横山紘一のレビュー一覧
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ナゾの感動の書である。我々は生きなければならず、そして、他者のために生きて当然だと悟った。
西洋の哲学書は、ハッキリさせる、定義することが基本である。ゆえに全てを語れなかったり、矛盾を生じることもありで、イマイチ信用におけないなと思っていた。
本書では、分からないものは分からない、自分よりも他者を大事にするのは当然だと解く。自分という思い込みがそもそも幻想なのだから。苦しいなどの負の感覚や感情も自分が生み出している。ならそれを捨てれば良い。何と大胆な考えだろうか。
瞑想により自分とつながり、自分と向き合うことで、過去の辛い内容のドキュメント映画、未来のホラー映画を観ることが当たり前になっている -
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唯識についての初心者向けの本。本文もはじめて唯識に触れるであろう人を意識した平易な語り口で、図解を多用している。私が存在しなければ、世界は存在しない。すべての物は自分の心を離れて存在しないということが唯識についてのポイントであるらしい。
著者の後半に、なりきり、なりきって生きる。一瞬一瞬にその行為になりきって生きる。対象になりきっていきる。すると、観察される対象ではなく、自分そのものがなりきった対象になるということが書いてある。前半では「自分」の「心」が存在しないと対象は認識できないということと関係は深いとおもうが、対象そのものと自己不可分であるの性質が若干違うように感じるの。だが、生き方の指 -
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ネタバレ[ 内容 ]
室町時代に中国から伝わり、日本人が夢中になった不思議な十枚の絵がある。
逃げた牛を牧人が探し求め、飼い馴らし、やがて共に姿を消す―という過程を描いた絵は十牛図と呼ばれ、禅の入門図として知られる。
ここでは、「牛」は「真の自己」を表す。
すなわち十牛図とは、迷える自己が、自分の存在価値や、人生の意味を見出す道程を描いたものなのだ。
禅を学ぶ人だけでなく、生きることに苦しむすべての現代人を救う、人生の教科書。
[ 目次 ]
序章 いま、なぜ、「十牛図」が必要か。「十牛図」が現代に問いかけてくるもの
第1章 牛を尋ね探す(尋牛)
第2章 牛の足跡を見つける(見跡)
第3章 牛を見つけ -
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禅の教えを伝えるものとして、「十牛図(じゅうぎゅうず)」というものがあります。
とても印象的な連続した絵なので、どこかでお目にかかった方も多いかと思いますが、牧人が牛を探している「尋牛(じんぎゅう)」という場面から始まり、牛の足跡を見つける「見跡(けんせき)」。そしてその足跡を辿っていって、尻尾を垂らした牛の後姿を発見し(見牛(けんぎゅう))、そしてその牛を何とか無理矢理にでも手中に納め(得牛(とくぎゅう))、次に牛を手なづけて自由自在に操ります(牧牛(ぼくぎゅう)。牛と一体化するほどになった後は、牛の背中に乗っかって家に帰ります(騎牛帰家(とくぎゅうか))。牛と牧人が一体化すると、もうそ -
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仏教の「唯識思想」は難解なイメージがありましたが、本書は非常に論理的かつ丁寧に解説されており、思っていた以上に納得しながら読み進めることができました。
阿頼耶識や末那識といった意識の深層構造は、ユング心理学でいう「集合的無意識」ともつながる発想があり、とても興味深かったです。私たちは普段、自我意識にとらわれていますが、実はその背後にもっと深い意識があり、それが世界を映し出し、自分自身を形作っているという視点は新鮮でした。
また、「無明を知ることが自己認識の第一歩である」という考え方や、「良いことをすれば必ず良い結果が返ってくる」という仏教的な因果論も、日々の行動を見つめ直すきっかけになりま -
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Spotifyでコテンラジオにハマり、
玄奘三蔵の回を聴いてこの本に辿り着いた。
唯識論という言葉だけなら聞いたことはあったけど、仏教の思想だとは知らなくて、ガチガチの哲学だと思っていた。
この本には唯識という言葉の意味から、
これにまつわる用語や考え方、
実践法などを、普段馴染みのない単語ならば語源からまでをも詳しく書かれている。
ラジオでも紹介されていたけど、わたしが漠然と思い描く宗教のイメージにはあまりなかった、とてもロジカルな思考法で読んでいて面白いと感じる部分も多かった。
読みながら唯識論の理解が少し進んでくると、京極堂シリーズをもう一度読み返したくなってくる。(姑獲鳥の夏と鉄鼠 -
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横山紘一の書籍が唯識論にはよいと風のうわさを頼りに手に取ってみました。
図形を駆使して非常にわかりやすく、特に阿頼耶識とは何ぞやを説いてくれています。刊行当時で齢70歳の著者で、文章からすでに覚りの境地へ踏み込んでおられる感が伝わってくるぞね。
一切は阿頼耶識から作られたものであり、もはや自分すら存在しない。と同時に常に阿頼耶識の種子を良いものにするため、新しい自分を発見するよう精進しなければならない。何かぐるぐる回って、まさに諸行無常。本書ではことさら強調はされていませんが、こういったものは禅定による実践を経なければ本当の意味で理解することに達せないとの話です。確かに頭でわかったつもりで -
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玄奘が命をかけて学んだ思想ということで、勉強のために手に取ってみた。
文章は易しいが、解説書兼説教書と言った感じ。また、まさに説教のように冗長なので、読んでいて既視感を感じる。
唯識論自体はなんとなく、どんなものかという概要はつかめた気がするが、解説書としては少し物足りない。
本書で得た知見は、唯識論も含め、仏教の教えというのは、半分は学問、半分は方便(人を救うための手段)であるということ。だから、直接は書かれていないが、仏というのはあえて永久に到達できない理念的な存在として設定されていて、それでもそこに到達できるかもしれない(仏性がある)と信じて悟りを目指すこと自体に意味があるのだろう。