小林哲夫のレビュー一覧
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著者とほぼ同世代としてこの本に横溢するちょっと上の先輩たちに対する隠しきれないシンパシーにシンクロして一気読みしました。制服斗争(闘争じゃないんだよね…)という言葉に眩しさを感じたことを思い出します。第二次世界大戦やベトナム戦争という戦争からの距離感、新制高校という制度の歴史、そして高度経済成長の実感、そういう時代的な状況と十代の多感という不変な季節が重なることで生まれた1969-1970という一瞬。大学紛争の縮小版とは違う歴史なのだと知りました。それは終戦時、アメリカに子供と言われた日本社会自身が青春に突入した瞬間なのかもしれません。
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ネタバレ高校紛争
私がかつて通った県立高校には殆ど校則がない。
勉強ができ法律に触れなければ、茶髪でもピアスでも文句を言われない、そんな学校だった。
校則がほぼないのは、ずっと昔に自治会(うちの学校は生徒会のことをそう呼ぶ)が学校側に猛抗議をした結果だということを聞いたことがあった。それが、本書を読む前に私が知っていた、高校紛争に関する断片的知識である。
学園紛争には様々な側面があるが、ここでは以下の二つの側面について考えていきたい。
<①生活指導・校則に対する反抗としての高校紛争>
<②偏差値教育に対する反抗としての高校紛争>
①学外でも制服・角帽を強制され、みな丸坊主。
高度成長期を過ぎ豊かになった日本で、オシャレな私服を着たいという
欲が生徒に芽生えるのは自然なことだ。
だが、10代の若者にとって最大の権力・権威である学校はそれを許してくれない。生徒は校長室の封鎖をするなどして、実力行使に出るという構図が発生した。
ここで興味深いのは、制服を廃止しなかった高崎高校(群馬)校長のコメント
"高崎高校一校の問題ではなく、県下全体の問題として処理されたいという(関係者からの)要望が強かった。高崎高校に自由化が許された場合、それは県下全体に波及する恐れが十分にあるというのである。"
⇒補足すると高崎高校は群馬県下でトップクラスの進学校である。
「高高単独であれば自由化しても風紀が乱れるおそれは小さいが、DNQ高校にまで波及して荒れることになれば、責任取れないよ。」というのが校長の本心だろう。
今の時代から考えるとチキン野郎と批判されようが、大学では大学紛争というテロが荒れ狂っていた時代背景を考えるとできるだけリスクを減らしたいという校長の判断も分からないでもない。
反抗した高校生について考えると、私は生活指導・校則に対する反抗という目的については、よく理解できる。 (なにも校長室を封鎖するなどという荒い方法を取らなくてもよかったのにとは思うが。)
学校は制服でなければいけない合理的な理由を提示できていなかった訳なのだから、生徒には制服自由という権利を与えてしかるべきだと思うし、実際その権利を勝ち取った学校も少なくなかった。
②偏差値至上教育に対する反抗としての高校紛争
私には理解しきれない、しかし興味深い論点が隠れているのがこちらの側面だ。 理解の前提としては、偏差値の高いエリート高校を震源として紛争が起きたという事実が重要だ。
紛争を起こした生徒はこう言う。
"自分たちは公立である仙台一高に行っている。しかし、それによって否応なしに私学へと追いやられた多くの同じ年齢の高校生がいる。彼らは多額の月謝を払いながら、自分たちへの理不尽な劣等感を内に詰め込まれていく。"
⇒自分が同じ立場なら(高校の時はほぼ同じ立場だったが)こう言うだろう、「勉強しないのが悪い」
親の年収によって学歴が左右されるといった研究もされていなかった時代だからと弁明するが、社会的に階級が再生産されるというようなことは考えてみたこともなかった。対して、紛争が起こった当時は全共闘の全盛期、マルクス主義もまだ勢いのあった時代である。階級やら下部構造やら闘争やら、そのような言葉がありふれていた時代なら、「自己否定」する生徒もいるだろう。
だが、学力による差別を否定していることは置いておくとして、「私学生徒は可哀想」という憐れみの感情を抱いている点で自己矛盾に陥っていないだろうか。これは障害者を可哀想だと面と向かって言うのと同じことで、憐みからは何も生まれないし、「可哀想な私学生徒」との連帯も絶対に生まれようもない。
続いて、「自己否定」した生徒は、偏差値競争から離脱するのではなく、試験制度そのものを攻撃の対象とした。
”本来、試験の目的は授業で教えられた中身を生徒がどの程度習得したかを測ることにある。しかし、試験の結果が全人格的な評価につながっていると批判した。”
”高校は大学受験予備校ではない、受験対策的な試験、そして授業は改めるべきだとも主張した。”
⇒ここで注目すべきは後の一文。
高校を大学に、大学受験を就職活動を読み替えてみると、どうなるか。
”大学は就職活動予備校ではない、就職対策的な試験、そして授業は改めるべきだとも主張した。”
これは、現在の就活システムを嘆く大学教授の声に聞こえるではないか。これは偶然の一致ではないと私は考える。当時高校生だったエリートの卵は今60歳。アカデミズムの世界で偉くなった者の中には、この高校紛争の影響をまだ引きずっている者がいるに違いない。
また、前者はいわゆる「ゆとり教育」という形で日の目を見ることになる。これも偶然かもしれないが、ゆとり教育を推進したといわれる寺脇研 氏も60歳、高校紛争世代である。
私はゆとり教育の理念自体は間違っていないと思うが、エリート校にしか適用できないような教育だと考えている。だが文科省は全体にそれを押しつけてしまった。これはエリート校出身の高校紛争世代ゆえのエゴだったのではないかと私は思う。
そう考えると、われわれは高校紛争で当時の高校生が提起した問題に引きずりまわされた揚句に、いまだにその解答を見つけられていないといえるのかもしれない。
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Posted by ブクログ
「高校生は政治活動をしてはいけません」。本書を読むまでそんな
文部省通達があったことさえ知らぬ世代である。
制服の廃止、生徒心得の廃止、受験対策授業への反発。そして
巷に蔓延していた政治的関心の大きさは、高校生にも波及した。
しかし、高校紛争は大学紛争のように長期化しなかった。何故か。
活動に熱心だった学年が卒業することで終焉に向かった学校も
あった。機動隊の導入という実力行使で鎮静化された学校も
あった。
また、過激化する活動や大学生同様の内ゲバの発生で一般生徒の
共感を得られなかった学校もあった。
それが高校紛争が歴史の影になってしまった要因なのだろう。
本書はそんな埋もれた歴史を、当時の関係者への聞き取りや
各高校の学校史、多くの資料に当たって掘り起こした良書だ。
当時を知らぬ者から見れば、紛争が頻発していたのはエリート校に
多いので「頭でっかちがお祭りごっこをしていただけではないのか」
との感想を抱いてしまう。
実際、「バリケードを築いたりするのが楽しかった」との回想もある。
そして彼らが無意識のうちに持っていたであろう特権意識と、実業
高校を見下したような思想には嫌悪感さえ与える。
同じ時期、日本返還前の沖縄の高校でも紛争があった。だが、それは
「当事者」としての紛争であり、本土の高校生が熱病に罹患したように
反戦や安保のデモに参加したことは趣を異にしている。
以前、東大安田講堂に立て籠もって機動隊と対峙した当事者の
回顧録を読んだ。その時、「これは「戦争ごっこ」をしていたことを
美化していないか?」と思った。
大学生が「戦争ごっこ」なら、高校生は「お祭り気分」だったのだの
だろうか。
自治を求めて学校側に要求を突きつける気持ちは分かる。実際、
私も高校時代に同じような要求を掲げたことがあった。だが、それが
ゲバ棒・ヘルメットで武装し、火炎瓶や石を機動隊に投げつけると
なると話は違う。
「反戦」を叫んでデモをする一方で、武装闘争する矛盾に気付く
ことはなかったのか。機動隊は権力の象徴かもしれないが、
隊員ひとりひとりは誰かの子であり、被搾取階級の出身なのだ。
さて、高校紛争は学校教育に一石を投じられたのか。結果は
「何も変わらない」ではなかったのだろうか。 -
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本書末に付された紛争史年表によれば、私の母校である都立国立高校で紛争が発生したのは、69年の2学期から3学期にかけてで「デモ・集会・乱入」から始まり、「封鎖・占拠」や「スト・授業妨害」が発生している。私が東京都立国立高校に進学した年が7年後の1976年。その頃には紛争の記憶はすでに過去のものであった。
しかし、放送部の部室(放送室)に置かれていた大きな古めかしい木の机を指して、大学生の先輩が「この机で放送室にバリケードを作ったんだ」と説明されたことはよく覚えている。活動家の生徒が放送室を占拠しようとしたとき、それから守ったということだ。
放送部はその後学校の放送業務を一手に引き受け、先生方といえども勝手に校内放送をおこなうことをせず(一部例外はあったが)、すべて放送部に校内放送を依頼するということになっていた。生徒の自主性を重んじ、かつ放送部は活動家などからも距離を置いていたので信頼されていたということであろう。紛争を経てほかにもさまざまなルールが確立していったようにと思う(現在はどうなっているのだろう?)。
本書の記述にはなかったが、国高でも確か逮捕者や退学者が出ていたと思う。生徒会室には校門のバリ封鎖の写真も残っていた。生徒会の某が民青の活動家だというような話も聞いたことがある。
今の高校生は自分たちの高校で何があったのかを知るものはほとんどいないだろうし、先生方も紛争時の古株はすでにほとんどが退職されているだろう。しかし、紛争の総括は本書も指摘するように非常に不十分である。当時の高校生たちが振り回した理屈や行動のほとんどは取るに足らないものであったかもしれないが、社会のさまざまな問題を当時の高校生がどう考え、行動したのかは今後ともきちんと検証されていくべきであろう。 -
Posted by ブクログ
読み物としておもしろく読めました。教育関連の仕事に就いている人はもちろんのこと、ビジネス雑誌で大学特集等を興味深く読んでいる企業人にもおすすめの1冊。
客観的データに基づくランキングから、ほぼ主観のみのランキングもあるものの、いろいろな切り口・尺度から大学を見てみるのは、おもしろい。単におもしろいだけでなく、問題点も提示(or暗示)されている点も、単なるランキング本ではないといえよう。
とはいえ、硬軟とりまぜのランキングを並べて、あれ?と思ってるままに突然に最後のページになり、やや消化不良に感じたのは私だけだろうか。
著者の本文のみの満足度は☆3つ。しかし、内田樹先生の解説をセットで評価して、☆4つ。 -
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独自の道を歩み、予備校文化で大学への橋渡しを。
大学受験に際し、模試や夏季講座でお世話になった予備校。その歴史、特徴、将来などをまとめており(著者としては網羅できなかったというが)、かなり読み応えあった。
後半に出る名物講師の話が、なかなか印象的。ちょっと思想的に共感できない感じはあるが、バックグラウンドを知るとなるほどなと、納得してしまった。
現役志向高まり、推薦が増えている今、予備校はどうなるのかと感じていたが、本書の言うように参考書や大学入学前の橋渡しなど役目自体は残っていくというのは、ここまで積み重ねた文化を含めて分かる感じもした。
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まず教育関係者からしてみると、多少なりとも知っておいた方が良いことは書いてあったが、関関同立を目指せる高校自体は自然と関関同立の情報が手に入るわけだから、非常勤講師という業務委託の人か自分で塾を経営している人くらいしか役に立たないような話ばかりだった。また、読んでいて「この大学に入りたいなあ」とか「この大学はいいなあ」とか全く感じないという所から、「誰に訴えかけているのか?」がイマイチわからない。「早慶上理にはない魅力」というのがおそらく伝えたいことだろうが、その割には早慶上理との比較があまり書いてなかったのが残念だった。
一方で、関西大学や立命館大学といった学部を積極的に新設している傾向があること、同志社大学は長らく学部を新設していないということ、といったこれから期待されうる関関同立の発展や動向について書いてあったのは興味深い。 -
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ネタバレ学校制服のデザインを変えずとも、撥水や防臭効果を施すケースもあり、こちらのほうが制服の変更を進めやすい。
制服自由化も制服着用も一枚岩ではなく、様々な理由からとん挫するケースがある。
また、制服自由化を行っていても、学力が落ちると帰属意識や一体感による復活をもくろみ、制服が復活する事例も。
特に、生徒においては3年間で入れ替わるため、次の学年へ引継ぎがうまく行われないと、改革が自然消滅するケースが多数。
詰襟やセーラーは性差をはっきりさせてしまうため、抵抗が生まれやすくブレザー化の流れとなっている。
上から下まで整った服装というものは、学校がしっかり指導を行っているという地域への説明となりうる。よって、制服のあり方は地域社会のまなざしとともに考えなければならない課題である。 -
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学校制服。
もはや、郷愁しかないし、特に思い入れもない(中高そのものに)。
とはえ中学受験をした際に、憧れた制服や、可愛いと評判だった学校はあった。
私自身が在籍したのは地味な制服の学校であった。
本書中で語られる制服のない学校が本命だった。
当時こう思ったものだ。
「頭が悪い奴は自己管理できないからこんなダサい制服に押し込められるんだな」、と。
制服には良い面も悪い面もある。
子供は楽だし、学校は子供達を守りやすい(それを「管理」と評することもできよう)。
しかし、近年になって性別に違和感を感じる子供たちの苦悩や、学校の教育方針、経営状況などさまざまな面から制服が変わってきた。
本書では、制服から「教育とは何か」を考察する。
昔から何度もこの問いは繰り返されてきた。
良い面はこうだ。
頭が悪い奴は服装から縛らないとダメ、管理される方が楽、地域や保護者の目から見て安心できる、貧富の差がわからなくなる…。
しかしそれは本当か?
子供の視点が抜け落ちてはいないか?
家庭環境の差は制服であっても、はっきりわかる。
いや、かえって、目立ってしまうのだ。
アイロンのかけ具合、サイズ、ボタン、洗濯の頻度は如実に家庭環境を表す。
著者の言うように「指導と制服は切り離して考えるべき」(256頁)は同意する。
私自身は、中学から現在まで制服必須だったので、あればその「立場」になれることを知っている。
制服はモチベーションの一つでもある。
あってもいいし、なくてもいい。
選択肢を増やせないだろうか。
男はズボン、女はスカートではなくどちらも選べたら良いし、正式な場やシーズンで制服着用を求めれば良いのではないか。
何より、教育に関わる大人たちが、メリットデメリットを提示して、生徒と一緒に決めていけば良いではないか。
先生たちはこう思っている、そう伝えてもらえたら、一緒に考えられるのに。
個人的には上着は洗えた方がいいと思うし、スカート・ズボンは選びたい。 -
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‹内容紹介より›
早慶MARCHはなぜ少子化・不況下でも人気があるのか?
「大学全入時代」と言われて久しい。しかし、早稲田・慶應・明治・青学・立教・中央・法政ー早慶MARCHの志願者はむしろ増加している。
その理由とは何か?
受験生の親世代とは劇的に変わった、これらの大学の現状を、ち密な取材と豊富なデータを交えて完全分析!
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たしかに、7大学の特色について、さまざまな側面からデータをもとに記述されています。
ただ、どうしても「早稲田は〇〇が強く、出身者は△△で、官公庁へ就職するのは××学部の★%……」というような記述が続くので、読みにくい部分もありました。
具体的に記述されていた教授や卒業生、学部などがイメージできる早稲田については出身校でもありましたし読みやすいところも多かったのですが、他校についてはイマイチ、イメージがわかず「ふーん」という感覚で読み飛ばしてしまった部分もありました。
受験生が受験する大学や学部を選ぶために読む、というのも参考になる部分があるとは思いますが、高三になってから、というよりも高校一年生などの時間があってじっくりデータを(読者自身が自分なりに)分析することができるタイミングで読んだ方が効果的かもしれません。
あとは、受験生が身近にいるという大人にとっては、自分たちが受験したり在学していた時代とは大きく変わっている部分もあると思いますので、そこを知るためには有効な本だと思います。 -
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<目次>
プロローグ なぜ、早慶MARCHか。
第1章 早慶MARCHの最新情報
第2章 早慶MARCHの教育、研究、施設を検証する
第3章 早慶MARCHの学生の生態学
第4章 早慶MARCHの教員の群像
第5章 早慶MARCHの卒業後の進路
第6章 早慶MARCHの出身者の活躍を知る
エピローグ 早慶MARCHのすごさを体感しよう
<内容>
高校の進路担当者からすると、「うまくまとまっているな」のレベル(一般の方は「おお~!」なるかもしれない)。ただ、どの章も食い足りない。週刊誌の記事をやや濃縮した感じは否めない。そして、早慶MARCHの賛美に終わっている感も…。読者としては、受験を控えた保護者層とあまり進学指導の知識のない高校教員層でかな?