鴻巣麻里香のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ここ2,3年、自他との境界線をうまく設定することが自分が特に仕事での人間関係を上手くやっていくために必要なんじゃないかという問題意識を持っていて、日々試行錯誤していたが、たまたまこの本に出会って読んでみた。非常に分かりやすく書かれていて、考え方がスッと入ってきて、日常でも意識できると思った。元々学生とか若い人向けに書かれてるちくまプリマーなので、若い子におすすめだし大学生の時にこういう考え方に出会ってればな〜と思った。最近になって、自他の境界線という概念が広まってる印象はある。現代の問題(貧困やルッキズムまで)を例としてピックアップしてしっかり向き合っていたり、説教くさすぎる感じもなく、良かった。
以下、メモ的に印象に残った部分。
・バウンダリーは単なる線じゃなく、厚さも調節可能で引き直すこともできるもの。穴も空く。
・自分の気持ちは自分のお皿に、相手の気持ちは相手のお皿に、お皿の淵がバウンダリー。
・意見や気持ちは聞かれ慣れないと言うことができない。お皿にまだ何もない、という事実が重要で、空っぽのお皿を見つめることでなぜ言えないのかを掘り下げることができる。
・日常の中で小さな声を聞かれ続けることで、声を聞いてもらえるという信頼が育まれて意見を言えるようになれる。
・バウンダリーを育むのは周囲の環境。特に子ども時代に周囲の大人による、尊重する言葉や行動、まなざしが私たちのバウンダリーを育み、調節機能が健全に働くようになる。
・バウンダリーを揺るがし調節機能を損なうのも、他者からの言葉や行動、まなざし。バウンダリーの揺らぎは、決して個人の問題ではない。
・why am I sad/tiredではなく、what makes me sad/tired、何がそうさせるか、と言う視点への切り替え。
・過去の苦しい経験や理不尽をあってよかったと振り返る大人は、おそらく苦しいだけの無意味な経験が自分の人生にあることがより苦しいから。そういった経験に意味づけをせず、苦しく嫌だと感じたものとして記憶する→今後自分のバウンダリーが侵害された時にきちんと嫌だと感じて自分を守れるし、誰かを侵害する前に踏みとどまれる。 -
Posted by ブクログ
2026/04/07
メモ
境界線が薄くなる、つまり自分より力を持った人、自分に強い影響を与える人から、自分の意見や気持ちを否定されたり軽んじられることが多くなると、
自分より周囲の意見を優先する
例えば やめてと言えなくなる 意見が異なると自分が間違っていると感じてしまうなど
あるいは、自分の気持ちがわからなくなってしまう 辛いことに対して これは普通だと蓋をしてしまうなど抑圧される
大人たちは みんな仲良く を目指していない
仕事において協力ができれば良い
違いを間違いにしない
誰かに伝わるのは言葉と行動だけ
なので、自分の気持ちは否定する必要はない
行動を変えれば良い 距離を取る、挨拶だけはするなどを
ひとつひとつのことに あってよかった と意味づけはせず、踏みとどまって欲しい
苦しいことは苦しいこと 理不尽なことは理不尽なこととして
それは自分を守るだけでなく、相手のバウンダリーを侵害する前に踏みとどまることにつながる
自分のせい を手放す
仲良くなるより、上手に距離を取る
5章以降が特にためになったし心の支えになった -
Posted by ブクログ
なんていいタイトルなんだ。いつからフェミニストになったのか、いつフェミニズムに出会ったのか、ではなくインターネットでは揶揄や冷笑の単語となっている『フェミ』を使い、おなじみの風邪薬のキャッチコピーのようなリズム感でフックと軽快さを両立している。
タイトルの通りなのだが、この本にはあらゆる人がフェミニズムにいつ、どのようにして出会ったのかがリレーエッセイ形式でまとめられている。もちろんトランスジェンダーの書き手も、ノンバイナリーの書き手もいる。
フェミニズムとの出会いが劇的な人もいれば、ぬるっとじわっと出会っていたという人もいて、これはあらゆる人に語ってほしいテーマだと思ったし、私も近いうちにまとめたいと思う。
どのエッセイも読み応えがあり、内容としてもおもしろかったのだが、武田砂鉄さんの”編集者はこの原稿を森喜朗や麻生太郎には依頼しないはずなので、”という一文がウィットに富んでいて痛快で笑ってしまった。
そういえばなんだかんだで武田砂鉄さんの著書はまだ読んでいない気がするので近いうちに読みたい。そしてこの感想を読んでくれたそこのあなたにも答えてほしい。
『あなたのフェミはどこから?』 -
Posted by ブクログ
ネタバレまるで朝ドラ「虎に翼」の「はて?」というセリフのタイミングを集めたような本。
当たり前だと思っていたのに「あれ?おかしいかも?」と気づく場面。
様々な立場の方の寄稿が集まってて一つ一つ短い。軽そうで、全然軽くない。
この本にはフェミニズムというテーマだが、「弱さを認めて、差別を減らして、共に生きていく社会」みたいな風潮が感じられる。弱さを見つめるために、それぞれが自分の生い立ちを話している項が多い。
以下、ネタバレ
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鴻巣麻里香「脱抑圧の三代記」
p.69
「子どもがいるんだから、そんなに無理して働くことはないんじゃないか。一度仕事のペースを落として、子育てに専念したらどうだ」
言われたその場で号泣した。仕事を取り上げられることが怖かった。私から仕事を取り上げないでくれと、泣いた。そして腹が立った。同僚には子を持つ男性もいる。彼らがいくらプライベートを犠牲にして働いても、どれだけ不調をきたしても、飲みに誘って慰労するくらいで「子育てに専念したらどうか」とは言われない。なぜ私だけ、仕事を奪われなければならないのか。
あれ。もしかしてこれって、私が女だから?
p.70
・精神を病む女性の多くが経験している性被害
・DV被害者の圧倒的多数が女性であること
・ひとり親の大半が女性であり、多くが働いていながら、貧困率が非常に高いこと
・無職在宅の成人男性は「ひきこもり」として問題視されるのに、同じ状況で暮らす成人女性は「家事手伝い」という名が与えられアンタッチャブルなまま放置されること
・外国から、特にアジアから嫁いでくる女性がおしなべて若く、そして配偶者である日本人男性のほとんどが高齢であること
・望まない妊娠における男性の不在
・「毒親」とラベリングされる母親の影に隠れた、話を聞かない父親の存在
・「障害者の性」にまつわる議論から排除される女性障害者
p.70
環境への懐疑的な眼差しは、男性の優位性を何よりも脅かすものである。そして医療や福祉といった対人援助の組織は、マッチョ化しやすい。誰かが誰かを支援するという不均衡な関係は、支配に限りなく近いものであり、支援する側は無意識的に支配力を希求する。
星野概念「パワーのこと」
p.102
「負ける精神医療」の「負ける」は、精神医療の医療っぽい、権威的な側面を医療者が手放し、人としての側面への意識を強く持ち続けるという雰囲気をまとっているように感じます。一見、専門職性が薄くなるような負け感があるかもしれませんが、これこそが対人的かかわりの奥義なのではないかと思っています。
※「負ける精神医療」は精神科医・山本昌知先生の言葉
水上文「BLとフェミニズム」
p.116
いわゆる「女性向け」の物語において、少女たちはなぜこんなにも「男性から選ばれること」ばかりを夢見させられているのか。問いの全てはBLと共にあった。だからわたしにとってBLについて考えることは、世界について考えることと同義だった。大袈裟にすぎるようにきこえるかもしれないけれど、でも本当にそうだった。
金井冬樹「The powerless Do Have Power.」
p.123
社会が自分の味方をしてくれると感じている元気な男の子たち、そもそもそんなことを考えずに済む人たちとは、いずれ別の生き方をするのだろう、と。
このとき感じたこの感覚が、良くも悪くも僕の人生の核に近いところにあると今になって感じます。
(中略)
僕の大好きなパーソナル・ジンの魅力の一つは、多数の読者に読まれることを想定していないため、言いたいことを言える、つまりセーファースペースを確保した上で話ができることです。必然的に「話す相手を選ぶ話題だけれど、話さずにはいられないこと」が書かれる傾向が強く、それは、いつかの友達の笑っていいのかわからないジョークー傷ついてもやり過ごさなければならない時の、乾いた、怒りと苦しさと諦めがないまぜになったあのユーモアを思い起こさせ、勇気を与えてくれます。
※ジン(zine)個人や少人数による自主制作の出版物
p.124
男性にとってフェミニズムとの距離感は難しい面もあると思いますが、単に女性に対して反省を示したり感謝したり、女性を守ろうとすることではなく「男性も女性も、いずれかに当てはまらない人も、ジェンダーによる差別をうけない社会を目指すこと」や「階級や障害によるあらゆる差別のない社会を目指すこと」、つまり自分の今いる場所から差別をなくそうと努めることが、フェミニズムへの参加につながるのだと思います。
能町みね子「神はいないが」
p.154
私に神はいない。ずっとそう思っていた。今も思っている。
私はそういったものを幼い頃から徹底して持てず、何かを絶対的存在に捉えたり、すがる存在を持ち続けたりできる人のことをうらやましかった。 -
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多様な職業や様々な性自認を持つ19人が「あなたのフェミはどこから(はじまりましたか)?」の問いに対して、ナラティブに応えてくれる。個人的な生育歴や経験は多様でもどこかで共通する体験が語られ、フェミニズムとの出会いや現在の活動、到達点などを綴るリレーエッセイとなっている。1948年に定められた世界人権宣言の第1条は「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」と記載され、第1条のあとに「人間は、理性と良心を授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」と続く。○国ファーストと排外主義が飛び交う今日において、人権感覚を研ぎ澄まし、ジェンダー平等の視点で、フェミニズムを学ぶことは、人間としての良心を磨くことであり、自身のこれまでの生き方・考え方を内省する重要な機会と捉えるのは私だけだろうか?
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自身がフェミニズムに対して、ちゃんとつかまえることができていないからだと思うが、わかりやすく入ってきたのは、星野概念さんと武田砂鉄さんの文章。フェミニズムだけでなく、自分とは異なる人との対峙には、必ず客観性を忘れてはならない、という点はいつも思うことだし、そうすることで少しでも中に入り込むきっかけになるかもしれないのだと改めて思い返した。適度な距離と、想像力と、それを反芻する能力が高まることでお互いがもやもやせず、もう少し前を向いて生きていけるような雰囲気が作り出せそうな気もするが、それがなかなか難しいのだよな、と改めて思ってしまった。
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彼女をフェミニストにしたものはなにか。
幼い頃に田舎の封建的な暮らしで経験した家父長制の抑圧であり、
「よのなか」から女の子の身体に向けられる視線であり、
それらによる個人的な傷つき体験の数々かもしれない。
あるいは不自由極まりない、
毎月の大量出血や痛みでままならない身体そのものかもしれない。
あるいはプリキュアであり、侍女の物語であり、
マッドマックス怒りのデス・ロードやアナと雪の女王であり、
レディー・ガガや(G)I-DLEかもしれない。
そしてもちろん、私かもしれない。
『あなたのフェミはどこから?』 / 平凡社
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あなたの"フェミ”はいつ、どこから始まりましたか?
文筆家、写真家、彫刻家、翻訳家、編集者、
ライター、演出家、イラストレーター、学者、
ソーシャルワーカー、精神科医など19人が、
個人的でありながらも共通する体験でもあり、
連帯する基盤ともなるフェミニズムとの出会いを綴る。
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些細なことも含めて、生きづらさを感じることは多々ある。
その正体がちょっと分かった気がした。
全てではないけど、私が女性だからという理由で生きづらさを感じていることもあるなあと再認識できた。
自分の友達や子供がジェンダーを理由に生きづらさを感じないでほしいし、
自分も「知らず知らずのうちに」「悪気なく」「良かれと思って」誰かを傷つけたくはないなと思えた。
#あなたのフェミはどこから #フェミニズム #平凡社
#読書記録 #読書感想文 -
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ありがたいことに好かれているけど自分は会いたくないと思ってしまう相手との付き合い方について長年考えてきた。
そのなかで、私がいつも陥ってしまう、友人と会った後三日間はずっとその人のことを四六時中考えてしまう現象、これはおかしいのではないかと思い始めた。
二人でいた時間と会話すべてを詳細にリプレイしてダメ出しを行い続ける約三日間。ずっとうっすら憂鬱で、自分がやりたいと思っていた創作的な活動は気がのらず全然できなくなってしまう。
だんだん人と会うこと、特に好かれている友人と会うことは億劫になってくる。そしてちょっともう無理だと思ったら、一切の連絡を断つ。
昔は連絡を断つことすらできなかったのだが、それができるようになって進歩したと思っていた。
でも、何か違う。原因は友人ではなく自分にある。
そう思い始めてから他者と自分との関係の築き方を再構築したいと考えてきた。
自己啓発本は溢れているけど、こういったことを教えてくれるのようなものはまだ少ないと思う。
そんな中、信頼を寄せている編集者の方がインスタで読んだと載せていたこちらの本が気になって読んでみた。
結果、立派なアダルトチルドレンである私にとって納得しかない内容だった。
幼稚園の頃から高校を卒業するまで、数多の習い事をさせられてきた。私の意志は一つもなかった。
洋服髪型持ち物全て母が選び、私がほしいキャラクターものや前髪を作ることなどは全て許されなかった。(そのせいでたくさんからかわれた)
私の行動基準は母が喜んでくれるか否か。
母は必ず、やってほしい時はやらなくていいと言う。
そしてとにかく機嫌が悪い。ずっと悪い。
母が本当に望んでいることは何か?それをずっと考え先回りして行うことで機嫌が良くなってくれることが私の喜びであり特技であり、家族が喜ぶ使命だと思っていた。(長女)
それによって、愛されていると、私は母にとって唯一無二の娘であり親友だと自負してきた。
私と母は仲良しだった。
私は母のことが大好きだったし、母もそうだと思っていたので、関係は良好だと思ってきた。
こういうケースは三十代以降に予後が悪くなってくると聞くが、私も全くそうで、ワーカホリックからパニック障害を発症し三十代後半になって、私が私を捉え直す中で、だんだんと母の不機嫌さに納得がいかなくなり、いろんなことが新しい角度から見えるようになった。
もう七十代になった母が自らを捉え直すことは考えづらいので、彼女が生きづらくないよう、そして私の境界線は守りながら、仲良くやっていけたらと今は思っている。
母と私の関係から、私がいつも対人関係で陥ってしまう罠に至るまでとてもわかりやすく紐解かれた気持ち。
そしてとても勉強になったのが自分が子どもと接する時の対応だった。
気をつけていてもついうっかり境界線を越えてしまいがちなのが子どもだ。
私の息子はこだわりがとても強いので、3歳頃から服装などは自分で決めており、一切こちらの言うことはきかない。
あまりに頓珍漢な格好や、何日間も同じ格好をされるとこちらもどうかこれを着てくれとうっかり懇願してしまっていることがよくある。
本当にごめんなんだけど、今日は無理なんだ。
と優しくきっぱり断ってくれる息子がとても頼もしい。
目の前で夫婦喧嘩をしてしまうこともあるし、
私が落ち込んで慰めてもらうこともある。
おりに触れて読み返して、しっかりと境界線を引き直していきたい。
そして先日、息子の件で校長先生から電話がかかってきた。
なんてことない内容だが担任が不在だったため、校長がかけてきたのだった。
その時とっさに「校長先生直々にありがとうございます、申し訳ありません」と言わないといけないと私は反射的に思った。そして同時に、あ、もうそんなこと言わなくていいんだった。と思った。
そして普通に「ありがとうございます」とだけ言った。
なんだかものすご〜く気持ちが楽だった。
ずっとずっと電話というものが苦手だったけど、こういうことが苦手だったんだと思った。
こんな小さなことだけど、相手を気持ちよくしなくてはいけないという気遣いが無駄に空回りしていつも疲れている、そのせいで変に人を恨んでいる、相手は何も悪くないのに勝手に私が、というような歪な人間から脱せれたら嬉しい。
私は私
線は何度でも引き直せるという言葉にも救われた。 -
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ネタバレ自他境界という言葉を最近知って、自分はこれが曖昧なのかもと思っていたところに、このタイトルの新書をみつけた。
「もし相手が自分にとって大切で、良い関係を続けていきたい相手なら、お互いに少しずつ不安と不本意を引き受け合う必要がある」「相手に伝わるのは行動と言葉のみ」「期待を相手に押し付け、自分の期待で相手を縛ろうとしてしまうのは、自分と相手との間にある境界線を踏み越える行為」
当たり前のことだってわかっているけど、視野が狭くなって人の境界線に踏み込んでしまいがちなので、気をつけなきゃと思った。
対人関係において両者がこのバウンダリーを大切に出来るならいいけど、そんなことないから、難しいなって思う。
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フェミニズムとの付き合い方は、人によってさまざまだ。人によって千差万別のフェミニズムが存在すると言っても過言ではない。
能町さんの寄稿が読みたくて手に取った本だが、他の方の文章も読み応えがあった。
高嶋鈴さんの、男性の先輩とのエピソードは、よくあることだよねと思いつつ、その強烈な傷つきにもまた共感できて、世の中に蔓延る不条理を少しでもマシにするために、理論を学び、語る技術を身につけねばと、決意を新たにする彼女の姿に、自分もぼんやりしてちゃいけないなぁという気持ちにさせられた。
人それぞれのフェミニズムだが、出会いのきっかけとして、ベル・ブックスの『フェミニズムはみんなのもの』とジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』を挙げている人が多く、自分も読んでみなくてはと思った。
私にとって、つねにフェミニストでいることは結構しんどいことだ。少しの諦めと多くの怠惰から、楽なほうへと傾いていってしまうことも多々ある。正直なところ、高嶋さんを絶望させた先輩のように、「私はこのままでいいんだけどな…」と思うこともないわけではない。だが、そのときの自分が、権威を笠に着て弱者を抑圧する側に回っていないかということを、つねに点検しないといけない。
松本事件や中居事件を見ると、怒れる気持ちはまだまだ持ち合わせているし、世界はまだまだ「このままでいい」状態になってはいない。だからこそ、自分は「そっち側」にならないように、まだまだ踏ん張っていかないといけない。 -
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ネタバレ独身未婚中年男性の自分が読んでみました。
いろいろ考えさせられました。
毒親、ではないですが。親が子どもにイライラをぶつけてしまうと、やはり子どもへの影響は甚大なようです。「親がイライラしていて、その原因が子どもにないときは、親が自分の責任でイライラに対処しなければいけません。そこで子どもに当たり散らしたり、態度でイライラを示したりすると、子どもと親の間の境界線は薄くなって、子どもは「私が悪いんだ」と考えるようになってしまいます」(p25)とのこと。
これ、親子関係以前に、大人は、自分の責任でイライラに対処しないといけないと、自分は考えているのですが、自分のこの考え方は、他罰的なのかなと悩みます。
この本は、人間は本来バウンダリー(境界線)を厚くしたり薄くしたり調整できる、とのことなのですが、自分はこれがバグっていて、自己の危機の時に厚くできなくて、親密な関係を築くべきところで厚くなってしまいます。なので、特に職場で、同じ部屋にイライラしている人がいると、それだけでメンタルに支障をきたしてしまいます。バウンダリーを厚くすれば全然問題ないのですが、どうやってもそれができない。改善しようと努めましたが、結局はできず、自分の心身を守るためには仕事を辞めるしか方法がなく、苦しんでいます。(もっとも、職場の人のイライラの原因が、自分の仕事のできなさにあったりすることが多いので、やはり原因は自分にあるわけで)
「「きいたふりして心の中でスルーする」」(p126)ができないのです。
また、「親子・家族あるいは教師と生徒といった関係から抜け出すことは容易ではありません」(p136)とありますが、これは職場も同じ。自分は幸い、独身独居で養う妻子がなく、貯金も少しあるので、短い間なら仕事を辞める選択は取れますが、それでも男性というのもあって、仕事を降りるという選択はまだ当分できません。
上記の、親が説明するというのもありまして、「「今、私(親)は仕事で疲れている。疲れの原因はあなたとは関係なくて、だけど普段のようにご機嫌ではいられないかもしれない。いつもより無口でイライラしているように見えて不安にさせてしまうかもしれないけれど、それはあなたのせいではないし、あなたに向けた者ではない」というように」(p26)説明することも有効だとしていますが、親のイライラがたとえ自分起因でなくても、子どもにとって親がイライラしている姿を見るのは気持ちのいいものではありません。子どもが、親も人間だと思ってくれればいいですが、幼い子ではそれも難しいと思うので、そうすると、やはり大人として、イライラした姿は子どもだけではなく、他人に見せないようにする(他人を不快にさせない)ことは必要な気がします。
「子どもが嘘をつく、必要な相談ができず苦しさを抱え込んでしまうとき、まずは大人の側が「もしかしたら私がこの子の信頼を損なうことをしたのではないか」と振り返る必要があります」(p102)、子どもが話してくれないのは、心配かけまいとする子の優しさもありますが、それってそもそも親に甘えられていないということですし、心配かけまいならまだしも、親が聞いてくれない、話したところで否定されるから言っても無駄、と思っていることがほとんどでしょう。
学校の、みんな仲良く、も幻想であると喝破しているのは痛快です。とりあえず最低限の礼儀だけ通しておけば深い付き合いはせずともよいとあり(p138)、本当にその通りと思います。ちなみに、自分の知り合いには後期高齢者男性に、嫌いな人には挨拶もしないという人がいますが、さすがにそれは、その年になってもそういう人はそりゃ孤立するわな、と思って、反面教師にしたいところです。
でも結局、自分は心の中でスルーできない「「自分の中に問題がある」」(p150)と思いますし、それは性格で、治す努力はしますが、おそらく治らず、一生苦しみそうです。「「変えなければならないダメな部分」」(p167)であることに変わらないです。
さいごに。あとがきで、著者の鴻巣先生が、ご自身の吹奏楽部経験は理不尽だったと語られているのは、いいことだなと思いました。特に「顧問の教師の誕生日には、部員がお金を出してプレゼントを買いました。練習の出来が良くないと顧問が不機嫌になって指導をやめ、部員が謝罪しないと再開しないということもありました」(p172)とあり、自分が通っていた高校の吹奏楽部で、吹奏楽部の友人がまったく同じ事を言っていたので、全国的にそうなのかと思いました。
理不尽な目にあったことを直視するのはつらい事実(p176)とあり、部活動の体罰が肯定されてしまう構造も指摘されています。
鴻巣先生は演劇への道を、親ブロックで諦めたそうです。現在はソーシャルワーカーとして、こうして本も出されて、多くの人の役に立っているかと思います。この、親ブロックをどう捉えるか。体罰肯定の文脈との関係を考えると、なかなか難しいところです。他人へ価値観を押しつけることはよくないものの、自分の中の咀嚼としては、変えられない過去はやはり、意味を変えるしかないよなと思う自分もいます。
これはもう、人間が存在する限り、永遠の課題なんでしょうね。
死ぬとき笑って死ねればいい、とは思います。
多くのお子さん、親御さん、先生方に読んでもらいたい本です。