清水徹のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ学生時代に読んでから、30年ぶりの再読。
当時は「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」という衝撃的な導入と、「シーシュポスは幸福なのだ」という結びの強烈なイメージを、どこか詩的な情景として受け取っていただけのように思う。それでも好きな本の一冊でした。
今回、改めてもっとちゃんと読んでみようと思って、英語版をメインに日本語版も併せて(AIとも議論しながら)一文ずつ論理を追いかけてみました。
カミュの言う「不条理」とは、単なる理不尽さのことではない。それは「なぜ」と問い続ける人間と、沈黙し続ける世界との間に生じる、終わりのない摩擦の状態。
多くの思想家や作家は、その沈黙の苦しさに耐えかねて、神や永遠といった「希望」へ逃げてしまう。カミュはそれを「跳躍」と呼び、否定した。答えがないことを認め、それでも問いを止めずに生きること。その「逃げない」という姿勢にこそ、人間の自由があるのだと彼は説く。
カミュの説く不条理な生き方は常に実行し続けるにはあまりにも厳しいと思いますが、「地上の手触りだけを拠り所に、見えない彼方への希望に逃げ込まず、それでもこの世界の中に踏みとどまる。あるかどうかもわからない永遠や神の世界に自分の人生を左右させない」、という姿勢は心に響きます。
今回、特に印象に残ったのはドン・ファンやキリストに触れた部分でした。
不条理な人間の典型として描かれるドン・ファン。カミュの考えるドン・ファンには、宗教的な裁きを下す「石の騎士団長」など現れません。彼はただ沈黙の中で年老い、ただの人間として死んでいきます。また、カミュがキリーロフの議論を通して示唆するキリスト像は、復活による救済よりも、むしろ地上で苦しみ抜いた「人間」としての姿に強く光を当てているように感じられました。
彼らは、世界が何も答えてくれないことを知りながら、それでも自らの生の意味を問い続け、世界が最後まで答えを与えてくれないことを、そのまま受け入れる。そこには、超越的な救いに頼らない、地上の人間としての究極の誠実さを見ることができるのではないかと思います。
30年前、私は山を降りていくシーシュポスの姿に、ただ漠然とした美しさを見ていたと思います。
けれど今、感じるのは、彼が岩の方へ戻っていくあの「意識の時間」の重みです。「本当の答えはない」と自覚し、その都度自分を修正しながら、それでもなお一歩ずつ降りていく。
「シーシュポスは幸福なのだと想像しなければならない」という言葉は、勝利の確信などなくても、この沈黙する世界を自分の意志で歩き続けることへの、静かな、そして決然とした肯定のように聞こえます。 -
Posted by ブクログ
映画を2〜3回観てから読んでみた。本の方が間に今現在の描写が何度も出てくるので、回想感が強い分ちょっとあっちこっち気が飛んでしまうかも。
読んでも観てもお話のような運命の出会いだよなぁと思う。男はロリコンでもなさそうだし、むしろ15歳という歳に似合わず大人びている彼女に一目惚れしたんだろう。その男が大金持ちで彼女は家が貧乏で苦労している…なんて。なんてドラマみたいなの!交際?している間は淡々と付き合って深入りはしないようにしていたけれど、最後の客船での涙は愛していたから流れたのよねぇ。それでもあの当時もう2度と会えないかもしれない距離に帰ってしまったことは、彼女にとっては忘れられる、思い出にできる機会ではあったよな。全てをサイゴンに置いてきた。
読み終えた今、あたしはホーチミン(サイゴン)に居て、この地で映画も本も目を通せて良かった。異常と言っても良いスピードで経済発展をしたサイゴンにインドシナの面影はもう無く、港も寮の建物も残っては居るけれど映画のソレでは無い。映画撮影当時、色補正やセットの作り込みはしているだろうけれどあの時が1930年代を辛うじて感じ取れる最期の時だったのではと思う。 -
Posted by ブクログ
少しずつ読み進めてますが、若いときの読書体験の影響力とは凄まじいもの
僕が普段、何気なく心の芯においてる在り方みたいなものの多くはここに書いてあったことなのだなーと発見をしている
「人間の尺度を超えている、だから超人間的なものでなければならぬ、という。しかし、この、「だから」は余計だ。ここには論理的確実性などいささかもない。経験的蓋然性もいささかもない。僕の言い得るのは、なるほどこれは僕の尺度を超えている、これだけだ。そこから僕は否定を抽き出しはしない。いや、少なくとも僕は、理解不可能なものの上にはなにひとつ築きたくない。自分ははたして、自分の知っているものとともに、ただそれだけとともに生きられるだろうか、ぼくはそれを知りたい。」「不条理とは意識的人間の形而上的状態であり、神へとひとを導かぬものなのだ」
これだよ、まさに、ここから出発して、この後、カミュが言うシーシュポスの状態こそが、僕が10年以上前、この本こそ僕の本だと思ったそのことだ
言いたいこと全部書いてあるし、ここでカミュが保つ態度がカッコよすぎ
不条理を凝視しながら、意識を途切れさせず、神や永遠などに逃げ道を見つけず、ただひたすら生きることにしか価値はない、そう生きればそれが王だろうがサラリーマンだろうが、価値に差はない、生きる長さだけが価値になる、という最も過酷な生き方のみを推奨する
凄くざっくり言うと、神仏をバカにしながらも認める鷲巣のように生きるよりも、アカギのようであれ、ということかと
いや、ほんとに -
Posted by ブクログ
無限の神に有限の身体。その間に挟まれてしまった"ぼく"
届かないからそっぽを向いた。
「死ぬべきものとしてとことん生き抜いてやろうじゃないの」
不屈の反抗児カミュ。
このひとのことばは緻密さにあるのではなく、反抗という飛躍によって突き動かされている。
だから、どうしたってどうしようもなくへそまがりで頑固。前を見ながら後ろを見るということを平気でやってのける。それは有限と無限の合わせ鏡によってなされる。キルケゴールとヤスパースの比較がそれだ。
永遠という神にはどうしたってこの有限の者はなりえない。だったら永遠なんて幻からは背を向けてもう一度有限の身体に戻ろうではないか。目覚めた精神によって、存在する者から実存へ飛躍する瞬間。
これが哲学上の自殺だ。永遠から背き、限界を受け容れる。無限に辿り着くことが叶わない。そんなものならいらないと、再び有限に帰っても、そこに映るのは無限によって映される己の姿だったのだ。
有限と無限の合わせ鏡の間に立つこの"ぼく"はそれゆえにどこまで行っても異邦人なのだ。
死にながら生きる。これが不条理でなかったらなんだというのだ。
ニーチェはこの間に立ってついに発狂した。カミュはそうならないためにも、実存に帰れと反抗を説く。岩を押し上げてはまた戻されるような、くり返される無意味な日常。そこで目覚めてしまった精神はとどまることを知らず、身体からの脱出を試みる。それに抗い精神をつなぎとめて生きよと。
どうしてこうも力強く反抗できるか。それは「すべては許されている」この一点に尽きる。
有限と無限に引き裂かれてもなお残る、この"ぼく"はなんなのだ。どんなに反抗しても、不条理は今、ここに在る。無限でもあり、有限でもある。無限でもなければ、有限でもない。
在るようにしか、在れない。ぐるっと回ってまた戻って来てしまう。そう「すべてよし」だったのだ。「ある」と「ない」から、「存在」が抽きだされる弁証法。
では実存として、存在として、不条理として立ち返ってしまうことはどういうことをもたらすのか。彼は演劇や小説、芸術に触れて考える。不条理を表現することで、不条理を見つめ続けよ。表現しえないものに反抗して表現をし続けろ。この不毛な行いの中に希望などない。そんなものまやかしに過ぎない。しかも、やめることなどできない。やめたら表現しえた可能性としての不条理が表現されなくなる。それはふたたび有限と無限に引き裂かれる苦しみにさいなまれることを意味する。夭折や死刑が罪だというのはここで初めて言えるのだ。
ところが、それでも不条理にとっては、表現されてもされなくても、なんら不条理に変わりがないのだ。書くことに慰め以上のことはない。この恐ろしいまでの自由。その自由に則って死に赴く。これが幸運と呼ばれるものだ。 -
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映画よりも、小説のほうが中国人の愛人のことより、母親のことが書かれていると思った。母親の関心をひきたいから、愛人を作ったようにも見える。母親の愛は上の兄に注がれるだけ、主人公と下の兄は母を愛していたが、愛に飢えていた。母親は娘のことを殴ったりするけど、外を向いては子供たちを絶対に否定しない。そこには強い女、母親が見てとれる。一人で3人の子供たちを育てた強い母親。お金が必要だから、娘が金持ちの中国人の愛人になっても、見えないふりを続けた。否定も肯定もない分からない行動。娘自身も愛というものがどんなものなのか、体の関係と割りきっていたはずなのに、本国に還る船の中で、突然彼を愛していたのかもしれないと気がついて涙を流す。それは、最後の子供時代との決別でもあたたのかもしれない。大人になってしまった、自分への涙でもあったのかも。
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世界は人間の理性では把握しきれない、しかしながら人間にはこの世界をすべて理解したいという救いがたい欲求がある、そしてその世界と理性との間の関係こそが「不条理」である。
であるから人間の救いがたい欲求を捨てようという努力や、不条理を肯定し受け入れるような方法は本来の不条理の姿を変えてしまう。
カミュは明徹な視点でこの不条理を見つめ直そうとする。
……実を言えば今回の読書で僕がこの本の全部とより深いところをはっきり理解したとは言い難い。
特にp.90の質から量への価値の転換がいまいちつかみきれない。
けれどもここのところ読む本はどれも、この「質から量へ」を示唆しているような気がする。
わからないながらとっても惹かれてしまう本だ。
サルトルやキェルケゴールを読んでからもう一度読みたい。 -
Posted by ブクログ
はじめてデュラスを読む。
映画の中のインドシナの退廃的な雰囲気が忘れられず原作をと。
映画では2人の逢瀬に多くの時間が割かれていた記憶があるのだが原作での描写は家族と私,彼と私,自分の周りの女性と私,という3つ程度にカテゴライズされる印象を受けた。
そのため最初は暴力的な家庭と悦楽の記憶が交互に立ち現れ,独白の羅列かのように見えるのだけれど,なぜか暴力ゆえにあれがさらに輝きを増していき,混濁が次第にエロスとタナトスの濁流を作り始める。私はその濁流にうっかり飲み込まれる(そうなることを望んでいたのだが)。メコンの流れを思い出す。あの土褐色の大河。
原作に忠実に映画化したら相当前衛的だっただろうな。とも。
たしか映画は時系列が割とシンプルだったような。
一方,原作はむしろそれを破壊し再構築し
それによって未知の世界観を紡ぎ出す試みがある気がする。 -
Posted by ブクログ
・人生は不条理だけど、自殺は拒否する。だって自殺したら負けじゃん。
人生が生きるに値するか否か。
無論、人生は人生は不条理だ。自殺をするということは、《苦労するまでもない》と告白すること。ただそれだけに過ぎない。自殺をすることは、日々の無益を認めたということになる。
・不条理な日々を《すべてよし》として、腹を括って向き合え。
生きるとは、不条理を生かすこと。なによりまず、不条理を見つめること。日々に意識的であり続け、反抗を貫くこと。ひとはいつも、繰り返し繰り返し自分の重荷を見出す。ギリシャ神話で地獄で無益な労働に従事していたシーシュポスは幸福なのだ。