なだいなだのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
人間関係の問題は生きていると必ずつきまとってしまうものだ。子どもではいじめと呼ばれていたものが大人ではハラスメントと呼ばれるものに変わっている。なだ先生が書いていた時にもあったと思うが、これほどのものではなかったと思う。
人間には強い力を持った時に、思い通りになることへの愉悦からそれを弱いものに向けたり、自身の欲の開放に用いたりする。大人は年数を重ねた分だけ、それを制御する術を身に着けてくるが、子どもはそれをまだまだ身に着ける段階にあるから、いかんなく発揮してくる。軍隊はまさにその強い力を誇示するところにある。人間のもつ、無意識、生物的、身体的な部分の特徴といってよい。
そのこと自体はともかくとして、そうした強い力をもった際に人間が行うことをどのように取り扱ってきたか。予測と制御の脳化が進んだ社会でどのようにこの問題は隠蔽・抑圧されてきたか。
ひとつは軍隊のような場に取り残された。軍隊は解体されたとはいえ、今でも自衛隊の死者は自殺の方が多いのではないか。もうひとつは教育という名で学校に取り残された。このふたつの場に限ってはいじめの範囲が犯罪レベルから軽微なものまで広範にわたるものとなり、聖域のようにその外に出すことが難しくなった。
この点に関しては職場という場も同じであったと思う。それがいじめ防止法やハラスメント防止法というものとしていけないことだと言えるようになってきたということは、強いものが弱いものにむやみに力をふるってはいけないということを言いやすくなった、そういう行為はあってはならないと言えるようになった、人権意識の進歩と言っていいか。
戦争を経験した者であり、希望を信じる者である以上、そのように語らざるを得なかったのかもしれない。そうであると信じたいというのはなんとなくわかる気がする。あるいは、ソクラテスがうまい具合に善さというところに落とし込まざるを得なかったようなそんな気がする。弱者もまた、徒党を組んで力をふるっていくことで、何でもかんでも取り締まり罰を与えようとするそんな怨嗟の感情で動いているところがあるような気がしてならない。それはある意味で弱いということがある種の力になってそれを行使しているという同じことの繰り返しなのかもしれない。
最後に彼は、時間をかけてある種の物語として人生という物差しの中でいじめを取り込んで成長していくと締めくくっている。ひととひとが生きている以上、こうした軋轢や本能は避けられない。自分もまた誰かにそうしてしまっているのかもしれない。どのような経験もそのひとの人生の成長のひとつとなる。そうした経験があるからこそ、それはいけないとか、同じ境遇にあるひとに対していたわれる。だからこそ、受ける側ではなく、する側も同時に扱わなければならない。関係性の問題はどちらか一方にアプローチするのでは役に立たないのだ。する側もされる側も行為を時間の中で成長を支えるより他ない。それらが、社会全体で当たり前のものとして身近な大人が示せるそんな世界を願ってやまない。 -
Posted by ブクログ
45年も前に書かれた著作にもかかわらず、内容は、今もまったく色あせることのない名著だと思った。人のこころのしくみは、時代では変わらないので今でも十分通じる内容。
”研究者も研究室も、ぼくたちの中にある”。学者や研究者でなくても、こころの研究はできるという言葉にもなるほど、と思った。こころは、一人ひとり違っていて、見えなくて、それぞれの中にあるものだから、それぞれが研究者になっても良いのだと。
こころを、数値や図などで、明確に調べることは難しいけれど、優れた詩人や作家は、こころのことをたくみに表現できる。
なださん自身が専門家であるにも関わらず、このスタンスでお話しは始まる。
不安や、こわい、といった心理はどういうしくみで起こるのか動物と比較しながら、ていねいに、わかりやすくストーリー仕立てで説明されていく。
どんな人にも共通するこころの動きを、心理学というのかもしれません。 -
Posted by ブクログ
おそらく、彼の遺したあらゆる著書の中で、これが、一番やっかいで、また彼の人生と言ってもいいかもしれない。
宗教の歴史的経緯とか位置づけとかはそんなもの学者に任せておけばいい。そんなことよりも、宗教はなぜ必要とされてきたのか。宗教を望むひとの精神、これは一体なんだ。神がいるいないとかの不毛なことを考えているのではない。神を望むのも、神を維持するのも、ひとえに同じ人間の心性だ。これ以上でもこれ以下でもない。ならば、ひとの精神に向かって生きてきた自分がこの心性を考えなければ誰が考える。
このことを考えるのはかなり骨を折ったに違いない。正常・異常など、ただのことばにすぎない。ということは、自分が正常だとも異常だとも言えてしまう。自分の生がオセロのように簡単にひっくり返されてしまう。そんな可能性をはらみながら、宗教を考えていくと、どうもその始祖たちも同じところに行き着いたように思える。始祖たちの成し遂げた革命は、対立を超えた統一、ヘーゲルなら弁証法と呼んだそれだった。
そこから2000年あまりが経った。始祖たちの思惑を外れ、世界は再び対立の中に後退していった。ひとの精神がこれを起こしてしまったのなら、再び統一に向かうのもひとの精神だ。精神医療は、そこに向かっていってほしい。人生の終わりにあたって彼が託した希望と言っていいだろうか。
ひとは何かを信ぜずにはいられない。信仰のない、というのを考えることはどうも無理なようにできている。そんなことに気付くとき、何を信じるかで争うのはなんと不毛なことか。始祖たちの出発点が見えてくる。原理ではなく、この原点へ。それはすべてのひとに開かれている。慣習を捨てた先に待っていたのは、なんとずっと変わることのないこの慣習だった。 -
Posted by ブクログ
結局のところ、人間は、宗教をはじめとして、信じる対象がほしいだけなのかもしれませんね。
そして、教団をはじめとする組織は、大きくなることが目的になるような気がします。
「キリストはキリスト教を知らない」という視点は、考えてみれば当たり前なんですが、この本で初めて気づかされました。
また、3大宗教の教祖の弟子は、弟子から抜け出せなかったこと、さらには、宗教の経典化による、本来の宗教の意味(教祖の意図)の曲解など、宗教について「なるほど」と思えることがてんこ盛りでした。
一神教における神や悪魔の設定も、すごく納得できました。
平易な文章でありながら、深みのある考察を堪能できるいい本だと思います。 -
購入済み
神を否定する本、ではない
タイトルから勘違いしがちですが、神の実在を否定することがこの本の目的だというわけではありません。「神がいるのかいないのか」を問う内容ではなく、むしろ「神」なるものをめぐる人間の営みに目を向けています。
現代日本ではともすれば「うさんくさい」「古い」などといった偏見の目で見られがちな宗教というものを、人間くさく、いじらしく、またいかなる宗教の枠組みも超えて誰にでもある営みとしてとらえ直すことができます。
形式については、著者のなだいなださんの得意技ですが、対話形式をとっているので、話に沿って自分も考えながら読み進めていくことができます。同一著者による「権威と権力」「民族という名の宗教」も併読すると、人間という存在について更に考えが深まるでしょう。 -
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
ますます深刻化するいじめ。
私たちはいったいどうしたらよいのでしょうか。
昔からあったいじめが、人権意識の高まりとともに大人の社会では少なくなったが、学校という場には残ってしまった―精神科医の立場からこう考える著者が、ある高校生との対話を通してこの問題の深層をみつめ、解決への糸口をさぐります。
[ 目次 ]
第1章 昔に「いじめ」はあったか―「いじめ」の定義
第2章 昔にはどのような「いじめ」が…
第3章 「いじめ」はどこに行ったか
第4章 そして学校だけに残った
第5章 「いじめ」の心理
第6章 増えているから問題なのか
第7章 処方せん―「いじめ」をなくすために
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
なだいなだの著作コーナーに並んでゐたところから。
別に香山リカさんが嫌いといふわけではないが、今いちどこかぴんとこない。一度はためらつたものの、解説は読まなければいいだけの話だから読んでみることに。
心がどこにあるかといふ議論の前に心が「在る」とはどういふことなのかそれが問はれねばならない。それは飜れば心が「ない」とはどういふことなのかといふことも同時に問はれねばならない。
心にわきあがる恐怖・不安といふベースの考察から、無意識へと降りてゆき、発達・自我構造、精神分析の考察へとたどり着く。何かと批判の多い精神分析であるが、やはりひとの心の存在を問ふたといふ点において、精神分析を越ゑるパラダイムはないのだと思ふ。
社会とは、何かを見なすことで概念を統合し、安定をしやうとする。しかし、さうすることで何かがそぎ落とされ、忘れ去られていくとするなら、社会はその代償を払はねばならい。
社会に合はない者の排除、社会に不都合なものの排除。ますます社会は脳化を辿り、脳のシステムから漏れるものはどんどん追放されていく。
もしも、さうした彼が現在の心理学の理論、精神医学の状況を見てどのやうに感じるのか。みなしの物差しを変へることに躍起になつてゐるが、そのものさしそのものを問はねばならないときつと言ふのではないか。そんな気がしてならない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ先般、亡くなられた「なだいなだ」先生の最後の書籍と思われる。吉岡隆氏との対談集?公開SV?。なだ先生は専門用語を日常のわかりやすい用語で説明されようとして、かえって軽く聞こえてしまうところもあるが、逆に深い意味を込めていることが、この本を読んで何となく感じた。面白い文面があったのであげておく。「常識とは、18歳までに集めた偏見のコレクションである」(アインシュタイン)「難しいことはやさしく書き、やさしいことは深く書き、つまらないことは面白く書く」「古くなって、改めねばならぬ常識が、偏見と呼ばれるだけなのだ」今さらながら、もっと、なだ先生の話が聞きたかった。
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Posted by ブクログ
かつての精神科の同僚だったカトリック信者と無神論者が、齢70を過ぎて、宗教とは何か、神とは何かを語り合う。
精神科医同士の会話という設定だけあって、切り口がかなり精神医療的。キリストやブッダ、マホメットなど、世界宗教の始祖と呼ばれる人々は優れた精神療法医だった、という大胆な(なださんの他にも、こういう説を展開している人がいるのかどうかは知らないが・・・)仮説から展開される二人の会話は、読んでいると「なるほど」と思えて、確かに理屈に適っているように思った。
読んでいていちいち納得することが多く、今ではきちんと確立されていることや、すっかり凝り固まった認識も、最初は手探りから始まって、だんだんと現在のような形になっていったんだな、と考え直すきっかけにもなる良書。
しかし、ある程度宗教に対する知識というか視野がないと、話の筋をつかみにくいところがある。とてもわかりやすい本なのだが、宗教を理解している人ほど面白く読める本だと思う。
私が特になるほどと思ったのは、「大事なのは宗教の教えに沿って考えることではなく、宗教の始祖ならどうするかというつもりで考えること」というくだり。
今現在に残っている「教え」は、始祖たちが実際に書き残したものではない。弟子たちや後世の人々が編集したものである。よって、始祖たちが実際に言ったこと、行ったことは矛盾が生じるのは当たり前である。
宗教の始祖たちが一般の民衆に伝えようとしたのは、それら残された言葉などではなく、その言葉が伝えようとした「意味」なのだから、それらの言葉に囚われすぎている今の宗教が、窮屈で貧相なものになってしまうのも当然といえば当然だという気になってくる。
大事なのは、何か「絶対」だと思うものを勝手に作り上げて、それにすがり切ってきまわないこと。自分の頭できちんと考え、自分の行動に責任を持つこと。
でも、これが難しい。だからこそ、宗教もこれほど広まったし、必要とされたんだろうな。