高見順のレビュー一覧

  • 敗戦日記

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    1945年の日記、高見順は38歳。
    もとは3000枚の分量で、その抜粋650枚。文庫にすると450ページ。(天性の日記魔らしい。前年、徴用で従軍し、ビルマ戦線でジャングルのなかを彷徨した際に、書き溜めた日記を紛失した。「あとがき」では、それを残念がっている。)
    北鎌倉在住。近くに住む小林秀雄、川端康成、久米正雄も頻繁に登場。東京にも頻繁に出かけている。戦況は報道と違って、かなり悪いらしい。そして度重なる空襲。8月に入ると、広島と長崎に「新型爆弾」が落とされたらしい。しかし、詳細は報道されない。
    8月15日を境に、世界は反転。国の言うことも、新聞の記事や論調も、がらりと変わる。まるでそれまでのことを忘れたかのように。喜ぶべきか悲しむべきか。怒るべきか落ち着くべきか。8月後半から9月にかけては、そのコンフリクトとアンビバレンスが書かれている。
    高見順『終戦日記』は本書の続き。明るさがまるで違っている。本書と同時期の日記、山田風太郎『戦中派不戦日記』と読み比べてみるのも一興。

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    2026年08月10日
  • 敗戦日記(新装版)

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     先に読んだ鷲田清一さんのエッセイ「「透明」になんかされるものか」の中の一文で紹介されていたので気になった本です。
     高見順さんが遺した膨大な日記から、敗戦時を含む太平洋戦争最後の年「昭和20年の一年間」を抜粋収録したものとのこと。
     太平洋戦争の戦中・戦後の世相の動静と変化、権力者と民衆の実相、文筆家の在り様等々をリアルタイムで書き留めたとても貴重な記録だと思います。

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    2025年10月27日
  • 敗戦日記

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     先に読んだ鷲田清一さんのエッセイ「「透明」になんかされるものか」の中の一文で紹介されていたので気になった本です。
     高見順さんが遺した膨大な日記から、敗戦時を含む太平洋戦争最後の年「昭和20年の一年間」を抜粋収録したものとのこと。
     太平洋戦争の戦中・戦後の世相の動静と変化、権力者と民衆の実相、文筆家の在り様等々をリアルタイムで書き留めたとても貴重な記録だと思います。

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    2025年10月27日
  • わが胸の底のここには

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    自伝的小説だけれど、どこかでわたしが経験したことが書かれているのでは?と錯覚する。し、錯覚させるために書いたのでは?意図したものでは?とこれまた錯覚する。

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    2025年09月21日
  • 敗戦日記

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    高見順と言えばまず詩だ。そして日記。小説は3番目くらいだと思う。

    小学生時代から56歳癌で亡くなるまで、原稿用紙にして約14,000枚に及ぶ日記を残した。『高見順日記』は正続合わせて全17巻。ものすごい量である。「敗戦日記」は昭和20年1月1日から12月31日までのもので、いちばん有名だろう。文学者が残した敗戦の年の記録として、歴史的な価値も高い。

    2月24日より
    「二兎を追うものは一兎を得ず」
    日記と小説を同時に、――小説曰く「日記扱いは侮辱だ。こっちは仕事で道楽ではない」
    日記曰く「小説扱いは侮辱だ。こっちは、はばかりながら金銭で売られる身ではない」

    4月7日より
    『日記』は事実を書いておく方がいい、と花袋は言っている。(『花袋文話』)「こう思ったとか、ああ思ったということよりも、こういうことをした、ああいうことをしたという行為を書いておく方が『日記』というものの本来の性質にかなっている。自己の後年の追懐のためにする上から言ってもその方が便利だ」/私もそのつもりでいたが、事実だけだと何か味気なく、「こう思ったとか、ああ思ったということ」を書きだした。そこに面白味が出てきたが、先日、日記がさっぱり書けなくなった。その原因は、思うにその「面白味」に対する嫌悪にあったのだから、おかしい。

    7月8日より
    「人間の再建」について考える。
    第一に、自己の問題である。第二に、日本の問題である。第三に、世界の問題である。
    人間の再建は、自己の再建を前提とせねばならぬ。

    いよいよ戦局が押し詰まってきても、高見は鎌倉の自宅から頻繁に東京に出向いている。「文学報国会」のメンバーとして、いわば「出勤」なのだが、それにしてもいつ空襲があるかわからないさなか電車に乗って浅草などに行くというのは、かなり無謀とも思える。また、今考えれば信じられないことだが、そういう中でも営業している「国民酒場」と呼ばれる飲み屋などがあって、行列に並んでお金を払って配給券みたいなのを買い、ビールや冷酒を呑んだりしている(もちろんまともなつまみなどほとんど出ないが)。しかし考えてみれば戦時中だって飲みたくはなる(いや、飲まなきゃやってられない)だろう。こういう記録は、当時の庶民のリアルがわかって貴重である。

    高見は新聞やラジオなどの、大本営による体制べったりの報道に憤りを感じている。しかし、その頃の一般の人たちの本当の心情を垣間見せる記事も稀にはあった。

    7月22日より
    二十二日の投書欄に次のような言葉がある。将に輿論である。「歯の浮く文字▽報道陣や指導者にお願ひがある。「神機来る」「待望の決戦」「鉄壁の要塞」「敵の補給線」等々、何たる我田引水の言であろう。かかる負惜しみは止めてもらいたい。もうこんな表現は見るのも聞くのも嫌だ。俺達はどんな最悪の場合でも動ぜぬ決意をもつて日々やつてゐる。もはや俺達を安心させるやうな(その実反対の効果を生む)言葉は止めてくれ。……」

    運命の日が近づく。

    8月7日より
    原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める、原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ、そういう話はかねて聞いていた。その原子爆弾が遂に出現したというのだ。――衝撃は強烈だった。

    8月10日より
    ソ聯の宣戦は全く寝耳に水だった。情報通は予感していたかもしれないが、私たちは何も知らない。むしろソ聯が仲裁に出てくれることを秘かに心頼みにしていた。誰もそうだった。/(中略)/あんなに戦争終結を望んでいたのに、いざとなると、なんだかポカンとした気持だった。どんなに嬉しいだろうとかねて思っていたのに、別に沸き立つ感情はなかった。

    8月15日より
    駅は、いつもと少しも変わらない。どこかのおかみさんが中学生に向って、「お昼に何か大変な放送があるって話だったが、なんだったの」と尋ねる。中学生は困ったように顔を下に向けて小声で何か言った。「え? え?」とおかみさんは大きな声で聞き返している。

    世の中は激変する。

    9月29日より
    天皇陛下がマッカーサー元帥と並んで立っておられる写真が新聞に載っている。かかる写真はまことに古今未曽有のことである。将来は、なんでもない普通のことになるかもしれないが、今は、――今までの「常識」からすると大変なことである。日本国民は挙げて驚いたことであろう。後世になると、かかる驚きというものは不可解とせられるに至るであろうが、そうして古今未曽有と驚いたということを驚くであろうが、それ故かえって今日の驚きは特筆に値する。

    10月29日より
    英語会話の紙を売っている。紙である。一枚の紙である。パンフレットではない。それで一円くらいの定価だ。こういう紙がいろいろ出ている。至るところで売っている。飛ぶように売れている。

    高見は戦争中、鎌倉在住の川端康成や久米正雄、小林秀雄らとともに、みずからの蔵書を提供して「鎌倉文庫」と呼ばれる貸本業を始めた。それは戦後に出版社へと発展する。「敗戦日記」はこうした活動の詳細も伝えている。高見は常に積極的に何かをなそうとしていた。

    今年(2025年)は敗戦の年から80年であるとともに、高見順の死から60年の節目の年でもある。

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    2025年08月14日
  • 敗戦日記(新装版)

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    高見順と言えばまず詩だ。そして日記。小説は3番目くらいだと思う。

    小学生時代から56歳癌で亡くなるまで、原稿用紙にして約14,000枚に及ぶ日記を残した。『高見順日記』は正続合わせて全17巻。ものすごい量である。「敗戦日記」は昭和20年1月1日から12月31日までのもので、いちばん有名だろう。文学者が残した敗戦の年の記録として、歴史的な価値も高い。

    2月24日より
    「二兎を追うものは一兎を得ず」
    日記と小説を同時に、――小説曰く「日記扱いは侮辱だ。こっちは仕事で道楽ではない」
    日記曰く「小説扱いは侮辱だ。こっちは、はばかりながら金銭で売られる身ではない」

    4月7日より
    『日記』は事実を書いておく方がいい、と花袋は言っている。(『花袋文話』)「こう思ったとか、ああ思ったということよりも、こういうことをした、ああいうことをしたという行為を書いておく方が『日記』というものの本来の性質にかなっている。自己の後年の追懐のためにする上から言ってもその方が便利だ」/私もそのつもりでいたが、事実だけだと何か味気なく、「こう思ったとか、ああ思ったということ」を書きだした。そこに面白味が出てきたが、先日、日記がさっぱり書けなくなった。その原因は、思うにその「面白味」に対する嫌悪にあったのだから、おかしい。

    7月8日より
    「人間の再建」について考える。
    第一に、自己の問題である。第二に、日本の問題である。第三に、世界の問題である。
    人間の再建は、自己の再建を前提とせねばならぬ。

    いよいよ戦局が押し詰まってきても、高見は鎌倉の自宅から頻繁に東京に出向いている。「文学報国会」のメンバーとして、いわば「出勤」なのだが、それにしてもいつ空襲があるかわからないさなか電車に乗って浅草などに行くというのは、かなり無謀とも思える。また、今考えれば信じられないことだが、そういう中でも営業している「国民酒場」と呼ばれる飲み屋などがあって、行列に並んでお金を払って配給券みたいなのを買い、ビールや冷酒を呑んだりしている(もちろんまともなつまみなどほとんど出ないが)。しかし考えてみれば戦時中だって飲みたくはなる(いや、飲まなきゃやってられない)だろう。こういう記録は、当時の庶民のリアルがわかって貴重である。

    高見は新聞やラジオなどの、大本営による体制べったりの報道に憤りを感じている。しかし、その頃の一般の人たちの本当の心情を垣間見せる記事も稀にはあった。

    7月22日より
    二十二日の投書欄に次のような言葉がある。将に輿論である。「歯の浮く文字▽報道陣や指導者にお願ひがある。「神機来る」「待望の決戦」「鉄壁の要塞」「敵の補給線」等々、何たる我田引水の言であろう。かかる負惜しみは止めてもらいたい。もうこんな表現は見るのも聞くのも嫌だ。俺達はどんな最悪の場合でも動ぜぬ決意をもつて日々やつてゐる。もはや俺達を安心させるやうな(その実反対の効果を生む)言葉は止めてくれ。……」

    運命の日が近づく。

    8月7日より
    原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める、原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ、そういう話はかねて聞いていた。その原子爆弾が遂に出現したというのだ。――衝撃は強烈だった。

    8月10日より
    ソ聯の宣戦は全く寝耳に水だった。情報通は予感していたかもしれないが、私たちは何も知らない。むしろソ聯が仲裁に出てくれることを秘かに心頼みにしていた。誰もそうだった。/(中略)/あんなに戦争終結を望んでいたのに、いざとなると、なんだかポカンとした気持だった。どんなに嬉しいだろうとかねて思っていたのに、別に沸き立つ感情はなかった。

    8月15日より
    駅は、いつもと少しも変わらない。どこかのおかみさんが中学生に向って、「お昼に何か大変な放送があるって話だったが、なんだったの」と尋ねる。中学生は困ったように顔を下に向けて小声で何か言った。「え? え?」とおかみさんは大きな声で聞き返している。

    世の中は激変する。

    9月29日より
    天皇陛下がマッカーサー元帥と並んで立っておられる写真が新聞に載っている。かかる写真はまことに古今未曽有のことである。将来は、なんでもない普通のことになるかもしれないが、今は、――今までの「常識」からすると大変なことである。日本国民は挙げて驚いたことであろう。後世になると、かかる驚きというものは不可解とせられるに至るであろうが、そうして古今未曽有と驚いたということを驚くであろうが、それ故かえって今日の驚きは特筆に値する。

    10月29日より
    英語会話の紙を売っている。紙である。一枚の紙である。パンフレットではない。それで一円くらいの定価だ。こういう紙がいろいろ出ている。至るところで売っている。飛ぶように売れている。

    高見は戦争中、鎌倉在住の川端康成や久米正雄、小林秀雄らとともに、みずからの蔵書を提供して「鎌倉文庫」と呼ばれる貸本業を始めた。それは戦後に出版社へと発展する。「敗戦日記」はこうした活動の詳細も伝えている。高見は常に積極的に何かをなそうとしていた。

    今年(2025年)は敗戦の年から80年であるとともに、高見順の死から60年の節目の年でもある。

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    2025年08月14日
  • 敗戦日記

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    ネタバレ

    山田風太郎の戦中日記を読んだときは、その旺盛な食い意地に笑ってしまった。
    何しろ若かったから、食べることだけが楽しみだというその文章に、実に説得力があったのだ。

    けれどこの日記を書いたとき、高見順は39歳。
    それなりの大人なのである。
    鎌倉に住みながら、仕事のためにしょっちゅう東京に出てきては、戦時下の東京を記録する。

    灯火管制の下、配給品以外(つまり闇)の酒を飲むために店を探し、伝手を手繰る。
    かと思えば、芝居小屋や映画館に並ぶ人々の様子が描かれる。
    死ぬか生きるかの瀬戸際でも、人は楽しみを求めるのだなあということがわかる。

    文学報国会に属し、従軍記者として記事を書いたこともある高見順は、しかし決して戦争を賛美してはいない。
    日本の主張をどうして他国は理解してくれようとしないのか?
    日本はもっとやれるはずじゃなかったのか?
    マスコミの煽りのひどさに国民はとっくに冷め切っているのだから、マスコミももっと正直な記事を書かねばならないのではないか。
    作家というよりは、一般の国民としての感想であろう。

    そもそもなぜ文学報国会なるものに参加しているのかというと、参加しないと『執筆禁止』とされてしまうかもしれないから。
    書くことの自由はそこにはない。
    だから活動が嫌で嫌で、毎回しぶしぶ会合に出ていくのである。

    作家としての自分に対するプライドが高く、例えば鎌倉在住の作家たちで貸本屋を設立した時、「番頭役」を受け持つのだけど、作家から番頭に成り下がったと愚痴る。
    奉仕作業の役に立てない非力な自分を自覚しつつ、決して自分はルンペンではない作家なのだと言い募る。

    東京が空襲で焼け野原になり、本土決戦が行われるとしたら鎌倉も危ないのではないかと心配する。
    しかしお金がないから疎開ができない。
    金持ちはいつもいい目を見て、庶民はいつも何もできないと愚痴る。

    身体は一人の国民としてそこにあるのに、意識はいつも一段上にいてイライラしているような、そんな文章。(中二病?)

    沖縄に出兵して亡くなった友人を偲ぶけれど、住んでいた場所が戦場になった沖縄の人について思いをいたすことはない。
    本土決戦に心配をするだけだ。

    敗戦にあたって、日本人が中国で現地の人たちにしたことを考えると、どれだけひどいことを進駐軍にされるかと怯えていたが、ふたを開けたら、日本政府が自国民から奪った数々の自由と権利を進駐軍が日本人に返してくれたことに感謝をしてる。

    ”南樺太、千島がソ連に取られる。それはいい。それは仕方ない”
    本州に住む人の、これは本音なんだろうなあと思う。
    樺太の、真岡郵便局の電話交換手の少女たちが、迫りくるソ連兵に怯えながらも職務を遂行し、最後まで任務を遂行した後自決した、なんて事実は現代どころか当時も全然ニュースになってはいなかったんだという衝撃。

    自分たちが行ってしまったことの大きな過ちを、被害を書きながら、反省の弁はほとんどない。
    あまりに正直に書かれた日記であるがゆえに、読んでいて非常にイライラした。

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    2019年08月15日
  • 敗戦日記

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    作家高見順が昭和20年1月1日から12月31日まで書き綴った日記。鎌倉坂井市、小説家と東京を往復する日々が綴られる。
    銃後の生活の実態が垣間見られたり、空襲の焼け跡の悲惨さ。本土決戦への覚悟。一方で愛国精神を声高に叫ぶ者への冷ややかな目。真実を発表しない軍部や報道への怒り。敗戦後の日本人のみすぼらしさへの憤りとそれへの慣れ。アメリカ兵におもねる人々への怒りと諦観。自らの創作活動への焦燥と覚悟。
    急激な戦況の悪化と敗戦と占領という激動の1年を赤裸々に綴った文書で、非常に興味深く読める。川端や大佛といった作家たちも登場し、鎌倉を拠点とした文化人たちの行動も述べられる。

    著者:高見順(1907-1965、坂井市、小説家)

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    2019年11月14日
  • 敗戦日記

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    昭和20年1年間の日記で、なかなか捗らなかったが、太平洋戦争が最終盤に入った7月頃から引き込まれて一気に読破した。故郷生まれの作家・高見順の作品を初めてしっかり読んだ

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    2026年07月15日
  • 敗戦日記(新装版)

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    昭和20年1年間の日記で、なかなか捗らなかったが、太平洋戦争が最終盤に入った7月頃から引き込まれて一気に読破した。故郷生まれの作家・高見順の作品を初めてしっかり読んだ

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    2026年07月15日
  • 敗戦日記

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    ネタバレ

         -2007.09.07記

    昭和20年の1月1日から終戦の詔勅を経て12月31日までの、中村真一郎に「書き魔」とまで言わしめた文人の戦時下の日々を執拗なまでに書き続けた日記。
    おもしろかった。敗戦間近の極限に追いつめられた日本とその国民の様子がきわめて克明に記述されている点、また敗戦後のマッカーサー進駐軍占領下の人々の様子においても然り、具体的な事実の積み重ねに文人としての自らの煩悶と焦慮が重ね合わされ、興味尽きないものがある。

    高見順は戦中転向派の一人である。
    明治40-1907年生れ、父は当時の福井県知事阪本釤之助だが、非嫡出子いわゆる私生児である。
    1歳で母と上京、実父とは一度も会わないまま東京麻生において育ったという。
    東大英文科の卒業だが、在学時より「左翼芸術」などに投稿、プロレタリア文学の一翼を担う作家として活動をしていたが、昭和7-1932年、治安維持法違反の嫌疑で検挙され投獄され、獄中「転向」を表明し、半年後に釈放されている。
    一旦、転向表明をしてしまった者に対し、軍部は呵責のない徴用を課する。
    昭和17-1942年のほぼ1年間、ビルマに陸軍報道班員として滞在、さらには昭和19-1944年6月からの半年、同じく報道班員として中国へ赴いている。
    ビルマの徴用を終え帰国してまもなく、東京の大森から鎌倉の大船へと居を移した。鎌倉には大正の頃から多くの文人たちが住まいした。芥川龍之介、有島生馬、里見弴、大佛次郎など。昭和に入ると、久米正雄をはじめ、小林秀雄、林房雄、川端康成、中山義秀などが続々と住みついていたから、遅ればせながら鎌倉文士たちへの仲間入りという格好である。

    この鎌倉文士たちが集って貸本屋開設の運びとなる。
    多くの蔵書が空襲で無為に帰しても意味がないし、原稿執筆の収入も逼迫してきた事情もあっての企図であった。
    高見は番頭格として準備から運営にと東奔西走、5月1日無事「鎌倉文庫」は開店した。
    この日100名余りの人々が保証金と借料を添え、思い思いの書を借り出していく盛況ぶりであったという。
    この鎌倉文庫は終戦後まもなく出版へと事業を拡張させ法人化され、文芸雑誌「人間」や「婦人文庫」「文藝往来」などを創刊していく。

    8月6日、広島に原爆投下。
    新聞やラジオはこの事実をまったく伝えない。だが人の口に戸は立てられぬ。翌7日、高見は文学報告会の所用で東京へ出向いたが、その帰りの新橋駅で偶々義兄に会い、原子爆弾による被災情報を得る。「広島の全人口の三分の一がやられた」と。
    それから15日の終戦詔勅まで、人々は決して公には原爆のことなど言挙げしない。貝のように閉ざしたまま黙して語らず。
    すでに人々の諦観は行きつくところまでいってしまっているのだろう。無表情の絶望がつづく。

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    2022年10月16日
  • 敗戦日記

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    現在、戦中日記を読めば、100人が100人とも同じ感慨を抱くのではないか?すなわち「まるで、今のウクライナのようだ」。

    いつも空襲警報は鳴り放し、昨日まであった飲み屋が、学校が、思い出深い建物が、今朝見れば瓦礫と化している。それでも、驚くほど人々は暮らしている。もちろんおそらく「明日は死ぬかもしれない」という気持ちも持っていたとは思うが、日記の中はみんな一様に「淡々と」綴られ生活している。

    「図書7月号」で斎藤真理子さんが、有名人の戦中日記の読み比べをしていた。きっと面白いに違いないと思い、私も真似てみる。用意したのは、高見順「敗戦日記」、「大佛次郎敗戦日記」、「吉沢久子27歳の空襲日記」、「田辺聖子18歳の日の記録」、ケストナー「終戦日記」である。読み始めると、予想通り面白く、なかなか終わらない。書けば長文になることが決定しているし、そもそも各自の日記を並列しないと意味ない。よって5冊の本の感想を1945年に限り書いて、五分割して順番に載せることにした。読者諸氏は是非とも順番に読んで頂きたい。

    1番バッターは高見順である。ある意味戦中日記の代表選手。

    高見順(37)。鎌倉の大船在住。文学報国会の委員をしていて、東京へは月に10-5回の頻度で来京していた。19年は6月〜12月陸軍報道班として「支那」に行っていた。

    文学報告会という、文学者の戦争協力組織と文学者の関係を「ケストナー終戦日記」翻訳者の酒寄進一氏のように、一刀両断で非難する気持ちは私にはない。しかし、今はキチンと準備できていないので、このシリーズの最終回に書きたいと思う。

    1月2日
    高見順 雑煮を食い、母と共に鶴岡八幡宮に参拝。

    1月9日 
    高見順 亀谷の小林秀雄に会いに行き、いなくて、途中空襲警報、極楽寺の中山義秀へ。

    大佛次郎  大佛次郎の方が高見順よりも遥かに空襲事情は詳しい。この日の空襲は大船の(撮影所含む)被害を詳細に記している。

    1月11日
    高見順  小林秀雄宅で美について考える。考えるな、美は目の前にある。

    吉沢久子 新しく会社に入ったSさん、物資を集めることが仕事になってしまったようだ。今日はウイスキーが手に入るとか。アイデアルウイスキーというので、一本150円だそうだ。えっ、私の月給は120円なのに、とゆううつになる。でも妹からたのまれていたので一本購入とたのんでおいた。 帰りに妹の家に寄り、ウイスキーのことを伝えたらもっと買うという。豚なべ、ごちそうになって帰る。

    ←妹のところは夫が事業かうまくいっているようで、お金持ちらしい。月給分のウイスキーでも欲しいという階層が一定数いたのだということもよくわかる。吉沢久子は当時田舎の阿佐ヶ谷に住んでいた。

    1月12日
    高見順  赤裸々な私小説のような藤村の「家」について、あれこれ感想を書く。

    1月14日
    高見順 日比谷、銀座を歩く。日比谷映画劇場に長い列。銀座の国民酒場になった「天国」「ブラジル」で「無糖珈琲九銭」を飲む。「スリーシスターズ」でこっそり酒を飲む。日本酒五本とウィスキー二杯づつ、それで二百円あまり。大変な高さらしい。「名古屋に再び大地震があったらしい。気の毒なことだ。フィリピンの戦いはいよいよひどくなった」

    1月27日
    高見順  朝空襲警報、(のちにラジオで70機の来襲と報じられる。「詳しいことはわからぬが、不幸は察せられる」)終日家にいて、ゆうこく運動のために鎌倉に出る。 翌日、新聞には何も書いていないが、人々の話でことのほか酷かったと知る「最初の市街盲爆である」。義兄の話で、被害家屋千余。被害人数数千。

    吉沢久子 神田須田町のビルの勤め先で空襲に遭う。遠く(王子、池袋、日暮里、千住)で黒煙を見ていると、直ぐ近くで高射砲のパチパチという音、何かがはじける音、ビルなので遠くを見渡せる。今度は銀座、丸の内で黒煙。←ビルなので燃えないという安心感か、死ぬかもしれない、という危機感はない。いやに冷静な描写。もしかしたら、わざと感情を入れるのを抑制しているのかもしれない。というのは、3月の東京大空襲には感情を爆発させているからである。

    大佛次郎  翌日に東京の被災の詳しい話を聞いている。新聞ではなく、人伝に聞く方が正確な由。

    1月30日
    高見順 義兄と国家傍聴をしに都内へ。その前に爆撃地見物。地下鉄は銀座には行かず、しんばしまで。新橋三壺堂で「梅原龍三郎北京画集」(79円)「森寛斎画集」(22円)を買う。帝国ホテルへ。山水楼隣の骨董屋に爆弾が落ちたとのこと。そこまで行けず日比谷へ。朝日新聞社のガラスはみな破壊。10時、人ひとり通らない街。「寝れるときに寝ておこうと、みんな早く寝てしまう」から「何か気味の悪い、不吉な感じさえする静けさ」。

    吉沢久子 今日一日は空襲もなく平和であった。一日生き延びた。希望がなくなった。

    大佛次郎  米軍司令官が絨毯爆撃をドイツでやった奴だから、日本でも始めた。ある種非常に正確な推察を聞いている。工場を狙うものだと思っていた期待が覆ったことを嘆く。「戦争は彼我の人間の素質がものをいう段階に入っている」「戦争指導者ならいざ知らず、文士がこうもく安っぽく嘘をつけることだ(←林房雄「剣と詩」)と感心するばかりである」
    ←すみません。全部日記のストレートな引用ではなくて、時々日記の要約もしますし、私の感想的要約もします。ここでは地文が要約。「」内はストレート引用。

    ケストナーの日記は2月から、田辺聖子の日記は5月から入ってくる。
    ともかく、この3人の日記を読み比べて、東京の周辺に住んでいた文学者や、田んぼばかりの田舎に住んでいたOLたる吉沢久子は、比較的「安全だ」と思っていたようだ。
    けれども、東京の状況は、ほとんど現代のウクライナ・キーウの姿である。

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    2022年07月31日
  • 草のいのちを 高見順短篇名作集

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    人生は悲劇であり喜劇っていう話。


    高見順戦前戦後短編集。

    文体が独特で自然で自分に合ってた。

    全ての作品に切ないような、情けないような、滑稽なような雰囲気が漂っていて、意外にも楽しめた。

    「草のいのちを」「あるリベラリスト」の2作品が特に面白かった。

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    2021年06月27日
  • 敗戦日記

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    『書け、病のごとく書け、業のごとくに書け、痴のごとくに書け。』

    文筆家の高見順は学生の頃から日記をつけていた。
    その膨大な日記から、終戦の年である昭和二十年の一年間の日記を「敗戦日記」として出版したもの。
    高見順自身が潔癖症に近い性質を持っているようで、思考の方向は決して明るくはないのですが、当時の一般市民の様子、文化人たちの様子が見られて非常に興味深い。

    まずは終戦前後の一般市民の生活の様子を窺い知ることができる。
    空爆のニュースが流れるが疎開して生活するには金がないので空爆されたら死ぬしかないのだろうという日々。日本の報道は勇ましいことばかり言うが劣勢は明らかなのだからむしろそれを認めたうえで覚悟を謳いかけて欲しいという思い。
    しかしいざ望んでいた終戦を迎えても静かに他人事のように受け止める日本人の様子。
    アメリカの統治によりアメリカによってもたらされた自由、マッカーサーに「四等国民」と言われたが言い返すことのできないような醜態を晒す日本人の様子。
    それらを日本を愛する者として、日本を憂う者として、恥ずかしくも思い、新たな日本人の道徳を望んでもいる。

    そして終戦前後で出版の自由が妨げられた状況での文学者たちの日常や交流。
    鎌倉を住居としていた高見順は、「鎌倉文士」の川端康成や小林秀雄や里見惇たち他の文学者たちと貸本屋の「鎌倉文庫」を開いたら思いのほか大盛況だったという様相、文化人たちが政治思想による表現の抑制に対して抵抗しようとした様子としかし全く力が及ばないことへの嘆きなど。

    さらには高見順が「このような状況でも自分は文士でいたい」という想い。
    日記の最中に小品や詩のメモを記録し、しかしこの膨大な資料は戦火に失われるのかという思い、そもそも文学というものはどこまで残るのか…などという心の動き。

    実際の地名や企業名で「○○社が空襲で焼け落ちた」「どこからどこまで焼け野原になった」と記録されているので、現在に当てはめて考えてみた。


    以下書き出し
    **********

    高射砲の音が爆弾のように聞こえる。前線ではキュンキュンと言った鋭い甲高い音に聞こえるのだが、東京ではズンズンという鈍い音。(一月五日 P9)

    その暗さとは、どこの人間のでもない、日本人の暗さだ。そうしみじみ思った。そうしてその暗さに切ないいとうしさを覚えた。
    こんないとしい日本人が、日本が、戦いに負けようとしている。(一月十二日 P24)

    芸とはかのごときものなのだ。空しいところに芸はある。
    (…)
    なまじ、あとに残る文学芸術などに従っているものの、空しさにきびしく直面できぬ不幸、空しいきびしさに鍛えられぬ不幸。
    後世に結局残りもしないのに、残るかもしれぬとうぬぼれて何か書いているものの不幸。その醜さが後に残るのに、何か書きちらしている者の不幸。
    だが、
    書け、
    病のごとく書け。
    菊五郎の踊りを見て、心に誓ったことは、
    かくのごとく、業のごとくに書け。(一月十六日 P35)

    病いのごとく書け
    痴のごとくに書け
    日記においても然り、
    自己反省のため、自己鍛錬のため(否、実際は、自己慰楽か)の日記、―かように考えていたが、目的などいらぬ。作用を考えるに及ばぬ。病のごとくに書け。(一月十八日 P36)

    ○もっと、どしどし、敵を作ること。
    自分を育てるために、敵を作ること。
    (…)
    自分の方では敵意を持たず、愛を示しつつ、しかも向こうからは敵意を持たれる。その敵意によって自分が育てられる。(二月十二日 P67)

    庶民とともにあった芸人は、庶民とともに死んだのである。
    文士は今のところまだ死んでいない。だがそのうち、犠牲者はきっと出てくる。
    そうして上層の政治家、富豪などは最後まで死なない。(四月五日 P151)

    小説と同じだ。事実だけ書くのが、小説の究極の姿だろうと考えられるが、若いうちはなかなかそれができない、そのきびしさにたえられない。そこで「こう思ったとか、ああ思ったということ」が入ってくる。そそこに小説を書く面白味、小説の面白味を求める。ところが、その「面白味」が小説の弱点になってくるのだ。一番腐りやすい部分になってくる。(…)
    鴎外などの日記は、事実だけなので腐らない。
    私の日記は、―腐ってもいい。いや、腐っていい。(四月七日 P153)

    ○焼け出された当座は、さっぱりしたなどと言っていても、やがて気持ちがひねくれ荒んでくる人が多いという。なかには、国のために焼かれて、無一文になったのだと言って知らない人の家でもどんどん入って行って、国のための偽性者、罹災者なんだから泊めてくれとういのもあるとか。ひどいのになると、焼け残った家からいろんな物を堂々と持ち出していく。
    「焼かれるより、焼け残される方が、こわくなりそうだ」
    と某君は言っていた。(四月二十四日 P181)

    人はなぜ小説を読むのか。
    人間の運命を、人間の生き方を、―人間を知ろうという気持ちが、人間をして小説を読ませるのだ。(四月二十九日 P184)

    (※新聞の日本優位の戦況報道を見て)
    なんともいえない口惜しさ、腹立たしさ、いら立たしさを覚えさせられた。
    敵に明らかに押されているのだ。敗けているのだ。なぜそれが率直に書けないのだ。なぜ、率直に書いて、国民に訴えることができないのだ。
    (…)国民は、こういう気休めの、ごまかしの記事に騙されはしない。裏を読むことに慣れさせられた。すると、何の必要があって、こういう記事でなければならないのだ。
    (…)
    こんなことで、この苛烈な戦争が切り抜けられるだろうか。(五月十一日 P192)

    ああ、己を吐露した仕事がしたい。否、せねばならぬ。(五月十八日 P198)

    (※日本を鼓舞する新聞に対するの読者の投書欄)
    報道陣や指導者にお願ひがある。「神機来る」「鉄壁の要塞」(…)かかる負け惜しみは止めてもらいひたい。(…)俺達はどんな最悪の場面でも動ぜぬ決意を持って日々やつている。もはや俺たちを安心させるやうな言葉は止めてくれ。
    敵に押されてきたら素直にそれをそれとして表現してもらいひたい。その方が日本国民をどんなに奮起さすかわからない。狭い日本のことだ、老若男女多少の差はあつてもみんなとことんまでぶつかる覚悟だから、見えすいた歯の浮くやうないひかたはやめた方がいい。(…)(七月二十二日 P249~)

    折口信夫氏がこれまた国学者らしい静かな声で「安心して死ねるようにしてほしい」と言った。すると上村氏が「安心とは何事だ、かかる精神で…」とやりはじめた。折口氏は低いが強い声で「おのれを正しゅうせんがために人を陥れるようなことをいうのはいけません」と言った。立派な言葉だった。こういう静かな声、意見が通らないで、気違いじみた大声、自分だけ愛国者で、他人はみな売国奴だといわんばかりの馬鹿な意見が天下に横行したので、日本はいまこの状態になったのだ。似而非(※えせ)愛国者のために真の愛国者が殴打追放され沈黙無為を強いられた。今となってもまだそのことに対する反省が行われない。(七月二十六日 P259)

    (※広島に“新型爆弾”が落とされたという噂と報道を接した東京の様子)
    街の様子、人の様子は、いつもと少しも変わっていない。オソロシイ原子爆弾が東京の私たちの頭上にもいつ炸裂するかわかないというのに、(…)人々は、のんびりした、ぼんやりした顔をしている。(八月八日 P278)

    毎日に、アメリカの戦時情報局の組織が出ている。長官をはじめ、海外部長、政策部長いずれも文芸家だ。文化人を戦争から締め出している日本とは、まるで違う。すべて、まるで違うの感が深い。(八月八日 P282)

    避難の話になった。もうこうなったら避難すべき時だということは分かっているのだが、誰もしかし逃げる気がしない。億劫でありまた破れかぶれだ。
    「仕方がない。死ぬんだな」(八月九日 P287)

    「休戦、ふーん。戦争はおしまいですか」
    「おしまいですね」
    と川端さんはいう。
    あんなに戦争終結を望んでいたのに、いざとなると、なんだかポカンとした気分だった。どんなに嬉しいだろとかねて思っていたのに、別に湧き立つ感情はなかった。(八月十日 P290)

    なるほど言論の銃のために死んだ文化人は一人もないことを恥じねばならぬ。
    「執筆禁止」におびやかされながらしかし私は執筆を禁止されなかった。妥協的なものを書いてべんべんとして今日に至ったのである。恥じねばならぬ。他を咎める資格はないのであった。しかし…。(八月十二日 P298)

    監視飛行の敵機が低空で頭上を通り過ぎた。口惜しさが胸にこみ上げた。わが日本の空に、わが日本の飛行機はもう飛んでいないのである。もう見られないのである。(八月二十五日 P331)

    (※トルーマンが演説でアメリカを「原子爆弾を発明し得る自由な民衆」に対して)
    「原子爆弾を発明し得る自由な民衆…」これは我々の心を打つ。まことに私達には左様な「自由」が奪われていた。自由の精神が剥奪されていた。(九月四日 P346)

    (※アメリカの、日本占領人事発令に対して)
    日本でのことながら、こういう正式発表は日本に対してなされない。外電によって知らされる。特記しておかねばならぬ。敗戦の現実の一つである。(九月十日 P350)

    (※マッカーサーが新聞並びに言論の自由を発令したことに)
    自国の政府により当然国民に与えられるべきであった自由が与えられずに、自国を占拠した他国の軍隊によって初めて自由が与えられるとは。
    (…)
    日本を愛する者として、日本のために恥ずかしい。戦に負け、占領軍が入ってきたので自由が束縛されたというのならわかるが、逆に自由を保障されたのである。なんという恥ずかしいことだろう。(九月三十日 P366)

    (※高見順は、ビルマや中国に報道班として赴いていた)
    日本人はある点、去勢されているのだ。恐怖政治ですっかり小羊の如く大人しい。怒りを言葉や行動に積極的に表しえない、無気力、無力の人間にさせられているところもあるのだ。
    (…)
    日本人だって残虐だ。だって、というより日本人こそといった方が正しいくらい、支那の戦線で日本の兵隊は残虐行為をほしいままにした。権力を持つと日本人は残虐になるのだ。権力を持たせられないと、小羊の如く従順、卑屈。ああなんという卑怯さだ。(十月五日 P371)

    女史選挙権が付与された。
    (十月十四日 P376)

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    2019年04月06日
  • 如何なる星の下に

    Posted by ブクログ

    著書は読んでいなかったけど、ご病気が重篤で『死の淵より』などの作品が話題になっていた記憶がある。有名な鎌倉文庫や駒場の近代日本文学館などの文学活動をなさっていた印象も強い。

    謹厳な堅苦しいような作家、初期のこの作品はぎやかだった戦前の浅草を描いた、通俗小説のようで意外な気がしたが、作品が書かれた時の作家の身辺を知ればわかる気もする。

    思想的なことや妻に去られたことなどで何もかも行き詰っていて、脱却したいために遊興地浅草でブラブラしていたのだが、それでもなお悶々としていた時代を材料に私小説風な作品。

    別れた妻への未練、戦争への暗い道の予感、可憐なダンサーに寄せる慕情。時代の背景・風俗がよく書き込んでありおもしろいのはさすが。

    昭和14年頃の浅草なんてもうこのような本で知るしかない。有名なのは永井荷風の作品。そういう意味では貴重な文芸作品でもある。

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    2018年12月15日
  • P+D BOOKS 故旧忘れ得べき

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    これって

    頭にロバートさんの英語詩が出てますが、
    これって蛍の光のオリジナル歌詞。
    蛍が光るのは6〜7月くらいなのに窓に雪が降るので、
    なんかおかしな歌詞なのですが、オリジナルでは蛍(firefly)も出てくることはない。
    芥川賞を受賞したのは石川達三さんの蒼氓(そうぼう)ですが、新潮から出てるのは3部構成で、
    ブラジル移民、いや棄民か、の話。船に乗るまでと、船旅で40日くらいかかる、とブラジルついてからの話だが、
    船に乗るまでの話が評価されたみたい。
    川端康成は蒼氓より本作を高く評価していたが、菊池寛が蒼氓でしょ、と言われたので蒼氓になった模様。
    この賞を立ち上げた文藝春秋は菊池寛が作った会社ですしね。
    ちなみに受賞者の石川さんと評価した側の誰一人として面識はなかったそうな。
    評価者の佐藤春夫に泣きの手紙を送付した太宰さんとは大違い。
    それはそれとして、川端さんが評価したのも頷ける出来ですね。
    お好みで。

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    2025年10月30日
  • 敗戦日記

    Posted by ブクログ

    作家の高見順が執拗に書き続けた日記のうち、1945年1月から12月までの一年間を編纂した日記集。

    居住地のある鎌倉での空襲警報に怯えながら、銀座や浅草など、空襲で焼けた都市部の様子や、そこでの生活の模様が余すことなく描かれ、敗戦直前・直後の東京がどのような状況下を把握する上で1級のドキュメント。

    自らも含む多数の作家の蔵書を貸文庫として提供した「鎌倉文庫」設立の背景やその模様、また、そうした事業と平行して自らの作品を書かなければいけないと思いながらも筆が進まない苦しさも伝わってくる。

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    2017年10月08日
  • 如何なる星の下に

    Posted by ブクログ

    昭和初期の浅草が舞台。
    当時の街の雰囲気が、実際にあった(そして今もある)通りや
    店などから、生き生きと想像され、楽しめる。
    また、小説の所々で、主人公以外に、実際の作者が
    登場して、客観的に物語をみたり、注釈を入れたり
    するところは、現代の宮藤官九郎脚本のドラマを
    みているようで、楽しめた。

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    2013年05月23日
  • 如何なる星の下に

    Posted by ブクログ

    浅草の演芸がすごく盛り上がっている雰囲気を感じます。レビューとお好み焼き、おしろい粉とソースのにおいが漂ってくるようでした。年譜に死の間際に恭子を養女とすると書いてあるので、高見順さんはそんなに遠い人ではないと実感しました。

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    2012年04月30日