 絵画の世界でも、印象派が出て、キュビズムになるまでにはある程度の時間がかかっているわけだから、それも仕方ないのかなあとは思う。俺たちの笑いに飽きたら、やっぱりキュビズムじゃないけれど、新しい笑いを生み出すはずだと思うのだが、今はまだその手前で立ち止まっているのだ。 だけどこれは、お笑いだけの現象じゃなくて、音楽でも芸術でも、今はみんなそういう状況に陥っている。新しいものが生まれていない。ちょっと見には新しいようでも、よく見てみると、昔の蒸し返しをやっているだけなのだ。」
—『全思考』北野武著
「許せないのが、一緒に酒を飲んでいるときに、「武さんはいい人ですね」という女。 こっちは、悪い人とか、ひどい人になりたくて誘っているのに。そう言われてしまったら、もう後戻りはできない。ずっといい人を通さなきゃいけない。 別れ際に、女はとどめを刺す。「また相談に乗ってください」「ばかやろう、お前には乗りたいけど、相談なんかに乗りたくねえよ」 なんて、口に出して言えるわけない。またしても、「わかったよ。気をつけてな」と手を振る男の寂しさがわかるだろうか。 いや、わかってるんだろうな。わかってて、「いい人ですね」って言っているのに決まってる。それが女というもんだ。 だけど、男はどうしてこうもスケベなんだろう。 揺りかごから墓場まで、男はそんなことばっかり考えて生きている。いかに女にモテるか、もっといえばいいネエチャンとやれるかが、男の最大の関心事なのだ。 100パーセントそうだとは言わないけれど、 99パーセントはそうに決まっている。」
—『全思考』北野武著
「ライバルを潰す最高の方法は、とにかく意味もなく褒めることだって話があるが、それと同じことだ。 芸人を殺すのに鉄砲はいらない。バカなお客がいればいいというわけだ。 面白くなかったら笑わない。 それは客としての、大切な作法だ。」
—『全思考』北野武著
「年寄りは、若い人に文句を言う特権があると、勘違いしてはいけないことをわかった上で言うのだけれど、それでも、最近の若者の作法を見ていると、このままではちょっと危険だと思うことがある。 作法の前提になる、知性が低下しているような気がするのだ。 この世に金で買えないものはない、なんていったヤツがいた。 テレビのコメンテーターをやってるような知識人は、とんでもない思い上がりだって騒いでいたけれど、俺はそうは思わない。」
—『全思考』北野武著
「俺はよく本屋に出かける。ある本屋で、同じおばさんに 3回声をかけられたことがある。 あるとき本を探していたら、おばさんに肩を叩かれた。「武さん、 1カ月ぶりじゃない、ここ来るの」 小声で、あんたとあたしの内緒よって感じで、「私、万引きの監視係なんですよ」って教えてくれた。 雨の日だったのだが、そのおばさんは、ちゃんと傘を持って、普通のお客のような顔して巡回をしていた。 それから 1年ちょっとして、今度は暑い季節だった。 また同じおばさんが、すーっと横へ寄って来て、「どうも、ひさしぶりです」って声をかけてくる。」
—『全思考』北野武著
「ダ・ヴィンチの作品は、十いくつしか残っていないといわれている。手がけた作品はたくさんあるが、ほとんど完成しなかったって聞いて笑ったけれど、考えてみれば、その十いくつの作品が、どれだけの人を養ってきたか。ルーブル美術館なんて、それで喰っているようなもんじゃないか。 フィレンツェも、『ダ・ヴィンチ・コード』の影響とかで、世界中から人が集まっていた。あの街が、旗を持った添乗員の後をゾロゾロ歩くツアー客で、ごったがえしていた。 ピラミッドにしたって、何千年の昔の壮大な無駄遣いが、 21世紀の今にいたるまでエジプトの人を喰わせている。ピラミッドがなかったら、エジプトに行くヤツなんてめったにいないだろう。吉村作治に言わせりゃ、史上最大の公共工事だ。そのエジプトで、蒸気機関車を走らせるのに、戦争で石炭が不足したもんだから、イギリス人はミイラを棺桶ごと燃やしてたって話も残っているけれど。 人間のやることは不思議で、不条理なのだ。俺だって、アフリカで何万人もの人が飢え死にしているっていうのに、映画なんか撮っている。 もちろんモナリザやピラミッドのように、俺の映画が何百年後の人間の役に立つなんて思ってもいない。それこそ単なる無駄に違いないが、それでも好きで映画を撮っている。」
—『全思考』北野武著
「 天才というのは、時代の産物でもあると思う。黒澤さんは才能豊かな人だから、別の時代に生まれてもきっとすごい仕事をしただろう。 それでも、あの時代に巡り会わなければ、黒澤明にはなれなかった。力道山も長嶋茂雄もそれは同じだ。だから、尊敬はしても、黒澤さんを目指そうなんて思ったことはない。 それに、そもそも俺はタイプがまったく違う。 さっきの 17万 2800カットの話でいえば、俺の絵はスカスカだ。あの人の映画には、捨てカットが 1カットもないけれど、俺の映画は捨てカットだらけだ。 リハーサルだって、いつも 1回でオーケーしてしまう。黒澤さんは背景に邪魔な電信柱があれば切り倒すし、天気が悪けりゃ誰がなんと言おうと 1カ月でも待つ。俺はなんだって撮っちゃう。 晴れのシチュエーションで撮るつもりで現地に行っても、曇っていれば曇っているように撮る。ホントはこの天気じゃないんだけどなあって思いつつ、撮っちゃう。 良くいえば、ほころびを繕う天才。 辻褄合わせにかけちゃ、俺の右に出る監督はきっといない。そのかわり、出来上がった作品は最初に考えたのとは全然違ったりする。何これ? っていうくらいに。だけど俺の映画は、それでいいのだ。」
—『全思考』北野武著
「 俺は俺自身のために映画を作る。 自分のために撮って、あとは「アンタも見る?」と聞くだけだ。 映画監督なんてやってる人は、たいてい映画が好きなわけだけど、酒好きと同じで、その好きにも 2種類ある。 映画監督が目的になっている人と、監督が手段にすぎない人だ。 映画監督が目的ってことはつまり、映画さえ撮っていれば幸せなのだ。映画が可愛くてたまらないから、自分の映画を客観的に見ることができない。酒は飲んでも飲まれるなっていうときの、酒に飲まれてしまうタイプだ。日本の映画監督には、こういうタイプがどうも多い。思い込みが強くて、空振りばかりしているのに気づかない。」
—『全思考』北野武著
Posted by ブクログ
・友情というのは、こちらから向こうに一方的に与えるもので、向こうから得られる何かではない。友情とは、自分の相手に対する気持ちだ。
・後輩が先輩を立てるだけじゃなくて、先輩は後輩に上手いこと立てさせてやらなきゃいけない。それではじめて、お互いに気分よく付き合える。
先輩が煙草を吸うのを察して火をつけてあげるのも作法なら、後輩に何気なく火をつけさせてやる気遣いもまた作法なのだ。
・たとえ知っていたとしても、一応はそうやってちゃんと聞くのだ。そうすれば、専門家というものは、きっとこっちの知らないことまで話してくれる。
井戸を掘っても、誘い水をしないと水がわいてこないように、人との会話にも誘い水が必要だ。
・どんなにワインに詳しくても、ソムリエにワインのことを語ってはいけない。そんな事をしたら、ソムリエは何も大切なことを教えてくれなくなる。
・自分で経験した「みたいな」を表現するのがアート
Posted by ブクログ
友人に勧められて呼んだ本。
正直北野武さんの大ファン、という訳ではなかったが、とても面白く、すぐに読んでしまった。
流石の北野武さん…思考の深さや幅など、良い意味で飛び抜けていて学びになる。
何度でも読みたい。これからの人生に光をくれる本。
Posted by ブクログ
数年振りの再読。
この前の紅白でたけしさんが歌っている姿を見て、本棚から引っ張り出して来ました。
すごい人って、完璧ではなくても中身が濃いことが分かります。
色んなことを考えて、経験して、グチャグチャになったものが詰め込まれて醸成されている感じ。
それが口から吐き出されると、なんとも言えない風味が伝わってきます。
Posted by ブクログ
一つの考え方としてとても面白い。たけしさんが言うからこそ説得力がある。こんなに凄い人がこんなに庶民的なことを考えていたんだと思わせるだけで、価値がある。
Posted by ブクログ
TVで見るあのおちゃらけてるひとと
あのかっこいい映画を撮影するひとと
この哲学的な文章を書くひとが同一人物だなんて。
義務教育からコツコツと積み上げてきた思考と、
芸能界で叩き上げた努力がこれを書かせたのであろう。
おもしろかった。
----------------------------------------------------------------------
・料理人に会ったら料理のこと、運転手に会ったらクルマのこと、坊さんに会ったらあの世のことでも何でも、知ったかぶりをせずに、素直な気持ちで聞いて見たらいい。自慢話なんかしているより、ずっと世界が広がるし、何より場が楽しくなる。P138
・カラダ貼って生きてきた職人の生き方が酒を飲む姿に集約されているんだろう。ああいう姿を見ていたら、酒はこうやって飲むものだなんて作法を教わる必要なんかない。P149
・イチローがヒットを打って客席は大騒ぎしているのの、本人のイチローが首を傾げていることがある。「あのヒットは駄目です」って。周囲の声に関係なく、自分のバッティングを冷静に客観的に見ているのだ。世界一の記録を作って人気者になって、イチローの野球人生は幸せいっぱいに見えるけれど、きっと周囲が想像するほど楽しんではいない。P191
・自分が好きな映画を作ることと、自分の作った映画が好きなことことは違うのだ。P192
Posted by ブクログ
北野武が作法などについて語った一冊。文章を読むうちに、本人が訥々と語っているような気がしてくるくらい、深く入り込んでいた。特に最後の「神様はどうしていろんなことを、俺ひとりに被せるんだろう」の下りは不思議な味わいがある。最初と最後を見て面白いと思ったら買いかも。
Posted by ブクログ
「山鳩の雛を育てた親子と山の反対側で同じく鷹の雛を育てた親子が雛の成長を喜び空に話してやった。そしたら、鷹が山鳩を食べ山の反対側では食べられたと泣いた。向こう側では鷹が初めて餌を取ったと喜ぶり人生の喜びも悲しみも根本的にはそういうものだ。この世で起きることには本来何の色もない。喜びや悲しみの色をつけるのは人間なのだ」
Posted by ブクログ
北野武が日々思っていることを一冊にまとめたエッセイ。
正直、北野武のことはごくごく表層的なことしか知らない。
でも、北野武という人が「どう感じているのか」ということがよく伝わって来ました。
この本を読んでいて何度も出てきたキーワードは「下品」と「恥ずかしい」という言葉。
「上品」という言葉は聞きます。「××の品格」なんてもんがちょっと前に流行りました。
でも「下品」であることを非難する風潮ってすごーく弱い気がします。
そもそも「品」に関する共通認識がないからなのかな。妙に「品格」とか小難しい言葉に祀り上げちゃうからいけないのか。ともかくとても「新鮮」に響いたのでした。そして強く共感しました。
お高くとまりたくはないし、自分を落とすのもよいけど、「下品」にだけはなりなくない、というたけし氏の感覚。
Posted by ブクログ
料理人に会ったら料理のこと、運転手に会ったら車のこと、坊さんにあったらあの世のことでも何でも、知ったかぶりせずに、素直な気持ちで聞いてみたらいい。
自慢話なんかしているより、ずっと世界が広がるし、何より場が楽しくなる。
「ごちそうさま。今日は勉強になりました」と言って席を立つことの方が、鮨屋でのいちばん大切な作法だと俺は思う。
じゃんじゃん引き出せばいくらでも引き出せるのに、世代が違うと話が合わないなんて言うのは間違い。話が合わないんじゃなくて、話を引き出せない自分がバカなのだ。
メールが世の中に広まってから、若者の思考回路も、メールのレベルに引きずり降ろされてしまった。今の若い連中は、考えてメールを書くんじゃなくて、メールで書けるくらいのことしか考えなくなってしまったいるんじゃないか。
単なる言葉の流行りではなくて、「みたいな」という言葉の流行には、思考能力の退化という問題が絡んでいるんだと思う。
Posted by ブクログ
子供が世の中に出た時に、現実に打ちのめされて傷ついても、生き抜いていけるだけのタフな心を育ててやるしかない。
人間なんてものはどんなに格好つけていても、一皮剝いたらいろんな欲望の塊みたいなものだ。でも、だからこそ、その一皮のプライドを大事にしなきゃいけない。それが文化というものだろう。
Posted by ブクログ
北野さんの本は
言葉と文章に味がある。
独特の人懐っこさというか甘えん坊のところとかシャイなところ含めて可愛い。
こういう表現をする人が
いなくなってしまうようなら残念
Posted by ブクログ
随分前のことだけど、私の兄が街で北野武を見かけて握手をしてもらい、それが嬉しかったらしく「今日ビートたけしに会って、握手してもらったよ、普通のおじいさんだったよ」とメールをくれたことがある。
うちの父がちょうど北野武と同年代で、背格好や雰囲気がどことなく似ていると私は思っているので、兄のメールの件もあいまって、親近感のようなものを勝手に抱いている。
大御所と言われるようになった今でもテレビでくだらないことをやって(そして大抵、すべって)いるけど、本当はとても知的で奥ゆかしい人なのがこの本を通してよくわかる。そしてくだらないことをやり続ける理由も分かった。ただ、すべっているのが計算なのかは分からない(笑)。
有名な騒動で前科者になったり、命を落としても不思議ではないような事故を起こしたり、ハチャメチャな人生を送っているけど、今の時代には失われつつある本当の「粋」を感じさせるかっこいい大人の男だと思う。この人の人生哲学をもっとたくさん聞かせてほしいと思う。
特に第四章の「作法の問題」の下記の一節は、いつでも見返せるようにそのまま引用したい。
『作法の究極は気遣いだけど、その気遣いは、作法の型を繰り返してカラダに叩き込むことで、自然と身につくというわけだ。作法にはそういう意味もある。
頭で考えさせることも大切だけれど、作法を実践させることはまた違うのだ。
野球だって、練習だけで試合をしたことのないチームが強いわけがない。芸人も、客の前に何回出たかが勝負だ。2人で漫才の練習をどれだけしようと、1人でも2人でもいいから客がいる前で演る1回にはかなわない。
作法だって、1回でも多く実践したヤツの勝ちだ』(P127)
Posted by ブクログ
昔からビートたけしの面白さがわからなかった。
今もそうかもしれない。
自身の中で関東の笑いと関西の笑いを区別してしまうことは正直なところある。
関西にはお笑い番組が溢れてて、その中で育った僕もやはり小中学生時代は女の子にもてたいやつよりは面白いやつをひたすら目指したクチだ。
そんな僕が今になってビートたけし、北野武を知ろうと思ったのはほんの些細なきっかけに過ぎない。
この1冊で理解できたか分からないが、少なくともそこには日本の粋な1人の人間が映し出されていた。
芸人だからとかではなくて、日本の文化や思想がしっかりと形になってる。
そうすると具体的な説得感や納得解が腑に落ちてしまう。
なんか悔しいけどカッコいいとさえ思ったさ。
北野映画をまた観たくなっちまったぜ。
Posted by ブクログ
「単なる保険の掛け合い」は友情ではない。だから「お前が困ったら、俺はいつでも助ける。だけど、俺が困ったときは、俺は絶対にお前の前には現れない」が正しいと北野武は言う。単なる保険の掛け合いに堕していないか、ともすると八方美人な態度を取りがちな自分自身に改めて問いかけてみたい。
北野武の鋭いこうした洞察にはいつも感心してしまう。
Posted by ブクログ
「超思考」の前掲。武さんの社会問題にたいする考え方。
最近こういう話題で目上のひとの意見を聞くことがめっきり減った。新鮮。
教育問題は共感部分もあるがそういう風潮でもなく難しいんだろうなと、自分なりの解決案が見いだせない。
Posted by ブクログ
はじめはただ、どんなことを書いてあるのだろうと探る気持ちで。
やはり有名な人が書いた本を読むとき、はじめは疑いながら読む。
「ほんとうに面白いのか」
なんて考えて。
最後のほうは、
「ああ、やっぱりこの人は面白い人なんだな」
と感じました。
さまざまなことを考えさせてくれる本というよりは、
私が考えていたいくつかのことを、北野さんという視点に変えて確認したという印象が強いです。
Posted by ブクログ
彼なりの考え方で、正論ではあるがいかに租借しているのかがわかる。賛同できる部分も多々あるし、新しい発見もあった。時々解せない部分もあるにはあるのだけど、これは当然なのでしょう。
ボリュームも文句なし、500円ぐらいなら買ってよいとおもう。
Posted by ブクログ
全部が全部賛同できるわけではない。
「教育の問題」など、突っ込みどころはあるが、概ね「共感」できる。この人は底辺から這い上がってある意味での頂点にいるからこそ、そこから見られる景色があるし、底辺と頂点の両方について述べることが出来る、鋭敏な感性をもっている。底辺やその渦中にいる者が、客観的に己が観られるなんて、稀だ。そこから抜きんでることが出来たまれびとなのだ、北野武は。
本屋によく立ち寄る北野がそこで出会った万引き監視員のおばさんと、3回しか会っていないのに、3回目の最後にはきちんと出会いがドラマになっている、これは映画にできないかと考え込んだというエピソード。
これ自体はどうということのない話だが、このドラマを感じる感覚は、インターネットの本屋では体験できない。コンピュータの前に座っていたら、そういう体験は絶対にできない。そういう話になっている。
これには身につまされる。リアルだからこそ感じ取れることだし、感性も働かせられる、きちんとひとつの「出会い」になっている。ネットでも出会いはあると言われようが、リアルのなかで脳を回転させながら、コミュニケーションを取りながら感慨を味わうという感覚は、格段に違う感覚なのではないか。「ネット社会でしか人間になれない人々」がもう発生しているのではないか。ネットでは生きられるけど、現実社会では全く使いものにならない。大地震か何かが起きて、外に引きずり出されるような事態が起こった時、ネット社会でしか生きられない人々はどうなるのだろう‥‥などと、眩暈が起こりそうなことを思ったりした。
もうひとつ。これはそのまま引用する。
「CG画像を拡大したらドットの集まりが見えてくるように、メールのやりとりをすればするほど隙間は大きくなる。その隙間の感情が見えないから、じゃんじゃん不安になる。自分だけ仲間外れにされている気がして、またメールに齧りついてしまう。そういう底なし沼に落ち込んでいるんじゃないか。俺たちの世代なら、そんなもの解決するのは簡単だ。会って話しゃいいじゃねぇか。腹が立っているなら、殴り合いの喧嘩をすればいい。好きなら、どうして手を握らない。」
ネットでそんな議論に出くわしている。ボードを隔てている。だからこそ文字を尽くして言葉を尽くして紳士的にやろうじゃないかというところなんだろうけど、やはり私は思うんだな。会って話しなよって。その方が早いって。会ったってわからんもんはわからないかもしれない。でもそれはそれでいいじゃん、て。FACEBOOKに参加している自分が言うことではないか。
一番感動したのは以下のエピソードだ。はるばるフランスからやってきたふたりの北野のファンと行きつけの呑み屋さんで呑んで、そこの夫婦と仲間も交えてカラオケに行った。日本語、英語、フランス語が飛び交う中で馬鹿騒ぎして、ふっと正気に戻った北野がカラオケを止めさせて言うのだ。「今日はいつもの店で飯を喰って、いつものように酒を飲んで、いつものように遊びました。これが嘘も偽りもない、本当の北野武です。君たちは俺に思い入れがあるみたいだから、ひょっとしたら今日の北野武を見てがっかりしたかもしれない。でも、俺は今日、君らに会えてとっても嬉しかった。ありがとう。またいい映画作るよ」
北野、心からの言葉だったのだろうと確信する。「本気」で「思って」「やってきた」からこそ言える言葉だ。じんと来た。
そんなことが言えるようになってみたい。
Posted by ブクログ
こんな人だから映画が撮れるんだろうな。本質をパッと掴む頭の良さがあって、好きなことにはすごい努力家で勉強家で。そんな人が有名になって経験値を積んで。それだけじゃなく、生まれ育った肌感覚や美意識を大事にしてる。大したもんだよ。
Posted by ブクログ
古本で買って風呂に浸かりながら読んだ これでちょうどいい本 平成生まれの若者なんかが読んだら古い考えだとおもうかもしれない 昭和の人間は読んでふと我に返ることもあるだろう
Posted by ブクログ
この人の書くことが好きだから(好きなことが多いから)、
好意的な感想になってしまう。
どんなキツイ言葉を使っていても、心根のやさしい、圧倒的なマザコンの、少年おじさんだってことがよくわかる。
映画や絵に向ける気持ちも、同業者に向ける気持ちも、自分に対しても、冷静さと強烈さのきわどいところで均衡を保とうとし続ける大変さが滲む。大変な人生、唯一無二の凄さ。
Posted by ブクログ
彼の主張、人間は決して平等ではないということと、努力はいつも報われるわけではないことについて。その通りだと思う。「建前」がはびこっていることが、余計に人を苦しくしている。陰湿ないじめや社会の閉塞感等々、現代日本の代表的病理の源泉はこれらの幻想にあるのではないか。
悪平等主義の弊害は大きい。小さい頃から皆同じなのだと叩き込まれることが、どれほどの苦しみを産んでいることか。努力しても追いつけないから、安易な方法で人を引きずり降ろそうとしたり、あるいは殻に閉じこもってしまったりする。最初から彼我は違うものだという前提に立てば、そういうことにはならない。
ではどうすればいいか。好きなことを見つけること、他者との相対比較から脱却して他者貢献を考えること。他者を出し抜くための努力から、自分の好きなことを役立てるための努力にシフトすることが、一つの解法ではないか。
Posted by ブクログ
彼の言っていることは全て正しい。それは彼がその時代に生きて、その時代を生き抜いたからだ。彼はそういう思考回路で以ってその時代を生きた。これは誰にだって認められている事実だ。
問題は別にある(僕はそれで途中で読むのを止めてしまった)。彼の言っていることは、時代としての正しさだ。証明なんて必要ない。彼がそこにいることそれだけで、この書に書かれてあることは全部正当となる。批判の仕様がないのだ。我々若い世代としては、これをまるごと受け取らなくてはならない。その意味では、彼がこのような時代の書を著したことは有益である。我々はこの書から学ばなければならないし、読んでいれば自然と学ぶことができる(それを学ぶというのかどうかは置いておき)。
しかしそれは、時代としての集団的な考え方だ。彼個人の考えではない。時代に要請された生き方を、彼はそのまま書いているに過ぎない。「思考」と銘打ってあるが、それは彼と、彼と同じ時代を生きた人間に染みついた泥みたいなもので、それを今の時代に向けて投げつけているだけなのだ。思考というと、僕はもっと柔軟なものを想像する。それが正しいかどうかは時代が決めるのではなく、時代を越えた我々全ての人間が決める。そこでは批判が通用しなければならないし、その批判をさらに批判する批判もなければならない。そうしてそれらを全て受け止めるのは主張した個人だ。個人は思考した責任を負わなくてはならず、批判が起きたならそれにきちんと答えなければならない。思考とはそういうものだと思う。そしてそれがいわゆる「哲学」だ。
だが、彼の主張は全て「正しい」。それは「思考」ではない。それは「時代」であり、「身体」であり、「泥」だ。投げつけられたそれは、我々に否応なしにこびりつく。我々は自分の身体にこびりついた泥を払おうとする。だが我々はまた、彼が投げたのと異なる成分の泥を自分たちの身体にもっており、彼の投げつけた泥によってそのことにはっと気づく。我々が自分たちの泥を投げれば、それはそれで「全思考」となる。きりがないのだ。泥の投げ合いっこをするのは子どもたちのやることで、ある程度ものを考えられるようになれば、泥をお互い投げることのないような方策を考えることもできるし、またどうして泥があり、どうしてそれを投げつけたくなるのか、というようなことも考えられるようになる。それを彼はやるべきだった。……あるいはその仕事は我々に任されているのだろうか。とすると、やっぱりこの本に出会えて良かったと思えるのである。
Posted by ブクログ
争いにに決着がつかないから、戦争が終わらない。
きちんと枠を与えてあげる
競争のない世界に一番はない
話を引き出せない
圧倒的なわがまま、むだ