横山紘一の作品一覧
「横山紘一」の「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」「十牛図入門 「新しい自分」への道」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「横山紘一」の「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」「十牛図入門 「新しい自分」への道」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
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Posted by ブクログ
【読もうと思った理由】
仏教について勉強したいと思い、その中でも「唯識」というものに興味が湧き、この本が分かりやすいと聞いて手に取りました。
【感想】
全体を通して、自分にとってはかなり難しい内容に感じました。
唯識の思想の根本原理?であると思われる「唯識(唯、心(識)があるのみ)」や「一人一宇宙」といった考え方については、すごく共感し、自身でも同じように考えたことがあったので、スッと入って来ました(今後、より強く心がけていきたい)
また「無我」というものについても考えてみましたが、確かに「自分」というものはありそうで、確かに無いのか…?とも感じました。瞑想をしてみて「思考は自分の思い通りにはならないし、勝手に湧いてくるもの」ということは、既に実感していたので、これについても個人的にはスッと頭に入って来ましたし、受け入れられました。
難しい内容ではあったけれど、全編通して興味深く、面白い内容でした。
もっと仏教的な思想に沼っていきたい。
【以下、本文からの切り取り】
唯識とは、「唯だ識、すなわち心だけしか存在しない。自分の周りに展開するさまざまな現象は、すべて根本的心、すなわち阿頼耶識から生じたもの、変化したものである」と主張する思想です。
Posted by ブクログ
十牛図入門
「新しい自分」への道
著:横山 紘一
紙版
幻冬舎新書 078
十牛図は、禅の入門書である
人生の目的は、3つ、①自己究明、②生死解決、③他者救済
①自己究明 自分さがし
②生死解決 自分の死を、自らで解決する
③他者救済 他人とともども幸せに生きる
真の自己を究明するための禅の修行を十の図で示したものが、十牛図でです
気になったのは、以下です。
■十牛図と禅宗、唯識論
牛:真の自分
牧人:真の自分(牛)を追い求める自分
禅の根底にあるのが、唯識思想
唯識無境 外界には、「もの」はなく、「識」だけがある
人々唯識 一人ひとりの世界は、阿頼耶識から生じた宇宙である
各人はその中に閉じ込めて外にでることができない
八識 表層心 眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識
深層心 末那識、阿頼耶識
阿頼耶識縁起 表層心と深層心とは、相互に原因と結果の関係にある
瑜伽(ゆが:ヨーガ) すべての「もの」を心の中に還元して、その「もの」の本質・深層を観察して思考する
■尋牛
・人と他人は、それぞれ違う宇宙に生きている
・牛が逃げている状態、牧人は何も知っていない ⇒ 無知の状態
・今まで考えていた「自分」や「時空」はただの思い込みにすぎない
■見跡
・牛の足跡とは、釈迦によって説かれた教えのこと
・自灯明と、法灯明
自灯明とは、自分をよりどころにすること
法灯明とは、法(ダルマ)=(真理、教え、存在の諸要素)をよりどころにすること
・正しい教えを正しく聞くことを繰り返す 正聞薫習(くんじゅ)
■見牛
・なにが牛をみるのか ⇒ ただなりきって牛を見る
・動と静、身と心の2つを分けることなく、ただ、ただ、なりきり、なりきって修行をする
・世間の表面を、世俗諦、世間の裏面を、勝義諦、という
世俗諦は、言葉の通じる世界、勝義諦は、言葉の通じない世界をいう
■得牛
・明らかに記して忘れない ⇒ こころに鮮明に記憶する これを「明記不忘」という
■牧牛
・牛が逃げようとして暴れている、それを手なずけて飼いならす
・悟後の修行といい、悟った後の修行の方が大事であるという意味
・三輪清浄の無分別智 自分、他人、そしてその間に展開する、行為を、三輪という
無分別智 束縛:相縛:表層心における束縛、麁重縛(そじゅうばく):深層心における束縛
■騎牛帰家
・牛を連れ帰る:真の自分と自分自身が触れ合って、笛を吹きたくなるほど、楽しくなる
■忘牛存人
・新しい自分:真の自分と合体して、真の自分になり切った
■忘牛存人
・仏教でいう、無我の境地、空の境地になる
■返本還源
・煩悩を払拭してもとの清浄心にもどった
・清らかで真っ白な心、自性清浄心という
・二つの障害
煩悩障 むさぼりや怒り、無知などの煩悩
所知障 「知るべきもの」を知ることを妨げている障害
「知るべきもの」とは、究極のしるべきもの、真如という、真如はありのままという意味である
・人間の2つの執着
我執 自分への執着
法執 ものへの執着
■入廛垂手
・一緒にいる童子は、子どもではない、迷える人、凡夫
・牧人は菩薩になっている
・菩薩とは悟りを求める人をいう
上求菩提:菩提を求める生き方を実践する人
下化衆生:生きとし、生けるものを救済しようとする生き方を実践する人
・座禅和讃 わずか30分でもいいから、座禅をすれば、心の中の無量の穢れがなくなっていく
目次
序章 いま、なぜ、「十牛図」が必要か。「十牛図」が現代に問いかけてくるもの
第1章 牛を尋ね探す(尋牛)
第2章 牛の足跡を見つける(見跡)
第3章 牛を見つける(見牛)
第4章 牛を捕まえる(得牛)
第5章 牛を飼い馴らす(牧牛)
第6章 牛に乗って家に帰る(騎牛帰家)
第7章 ひとり牧人はまどろむ(忘牛存人)
第8章 真っ白な空(人牛倶忘)
第9章 本源に還る(返本還源)
第10章 町の中に生きる(入廛垂手)
ISBN:9784344980778
出版社:幻冬舎
判型:新書
ページ数:205ページ
定価:760円(本体)
2008年03月30日第1刷発行
Posted by ブクログ
三蔵法師が命を懸けて追い求めるほどハマった唯識思想を平易な言葉で解説した本。
正直半分も理解できたか怪しいが、少し理解できただけでも、何やら途轍もない思想に出会ってしまったと感じた。
唯識の思想とは、簡単に言うと、すべての存在は心の中に認識されて初めて成立する、とした思想だ。具体的にどういうことかは、作中のピラミッドの例がわかりやすい。ピラミッドを見て、人はピラミッドがあると言うが、よく見れば、ただそれを構成している石があるだけ。石を積み上げたものをピラミッドと名付け、認識することで初めてピラミッドは存在する。
ここまでだとヨーロッパ的唯心論と変わらないが、唯識の思想はここからさらに進む。唯識では、心は仮にあるものと捉える。認識対象があるとき、認識主体(心)は関係的に存在するが、認識対象がなければ、認識主体(心)もない。つまり、認識主体(心)は「あるようでなく、ないようである」ものである。以上のように、唯識は三段階で深まっていく(唯識無境⇒境無識無⇒空)。そして、「あるようでなく、ないようである」境地、二分法的思考を超えた「空」の境地まで行きつくと、本当に重要なのは「識」ではなく、「唯」であることがわかる。言葉による認識を剥がし、生の存在を見つめ、存在そのものに到達したとき、あるのは「唯だ、唯だの世界」だ。
これがなぜ仏教なのか、このような思想が仏教の目標である苦からの解放に何の関係があるのか。仏教では、苦の原因は無明、すなわち、現実を正しく認識できないことであると捉え、正しい現実認識とその方法を説いている。唯識はその正しい現実認識である。
現実認識を変えるための思想だ。途轍もなくて当然であった。
Posted by ブクログ
唯識について誰もが分かる本ではないかと思う。
かつ、分かるが故に分からないというところまで案内される。
末那識や阿頼耶識の存在はヨーガをしないと分からないし、五識や意識の本当の使い方も仏教でいう修行を行わなければ分からない。
何より、正聞熏習と無分別智の両方の理解と実践が欠かせない。
それを行ってもなお仏様には届かないのだからとてつもない。
仏教哲学の中の唯識は特に論理的で腑に落ちる。
しかし腑に落ちても末那識や阿頼耶識まで落ちているのか、そもそも意識して理解できているのか、本当のところは分からない。
私たちは私たちのことも分からないのに、何かを分かったかのように振る舞う。
私たちも自分を分からないと思えて初めて学びが始まると思う。
Posted by ブクログ
仏教初学者で唯識論の勉強をしたいと思い本書を手に取りました。結論から言えば大変満足しています。文庫本でページも300ページ弱ですからすぐ読めるかと思いましたが、思った以上に中身が濃かったです。これは良い意味で期待を裏切ってくれました。線を引いた箇所の数があまりにも多いので、本書の良さを端的に説明できないのですが、唯識思想だけでなくそのほか仏教全般にも通じる智慧を本書は多数散りばめている印象を受けました。「唯だ心(識)だけが存在する」、しかし識は「非有非無」、つまりあるけれどないものです。座禅では「心を無にする」といいますが、まさにその状態は心がありません。つまり心は空だというわけですが、その先があって、心を無にすることで、絶対的な真如の存在を覚知できるということのようでした(もちろんものすごい修行が必要だと思いますが)。
本書によれば、唯識論は宗教と科学と哲学の3つを含んでいるとのこと。科学的な側面として、本書では量子力学の話をされていますが、確かに最近話題になっている量子コンピューターなどは、仏教的な側面があると感じています。これまでのコンピューターがゼロかイチの値をとるビットの集合体で情報を表していたのに対して、量子コンピューターでは量子ビットがゼロとイチを同時にあらわすことができます。ゼロでもありイチでもある、あるいはゼロでもなくイチでもないわけです。量子力学が発展すればするほど、仏教の宇宙観が世界的に広まるのではないかと個人的には期待しています。