佐々木正美のレビュー一覧
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子育ての名著
親の悩みに寄り添い、子どもを愛することと信じることの大切さを教えてくれます。
子育ての中で、もっとこうなってほしいと期待しすぎる、他の子と比べてしまうことがあります。また、自分に余裕がなく、優しく接することができないときもあります。良くないと分かっていても、どうしても、つらくあたってしまい自己嫌悪になってしまう。そんなときに佐々木先生の「子どもの言うことは、何をどれだけ聞いてあげてもいいのです。」「できない子にはやってあげればいいのです。」「しかればしかるほど、しかられるこになりますよ。」「上の子を優先で育てましょう。」「手のかかる子には十分手をかければ、あるときすっと自立しますよ。」という言葉が、子育ての方向性となりました。
親が笑顔でなければ、子どもは笑顔になれない。親が笑顔であれば、子どもは自分のおかげで、親は笑顔だと自信をもち、笑顔になる。どんな子であっても
その子が求めることに、親としてできうる限りの優しい純粋な愛をめいいっぱい注げばいいと、子育てに自信がもてました。本当にタイトルにあるように、この子はこの子のままでいいと思える本でした。 -
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『子どもへのまなざし』『続 子どもへのまなざし』に続く、三部作最後の著書です。
本作では発達障害に関する内容に多くのページが割かれており、佐々木先生の他の著書と比べて、社会のあり方や障害への見方など、考えさせられることが多かったです。少なからず偏見や誤った理解を持ってしまっていたこれまでの自分を恥じています。そしてその苦悩の一端を理解することが出来たことを非常に嬉しく思います。また、障害に悩まれている方の力になりたいとも思いました。
本作の中で、特に印象に残ったのは、親が重い障害を持った子どもを育てる時の心構えについて書かれた章のノースカロライナ大学のセラピストの以下のような言葉を引用されている部分です。
「親が子どもをもつ喜びに、大別して二つあると思います。一つは、自分の子どもの将来に、さまざまな期待をいだくことができるよろです。もう一つは、自分の子どもの生涯を幸福にしてあげる喜びです。そして、子どもが重い障害をもって生まれてきたような場合には、後者の喜びを中心にしていくのがよいのではないか。親としての喜びという意味では、どちらも幸福な選択だと思いますが、子どもを幸せにしてあげる喜び以上に、親にとっての大きな喜びなど、そうあるものではないと思います。」
(六 発達障害の人を理解する 親の理解と受け入れ p.247)
佐々木先生は大きな感動をもって聞いていたと言われておりますが、私も大変に共感いたしました。
障害の有無に関係なく、どんな子どもと向き合う時でも、後者の気持ちがまず来るべきですよね。そもそも、定常発達であったとしても、子どもそれぞれに得意なこと、苦手なことがあって当たり前ですし、前者の幸せを重視しすぎた時に、親が期待することが子どもの苦手なことであった場合、非常に不幸なことになってしまいますよね。
自分の子がどんな子であったとしても、この事はしっかりと心に留めておきたいと思います。 -
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ネタバレP116
子どもの言うことを、じゅうぶん聞いてください。
子どもののぞむことを、惜しみなく与えてください。
それだけで、子どもの心は育ちます。
子どもたちの心を、豊かに、大きく、あたたかく
そだてていくことが、こどもたちの未来を育てること
になるのです。子どもたちをやさしく、大切に育てる
を、どうか忘れないでください。
P4
成長や発達について考える中核的なことになると、
「そのことは、時代が変わっても、決して変わるものではない」と考えている大切なことがあります。
お母さん、お父さん。
どうぞ子どもを甘やかすことを決して恐れず
一生懸命かわいがって育ててあげてください。
いい子にしているときにかわいがるのではなく、
どんなときにも愛してあげてください。
子どもは愛されることで、いい子になるのです。
P27
子どもは依存と犯行をじゅうぶんにしなければ自立できません。子どもの依存と犯行を「我慢しよう」と
思わないでください。
草花に「いますぐ咲きなさい」なんてムリをいわず、
ただ大事に手をかけて、花が咲くのを楽しみに待ちます。
いろいろ努力して、工夫して、それでも楽しい。
育児はたいへん、と思うときがあるかもしれませんが、
本当は育児ほど楽しく、大きな喜びを与えてくれるものはないと思いますよ。
P37
自分の個性や特性に合わせて、将来の職業、社会での「役割」をイメージしながら、そこに向かっていこうとする・・・主体性は、自分に自信をもち、自己肯定感をちゃんともっていることで芽生えてきます。
そのために大人ができることは、
あなたには価値があるのだ、
かけがえのない存在なのだ、
ということを全身で伝えてあげることです。
成績、運動よりも人間にはずっと大切な価値があるのだ
ということを伝え続けてあげること。
P47
長所は常に短所の裏返しで、
短所は長所の裏返しだということ。
例 終わったらくたびれて片付ける元気なんかない、
というのが健康な状態。ちらかし放題の子は親から見たら短所だけど、うんと元気で集中して遊べるというたいへんな長所をもっている。※小さいころから片付け上手→遊びへの活力、意欲が乏しいともいえるから心配。
P54 差別感の芽生えはしかたのないことですが、
大事なのはそれを乗り越え、人間の本当の価値、
道場ではない本当の平等を理解することができるように
教育することだと思います。
・・・
まったく同じ人間として平等だから、役割を分担して
できない部分を補うのだ、という意味を理解すること。
P68 本当のやさしさは、
自分より恵まれたものに対しても、強いものに
対しても、変わらないやさしさのこと。
親が子どもにやさしくすれば、子どもは必ず
人にやさしくなれます。家族みんなに愛されて
育った人は、きっと人を深く愛することができるようになります。
P76 85
本当の自尊心は、相手の自尊心をも認めることにつながる。自分に誇りがもてる子どもは、友だちに共感することができ、だからこそ、いい友だちもたくさんできるのです。
うんと愛され、自分の希望をたくさん聞いてもらって、
丸ごと自分を受け入れてもらったという経験があって
はじめて、子どもは自分に自信をもち、そこから他者に
共感することができるようになる。
その土台がないと、「遊びのルール」「社会のきまり」
といった規範を「なるほど」と受け入れることができません。
P92
実はどんなに新しく見えるものも、結局は過去の
歴史の上に積み重ねられたもの。
先人を尊敬すること=共感
家庭や学校で、人といっしょに楽しむこと、
人が悲しんでいるときにいっしょに悲しむこと、
人と共感する心を育てること。そうしたことが
あって、はじめて子どもは尊敬や感謝と言う感性を獲得します。その感性があってこそ、過去の素晴らしい芸術に共感したり、その尊敬数r相手を信頼し、じゅうぶんに
依存し、健全な模倣をすることができます。その段階がなければ、次の段階である「自立」「オリジナリティ」は生まれないということなのです。
P98
創造力が育つ、子どもが育つ 基盤は、
子どものなかに人を信じる力をそだてること。
人を信じる力=感謝や尊敬の感情に直結するもの。
そのことが自分を信じる創造性につながっていく。
このプロセスをわかってもらえると、子どもを育てる
ことは非常に楽しくなる=その子の持っている力を
しっかり引き出してやることができる。
そのためには、
どれくらい子どもに依存させてあげるか、
安心させてやれるか。
それが、これからの創造的な生き方
(人から学ぶ、真似る)にずっとつながっていく。
・他、PCメモ
勤勉であることの本質は、他人と一緒に何かができる態度。覚えた言葉を使い、心を込めて手紙を書く、誰かに何かを伝える、伝わる文章表現ができる、が一番大事。漢字、英単語を覚えるということの先に、会話や手紙があり、それが社会参加へとつながったとき、はじめて本当の勤勉らしきものになる。〇〇ができる姿を心・頭・優しい眼差しで常に指導=軸をぶらさない、ただ温かく穏やかな環境設定を作り、信頼関係や心のつながりを大切に、できるまで待つ、からできる。 根気強く思いやりをもって、子どものやる気を高める。怒りにかられそうになっても、ぐっとこらえて子どもを守る自分でいるために学び続ける、きちんと心身を休めたり、自然と接したり、自分のやりたいをする。
★感想
挿絵の子たちの怒っている表情含め
全てが愛おしい。
この感情は、娘や出会った子たちとの時間、
支援してくれた方や共に働いてきた人たち、
地域の方々にもらったもの。
自分を育ててくれた親、
親にしてくれた娘に感謝して。
本書は、
子ども達の未来をつくるのに
大人のプライドは無駄であり
私たちの誠実な心と行動のみと覚悟する。
でも、失敗したらやり直しましょう、
周りの人の力を借りましょう、
支え合って子育てを楽しみましょう。
そう言ってくれている。 -
Posted by ブクログ
まさにタイトル通り。子育てにおける「べき思考」を柔らかく溶かしてくれるような言葉がたくさん。
質問回答の形で進められるので内容がスッと入ってくる。
こうなってほしいという期待が過ぎると、今のままの状態ではいけないというメッセージになるという言葉にハッとさせられた。
子どもの中にある自発的な学びを妨げず、ひたすら信じて待つことができる親でありたい。
「子どもに言うことを聞かせたいと思うなら、まず親が子どもの言うことをよく聞いてあげること」
「親がしかればしかるほど、子どもはしかられる子になっていく」
「親が心配すればするほど、心配な行動を続ける」
「大人が先に我慢する」
「期待しすぎず、できないことは手伝い、教えるべきことは穏やかにやさしく何度でも繰り返して伝える」 -
Posted by ブクログ
佐々木正美先生の本は何冊目だろう
この本はその中でも厳しいこともわかりやすく書かれていると思う
わが子 ではない少し愛情をかけられずに育ったかなっていう人に対して、どうしてあげたらいいかはわからない、答えはこの本になく
結局親じゃないとその子の問題は解決してあげられないのかな
読むたびにわが子に対しては優しくなれていくように思う
豊かで平和で平等な日本人はこれから何を目標にしていけばいいのか?
子どもに対して思っている愛(のムチやしつけ)は
自己愛ではないか???
考えながら接したいと思う
赤ちゃんは
まずは人(母親)を信じて、自分を信じることができる、自分と相手を信じることができるから、友達や先生との関係がうまく作れるようになる
大切に育てられたと実感が持てている人
自分を信じることができる人は
万引きなどの犯罪行為や自傷行為などしないし
複数との性的関係などをもたない
いいプライドを持てているという事だと思う
子どもには、根拠のない自信を持たせてあげる
勉強やスポーツに裏打ちされた根拠のある自身は、自分よりもっとできる人で会うと劣等感を抱き、自分より劣っていると思える相手には優越感をいだく、
根拠のない自信に支えられていない限り簡単に崩れてしまう、幸せにはなれない
人間は、字のごとく、人と人との間で生きるから人間、人を好きになることの幸福を知り、人間関係の中でいきいきと輝いて生きていくこと
発達障害は治すものではない
というところもみんなで共有したいと思った
薬飲まされたり、特性として伸ばしてもらえない子どもが増えすぎていると思うから -
Posted by ブクログ
1509
224P
佐々木正美さんは発達障害の専門家でもあるから、自分の子がそうじゃなくてもスペクトラムとして存在するからそういうお友達とかいるだろうからそういう子たちの対策としても良さそう。
佐々木正美(ささき・まさみ)
1935年群馬県前橋市に生まれ、幼児期を東京で過ごす。その後、第二次大戦中に滋賀県の農村に疎開し、小学3年生から高校までを過ごすが、高校卒業と同時に単身で上京。信用金庫などで6年間働いたのち、新潟大学医学部医学科に編入学し、66年同校を卒業。その後、東京大学で精神医学を学び、同愛記念病院に勤務。70~71年にブリティッシュ・コロンビア大学に留学、児童精神医学の臨床訓練を受ける。帰国後は、国立秩父学園、東京大学医学部精神科に勤務後、小児療育相談センター(横浜市)、横浜市南部地域療育センターで児童臨床医として地域ケアに力をそそぐ。その間、東京大学医学部精神科講師、東京女子医科大学小児科講師、お茶の水女子大学児童学科講師などを務める。川崎医療福祉大学特任教授(岡山県)、ノースカロライナ大学非常勤教授、横浜市総合リハビリテーションセンター参与などを歴任した。長年にわたり自閉症の人とその家族を支援する療育方法の実践と普及に努めてきた功績で、2001年「糸賀一雄記念賞」、04年「保健文化賞」「朝日社会福祉賞」受賞。著書に『子どもへのまなざし』(福音館書店)など多数。2017年没後も、そのメッセージは多くの親たちを励まし続けている。
この子はこの子のままでいいと思える本
by 佐々木 正美
「日本はとても平和な国です」と。確かにアジアでは数少ない、徴兵制度のない国です。さらに彼はこう言いました。 「自由で、平等な国です」と。自由や平等については人によって考え方が違うと思いますが、戦中に子ども時代を過ごしたわたしにとっては、心からうなずく言葉でした。
わたしは、お母さん向けの雑誌『Como』(主婦の友社/2017年休刊)で長きにわたり悩み相談をさせていただいていますが、不安を感じながら子育てをされているお母さんが非常に多いことに驚かされます。実際、100人ほどの方にお送りしたアンケートでは、9割近くが「子育てに不安を感じることがある」と回答しています。
子育てに不安を感じるお母さんたちの声を聞きながら、わたしは考えました。このお母さんたちは、子どもがいなければ安心して堂々と生きていられたのだろうか、と。 いいえ、そうではないでしょう。もしも子どもがいなければ、夫や親など家族や友人との関係、職場での人間関係、自分の将来など、別のことに不安を感じるのではないでしょうか。子育てに不安を感じている人は、子どもに不安を感じているのではなく、自分に対して不安があるのです。
それはなにも、読者のお母さんたちに限ったことではありません。現代の日本の精神医学会の臨床上の二大テーマは、うつ病と不安障害なのだそうです。豊かさも平和も自由も平等も手にした国であるはずなのに、年間3万人を超える自殺者を出しています(※編集部注・2009年ごろの状況。2019年は約2万人)。こんなにも多くの人が死を選ぶ国になってしまったのです。
子育てに行き詰まりを感じたら、信頼できる大人との関係を増やすことが必要です。ご主人と楽しい時間を過ごしたり、気の合う友人とおしゃべりしたり、子育てサークルなどに参加したり、園や学校での活動に加わってみることをおすすめします。人間関係の「質」に悩んでいるときには、人間関係の「量」を増やすのが一番なのです。頼り頼られる人間関係が増えていくと、それが直接的に子育てに関係がなかったとしても「わたしはわたしのままでいい」「この子もこの子のままでいい」という気持ちが育っていくのだと思います。
この女性に、わたしは言いました。「自分の得意なことで、人と交わってください。手芸が好きなら手芸を、歌が好きならコーラスを、山歩きのサークルや料理教室でもいいでしょう。そういった会に参加なさって、人との交わりを深めましょう。その中で誰かの役に立ったり、感謝されたり、何げない言葉を交わしたりする経験を積み重ねていくことで、きっと満たされていきますよ。最初は気をつかってしまい、『ひとりでいるほうがよかった』と思うこともあるかもしれません。けれどそれは、相手からも気づかわれているということです。時間がたつにつれ、そのあたたかみがわかってきます。人間は人間関係を通してしか、人間関係の不足を解決できません。そういうものなのです」と。
両親とは距離をおいてかまいません。 けれどいつか、わかり合えるといいですね
さて、今回のご相談者にも、わたしは同じようなことを伝えたいと思います。もうすぐ赤ちゃんが生まれるということなので、育児サークルなどに参加してはいかがでしょう。自治体が主催する育児講座や「親子ひろば」のような場は、おそらくいろいろあると思います。そういう場で打ち解けられる人を見つけることができるのではないでしょうか。
愛情は不足していませんが 伝わる形になっていないのかもしれません。 「もっともっと」と求めています
確かに子どもは、怖い人の言うことは聞きます。それは「怖くない人の言うことは聞かなくていい」ということでもあります。犯罪者の成育歴をたどると、親が恐怖をともなったしつけをしていたケースがほとんどです。ですから、「しかられなければいい」「バレなければいい」という気持ちが育ち、犯罪行為を引き寄せます。とても不幸なことです。
「子どものしつけは厳しいほど効果がある」と思っている方は少なくありません。それはおそらく、その方が育ってきた家庭の文化なのでしょう。それを一概に「いい」「悪い」というつもりはないのですが、こうやって子どもの精神科医の仕事をしていると「厳しくすれば、いい子に育つ」とはとても思えません。問題行動があって精神科を訪れる子の多くが、親から厳しく育てられた子どもだからです。逆に、やさしくされすぎて問題行動が出た子を見たことはありません。 わたしがしつけのキーワードとしてあげているのは、 ① 穏やかに、 ② 繰り返し言って聞かせて、 ③ できるようになるまでゆっくり待ってあげる、という3つです。
お友だちの子も、素直に人の言うことを聞く子ではないと書いていらっしゃいます。おそらく、自尊心をねじ曲げられるような体験をしてきたのでしょう。親の言うことを強く押しつけられ、自分の願いはあまり聞き届けてもらえなかったのかもしれません。これが続くと、今後ますます反抗的な行動が増えてくるのではないかと危惧します。 子どもをたたかずに育てているお母さんというのは、意に沿わない行動をする他者を受け入れる力をもっている、ということです。逆に、たたかずにいられない人は人を受け入れる力が弱いのです。お友だちのお母さんは、幼少期から自分を否定され続けたり、強制されたりして育てられた人なのかもしれません。悲しいことです。
わたしが精神科医としての訓練を受けているころ、指導医がよく言いました。「患者さんの話をちゃんと聞けるようになったら、ほぼ一人前ですよ」と。 そのとおりだと思います。患者さんに有益なことを伝えるよりも、患者さんが何を言いたいのかを聞きとることのほうがはるかに難しいのです。そして患者さんの言葉を聞こうとしない医者が「ああしなさい」「こうしちゃダメ」といくら言ったところで、患者さんには届かないのです。それは親子でも同じです。人間関係とはそういうものだと思います。
子どもにしてほしいことがあれば、言葉で伝えるよりも、親が見本を見せるのがいいと思います。「そんな持ち方じゃこぼすわよ」と口で言うよりも、手を添えて、持ち方を教えてあげたほうがいいのです。あいさつできる子にしたいならば、親が毎日、子どもやご近所の人にあいさつを続けてください。そんな姿を子どもたちは自然にまねていくのです。
先ほどの子にはADHD(注意欠如・多動症)の傾向がありました。しかってもしからなくても、その特性が消えるわけではありません。しかし、親がしかりすぎをいったんやめることで子どもの情緒が安定し、その子に合った対応をとることが可能になります。得意と不得意が大きい子なので、得意の部分をちゃんと見極め、そこを伸ばそうと本人も前向きにとらえることができるようになるのです。好循環が始まるのです。
その一方で、「子どもの理不尽な要求に無条件で応えてもいいのか」「子どもとはいえ、乱暴な態度を許してはいけないのではないか」「甘えさせるのはいいけれど、甘やかしてはいけないはずだ」などと、さまざまな知識や常識との矛盾の中で揺れ動いているとも感じます。確かに一般的な大人の論理でいけば、それは正しいのです。でも、幼い子どもと親との関係の中ではあまり意味をなしません。 子どもはいくらでも甘やかしていいのです。たくさんかわいがってあげていいのです。望みをかなえてあげていいのです。親が言うことを聞いてあげればあげるほど、言うことを聞く子になります。かわいがればかわいがるほど、かわいい態度をとるものです。乱暴な態度をとるときほど、やさしく接するのです。そんなふうにしてくれるのは、お母さんしかいないと思うから、子どもは理不尽な要求をするのです。言葉にできない思いを抱えて、それを自分ではコントロールできなくて、「なんとかして」と暴れているのです。
まず変わるのは親のほうです。 「しからない」と心に決めて接するのです 臨床の現場でたくさんの親子をみてきて、これだけは確かだ、と思っていることがあります。それは、親が子どもをしかっている間は、「しからなくていい子」にはならないということです。しかればしかるほど、もっともっと「しかられる子」になります。
「家出」は甘えたい気持ちの表れ。 本当の独立心は、親にたっぷり依存して 安心できて初めて育つものです 行動の根っこにあるものは 妹に対するやきもちなのかもしれません
この子は「独立心旺盛」でしょうか。わたしはまったく逆だと感じました。お母さんに甘えたくてたまらない子です。妹のほうがお母さんにかわいがられているように思えたのでしょう。自分の気持ちをわかってほしくて、でもそれを言葉で言えなくて、態度で示そうとして家を飛び出したのです。それなのに、お母さんは 15 分もたってから迎えにきたんですね。この子は外階段の下で、ぬれた髪のまま、お母さんを待っていたのです。その気持ちを考えずに、「独立心」という言葉で納得してはいけません。
子どもはワガママで気まぐれで、甘えん坊なものです。親に手をかけさせて、かけさせて、かけさせて、そうやって気がつくと手がかからなくなっていくのです。幼いころに親に手をかけさせた子ほど、どういうわけか自立が早いと感じます。
それに、家族の前で悔しがる姿をさらけだせるというのは、心を許している証拠です。この人たちの前なら、どんなみっともない姿をさらしても許してもらえる、嫌われることはないという信頼感があるのです。どうぞ受け入れてあげてください。
子どもに寄り添うということは 3 見る 子どもを見るということは「見守る」ということです。 はいはいや、よちよち歩きを始めた赤ちゃんは、少しずつお母さんのそばを離れて探索行動を始めますね。観察するとわかるのですが、ひとりで勝手に行ってしまっても、その先で何か不安を感じると必ず赤ちゃんはふり返るのです。そのときに親(やそれにかわる人)が「いいよ」という顔をすると前に進み、「ダメ」という顔をするとストップします。このような行動を「ソーシャル・リファレンシング(社会的参照)」といいます。社会のルールや規律を、他者から学ぶ力です。非行や犯罪に走る子の多くが、乳幼児期に、親などからの見守りがなかったことが、精神医学者のロバート・エムディの研究によりわかっています。それほどまでに、親からのまなざしは大切なのです。 子どもを見てあげてください。見張るのではなく、「見守る」のです。子どもの表情やしぐさから、何を感じているかを読みとってください。そして、その子にしかないかわいらしさや、得意なこと、大好きなものを見つけてください。そんなまなざしを向けられるのは、親だけだという誇りをもって。
子ども同士の遊びの中で学ぶことが、お金を出して教わることよりも低レベルなのだとは、どうぞ思わないでください。自由な遊びの中でこそ子どもは、「好き」「やってみたい」「うまくなりたい」という向上心のたねを見つけるのではないかと、わたしは思っています。
保育士でも学校の先生でも小児科医でも同じです。「先生」として子どもと向き合うのがじょうずな人でも、自分の子どもにはうまくいかないという人は案外多いものです。精神科医の子どもが精神を病むというケースもあるのですから、「保育士なのに」とご自分を責める必要はまったくありません。それは別の話です。
そのためには、お母さんが自分や夫のいいところを認めていなくてはいけません。自分の悪いところばかりを見ている人は、他人の悪いところばかりが見えるのです。自分を肯定できる人は、他人を肯定できる人です。 お母さん、自分に自信がありますか? 子どもを「いい子」「優秀な子」に育てて自信をつけるのではありませんよ。自分自身の生き方に自信をもつことが大事なのです。人は誰だって、弱点や欠点をいくつも抱えているものです。そこを気にしすぎず、人間はそういうものなのだと割り切って、自分なりに努力して、「いつかこういうことができるようになりたい。がんばろう」と思えることが、自信のある人の姿だと思います。
わたしがカナダに留学していたとき、担当の医師に「自己肯定感を高めなさい」と言われました。「自分の中に肯定すべき部分がどれほどあるかを、静かに見つめて、かみしめておくといい。そうでないと、他者を肯定する力はわいてこないものだ。そして、他者を肯定する力がない人間は、子どもの精神科の医師になってはいけない」と、そう言われました。保育士も同じです。学校の先生も同じです。もちろん、親もそうです。
多くの人は、子どもをもったことを幸福だと思っています。でも、その思いを子どもに日々伝えている人はあまりいないようです。 I’m happy to see you.(あなたに会えて幸せです) 欧米の人は、こんな言葉をさらりと口にしますが、日本人はなかなか言えません。でも、言えなくてもいいのです。お母さんやお父さんが笑顔でいてくれれば、子どもは「ぼくと(わたしと)いっしょにいると幸せなんだ。楽しいと思っているんだ」と理解します。 よく「人の気持ちを考えろ」と言う人がいますが、他者の悲しみや苦しみを理解できる人になるためには、まず誰かと十分に喜びを分かち合う体験が必要です。それができて初めて、今度は悲しみや苦しみといったマイナスの感情も分かち合えるようになるのです。笑顔が子どもの情緒を豊かに育てるのです。
この子たちに、親との関係についても質問しています。その結果、「いじめを止めよう」とするグループの子は「親との関係がいい」、あるいは「非常にいい」と答えています。一方で、「いじめに加担する」と答えた子の多くは、「親との関係が悪い」「非常に悪い」と答えているのです。 いじめは学校で起こっていますが、けっして学校だけで解決できる問題ではないことが、この結果からわかります。問題のおおもとは家庭にあるのです。
友だちから学ぶことの意義を軽視してはいけません 小学生時代に何がいちばん大切かと問われれば、わたしは迷うことなく「友だちと遊ぶこと」だと答えます。それもできるだけ多くの子とかかわらせたいのです。乱暴な子、内気な子、自分勝手な子、年齢の違う子、家庭環境の違う子、どんな子からも学ぶことがあります。この時期に友だちから得た「学び」が、将来、社会に出たときにどれだけ役立つか、はかりしれないほどです。
一方で、「人を安易に信じていいのか?」という議論もあります。子どもを狙う事件が起きると必ずそう言われます。でも、大丈夫です。人を信じる力は、信じられない人を見分ける力でもあるのです。信じるべき相手をちゃんとわかっている人は、やみくもに人を信じたりはしません。逆に信じる力の弱い人ほど、信じてはいけない人を信じてしまう傾向があります。信じる力の源は、親子の信頼関係です。もしそこに不安がある場合には「子どもの望みをできるだけかなえる」という原点に立ち戻りましょう。
しかし残念なことに、意識せずいろんな子と交われるのは、小学校の低学年から中学年くらいまでの非常に限られた時期だけのことです。思春期以降になると、「類は友を呼ぶ」といいますか、価値観、趣味、話が合う友だちとしか交わらなくなるのです。そのときに友だち選びの規準になるのは「親の価値観」です。自分の両親のもつ文化や考え方を規準にして、子どもは友を選びます。それは、ほぼ確実です。
その一方で、子どもにはたくさんの実体験も必要だと思います。自然と直にふれ合って、「不思議だなぁ」「おもしろいなぁ」と感じたり、思いっきり体を動かしたり。友だちと競い合ったりする経験も、子どもには不可欠です。 きょうだいの有無にかかわらず、子どもは小学生時代に同世代の仲間とたくさんのかかわりをもたなくてはなりません。高名な発達心理学者エリック・エリクソンは、「児童期(前思春期)の子どもの重要な発達課題は、友だちから学び、友だちに何かを教えることだ」と言っています。それが大人になったときの「社会的勤勉性」の土台になると言うのです。
しかし残念ながら、いまの日本ではそれが決定的に不足しています。引きこもりやニートの存在が、それを物語っています。彼らは勉強ができないわけではありません。運動が苦手なわけでもありません。人とうまくかかわることができないのです。人間関係を自然に豊かに営む力が育たなければ、社会に出たときにつまずいてしまうのです。 本を読むこともパソコンを操作できることもいいことです。しかし、それだけでは足りません。それだけで子どもの社会性を育てることはできないのです。
「体を動かしてほしいから、野球チームやサッカー教室に入れる」という方もいます。野球やサッカーをすること自体はいいのですが、それが友だちとの遊びのかわりになるとは思わないでください。草野球であれば、「○○ちゃんは小さいから、三振ナシ」などのルールを自分たちでつくったり、うまい子がへたな子に教えてあげたりするような場面がたくさんあります。しかし、コーチや監督が子どもの一挙手一投足にあれこれ指示して、勝つことが第一になってしまうと、子ども同士の学び合いはなくなってしまいます。
ひとりっ子にはひとりっ子のよさがあります。わたしはよく、複数の子をもつお母さんに、こう言います。「子どもが何人いても〝ひとりっ子の時間〟を必ずつくってください」と。子どもにとって、お母さんをひとり占めしてゆったり過ごす時間は、心の安定にとても大事なものです。学校でつらいことがあったときも、そんな時間に話すこともできるでしょう。 逆にひとりっ子には、意識的に「きょうだいのような存在」をつくってあげましょう。親戚や、親の友だちの子どもがいいかもしれません。親同士が親しければ親しいほど、子ども同士も親近感をもち、きょうだいのようにかかわることができるのです。
小3の息子はおっとりした穏やかな子です。半年くらい前から弟に意地悪になり、激しくワガママを言うことが増えました。よくよく聞いてみると、クラスの男子にいじめられているようです。行動が遅いことで押されたり 蹴られたり……。ときにはなぐられることもあるようです。息子は腕に大きなあざがあるのですが「これはもうすぐ死ぬ印」と言われたそうです。中心になっている子は学校のサッカーチームで活躍している人気者のAくんです。ほかの子のママからAくんのママにそれとなく話してもらったところ、「先生から聞いたので、Aを厳しくしかった。ふだんから、いけないことをしたらなぐってでも蹴ってでもしつける」と言っていたそうです。でも、逆効果のような気がしてなりません。 担任は新任の先生で、対応もその場しのぎに見えます。息子を支え、息子の学校生活を楽しいものにするために、親にできることを教えてください。
あえて言わせていただきますが、いじめっ子はほぼ例外なく、親子関係になんらかのストレスを抱えています。親が虐待しているとまではいかなくても、家族内の人間関係がうまくいっていないのです。だから学校という場でも健全な人間関係をつくることができずにいるのです。 しかし、他人の家庭の問題に足を踏み入れることは非常に難しいうえに、いじめっ子の親自身も十分な愛情を注がれずに育っている場合が少なくありません。だからこそいじめ問題は根深いのです。わたしはいじめ問題の専門家ではありませんから、「わたしの子がいじめられていたら、わたしならどうするか」という前提でお話ししたいと思います。
10 才というのは「課題」が増える年ごろなのです。学校での人間関係は複雑になってきますし、勉強も難しくなります。自分を客観的に見られる年ごろに入りますから、悩みも増えます。そんな時期は、家庭でのやすらぎや安心感、満足感がいままで以上に必要になります。家庭でのやすらぎという基盤があるからこそ、社会活動、つまり学校での活動がのびのびできるのです。
授業中でも大声でおしゃべりしたり、クラスメイトとのやりとりで気に入らないことがあると、面と向かって「バ~カ!」となじったりします。でも、いいところもいっぱいあって、幼児のころから絵を描くのが好きで、長い時間をかけて大作を仕上げたり、図鑑で花や植物のことを調べたり、関心のあることには集中力を発揮します。こういう個性の子だと受け止めて普通に育ててきたし、先生もあたたかく見守ってくださっていると思っていました。ところが、いっこうに落ち着かない息子の様子にたまりかねたのか、担任の先生に「一度、発達相談を受けてみては?」と言われました。でもそこで、息子が「普通じゃない」と判定されたら……。ショックを受けそうで、踏ん切りがつきません。
「普通の子」なんていないと、わたしは思います。 それぞれの個性をじょうずに伸ばしながら 生きやすい環境をつくってあげてほしい 発達障害かどうかより、 その行動の背景や理由を知ることが必要です
もしこのお母さんがわたしのところに直接ご相談に来られたのであれば、わたしは「普通の子でなくてよかったですね」と言ってさしあげたいと思います。この年齢で自分の大好きな世界をもっていて、好きなことにはものすごい集中力を見せるのです。魅力的な子じゃありませんか。お母さんもそれを認めて応援している…
さて、先生が「発達相談を受けられたほうがいい」とおっしゃったのは、このお子さんに発達障害があるのでは、と思われたからかもしれません。ご相談の文章を読ませていただくと、重い発達障害があるようには思えませんが、「自閉症スペクトラム(連続体)」といわれるように、発達障害から健常といわれる子たちの「連続体」、つまり一続きの流れの中のどこかに位置する子なのかもしれません…
発達障害かどうかの検査を受けるように、先生はおっしゃっているのかもしれません。でもわたしは、発達障害の診断が重要だとは思えません。友だちに「バカ」と言うことも、授業中に大声でおしゃべりすることも、その原因は「発達障害だから」ではないからです。別にちゃんと理由があるのに…
図鑑を見ることが好きなんですね。花や植物に興味があるのであれば、植物園に連れていってあげたり、いっしょに植物を育ててみたりしてはいかがでしょうか。下のお子さんがいらっしゃるようですが、ときには上の子と2人だけの時間をつくってください。大好きなお母さんと大好きな世界を楽しむことができれば、ますますその世界を好きになると思います。学校でも、植物や生き物を育てる係や委員があれば、やらせてもらえるよう、先生にお願いしてみるといいでしょう。
発達障害の傾向のある子は、非常に狭くて深い世界にのめり込む、という傾向があります。これは、本当にすばらしい個性だと思います。大人になれば誰でも、狭くて深い世界で専門性を磨いていくものです。将来を考えると、狭く深い世界をもてることが大事なのです。でも親は、「広く浅くなんでもできて、さらにその中で1つか2つ、ものすごく得意なものがあればいい」と願いがちです。親にはそういう身勝手な面があるのですね。でも、このお母さんはわが子の狭く深い世界を理解して、応援しているのですからたいしたものです。
お友だちが少ないことも心配していらっしゃいますね。でも「幼稚園時代からの親友」が 11 才のいまでも本当の意味で親友なのか、わたしは少し疑問です。この時期の子どもは、趣味や嗜好などが合う子と新しい関係を築くものです。お母さんの知らないところで友だちをつくっている可能性もあります。「そんなことはない。息子が話せる相手は3人だ」と親が言い切れるとすれば、子どもの交友関係に踏み込みすぎていると思います。 11 才の子は、親の知らない世界をいくつももつのがあたりまえなのです。
それでも一つだけ、心に留めておいてほしいことがあります。それは、幼い子どもにとってまず何よりも必要なのが「母性」だということです。わたしが考える「母性」とは、子どもを受容する力です。「ありのままのこの子でいい」と受け入れる力です。「父性」とは社会のルールを教え導く力です。母性とはやさしさ、父性とは強さと言いかえることができるかもしれません。子どもの健全な育ちにはこの両方が必要なのですが、与える順番には決まりがあります。まずは母性から。母性に十分満足してから、父性的なものを与えるのです。母性と父性は、男女の別なくみなさん両方もっていると思います。母親でも父性が強い人もいます。父親でも母性的な人もいます。
最近、「子どもは怒られても伸びない。ほめて育てよう」という風潮で、わたし自身も「そういうものか」と思っていたのですが、だからといって「子どもをしかれない父親」というのもどうなのか……と感じます。昔から父親というものは怖い存在で、母親とは違う役割があると言われますが、そう割り切っていいのでしょうか。
わたしが初めて不登校の子どもと出会ったのは、いまから 40 年前のことでした。当時は非常に珍しくて「学校恐怖症」などといわれたものです。それが、2人続けて船乗りの子どもだったのです。船乗りは典型的な単身赴任です。単身赴任者の子は不登校になる、ということではありませんが、その子たちの場合は、長い父親の不在が母親の気持ちを不安定にさせていました。それが子どもの不安と無関係ではなかっただろうと推察します。
近ごろは海外留学する若者が減っていると耳にします。わたしは「留学しなくちゃいけない」と思っているわけではありませんが、「あの国、あの大学で学んでみたい」と思ったときに、自分の力を信じることができず、意欲をもてなくなってしまうのはとても残念なことです。
この父子の問題は、ご家庭の「いま」そのものだと思います。子どもというのは、両親の仲がいい状態がいちばん心地いいのです。両親が笑っておしゃべりしている様子を見るだけで、心が落ち着くのです。家庭の中にそのような時間が増えてくると、子どもがお父さんを攻撃するようなことはなくなります。
娘を妊娠してすぐ、夫が突然他界しました。そのため、娘は父親という存在を知りません。1才ごろから「パパは死んじゃったのよ」と話していたので、娘も「パパがいない」ことは理解しているようですが、街で家族連れを見るたびに、娘の心情を推しはかる日々です。
「父親にしかできないことがある」といわれますが、わたしは夫の不在をどのようにカバーしたらいいのでしょうか。どんな役割を果たし、どんなことに気をつけていけばいいのか教えてください。
「父親にしかできないこと」などありません。 お子さんを幸福に育てるためには お母さんが心を癒やし、幸せにならなければ 成長にまず必要なのは母性的な役割です。 父性は社会の中で得られます
母子家庭、父子家庭といった「ひとり親家庭」というのは、日本にはたくさんありますね。そういうご家庭のお子さんが健全に育っていないかというと、そんなことはけっしてありません。 わたしは長年「父親」をやってきましたが、「父親にしかできないこと」など一つも思い浮かびませんよ。親としての役割を分担することはありますが、それはあくまで分担にすぎません。子どもが元気で幸せに育つ要件は、お母さんひとりでも、あるいは祖父母やご近所の方に協力していただいて、十分に満たすことが可能なのです。
そしてもう一つ、職場やそれ以外の場所で、気心の知れた親しい友だちをつくることをおすすめします。安心して声をかけ合え、つきあえるお母さん自身の友だちがいることが大事なのです。ひとり親家庭の場合、親子が2人きりで向き合ってしまうことがありますが、それがいちばん心配です。どうぞ、人間関係をわが子のほかにも外へと広げて、お母さん自身が「楽しいなぁ。幸せだなぁ」と思える時間を増やしていってください。 人は与えられた境遇の中でどのように生きるか、どのように幸せになるかが日々問われているのです。このお母さんの心が一日も早く癒えて、幸せになることを祈っています。お母さんが幸せであることが、お子さんの幸せなのですから。
育児書を読むと、「あなたにとってはイヤな存在でも、子どもにとっては血のつながった父親です。あなたの一存で、息子が父親に会えないのは好ましくありません」と書かれていました。元夫がどんな人でもそうなのでしょうか。わたしのとるべき態度を教えてください。
離婚の理由を問わず、子どもにとってお父さんはお父さん、お母さんはお母さん。この世にたった一人ずつしかいないのです。その2人が、非常に悪い仲なのだ、憎しみ合っているのだということを、離婚してからもあえて子どもに知らせる必要はありません。 それでも、お子さんが思春期や青年期に入れば、お母さんの気持ちが変わらないとしても、会わせていいと思います。子ども自身が成長し、安定してきますから、父の言うことと母の言うことに矛盾があっても、自分の中で判断できるようになります。具体的には、中学2年生以上ですね。高校生くらいになればずいぶん安定していると思います。
大好きな佐々木先生の言葉があります。「人には必ず、いい面と悪い面があります。誰にでも、善の部分と悪の部分があります。その中の、いい面を信じるのです。善の部分を信じるのです。それが人を信じる、ということです」。 子どものいい面、夫のいい面、そしてわたし自身のいい面。それを信じることができれば、家族はきっといい方向に向かっていくのだと、いまのわたしは確信しています。読者のみなさまの子育てもどうか、そうでありますように。
佐々木正美(ささき・まさみ) 1935年群馬県前橋市に生まれ、幼児期を東京で過ごす。その後、第二次大戦中に滋賀県の農村に疎開し、小学3年生から高校までを過ごすが、高校卒業と同時に単身で上京。信用金庫などで6年間働いたのち、新潟大学医学部医学科に編入学し、66年同校を卒業。その後、東京大学で精神医学を学び、同愛記念病院に勤務。70~71年にブリティッシュ・コロンビア大学に留学、児童精神医学の臨床訓練を受ける。帰国後は、国立秩父学園、東京大学医学部精神科に勤務後、小児療育相談センター(横浜市)、横浜市南部地域療育センターで児童臨床医として地域ケアに力をそそぐ。その間、東京大学医学部精神科講師、東京女子医科大学小児科講師、お茶の水女子大学児童学科講師などを務める。川崎医療福祉大学特任教授(岡山県)、ノースカロライナ大学非常勤教授、横浜市総合リハビリテーションセンター参与などを歴任した。長年にわたり自閉症の人とその家族を支援する療育方法の実践と普及に努めてきた功績で、2001年「糸賀一雄記念賞」、04年「保健文化賞」「朝日社会福祉賞」受賞。著書に『子どもへのまなざし』(福音館書店)など多数。2017年没後も、そのメッセージは多くの親たちを励まし続けている。 -
Posted by ブクログ
1940
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親に十分に依存させた経験ほど子供の自立につながるらしい。
ああしてほしいこうしてほしいっていうのを叶えるのが大事らしい。
育児本、人間の基礎の部分て感じがして好きなんだよね
自称HSPとかふざけたやつが出てきてるのも、怒られなくなったことによる弊害だと思う。
健常児だけじゃなくて自閉症、ダウン症の子供のことも包括的に書かれててよかった。
育児本て子供が居ないから読む必要無いことは無いと思う。姪とか甥が居る人も多いし、友達の子供と関わることもあるし。育児本は人間の基礎であり、本質だから。仕事って基本的に人間同士の信頼関係で出来てるから人間というものを知るというのが最も大事だから育児書は仕事に役立つと思う。
佐々木 正美
1935年、群馬県生まれ。川崎医療福祉大学特任教授、ノースカロライナ大学医学部精神科非常勤教授。新潟大学医学部を卒業後、ブリティッシュ・コロンビア大学、小児療育相談センターなどをへて、現職。専門は児童青年精神医学
全部読み終わって、思わず涙がでてしまいました。安心感というか、ただ手さぐりで夢中になって子育てしている自分に不安でしょうがなかったときだけに、本当に本当に道案内をしてくださったような気がします。ありがとうございました。いま、主人が会社にいく電車のなかでこの本を読んでいます。(七歳と四歳の子の母親)
山脇百合子さんのすてきな挿絵とともに、最後まで心にしみこませながら読みました。わかりやすくて「そういうことなのか」と、すぐに理解できるようなエピソードがたくさん折りこまれており、それでいて、まったく押しつけがましくなく、本当にすばらしい本に出合えたと思っています。(幼稚園教諭)
すこし前に、ニューズウィーク日本版に「0歳からの教育&4歳からの学習」という特集があり、そのなかにこんな内容の記事がありました。マイアミ大学皮膚接触研究所のT・フィールド所長は、スキンシップの効果を力説して「毎日数分間のやさしいマッサージを受けた未熟児は、マッサージを受けなかった新生児と比べて、毎日四七%も多い体重の増加がみられ、退院時期が平均で六日間も早まる」といっています。このスキンシップの研究は、アメリカでもまだ基礎研究の段階であり、いろいろな評価があるようですが、それでも新生児専用の集中治療施設では、スキンシップの療法を採用するところがふえているそうです。
私は義理の父がああいう時代に、どうして信念をまげることなく、生きぬいてこられたのかとよく考えます。いつまでも、おっぱいを飲んでいたということばかりではありませんが、幼いときに、父には自分の意思や感情をそのまま受容して、育んでくれる人がたくさんいたのだと思います。ですから、自分の信念をしっかり持って、生きることができたのかもしれません。ようするに、子どもというのは、ありのまま受け入れられるという依存体験を十分すると、それだけしっかり自立していくものなんですね。そして、この依存と自立というのは正比例するんです。依存の体験が豊かなほど、自立もしっかりするわけです。私には、義理の父がそういう生きた実例のように思えるのです。
そのように、親に十分に依存できた子どもは、それぞれしっかりと、それなりに自立していきます。早くから自分の目標を自分で考えますし、目標が高すぎて自分では無理だと思うと修正するものです。いろいろなことを自分でどんどんやっていきますし、親からみるとさびしくなるぐらい、しっかりと早く自立していきます。ですから、「おっぱいを早くやめさせよう」とか、「これは早くできるようにさせよう」とか、そんなことを考える必要はないと思っております。
つぎに子どもの望んだことを、どこまで満たしてあげればいいのかということがありますね。基本的にいえば、子どもが「もういい」というまでしてあげるのが一番いいですね。そうすれば子どもたちは安心して、しっかりと自立していきます。「もういい」というまでしてあげれば、一番いい自律や自立をするんです。 これは国と国との関係を考えるとわかりやすいですね。先進国が発展途上国に対して、相手の望むように援助をしていれば、どんどん自立していくものなんです。ところが、先進国の思い通りに援助しようとしたり、干渉したりすればするほど、発展途上国は自立できなくなってしまいます。実際、発展途上国はそのような状況になっているのではないでしょうか。
子どものこういう気持ちをわかってあげて、望んだことを望んだ通りに満たしてあげればいいんですよ。子どもがそれによって依頼心が強くなり、自律心がそこなわれるということはありません。かえって、子どもは自律的になるんです、いい子になるんです。聞き分けがよくなるし、しっかりしていくんですよ。
一方で、私はこういうふうにも思いました。「もの」以外での要求をたくさん満たしてあげていれば、それだけ子どもは「もの」を要求しないものだと。これは決定的なことのように思えました。子どもに「もの」以外の要求で、どんなことを満たしてあげるのかということは、私があれだとか、これだとかいうべき問題ではありませんが、ようするにお金ではなく、心や手をかけるということです。そのやり方は、それぞれの家庭でいろいろあると思います。
子どもの要求に、そういうふうにこたえてあげるときに、親が自分の手づくりでこたえればこたえるほど、他でつくられた「もの」を要求しないものだと思いました。手づくりでというか、気持ちでというか、自分の心や体や時間でといってもいいですね。それから、親が自分の心や体や時間で、子どもの要求に直接こたえてあげられないときほど、他でつくられた「もの」を、子どもは要求してくるように思いました。 私はこういう職業をしていますので、自分の子育てを、やや実験的な気持ちもこめて、夫婦で協力してやってみました。ですから、子どもが「もの」を要求するということは、もしかすると、両親が自分の手づくりで、子どもの望んでいるものにこたえるこたえ方が、不足しているのではないかと思いました。私は子どもたちが育ちざかりのころには、休日であれば、ほとんど子どもの要求にこたえていたと思います。トランプをしようとか、キャッチボールをしようとか、釣り堀にいこうとか、たいてい、その要求にはこたえてやっていました。
先生は本のなかで「しつけはくり返し教えること、そして待つこと」と、書いていらっしゃいます。子どもの育児には待つという姿勢が大切なのに、自分がまったくできないということに気づき、育児のむずかしさを実感しました。お伺いしたいのですが、最近、息子がまつげを引っ張っているのですが、私が「早くしなさい」としかったりしているために、子どものストレスになっているのでしょうか。
しつけを考える場合、「これはやっちゃいけないんだよ」「こういうときは、こうしなければいけないんだよ」などと、いわば社会のルールや文化を、子どもに教え伝えるところまでがしつけだと思います。そして、子どもが納得してできるようになるまで、待っていてあげるのがいいしつけで、そのことが本当に教えたことになるんですね。 ところが、親が待てないで、今すぐに、強制的にでもやらせるということは、子どもの自尊心を傷つけながら、しつけをするということになってしまいます。ですから、そういうやり方では強制的なしつけによって、子どもをしたがわせることができても、いずれ、どこかで反撃にあいますよ。 その場ではうまくしつけたようにみえても、結局は、長い目でみるとマイナス部分のほうが大きいと思います。子どもに対しては「こういうことはしちゃいけないんだよ」「こうしなければいけないんだよ」ということを、くり返しくり返し、根気よく伝えてあげるだけでいいと思うのです。
二歳のお子さんがまつげを引っ張るという質問ですが、たぶん、子どもに大きな欲求不満やストレスがあるのではないでしょうか。お母さんにしかられるから、そういうことをするのかどうかは、単純にはいえないかもしれませんが、子どもが望んだことが満たされていない場合、それが欲求不満となって、そういう行動を示すということは、しばしばあると思います。もしかすると、これからもまつげやまゆげ、あるいは毛髪をつぎつぎ引きぬいていくかもしれませんね。
私が臨床の場で出会った、毛をぬいてしまうという中学生や高校生は、たいてい、親の過剰な期待に苦しんでいました。しかし、幼い子どもの場合は、親の過剰な干渉や期待というよりも、子どもの望んでいることが、十分に満たしてもらっていないということが、多いのではないでしょうか。
ところが、親のほうがあやまるのがいやだからといって、子どもに不始末をさせないように、子どもの行動をおさえこんでしまうことは、むしろ、子どもをだめにしてしまうと思います。私の経験では、育児がうまくいかない人というのは、たいてい、「自分はとても不幸だ」「自分はこれ以上不幸を背負えない」「もっと幸せにならなくてはいやだ」と思っているのではないでしょうか。ようするに、親が自分自身の希望のほうを大切にして、しかも、自分の欲求のほうが、子どもの望んでいることよりも大きいという場合が多いと思います。ですから、子どもを自分の思い通りにしようと思ってしまうのでしょうね。
子どもたちのなかに、人に感謝する、人を尊敬するという感情を育てるには、まず、私たちおとなが日ごろから、そういう感情を持つように努力することが必要なことですね。そういう感謝とか尊敬という気持ちや感情は、困った人や弱い立場にある人に出会ったとき、相手の気持ちになれる、思いやれるということと、いわば表裏一体になったものなんです。ですから、ある人に出会ったときに、羨望する、嫉妬をするよりは、その人に感謝できたり、尊敬できるというのは、とても幸せなことだという気持ちを、みなさんにも、ぜひ持っていただきたいと思っております。
わかりやすい例でお話しますが、たとえば、英国には王室があり、わが国には皇室がありますね。王室のなかの子どもたちといいましょうか、王室の人たちはあまり他の人と育ち合ってこなかったと思います。 人が育つという場合に、なにが育たなければいけないのかといいますと、社会人として健全に生きていくための、社会的人格が育たなければいけないのです。そして、その社会的人格はだれかによって教えられるものではなく、だれか他の人と一緒に育ち合っていくなかで、つくりあげていくものです。だから、そのような環境で育てられないとだめなんですね。
王室の人たちは、ごちそうを食べていますから体は大きくなりますし、教育もしっかり受けていますので知識も豊かだと思います。ところが、わりあい閉じられた環境で育てられてきましたから、王室のなかだけでなら、しっかりと生活をできる人にはなります。けれども、社会的人格は本当には育ってないと思いますね。 近年、英国の王室の人たちは社会に開かれた王室にしようとしました。ところが、社会人として育ち合うような環境で育ってこなかった人たちを、社会に開かれた環境のなかにおきましたら、いろいろと問題がでてきましたね。たとえば、エリザベス女王以後の王室の人で、結婚生活を継続できた人はいないのです。エリザベス女王は開かれたところにいらっしゃらない、だから、育てられた環境のなかに、そのままいればよかったわけです。チャールズ皇太子とダイアナ元妃の離婚もそうですが、他の人と育ち合うということがなく育った人が、本当の意味で社会的に開かれた環境におかれたら、どうなるかわからないということだと思います。育ち合ってこなければ、人間は人間社会で自律して生きていけないということを、私たちは知らなければいけないと思います。
たとえば、自分の毛を引きぬいてしまうという子どもたちに、小さい子どもばかりでなく中学生や高校生にも、私は臨床の場で何人も出会ってきました。頭髪のほとんどすべて、つるつるになるまで引きぬいてしまった少女もいました。彼ら、彼女らは、たいてい親の過剰な期待に苦しんでいました。ですから、過剰期待がなぜいけないのか、子どもにとって最悪なのかということを、みなさんにも考えていただきたいと思うのです。
欲求不満があるというと、否定的に受け取られがちですが、一方で、人間というのは微妙でして、欲求不満があるから向上心がでるという側面もあるんですね。こういう側面もあることを知っておくことは、とても大事なことだと思いますので、前にもお話をしたかもしれませんが、もう一度お話をいたします。 人間は一つの欲求が満たされると、かならずつぎの欲求を目指すものです、それが努力です、努力の原動力なんです。ですから、人間の向上心とか努力の背景には、欲求不満と紙一重の感情があるのです、あるいは、欲求不満とほとんど区別のつかない感情があるんですね。自分はもうこれでいいんだと思ったら、人間はそれ以上の努力はしないものですね。
自分はだれとも合わないんだということがあったら、それこそ問題だと思いますね。これは現代人の孤独、孤立からくる一つの不安だと思うのです。人間というのは孤独、孤立になったら、だれもが健全でいられないということを、よく知っていたほうがいいと思います。どうも人間というのは、孤独、孤立になればなるほど、自己愛的になっていくものなんです。自己愛的になるということは、自分自身のことが大切ですから、自分が望むようにまわりの人を操作しようとします。そして、そういう人は人間関係をつくりにくいし、友人を持ちにくいものです。さらに、自分で人間関係が苦手だと、直感的に思いこんでしまいますから、人とのつきあいをしようとしません。その結果、一番つきあいやすい自分の子どもに対してさえ、自己愛を投影してしまうのですね。
母性的なものの発達という研究がありますが、その研究によりますと、お母さん自身の生育歴が大切だそうです。それから、夫婦関係や親子関係もとても大切なことです。親が子どもを虐待してしまう場合は、たいてい夫婦は仲がわるいようです。夫婦仲がわるければ、かならず虐待するという意味ではないのですが、夫婦仲がいいのに虐待してしまうということは、まずないのです。そして、母性的機能を発揮するためには、夫婦仲がいいほうがいいんですね。母性的機能や父性的機能がうまく働くには、自分の親との関係、自分自身の生い立ち、そして夫婦関係などが、みんな関係していることは事実なんです。
人間というのは、だれにも長所があり短所があります。長所のない人なんかいないわけです。けれども、人の持っているいい面とわるい面のうち、私たちはわるい面のほう、いやな面のほうを感じやすくなっているのも事実ですね。
では、どうしてお母さんは子どもの欲求を、ありのままに受け入れることができなくなってしまったのでしょうか。それは日ごろから、お母さん自身が自分の欲求をいろいろな人に、受け入れられていないということなんです。自分の欲求を夫に受け入れられている、近所の人とか友人とか保育者とか職場の同僚とか、いろいろな人にたくさん受け入れられていれば育児不安もなくなりますし、まわりの人から愛されているという気持ちを持つことができます。
お母さんが自分の欲求を子どもにむけるのではなくて、子どもの欲求を受け入れてあげるようになるためには、お母さんの欲求をだれか他の人に、たくさん受け入れてもらわなければいけないのです。本当は、お母さんが自分の自漫話とか、愚痴とか、その他のささいなことでも、安心して話せる人を持てば、問題の多くは解決すると思いますね。
まず、子どもを十分に受け入れてあげる、子どもの望んだことを望んだ通りに与えるという、母性的なものを子どもに満たしてあげたうえで、こういうことはやってはいけないという父性的ものを教えていけば、子どもはうまく育っていくものです。
ところが、両親二人そろっていても、子どもが健全に育たない家庭もたくさんありますね。それは、どういうものが母性的なものであり、父性的なものなのかということを、両親が十分に理解していないからだと思います。それから、どういう順序でそれらを、子どもに伝えていけばいいのかということが、わかっていないからだと思います。
もちろん、育児の中心的存在は母親ですが、子どもが四、五歳になったら親だけに育てられていてはだめだと思います。子どもはたくさんの人のなかで、いろいろな人間関係を経験することで、共感性や自主性が養われていくものなんです。そういう過程を通して、子どもは友達や仲間を求めていくものだと思います。
いろいろな事情で、片親で子どもを育てる場合、個人的な感想としては、父子家庭は母子家庭より、はるかにむずかしいのは事実だと思います。一般論としていわせていただければ、母親は家庭のやすらぎや、くつろぎをつくる中心であり、父親は社会性のモデルとして位置づけられています。家庭のなかで子どもを育てる場合には、母性的なものと、父性的なものが必要と前にもお話しましたが、この二つの機能を子どもに伝えていくためには順序があるのです。
妊娠、出産、授乳といった一連の行為は女性(母親)にしかできないことですし、だれかが代わってやることのできないものです。この過程のなかでは、家庭のやすらぎをつくる主役は母親であり、そのほうが子どもの精神衛生にとっても安定感を与えると思います。こういう母性的なものが、十分に子どもに働いたうえに、社会の一員として生きていくときに不可欠なことを、教え、伝えていくのが父性的なものだと思うのです。 子どもの年齢が低ければ低いほど、つまり、乳児期から幼児期の初期にかけては、家庭という場にあって、主役を演じるのは母親がむいていると思いますね。直接的に子どもに接するのは母親であり、それに対して、父親は育児という舞台で、母親という主役を引き立てる助演の役目なのです。このような主演と助演の役割の分担が大切なんだと思います。それは、どちらのほうが価値があるというのではなく、同等な価値があると思うのです。あくまでも、いい意味での役割分担であると考えるべきではないでしょうか。
つぎに、おじいちゃんが孫になんでも買ってしまうという質問があります。こういうことも、それほど心配することはないんですよ。祖父母が孫に、おもちゃを買い与えてばかりで困るというときに、親は自分が育児の主役だという気持ちをしっかりと持って、祖父母にちゃんといえばいいのです。たとえば、「孫が欲しがっていないものまで買ってきても、おもちゃ箱をいっぱいにするだけですよ」と、これだけを祖父母にいってあげたらいいのです。
孤独や孤立の裏側は自分勝手さでしょう。人間というのは、孤独になればなるほど人を信じる力が弱くなり、自分勝手で自己中心的になっていくものです。自己中心さが、じつは孤独さのあらわれだと思います。自己中心的な人には相手が寄ってきませんし、自分のほうも、人と交際する力が弱くなっていると思いますね。 けれども、人間の幸福というのは、人を信じる力がある、あるいは信じられる人を持っていることだと思います。本当はこれなしでは、人間は健全には生きられないのではないでしょうか。だけど、そういう人はそれを、自分を大切にして生きているとか、自分は個性的な生き方をしているとか、思っているのでしょうね。
以前に、NHKのETV特集で拒食症の女の子が、「信じられるのは自分だけだ」ということをいっているのをみましたが、そのなかで、拒食症の子の母親も「信じられるのは自分だけだ」と、口ぐせのようにいっているんですね。けれども、自分だけしか信じられないということは、本当は自分のことも信じられないということなんです。ようするに、だれも信じられないということですね。それは究極のところは、自分も信じていないということなんです。 だれも信じられないということは、自分を信じてくれる人がいなかった、自分を愛してくれる人がいなかったということなんです。ですから、そういう人たちは、自分自身が人を愛する力が弱いということをわかりたくないために、自己愛的に生きようとしてしまうのでしょうね。
だれにでもある、母性的なものと父性的なもの
私は母性と父性という言葉で代表される子どもを育てる機能は、それぞれとても大切なことだと思っています。けれども、母性と父性、あるいは母性的なものと父性的なもの、こういってもいいと思いますが、母性はお母さんだけが持っているもので、父性はお父さんだけが持っているものという考え方は、間違いだと思うのです。
なぜかといいますと、本来、母性的なものと父性的なものは、人間にはだれの気持ちのなかにもあるものなんです。女性のなかに母性的なものは豊かにありますし、父性的なものもあるのです。男性のなかにも母性的なものもあるし、父性的なものもあるのです。
親ならその両方を持っているわけですから、母子家庭であっても父子家庭であっても、子どもをきちんと、バランスよく育てるということはできることだと思います。一方で、たとえ両親がそろっていても、母性的なものも父性的なものも、きわめて不十分な家庭もいっぱいあると思うのです。年々、そういう家庭が多くなってきたと思いますね。
そして、このごろでは、母性とか父性という表現を、つかわないようにする風潮があるようです。母性とか父性という表現をやめて、親性とか両親性という言い方をしようという傾向がありますね。そういう風潮は、父性的な役割より母性的な役割のほうが大変なことであり、しかも、育児の役割を女性にたくさん負わせ、それが女性に重くのしかかるのは、不公平じゃないかという考えからでてきたのだと思います。
けれども、どういう言葉をつかっても、私は従来から母性的なものとか、父性的なものといわれていたことを、しっかりと機能させながら育児をすることの大切さは、なにも変わっていないと思っています。
私はそういう風潮にはなじめないし、むしろ今こそ、母性とか、父性の本来的な役割を考える必要があると思っているのです。そして単純に、母性的なものはお母さんが、父性的なものはお父さんが負うべきだということをいっているのではなく、まず、もう一度、家庭における母性や父性の意味について、しっかりと考える必要があるのではないかと思っているのです。
子どもが育っていくときには、まず第一に、母性的なものが家庭のなかに必要だと思うのです。たとえば、こういうことではないでしょうか。両親が「おまえのこういうところがいいね。お母さんもお父さんも、そう思っているよ」というようなことを、子どもに対して感じることなんです。口で表現するのもいいですが、本当に、両親が日々の生活のなかで、子どものことを心から、条件なしに好きになってあげることです。そうすれば、子どもに「お母さん、お父さんが、僕のこと、私のことをこう思ってくれている」と、ちゃんと伝わりますよ。そのことは、子どもに絶対伝わりますから。
そして子どもは、親がそう思ってくれたというだけで、生き生きと輝くのです。子どもにとっては、自分のいいところを感じてくれる人の隣にいることが、なんともいえないやすらぎであり、くつろぎなんです。親や家族がそうすることによって、子どもたちは自信を持っていくのです。そういうことができるのが母性的な機能なんですね。
みなさんも自分の家庭に帰るとほっとするでしょうし、多くの家庭にも、そういうほっとする雰囲気はあるんです。たぶん、家庭に大きなくつろぎや、やすらぎの雰囲気があればあるほど、多くの人はまっすぐに家へ帰ると思うのです。ところが、仕事が終わっても寄り道しないと家に帰れない人が、ビジネスマンのなかにはいますね。家に帰ってもほっとできない人ほど、寄り道をするのではないでしょうか。
それは家庭以上に、ほっとする場所が他にあるからですね。寄り道する人がみんな、家庭ではほっとできない、そんなことをいっているわけじゃありませんよ。けれども、家に帰ればほっとできる、くつろげる、やすらげるというものを、家庭のなかにつくりだしているのが母性的な機能なんです。それはお母さんが一人で負うということではないかもしれませんが、母性的な機能がつくりだすくつろぎや、やすらぎは、家庭のなかになくてはならないものだと思いますね。
わが家では私の家内が一人で、その役割を負っていますし、それを他の家族が享受していると思います。そのことを私の家内は不都合には思っていないでしょうね。それが自分の大きな役割であり、誇りにも自信にも思っています。喜んでそういう役割を負っていると思いますから、それでいいと私は思っています。
家族にとっては、家へ帰ることが大きなくつろぎであり、やすらぎであり、なぐさめであり、休息なんです。家でほっとできるということは、外では許されないことが、家に帰れば許されるということですし、外ではなかなか得られないものが、家では得られるということなんです。こういう雰囲気を家庭のなかにつくるのは、やはり母性的なものなんです。
一方、父性的なものの役割はどういうものかといいますと、人はどう生きるべきか、どんな価値観を持って、どんな理想を持って生きるべきかを、伝えていくことにあると思います。人間が社会生活、共同生活をするうえでは、どんな規則があるのか、そしてそれを破ったときは、どんな責任を負わなければいけないのか、ときには罰せられるということを、しっかり伝える役割が父性的な機能だと私は思います。こういうもののバランスのうえに、人は社会人としての人格をつくっていくものだと思います。
たとえば、こういうことを考えていただくと、わかりやすいと思うのです。社会のなかでルール違反をしている若者たちや、おとながたくさんいますね。現代社会でのルール違反の最たるもの、むしろ、犯罪といってもいいと思いますが、缶ジュースのなかに毒をいれて、おもしろがっているような人がいます。おもしろがっているかどうかわかりませんが、あんなことをしないでいられない人がいるわけです。 これは基本的にいえば、父性的なものが、その人のなかに伝わっていないということです。社会人としてやってはいけないことが自覚できない、それ以上に、犯罪行為をしてしまっている。そういう人は、そんなことがいかにわるいことか、重々承知してやっているわけです。けれども、しないでいられないのです。
母性を基礎にして、その上に父性が伝わるから、ゲイカップルが子を持つ方が批判が多いんだろうね。代理出産の件もあるだろうけど。
「あっ、そうか、わかった」「とんでもないことをやってしまった、明日からやめよう」なんて思う人は、はじめからやらないわけです。そういうことはいくらいっても伝わらないのです。そして、その人が捕まってから生い立ちをみると、おそらく、その人のなかには母性的なものが欠落していると思いますね。子どものときに母性的なものが、ちゃんと与えられないまま、おとなになってしまったのです。くつろぎや、やすらぎが十分に与えられるような家庭で、育ってこなかったのだと思いますね。ですから、母性的なものが十分機能していない人格のなかには、父性的なものが入りこむ余地がないわけです。
さらにこういう事件が、この何年かの間にありました。いつでしたか、横須賀で毎日新聞の記者が深夜の帰宅途中に、駅前で暴走族が信号を無視して走っていくのをみて、それを大声でとがめた。そうしたら彼らはUターンしてきて、その記者を殴り殺してしまったという事件がありました。 同じようなことで、所沢で、ある不動産会社の社長さんが、深夜に何人もの人と列をつくってタクシーを待っていた。そこへ若者のグループで割りこんできたので、それをとがめたら、若者たちがみんなで、その不動産会社の社長さんを殴る、蹴るをして殺してしまったという事件もありました。まだご記憶があることでしょう。 そういうときに「そんなことをしてはいけない」と注意する。これは父性的なしつけであり、教育です。だけど、彼らは母性的なものが十分与えられていないまま、育ってしまったわけです。私たちが、彼らはもう二〇歳近くになっているのだから、これぐらいのことはわかるはずと思って注意しても、母性的なものが十分与えられていない若者たちに、父性的なもので注意してもだめなのです。
いずれにしても、保育者のみなさんは、まず母性的なものを、子どもたちに豊かに与えてください。そうでなければ、その子の生涯は、いつも申しますように、幼児期は建築物の基礎工事ですから、基礎工事をあいまいなまま、建物を建てられてしまって、社会にでていかなくてはならないということになってしまいます。 そうしたら、そういう子どもは大きくなって、どんなあやふやな人生を送ることか、あるいは、非社会的、反社会的な行動をとってしまうかもしれません。ですから、みなさんが、その子のなかにある、特別なよさをみつけてあげる、気づいてあげる、そして、子ども自身にそれを気づかせてあげることだと思うのです。
不健康な家族に共通していることは、お父さんとお母さんの役割が、はっきりと分かれていなかったということです。そして、お父さんとお母さんの役割が、明らかに区別されている家族のほうが健康だったそうです。どうして、そういう特徴があらわれたかについては、一切なにもいっておりません。調査研究の結果、こういう事実がでましたということだけをいっているんですね。
不健康な家族の場合は、家族のメンバー全体が平等だという家庭が多いようでした。物事を決めるときに、だれかがイニシアチブを取るのではなくて、くじ引きで決めるとかいうような家庭です。そういう家庭では、イニシアチブの序列がきわめてあいまいで、そのときそのときで、父親が有利になったり、母親のほうが有利になったり、あるいは、子どもがイニシアチブを取ったりしています。家族それぞれで意見が分かれたときなどは、親と子が自分の意見を通すために、あっちに味方したり、こっちについたり、家族内での連合がころころ変わるというのです。まるで、弱小政党を引きこんだ不安定政権のようなもので、家族内でイニシアチブのうばい合いが起きるそうです。
私も東京都と神奈川県の五つの養護施設で、嘱託医や相談員をしてきました。そこでの経験でいいますと、乳児院から養護施設というように、そういうところでずっと育ってきた人たちは、しばしば社会的適応が困難なパーソナリティをつくるということがあるようです。いろいろな研究報告をみましても、日本だけでなく世界の国々でも、社会性が育たないままに、おとなになってしまう人が多いようです。 乳児院や養護施設で育った人が、すべてそうなるといっているわけではなく、本当の親でない人が、子どもを長い期間育てていくことのむずかしさをいっているのです。私たちが考えなくてはいけないことは、どういう点に、どういう配慮をすれば、問題を軽くすることができるかということなんです。 家庭の雰囲気に近づけることが大切だと、私たちは簡単にいいますが、ではどうすれば、家庭の雰囲気に近づけることができるのでしょうか。たとえば、誕生日のお祝いをするとか、小グループで遊園地にいくということも、それはそれで価値があります。けれども、それよりはるかに大事なことは、子ども一人ひとりに対する「えこひいき」だと思うのです。あるいは、無条件の愛情といいましょうか、それに近いことを本当の親でない人が、どれぐらい子どもたちにしてあげられるか、ということではないでしょうか。
他人との関係をつくれないという現代の若者を取り上げた、「傷つくのがこわい」という見出しの記事が、何回か新聞にでていました。彼らは友人であっても、敬語をつかってぶつかり合いを避け、相手の心にはふみこもうとしません。他の人とのつきあいを深めようとしないのは、自分が傷つくことをおそれているのだと思います。そして、現代の社会では、このようなことは若者だけではないのでしょう。
かつての子どもたちには、ある種のたくましさというか、鈍感さというか、傷つきにくさというか、そういうものがありました。親やおとなや先生に、みんながしかられていましたから、きっと平気だったのでしょうね。みんなで赤信号の横断歩道を渡っているようなものです。今日、自分がしかられていても、明日は他の仲間もそうなるだろうという気持ちを持っていましたから、しかられることで傷ついてしまう子どもなんていなかったと思います。しかし、現代の子どもが、私たちのころのようにされたら、おそらく、翌日から学校へいけなくなってしまうでしょうね。
このように、ちょっとしたことに対しても、知らず知らずのうちに、今の子どもたちは傷つきやすくなりましたし、親も傷つきやすくなったのでしょう。ようするに、子どもも親も、一人ひとりが孤独になり、ばらばらになって孤立してしまったために、傷つきやすくなったということです。どっちがいいとか、わるいとか、あるいは昔の鈍感さが文化として劣っていたとか、現代の過敏さが文化としてすぐれているなどと、申し上げているのではありません。けれども、今の時代はそうなっているということを、みなさんにわかっていただきたいと思います。
ですから、私たちのころの子どもたちは、親やおとなに怒られても、その心の傷をいやす方法を知っていましたし、仲間と一緒にいることによっていやされていたのです。私も首にかけられた黒板がはずされた瞬間に、もう仲間と遊んでいましたし、家に帰っても「今日、先生に頭を殴られちゃった」というようなことは、親にはいいませんでした。親にいえば、親からももう一つ殴られましたからね。そのころは、「おまえがわるいことをしたから、先生が殴ったにちがいない」という親がほとんどだったと思います。
彼らの不作法をその場で注意することは、いってみれば、人を信じられなくなっているだけでなく、自分自身も信じられない状態にある若者たちを、さらに傷つけてしまうことになるわけです。結果としては、その若者たちの傷をさらに大きくしてしまう事件を、起こさせてしまうことになってしまいます。
まわりの人を否定しているということは、自分自身も否定していることになるわけですから、破れかぶれな行動をすることになってしまいます。そして、自分の将来にも希望なんて持ってないんですから、ある意味では、今、自分の人生が終わってもいい、という気持ちになっているのでしょうね。
どうなってもいいという気持ちが、ひそんでいるということは、それは自己否定なんです。自己否定をしている人は、他の人のことなんて、もっと否定しているのです。ですから、そういう場面に出合ったとき、だれも注意しないことを無責任だなんて、私は思わないのです。たとえ注意しても、若者たちは聞き入れませんし、かえって若者たちに、もっと大きな事件を起こさせることになり、そのことによってさらに傷を大きくすることのほうが心配なんです。
ゲイカップルは子育てあきらめろみたいな意見に可哀想みたいな引用リプつけてたやついたけど、子供が可哀想は大人が可哀想を避けなければならないと思う。大人は自由だもん。自由な分逃げ場がある。子供が可哀想な選択をするやつは許さない。
いじめている子どもと、いじめられている子どもについて考えてみますと、そこには共通点があると思うのです。どういうことかといいますと、ある意味では、どちら側の子どもにも、人を信じる力と、人から信じられているという実感がとぼしいように思います。 信頼関係の豊かな子どもたちは、いじめる子の側、いじめられる子の側とは無関係な位置にいます。ですから、いじめ、いじめられの関係は、人間の本当の信頼関係がないところで生じるわけですね。結局のところは、自分は他の人を信じられる、それ以前に、どれぐらい自分は、他の人から信じられているかという安心感がない者同士が、いじめ、いじめられの関係になると思うのです。人を信じられる子どもは、いろいろな子どもと友達になれますから、いじめる子どもとは友達にならなくてもいいのです。いい友達関係をしっかり持っている子どもに、いじめにくる子はあまりいません。いい友達がたくさんいて孤立してない子どもは、横のつながりもありますから、いじめっ子がそう手はだせないのです。ちょっかいをだそうとしても、その子はすっと、友達のほうに寄っていってしまいます。ですから、いい友達を多く持っている子どもを、仲間から引っ張りだしてきて、いじめることはできないものです。
お母さんからいじめられないで愛されている子どもは、いじめられる側にも、いじめる側にもなりません。いじめられもしないのに、いじめることはあまりないですからね。まったくないんじゃないでしょうか。また、親が子どもを愛していると思っていても、じつは、いじめているということもあるんです、いっぱいあるんですね。そこのところをきちっとわかってもらわないと困るんです。とくに小さい子どもの場合には、それは大きくなるまで引きずってしまいますから。
私はふだん、朝日新聞が好きでよく読んでいます。しかし、いじめについての朝日の記事には、先生が頑張ればなんとかなるという発想があると思います。けれども、いじめを予防したり、なくすのに、本質的なところで効果的なのは、各家庭で親子関係をもっと大切にして、生きていく必要があるという読売の記事のほうだと思いました。一紙しか読まない人も多いのですから、本当は、こういう研究や調査の結果は、新聞社が両方の内容をバランスよく報道するのがいいと思うのです。
今の子どもたちは、どの子もいじめやその他さまざまなことがあって、友達との人間関係をつくるのが、かつての子どもよりは下手になったと思いますね。たとえば、クラスのなかで人間関係がこじれたとき、仲直りのしかたを知らないのです。あるいは、友達とちょっとした言い合いをした場合、もうそれだけで「教室にいきたくない」と、保健室にいく子どもも多くなったと思います。
また、幼児期から家族や親類の人や、近所の人たちとの人間関係の経験が、極端に減っている子どもたちも多くなっています。とくに、相手から無条件に近い状態で、受け入れられるという経験が不足しています。かつては、たとえ親から無条件で受け入れられ、愛されるということが少なくても、親以外の親類や地域のおとなたちから、そのような経験ができていたと思います。ですから、子どもたちは家庭や学校でくつろげなくても、地域社会のなかにくつろげる場を自然に持っていました。
彼らに不足しているものは「母なるもの」なんですね。子どもたちは小さいころから、「母なるもの」を必要なだけ与えられてこないと、自分に安心できなくなってしまうものです。ですから、大きくなってからの友達や他の人との関係は、もっと安心できないものに思えてしまうのです。その結果、学校の教室もくつろぎや、やすらぎの場ではなくなってしまうのです。たしかに、学校の教室なんて、とくに授業中の時間なんて、だれにとってもそんなに楽しい場ではなかったかもしれません。 だけど、私たちが社会人になっていくためには、たとえ苦痛の場であっても、まったくいかないでいいかというと、そうはいかないわけですね。学校へいかなければならないということを前提に、ものをいっているわけではありませんが、子どもが成長していく過程では、一方では集団のなかで育っていくことも必要なことだと思うのです。
私たちはともすると、他者と関係を持たないで生きようという傾向も、強くしてきたように思います。そういう生き方は、おとなたち一人ひとりにとっては、居心地のいいことかもしれません。だけど、子どもが育っていく場合には、それは子どもにとって、居心地がいいことにはならないでしょうね。おとながすこし身勝手なやり方で、気軽に生きようとしている環境では、家庭の内外を問わず、子どもにとっては、それはけっして居心地がいいものではないと思うのです。 私たちおとなが、そういう一見、気楽な生き方を何年も続けてきてしまった結果が、離婚の多さ、シングルマザーなどという現象ではないでしょうか。家庭内の問題としてあらわれている、不登校、家庭内暴力、児童虐待、若者の引きこもりなども、現在のそういう生き方を助長する文化が、持っている問題なのではないでしょうか。そのことがいいとかわるいとか、いっているわけではないのですが、そういう文化の風潮は、気楽な生き方であるようですが、じつは、おとなにも子どもにも、大きな不安をもたらしているように思います。
私は今、苦悩している少年や、若者たちにこういうことをいいたいと思っています。それは、自立的に生きるということは、自分だけでなにかができることではなく、人と協力してなにかができるようになることが、大切なことだということです。 人と協力してなにかができるようになったら、教室は楽しくなるし、放課後、仲間との時間も楽しくなります。人と協力してなにかができなかったら、教室にいくこともできません。寮にこもったり、自宅に引きこもってしまいます。あるいは、せいぜい保健室までしかいけないということになってしまいます。
入学したころは、幼児期のような情緒反応を示していた、さきほどの全寮制の高校の生徒たちも、三年間でそれぞれが、自律や自立の過程を歩みながら卒業していきます。けれども今、私のところには何人もの人から相談があるのです。「卒業したら、その後、また家からでられなくなりました。どうしたらいいんでしょうか」と。三日ほど前にあった電話の相談では、「家からやっとでていけるようになったけれど、酒場にしかでていけない」というものでした。 私にはその理由はよくわかります。酒場ならほろ酔いかげんでいられます。その人にとっては、お酒が鎮静剤なんですね。そして、こちらがお金を払ってお酒を飲むわけですから、酒場のママさんは無条件に受け入れてくれるわけです。それがなんともいえないくつろぎだと思うのです。しかも、「それも深夜にしかでていけない」というのです。それも非常によくわかります。深夜にしかいけないのは、いろいろな人に出会うのがこわいんですよ。それでも、家で閉じこもっているよりは、外にでかけるほうが、はるかに進歩ですから、親やまわりの人は、そのことをわかってあげていただきたいと思います。
現代はこんなに豊かで自由なのに、なぜこんなに、みんなの心が病んでいるのでしょうか。なぜこんなに、子どもがむずかしくなったのでしょうか。それは、みんなが自分のことしか大切にしなくなったからなのです。だれかを大切にして生きなかったら、私たちは結果として、自分も大切にできないんだということです。
近所で殺人事件が起きれば別ですけれど、みなさんは新聞とかテレビの報道によってしか、知ることができないわけですから、夫婦間、親子間、兄弟間の家庭のなかの暴力行為が、殺人にいたった例しか知らないと思います。家庭内の暴力によって、ほとんどの人が死にいたるわけではなく、ごくまれなケースだけが死にいたるのです。そのまれなケースが現代社会のなかで、どれだけ多いかということですね。ですから、家庭内暴力といっても、けがの段階のものを考えると、実際には何十倍、何百倍あると思うのです。おそらく、みなさんは、そういう事実をご存じないと思います。ところが、私たち精神医学の臨床医のところには、家庭内の暴力でけがをした人たちがいらっしゃいます。けがといっても、殺人事件にいたらなかったという意味で、けっして軽いものではありません。家庭内暴力が殺人事件にいたった場合には、事件を起こした人は警察にいきますから、私たちのところにはきません。私たちのところの相談や診療、治療にいらっしゃるのは、家庭内での暴力行為が継続している人たちです。どれぐらいかというと、みなさんが想像できないぐらい多いんですよ。かつては、夫婦の間で、兄弟の間で、親子の間で殺してしまうほどの暴力になるなんていうことは、ほとんど考えられなかったと思うのです。
たとえば、子どもにもいろいろな個性や体質があります。同じ光化学スモッグ、あるいは大気汚染のなかにいても、ぜんそくになる子とならない子がいるのです。その他いろいろな環境の変化のなかにいても、アレルギー性鼻炎、杉花粉症などになる人と、ならない人がいるのです。同じ環境に育っても、ある現象が強くでる人と、でない人がいるんですね。
私は臨床の場で、いろいろなむずかしい若者たちに会い続けています。どうしてこんな非行をするんだという若者たちに、しじゅう会っています。そこで思うことは、彼らに自尊の感情を育てなければいけないということです。自分を尊重するということは、他の人を尊重する力でもあります。本来、他者を尊重しない自尊心なんて絶対ないんですから。ルール違反をする人は自尊心がないということでしょうし、その前に、他者を尊重する感情が育っていないということです。こんな手順を、できるだけ小さいころに、子どもの育ちのなかにしっかり与えてあげれば、育てやすいし、あとのことは非常にやさしくなっていくものです。
不適応行動、異常行動とはこういうものですと、二五種類ぐらいの項目が書いてありました。たとえば、ささいなことで興奮する、人に暴力をふるう、そして、自分で自分を傷つけてしまう、あるいは、食べ物でないものを食べてしまう、器物を破損する、便をこねたりして遊んでしまうなどという行動です。子どもたちがどういう不適応行動、異常行動を持っているのか、そして、そういう行動を日常的にたくさん示す子どもは、どういうタイプの子どもに多いのか、調べるわけです。そのために、それぞれの施設で養育や療育上、職員がもっとも困難に思っている子どもを、五人ずつ報告してくださいという要請でした。 -
Posted by ブクログ
1940
376P
後半は発達障害多め
私の腐った人間としての基礎部分を改修工事出来るような本これは
金さえあれば母親二人でもいいとも思わない。子供に父性を与えられないなんて可哀想。男と女っていう全く違う生き物である父と母に育てられた方がいい。しかもほぼ女性だけのコミュニティで生きてる女なんて考え方偏ってるに決まってんだろ(笑)
育児書読んで凄い幸せな気持ちになったんだけど、育児ってほんと幸せだと思うよ。こんな幸せな気持ちに子供にさせてもらえるなんて。それだけで親孝行だと思った。大人だからって何も知らない子供に教えてやるとかそんなものではないし、こんな尊い経験を私みたいな未熟な人間に与えてくれてありがとうと思うだろうな私なら。
98年の刊行以来、多大な反響のある『子どもへのまなざし』シリーズの完結編。今回は、子どもの虐待やひきこもりなどが増えている現代社会のなか、子どもにどう接していけばいいのか考えます。また、後半では、近年よく耳にする「発達障害」についても詳しく取り上げました。障害のあるなしにかかわらず、お互いに助け合い共鳴し合って生きていきたい。そんな思いがあふれた本書は、育児書であると同時に、人生導きの書でもあります。
佐々木 正美
1935年、群馬県生まれ。川崎医療福祉大学特任教授、ノースカロライナ大学医学部精神科非常勤教授。新潟大学医学部を卒業後、ブリティッシュ・コロンビア大学、小児療育相談センターなどをへて、現職。専門は児童青年精神医学
近年、本来は相手の気持ちを尊重することで成り立っている個人主義の価値観が、いつのころからか、相手の気持ちを尊重しないで、自分の生きがいや権利ばかりを主張する、自己中心的な傾向を強めてまいりました。私たち日本人は日々の生活のなかで、欲求が満たされないことや自分の意にそわないこと、何か不愉快なことがあると、その理由を、自分以外の他者に、教育に、社会に、政治に求める感情をふくらませてきました。そして日本人全体が、自己中心的な人間性になってきたということも、まぎれもない事実です。
このことに関して、私は、ある高校生からこんなことを教えられました。高校で「権利と義務」という題の、パネルディスカッションがあったとき、そこに参加したその高校生は「〈権利と義務〉という言い方はだめなんじゃないか。〈義務と権利〉というふうに言い直したい」と発言したそうです。なぜかといえば「義務を果たした人間にのみ、その義務に見合った権利が与えられると思う」と、私に話してくれました。 あくまで義務が先で、その後に権利がついてまわるんだということを、高校生がいっているのです。おとなたちは権利のほうを先にいって、義務をあまりいわないのではないか。果たし得た義務に見合った権利を主張するのであり、先に権利を主張するのではない、というのが彼の言い分です。
私はあらためて考えさせられました。自分の個人主義と相手の個人主義があるということをいつも意識しながら、個人主義を生きていくというのは、とても大切なことだと思います。自分だけの個人主義を考えるのだったら、これはもう利己主義、自己中心主義です。だけど、私たちはしらずしらずのうちに、このようになってまいりました。強い者、声の大きい者、多数の者の傲慢、欲望というものが優先されて、いつも子どもの弱い声は後まわしにされています。いま、子どもにとっては受難な時代、不幸な時代だと思うのですが、みなさんは、どうお考えでしょうか。
育児に関しての心配や迷いがあったとき、その問題をどう解決しますかという質問に対しては、育児に肯定感をもっている母親ほど、まわりの人に相談します。隣近所の人に、実家の母や夫の母に、あるいは健診を受けた保健師さんや、かかりつけの小児科のお医者さんに聞いています。育児に否定的な気持ちの強い母親は、育児書とか育児雑誌に頼っていました。これらの調査結果を見てわかることは、育児という母と子の関係は、母親自身の多様な人間関係の問題が基本にあるということです。隣近所の人、実家の母、夫の母、そしてご自身の夫との関係のあり方が、わが子と向き合うときの基盤をなしているのです。
近年わが国では、幼い子どもが虐待される事例がふえています。また「キレやすい」おとなが多く目につくようになりました。新聞やテレビでは、それらの原因について、現代人が自己中心的になり、人間関係も壊れてしまい、一人ひとりが孤立して生きていることに求める論評が多く報じられています。私もそのとおりだと思っています。 OECD(経済協力開発機構)の最近の国際比較調査のなかにも、日本人は一人ひとりの孤立の度合いがきわだって大きい、世界一だという報告もあります。孤立ということは、人間関係が失われてきたということです。私も長いあいだ、子どもと青年と家族に関する精神医学の臨床にたずさわってきて、そのことを深く憂慮せざるを得ません。
では、子どもたちにもっとも人気のある役は何かといいますと、みんな、犬や猫などのペットをやりたがるそうです。昔でも、たしかに犬や猫の役はありましたが、それは、みんなが望んだ役では絶対なかったですね。親が子どもに愛情をかけることより、自分がいやされるために犬や猫などペットをかわいがっていることを、ふだんの生活のなかで感じていますから、子どもたちがペットの役をやりたいというのは当然かもしれませんね。
別の保育士の方からは「ある子をお父さん役に頼んで、ままごと遊びがはじまったのですが、お父さん役の子は〈ぼくはゴルフに行ってきます〉といって、すぐにどこかへ行ってしまった」と話していました。家庭のなかで、お父さんの存在感が希薄になったあらわれのように思いました。
私は、もう三〇年以上、各地の保育園で働く保育士の方々と、定期的に毎週どこかの市町村で勉強会をくり返しています。同時に、勤める大学などでは、保健や福祉の領域で働こうとしている若者を養成し、教育する仕事もしています。そうしますと、経済効果が直接的に見える仕事をしている人たちにくらべて、保健や福祉など、直接人間にかかわる仕事をしている人たちが、あまりにも経済的に恵まれていないことがわかります。明日の社会を担う、幼い子どもたちを育てる保育士や、長い歳月働いてきた高齢者を介護する、介護士たちの働きの大きな意味に、私たちは、あまりにも鈍感すぎるのではないかと思います。
幼い子どもはだれでも、まず親に心を許して、わがままがいえるように育てられることが大切です。けれど、それが不十分であれば、そのぶん、子どもたちは、保育園という社会でわがままをいうのです。たいていは、保育士を自分で独り占めにしようとして、過度の甘え方をします。「先生、こっちを向いて」というように、自分だけに注目してほしいという、さまざまなことをします。
もう四〇年以上も前のことですが、私は若いころカナダのバンクーバーに留学して、エリク・H・エリクソンを学びました。そのとき指導していただいたのは、精神分析学派の著名な学者であり、臨床者のカール・クライン先生でした。クライン先生はエリクソンの親友でもあり、私たち児童精神科の医者になろうとしている若い医者を前にして、エリクソンのレクチャーをしました。
基本的信頼の基盤である、人を信じる力については、「人を信じる力と自分を信じる力は、表裏一体のもので片方だけということはない。信じることができる人をもてないと、人間は自分も信じることができなくなる」ということも、エリクソンは解き明かしました。 そういう育児をしてくれる人に出会うことによって、相手と共感する感情を育てることができます。この共感性という感情があるから、相手に対する思いやりとか、相手の喜びを自分の喜びにすることができ、大きくなるにつれて、相手の悲しみ、苦しみを思いやることができる感情へと発達していくのです。
優越感も劣等感もなく、感動を自然に分かち合えますから、自分の知らないことを知っている友達に出会うことが喜びなのです。自分にできることを、できないでいる友達がいると、教えてできるようにしてあげることが、自分の喜びなのです。だから、子ども時代に友達と充実した遊びを十分にした人は、おとなに成長したとき、みんな勤勉に働くことができるのでしょう。
だから、よい人間関係をもって生きている人ほど幸福なのです。自分の存在の意味や生きる価値を強く感じることができるからです。しかも、人間関係が自分にとって満足できる人、夫婦であれ、家族であれ、隣近所の人であれ、友達であれ、職場の同僚であれ、いろいろな人とよい人間関係を、いきいきともちながら生きている人が、一番生きがいを感じて、希望に満ちて、意欲的に自信をもって生きることができるのです。
そして、人を信じることは、信じることができるような人に出会うということであり、赤ちゃんが最初に出会う、母親ないし母親的な人との関係のなかで、子どもたちに人を信じる感情が育っていくのです。子どもの人生の第一歩に、お母さんをはじめ多くの信じることのことができる人と出会って、基本的信頼を獲得したあとに、小学校に入るくらいまでに自律性と自主性というものが育てられることによって、学校に行くようになったとき、多くの友達と遊び、学び合い、今度は勤勉なものを習得する準備ができるのです。
一方、お父さんの役割というか、父性の原理は、子どもが社会で生きていくうえで必要な規則を教える、約束を教える、義務を教える、役割を教えるということです。こうでなくてはいけないということを、子どもたちに教える力を父性原理といいます。それぞれお母さんの役割、お父さんの役割があります。お母さんの役割はこうで、お父さんの役割はこうですよ、と断定的にいえるものではないと思いますが、
簡単にいいますと、「勉強しなくちゃだめだよ」というのは父性性であり、「できなくたっていいよ」というのが母性性です。 そして、幼いときに母性性が十分与えられた子どもにしか、父性性は伝わっていかないという順序があります。母性性が十分に満たされていない子どもに、父性性の社会のルール、約束、責任、義務みたいなものを、しつけによって教えようとしても、これは伝わりません。
いままでの日本の障害者基本法は、知的障害と身体障害と精神障害の三つを対象にしてきました。しかし、知的障害のない高機能自閉症、アスペルガー症候群の子ども、あるいは学習障害、注意欠陥多動性障害の子どもたちもいます。この子たちに身体障害も精神障害もない場合、従来の障害者基本法では、この子たちは障害はないということになっていました。 けれど、この子たちには、認知、学習、言語やコミュニケーション能力、社会性の発達、運動面など広い領域にわたって、発達に偏りがあるという問題があります。それは、一般の子どもたちにくらべて、年齢にふさわしい発達が劣っているところ、劣っていないところ、あるいはすぐれた能力もあるということです。 このような発達障害をもつ子どもたちが、どういうことならよくできるけれど、どういうことは苦手なのかということが正しく理解されて、それに適した保育や教育や養育をされるのであればいいのですが、現実には、発達障害に対する誤解や無理解のまま育てられてきました。その結果、この子たちはどんなに勉強ができて、どんなにいい学校に入っても、どうしてこんなことができないのかと叱られることによって傷つけられ、劣等感を強くしてしまうということがたびたびおこります。そして、自分はだめな人間だという、自分に対する否定的なイメージを強くし、思春期、青年期、成人期になって、不登校、ひきこもり、社会的不適応など、さまざまな不幸な状態に陥っていることが明らかになってきました。
なぜでしょうか。たぶん、この子たちへ不適切な対応を続けてきた結果、いまになって、いろいろなところで非社会的、反社会的な不幸な問題を残すことになってしまったのです。不登校は小中学生で約一四万人、ひきこもりは青年、成人までふくめると、その一〇倍くらいといわれています。私の実感では、そのうちの四〇%以上は発達障害の人たちではないかと思われます。非行や犯罪の領域でも、発達障害の子どもたちが目立ってきました。少年鑑別所で対応する非行少年たち、少年院に収容されている少年たちのなかにも、発達障害の子どもが多くなっているのです。
ビューティフルという言葉を英語圏の人はよく使いますが、前にもご紹介しましたイギリスの高機能自閉症のドナ・ウィリアムズさんは、「この言葉が自分にはいまだにむずかしい」とおっしゃっています。「この言葉をはじめて聞いたときのことを鮮明に覚えています。海岸で海の彼方に真っ赤に燃えて沈んでいく太陽を見ながら、ある人がビューティフルといいました。そのときに、私はビューティフルというのは、こういう状況を見たときにいう言葉だと思った」そうです。自閉症の人は、言葉と意味が一対一で、個別に対応します。もっと極端な言い方をすれば、真っ赤な夕日のことだけを、ビューティフルなのだと思うくらいの気持ちです。 続けて、ドナさんはこうおっしゃっています。「それからしばらくして、あるとき、まったく別の場面で別の人が、緑の山並みを見てビューティフルといいました。そのときに私は動転しました。どうして、これもビューティフルなんだと思った」そうです。一般の人だったら、真っ赤に燃える太陽と緑の山並みとを、ともにビューティフルというなら、共通点は何だろうと推理できると思います。
自閉症スペクトラムの人は、視覚的、具体的、個別的に意味や概念をとらえるので、見たものを見たとおりに覚えることは、一般の人よりも能力が高いです。一方、目に見えないものに意味をもたせることや、具体的でないものを理解することは苦手です。ですから、話し言葉を理解するのがむずかしいのと同じように、時間と空間の意味を理解することが困難です。
前にご紹介しました、高機能自閉症、アスペルガー症候群のテンプル・グランディンさんも、ドナ・ウィリアムズさんも共通していっていることは、「学校へ行ったときに廊下と教室の境界線がずっとわからなかった」ということです。もっと極端な場合には、校舎と運動場とのあいだの境界線、さらに運動場と外の街路との境界線の意味がわからないこともあったといっています。
自閉症スペクトラムの人たちは、興味や関心がせまいところに集中しがちだといわれます。認識する対象がせまいのですが、そのぶん、関心の示し方に強い傾向があります。ですからおとなになったときに、一芸に秀でたり、特別な領域の問題に高度な専門性を発揮する人になることも、けっして少なくありません。ものの細部にこだわる、全体を見ることができない、同時総合的に視野にとらえることができない、これらは自閉症スペクトラムの特徴です。
オランダの高機能自閉症の人で、ヴァン・ダーレンという人がいます。ものの細部にこだわる、全体を見ることができないことについて、「私はものごとの認識の仕方が、ほかの人たちとはちがうということに気がついています。たとえば、目の前にハンマーを差しだされたとき、最初からハンマーだということはわからないのです。なぜなら、自分はなにごとも全体ではなく細部から考えるからです。まずは方形の鉄のかたまりだけに目がいき、そのつぎに、そこに木の棒が横たわっていることに気がつきます。鉄のかたまりと木の棒がつながった性質のもので、全体の形が統合的に理解されるのはそのあとで、その名称のハンマーにたどり着くことができるのは、さらにまた、そのあとのことなのです。
マクターゲット先生からは、カナー先生の教えでもあるといいながら、いろいろなことを教えられました。その一つに、「人間は自分の幸福を追求し続けるだけでは、けっして幸福にはなれない。本当に幸福そうにみえる人をよく観察するといい。その人はかならず、だれかほかの人たちを幸福にしながら生きている」というものがありました。 人間は、あの人(あの人たち)を幸福にしたいと、真に願って、そのための努力をしながら生きなければ、けっして自分の幸福を得ることはできないのです。ですから、幸福になるための術は、理屈だけならば簡単です。幸福にしたい人をもつなり、探すなりすればよいことになります。自分の目の前にいる家族を、本気で幸福にしたいと思って、努力を続けることができれば、その人はかならず幸福なのです。
地球上の各地で飢えている子どもたちを救いたいと、強く思い続けることができたら、幸福になれるのです。しかし人間は、家族にしろ世界の各地の人々にしろ、その人々のことを強く思い続けることができなくて、つい自分の幸福だけを求めがちになり、そして、幸福になれないでいることが多いのです。私たちは自分の喜びを、喜びをもってむかえてくれる人をもたなければ、真の喜びにならないでしょう。同時に悲しみも、自分の悲しみのように分かち合ってくれる人がいると、本当になぐさめられるのです。幸福とは分かち合うものであるということを、あらためて考えさせられる言葉です。
子どもに対する過剰期待の感情には、おとなたちの自己愛的な欲望もあるでしょうから、子どもたちへの愛情だと思っている私たちおとなの気持ちは、その中身には複雑なものがあります。けれども、レオ・カナーは「自閉症の子どもだけではなく、すべての子どもについて、治療や教育は、現状を肯定することからはじまる」といっています。
相手に対して愛情もないのに、いいたいことをいうのは自己愛です。相手のためにいっているのではなくて、そういわないと、自分のほうが気が済まないからいうのですね。どんなに常識的なことをいっても、相手は素直に聞いてくれません。この子はなんと憎たらしい、いやな子だと思っているときには、何もしないほうがいいのです。レオ・カナーの言葉を借りればそうですが、比喩的にお聞きください。でも、レオ・カナーはすごい人だと思います。
患者さんは、治療者から大切なことをしっかりいわれるときより、自分のいうことを聞いてもらっているほうが、ずっと愛に包まれているように感じるのです。人というのは、そういうものです。こんなとき、どういってあげたらいいかと思うことがあっても、うまくいえなかったら、静かに聞いてあげればいいのです。聞いてもらう経験が不足した状態の相手に、どんなにこちらが正しいことをいっても、それは通じません。ですから、どんなことがあっても聞くことからです。聞くことからはじめれば、かならず活路は開けてくるということを、バンクーバーでの経験で教わりました。
過日、経済的には非常に貧しい、ブータンという国の記事が新聞にでていました。ブータンの国民一人当たりの年収は、日本にくらべれば五〇分の一にしかならないのに、国民の九〇パーセント以上の人々が、日常生活を幸福だと答えているというのです。その理由の一番は、村中の人々がおたがいに、助け合って生きることができているからだというものでした。あらためて、人間は豊かな人間関係のなかで生きなければ、けっして幸福にはなれないということを思いました。同時に、七五年近くを生きてきて、第二次世界大戦の敗戦を経験し、疎開先の村で貧しさのどん底の子ども時代を体験してきた私には、世界有数の経済大国に住む、いまの自分を幸福と受けとめてよいものか、複雑な気持ちになるのです。
もう一つ、近年の重要な主題は、発達障害スペクトラム、自閉症スペクトラムといわれる子どもや人たちのことです。それらの人が数多く、私の周囲に来られるようになりました。発達障害は、発達が遅れている人たちではなく、広範な領域で発達が不均衡なのです。あるいは特定の領域については、ふつうの人よりもすぐれた機能をもっている人も大勢いるのです。 -
Posted by ブクログ
しっかり育てたい!と思うパパママが1度は読むべき一冊。ここでいう「しっかり」とは、他人に迷惑をかけなくて、自立した人間という意味で使っていますが、実際育ててみると「このままで”しっかり”した人間になるのか」なんて不安を感じさせる行動が幼児期から多発します。(わたしの経験の範囲ですが)例えば、周りは普通に行けているのに行き渋りがひどいとか・・。その不安を本書は読んでいる間だけでも解消させてくれる一冊で不安になったときに読み返したいなと思わされました。
■いろいろな相談がある。
本書では、相談に対し筆者が回答するというスタイルで進みます。多様なジャンルなので自分にもあてはまる相談もあるかもしれません(わたしはありました)。
■甘やかしすぎで良い
本書で一番印象に残った考え方です。犯罪を犯した子供たちで甘やかされて育てられた人はいないそうです。しっかり育てたくて、あれこれダメって言っているわたしには驚きでした。では、動画の見させすぎは子どもの心身に影響を与えるのに、長時間見せていいのか、砂糖は依存性があるのであまり食べさせないほうがいいのでは?結局悩みは尽きないのですが。
■親が叱るほど叱られる子供になる
確実とまで言っておられました。でも、変わるのは親とのことです。なんてキツイんでしょうか。叱りたくて叱っている親なんていないです。でも、先に変われるのは大人だから大人が変わるべきと言っています。
本書を読んで叱らないことを実践してみました。自分に5日叱らなかったらご褒美とルールを決めて3日できました。でもどうしても4日目に叱ってしまいました。自分に課したご褒美もなくなってしまいました。とても悲しくて泣きました。(妊娠後期のワンオペでメンタルが悪かったのです)でも叱らなかった間、子どもたちは比較的扱いやすかったように思います。効果はわかりますがとても難しい。ぜひ読んで悩んでみてください。