三蔵法師が命を懸けて追い求めるほどハマった唯識思想を平易な言葉で解説した本。
正直半分も理解できたか怪しいが、少し理解できただけでも、何やら途轍もない思想に出会ってしまったと感じた。
唯識の思想とは、簡単に言うと、すべての存在は心の中に認識されて初めて成立する、とした思想だ。具体的にどういうことかは
...続きを読む、作中のピラミッドの例がわかりやすい。ピラミッドを見て、人はピラミッドがあると言うが、よく見れば、ただそれを構成している石があるだけ。石を積み上げたものをピラミッドと名付け、認識することで初めてピラミッドは存在する。
ここまでだとヨーロッパ的唯心論と変わらないが、唯識の思想はここからさらに進む。唯識では、心は仮にあるものと捉える。認識対象があるとき、認識主体(心)は関係的に存在するが、認識対象がなければ、認識主体(心)もない。つまり、認識主体(心)は「あるようでなく、ないようである」ものである。以上のように、唯識は三段階で深まっていく(唯識無境⇒境無識無⇒空)。そして、「あるようでなく、ないようである」境地、二分法的思考を超えた「空」の境地まで行きつくと、本当に重要なのは「識」ではなく、「唯」であることがわかる。言葉による認識を剥がし、生の存在を見つめ、存在そのものに到達したとき、あるのは「唯だ、唯だの世界」だ。
これがなぜ仏教なのか、このような思想が仏教の目標である苦からの解放に何の関係があるのか。仏教では、苦の原因は無明、すなわち、現実を正しく認識できないことであると捉え、正しい現実認識とその方法を説いている。唯識はその正しい現実認識である。
現実認識を変えるための思想だ。途轍もなくて当然であった。