横山紘一のレビュー一覧
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今ハマっているコテンラジオという番組で紹介された本書。
三蔵法師(玄奘三蔵)を理解する上で、必要な唯識論を「わかりやすく」解説したという本という紹介内容であった。
ただ、本書の冒頭で、唯識論の理解は、「1人1宇宙」という事実を認めることから始まる、とあり、トンデモ論的な印象を受けた。
また、最終的にも、今の自分の考えとかけ離れすぎてて、難しすぎる笑
簡単に腹落ちできない…。
根本は、「ただ身体、ただ心があるだけ」という考え方のようで、言ってることはわかるけど、なかなか難しい。
ただ、その中でも、
・私たちが認識している世界は「ある」のではなく、「なる」のです。
・なるというよりも自分が作り出して、そのように「ならしめる」
という記載はすごくわかりやすく、すごく仏教っぽいなと、そしてこの考え方を上手く取り入れることは生きていく上で必要だなと思えた。
冒頭の1人1宇宙という考え方も、他人の宇宙にも思いをはせることで、他人への思いやりを持てる考え方のようで、一つの考え方として身に付けていきたい。
またタイミングを見て読み返してみたい。 -
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ナゾの感動の書である。我々は生きなければならず、そして、他者のために生きて当然だと悟った。
西洋の哲学書は、ハッキリさせる、定義することが基本である。ゆえに全てを語れなかったり、矛盾を生じることもありで、イマイチ信用におけないなと思っていた。
本書では、分からないものは分からない、自分よりも他者を大事にするのは当然だと解く。自分という思い込みがそもそも幻想なのだから。苦しいなどの負の感覚や感情も自分が生み出している。ならそれを捨てれば良い。何と大胆な考えだろうか。
瞑想により自分とつながり、自分と向き合うことで、過去の辛い内容のドキュメント映画、未来のホラー映画を観ることが当たり前になっているココロに気付けば、この本の内容もスルリと腑に落ちた。ブッダという人がこの原理を我々に示してくれたことは本当に有難い。
某ファーストフード店で、こうやってこの文章を書ける幸せも、様々な縁起のなせる技である。その壮大な縁起の全てに感謝したい。 -
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唯識についての初心者向けの本。本文もはじめて唯識に触れるであろう人を意識した平易な語り口で、図解を多用している。私が存在しなければ、世界は存在しない。すべての物は自分の心を離れて存在しないということが唯識についてのポイントであるらしい。
著者の後半に、なりきり、なりきって生きる。一瞬一瞬にその行為になりきって生きる。対象になりきっていきる。すると、観察される対象ではなく、自分そのものがなりきった対象になるということが書いてある。前半では「自分」の「心」が存在しないと対象は認識できないということと関係は深いとおもうが、対象そのものと自己不可分であるの性質が若干違うように感じるの。だが、生き方の指針として、一瞬一瞬をその行為になりきるというのは深いものがあると感じる。
たぶん、混乱するのは、前半は純粋に唯識の考え方についての解説なのに、後半になると、いつのまにか生き方論になってしまっているからではないだろうか。 -
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ネタバレ[ 内容 ]
室町時代に中国から伝わり、日本人が夢中になった不思議な十枚の絵がある。
逃げた牛を牧人が探し求め、飼い馴らし、やがて共に姿を消す―という過程を描いた絵は十牛図と呼ばれ、禅の入門図として知られる。
ここでは、「牛」は「真の自己」を表す。
すなわち十牛図とは、迷える自己が、自分の存在価値や、人生の意味を見出す道程を描いたものなのだ。
禅を学ぶ人だけでなく、生きることに苦しむすべての現代人を救う、人生の教科書。
[ 目次 ]
序章 いま、なぜ、「十牛図」が必要か。「十牛図」が現代に問いかけてくるもの
第1章 牛を尋ね探す(尋牛)
第2章 牛の足跡を見つける(見跡)
第3章 牛を見つける(見牛)
第4章 牛を捕まえる(得牛)
第5章 牛を飼い馴らす(牧牛)
第6章 牛に乗って家に帰る(騎牛帰家)
第7章 ひとり牧人はまどろむ(忘牛存人)
第8章 真っ白な空(人牛倶忘)
第9章 本源に還る(返本還源)
第10章 町の中に生きる(入廛垂手)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
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禅の教えを伝えるものとして、「十牛図(じゅうぎゅうず)」というものがあります。
とても印象的な連続した絵なので、どこかでお目にかかった方も多いかと思いますが、牧人が牛を探している「尋牛(じんぎゅう)」という場面から始まり、牛の足跡を見つける「見跡(けんせき)」。そしてその足跡を辿っていって、尻尾を垂らした牛の後姿を発見し(見牛(けんぎゅう))、そしてその牛を何とか無理矢理にでも手中に納め(得牛(とくぎゅう))、次に牛を手なづけて自由自在に操ります(牧牛(ぼくぎゅう)。牛と一体化するほどになった後は、牛の背中に乗っかって家に帰ります(騎牛帰家(とくぎゅうか))。牛と牧人が一体化すると、もうそこには何もわだかまりがなくなったかのような、真っ白い図が、人牛倶忘(にんぎゅうくぼう)。真っ白になった後に、周りの自然の姿に改めて気づき、その自然をいとおしむかのような、自然の姿を現した返本還源(へんぽんげんげん)。そして最後はまちへ出て行く入障ミ垂手(にってんすいしゅ)。
今言葉で長々と説明しましたが、これは絵を見て瞑想するものなので、言葉であれこれ説明してもなかなか伝わるものではありません。禅の境地を絵で表したものですから、それは当然なことです。私はこの十牛図を長年不思議に感じ、いつか解説書を読んでおきたいと思っていました。先日ふらっと本屋さんに行きましたら、この本が平積みされておりました。まるで牧人が牛の尻尾を見つけたときのように、「お!」と何かが閃きました。すぐに手に取りぱらぱらとめくり、これはいいなぁと即購入しました。難しく敷居の高い禅の用語をわかりやすく解説しており、そして本書のテーマである十牛図も、十分な解説があります。
筆者の横山紘一氏は、それぞれ丸い十牛図を、さらに円のように並べて、「観想十牛図」というものを発案したそうで、その写真も出ています。なるほどこれなら見ているだけで何か心持が整理されそうだなと感じます。
私が感じますに、禅というものは、どこか山深いところで瞑想をするものではなく、常に自分がいるところで行われるものだと思います。それは自分の仕事を通してであったり、自分の家庭を通してであったり、自分が接する社会や人々のつながりの中で、普通に淡々と行われるもので、特別なことではないと思います。
私はかつて(ついこの間まで・・・)、修験道というものをやっておりました。滝に入ったり、山行をしたり、各地の山へ出向いては門を叩いて参加したことがあります。マイ法螺貝も持っていたりします。しかし、今年に入り様々な心の変化がおきまして、修験道を辞めることにしました。20歳との時から滝に入り、今年の6月まで約18年間やっていまし、一時はこの道だけにしようかと思ったくらいです。辞めることに怖さもありますし、敗北感も感じたりもしました。
しかし、日常生活にあることアタリマエのことに気づくこと、そしてそこに感謝することをしなくては、山で修行しても仕方がありません。日常生活をきっちりこなせない人間が、山でいくら修行しても、里へ戻ってくれば何の役にも立たないと思うに至りました。メーテルリンクの『青い鳥』のように、戻ってきたのは再び“自分”でした。遠回りをしましたが、自分探しの大きな旅であり、それはそれで大きな収穫であったと思います。
十牛図は“観ること”が大切だと思います。“観る”とは、“生活の中で観ること”に通じると思います。目に見えないものに触れようと、目をつぶって瞑想するのではなく、見える範囲から感謝していくことが、本当の瞑想であり、修行だと思うようになりました。こう感じましたら、鍼をすることがまた楽しくなり、患者様と接することが楽しく、そして、その結果、いい鍼が出来て、ようやく病態を回復するお手伝いを出来るようになってきたかな、と思う今日この頃です。 -
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十牛図というと、空手と合気道を教わっている師匠に「忘牛」という言葉を教えてもらったことを、まず、思い出す。空手の稽古で、ある技がなかなかできるようにならなかったときに、「できるようにしよう、しようと思っているうちは、できない。できるようにしようという思いも忘れた頃にできるようになる」という話を聞き、この忘れた頃にできるようになることを「忘牛」というのだと教わった。ちゃんと調べてみると、本当に「忘牛」がそういう意味なのかは、極めて怪しいが、この「忘れた頃にできるようになる」という教えだけは、とても印象的で、よく覚えている。
元々、十牛図というのは、禅の実践によって、悟りを開くまでの段階を表した図で、本書によれば、中国、北宋時代の廓庵禅師という禅僧が創案したと言われている。師匠の言っていた「忘牛」というのは、この第七図「忘牛存人」から生まれた言葉で、「十牛図」では、ようやく捕まえた牛=「本来の自己」を牛小屋に入れて、その存在も忘れてしまう段階を言う。せっかく得た牛を忘れてしまっては、元も子もないのではないか、という気もするが、その牛が新たな執着となってしまえば、無我の境地とは言えず、本当の悟りとは、修行の中で得た「本来の自己」すら忘れてしまうことなのであるという。そして、至るのは、「過去の自己」も「本来の自己」をも忘れた状態、第八図「人牛倶忘」に至るのである。
このように考えてくると、うちの師匠の話も、あながち間違っていないようにも思えてくる。できないことに執着をしているうちは、できるようにはならないのである。なぜなら、執着が生まれる原因が、まさにできないことなのであり、執着することは、つまり、できないことだからである。
結果、本当にできるようになる瞬間というのは、その執着が消えた瞬間、牛という執着の対象を無くした瞬間=「忘牛」なのであるというのは、無理な解釈ではないだろう。
この本自体は、はっきり言ってよくある自己啓発書だと思う。様々な苦しい出来事のある、変えられない世界に対して、自分自身の世界の捉え方を変えることによって、生き方をよりよくしていこう系の話が、結論になっている。世界の経済や環境破壊などの問題の解決に向けて、一人ひとりの「他者救済」の意識の涵養を説くのは、あまりにも、おめでたい思考かなと思う。
著者自身、唯識思想を専門としていることもあり、こうした悟りを個人の精神的経験として記述していくあり方は、個人主義的な、まさしく近代仏教の特徴に一致するのではないかと感じた。前近代的な仏教には、もっと個人の悟りの経験自体よりも、仏教コミュニティの維持という、現実的な問題があったのではないかと思われる。
とはいえ、「十牛図」自体は、近代以前からあるもので、個人の悟りの経験を記したものであることに変わりはない。そうなると、前近代的な意味で、「十牛図」というのは、どういう位置付けのものだったのかが気になる。おそらくそれは、この本の著者が結論づけるような、自己啓発的な性質とは、異なるものだったのではないか。
前近代における、「悟り」という経験の意味づけが、改めて気になってくる本だった。 -
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仏教の「唯識思想」は難解なイメージがありましたが、本書は非常に論理的かつ丁寧に解説されており、思っていた以上に納得しながら読み進めることができました。
阿頼耶識や末那識といった意識の深層構造は、ユング心理学でいう「集合的無意識」ともつながる発想があり、とても興味深かったです。私たちは普段、自我意識にとらわれていますが、実はその背後にもっと深い意識があり、それが世界を映し出し、自分自身を形作っているという視点は新鮮でした。
また、「無明を知ることが自己認識の第一歩である」という考え方や、「良いことをすれば必ず良い結果が返ってくる」という仏教的な因果論も、日々の行動を見つめ直すきっかけになりました。
今後は唯識を入り口に、禅や浄土真宗など他の仏教思想との違いも少しずつ学んでいきたいと思います -
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Spotifyでコテンラジオにハマり、
玄奘三蔵の回を聴いてこの本に辿り着いた。
唯識論という言葉だけなら聞いたことはあったけど、仏教の思想だとは知らなくて、ガチガチの哲学だと思っていた。
この本には唯識という言葉の意味から、
これにまつわる用語や考え方、
実践法などを、普段馴染みのない単語ならば語源からまでをも詳しく書かれている。
ラジオでも紹介されていたけど、わたしが漠然と思い描く宗教のイメージにはあまりなかった、とてもロジカルな思考法で読んでいて面白いと感じる部分も多かった。
読みながら唯識論の理解が少し進んでくると、京極堂シリーズをもう一度読み返したくなってくる。(姑獲鳥の夏と鉄鼠の檻、また読もうかな)
さて、コテンラジオでは唯識論が書かれた本の中では1番わかりやすかったと紹介されていたけど、わたしにとっては難解だなぁと思う部分もまた多く、未だに末那識と阿頼耶識を掴み損ねている。
さらに著者の方の必要以上に啓蒙的な記述に少しアレルギーが出てしまった。
仏教思想を実践して教えている立場の方なので、その部分は仕方ないのだろうが、特に不幸も不自由も感じていないthe凡夫中の凡夫のわたしにとってはいちいち引っかかってしまうところがだいぶ多かった。
(現代人のなんと〇〇なことか…とかね)
ともあれ、世の中を知るために、人生の解像度をあげるために、知識として必要な宗教について、概要に留まらず教義を中からダイレクトに、しかもわりとやさしく書いてある本はとても貴重だと思う。
何度読んだところでたぶんアレルギーは出るとは思うけど、一読だけでは全然理解が足りていないのでそのうち再読してみたい。 -
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横山紘一の書籍が唯識論にはよいと風のうわさを頼りに手に取ってみました。
図形を駆使して非常にわかりやすく、特に阿頼耶識とは何ぞやを説いてくれています。刊行当時で齢70歳の著者で、文章からすでに覚りの境地へ踏み込んでおられる感が伝わってくるぞね。
一切は阿頼耶識から作られたものであり、もはや自分すら存在しない。と同時に常に阿頼耶識の種子を良いものにするため、新しい自分を発見するよう精進しなければならない。何かぐるぐる回って、まさに諸行無常。本書ではことさら強調はされていませんが、こういったものは禅定による実践を経なければ本当の意味で理解することに達せないとの話です。確かに頭でわかったつもりでも、日常に戻ると常に妬み、恨み、虚栄心などの煩悩に取り付けれてしまう。凡夫たるゆえんか。にしても、世界の現大の常識からかけ離れた新しい捉え方として、実に興味部会です。