J.S.ミルのレビュー一覧
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大学は職業教育の場ではない。では何を学ぶ場なのか。日本が明治維新を向かえるまさにそとのき、スコットランドでかのジョン・スチュアート・ミルが、学生選出の名誉学長就任講演として、大学教育の原点と理念を既に話し尽くしている。これは大学に入学した学生、そしてあまりにも経営・商業主義的な部分に偏りすぎている現在の大学教育に関わる全ての人々が一度は読むべき、そして心に刻んでおくべき内容だと思った。原文のJ.S.ミルの英文自身が長文かつ難解であるようだが、訳文があまりにも直訳調で、日本語としては読みにくいのは難点であるけど。この就任講演は3時間程度に渡ったようで、よっぽど意識の高い学生でなくては寝てしまうかもしれない。今の日本では。
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Posted by ブクログ
ネタバレ-----
人間が獲得しうる最高の知性は、単に一つの事柄のみを知るということではなくて、一つの事柄あるいは数種の事柄についての詳細な知識を多種の事柄についての一般的知識と結合させるところまで至ります。(中略)広範囲にわたるさまざまな主題についてその程度まで知ることと、何か一つの主題をそのことを主として研究している人々に要求される完全さをもって知ることは、決して両立し得ないことではありません。この両立によってこそ、啓発された人々、教養有る知識人が生まれるのであります。
--J.S.ミル(竹内一誠訳)『大学教育について』岩波文庫、2011年、28頁。
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19世紀中葉、専門知と教養知の大論争を背景に、両者の有機的統合を示唆したミルの講演を収録したもので、小著ながら大学教育、教養教育、科学教育(専門教育)の関係と意味、真理に基づく行動の意義を説く。学生だけでなく教養教員、専門教員も読むべき一冊。
古典教育がなぜ必要なのか。ギリシア、ラテン語を通じて歴史を原典で学ぶことで、古代を学ぶだけでなく、今生きている社会に掛けさせられている「眼鏡」への自覚がもたらされるからだ。たえず自身を相対化させ、賢明な思想と考察を得ることが古典教育の神髄としつつも、当時の訓詁的学習スタイルには批判的でもある。
教養教育は「包括的な見方」と「結合の仕方」「(諸科学の)体型化」を促す。この原理を身につけることで、全体人間として専門知が生きてくる。加えて「美学。芸術教育」、「道徳教育」がそれを補完する。
さて、全体知としての「詩的教養」を毀損するのものは何か。「商業面での金儲け主義」とミルは言う。世界の工場・イギリスの東インド会社の審査部長をつとめたミルのこの指摘は重く受けるべきであろう。これこそ人間性を破壊するものに他ならない。
※経済学の否定ではないので念のため
訳者解説には次の指摘がある。
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いまや大学改革のキーワードが「アカウンタビリティ」(説明責任)や「ステークホルダー」(利害関係者)など市場経済用語になっているように、大学自体がビジネス文化に浸食されはじめている。覆いつくさんばかりの商業文化の「自浄作用を担うのは教養教育をおいてほかにないはずである。
--ミル、前掲書、173頁。
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ミルは、高等学校の『倫理』の教材で「功利主義」というレッテルで張られて「はい、おしまい」という感がありますが、『自由論』にせよ『自伝』にせよ、先の講演にせよその「枠」に収まらない脈々さがあります。読んでから判断すべき先達の一人だと思います。本書は御茶の水書房より1983年に刊行された『ミルの大学教育論』のうち、講演を文庫化した一冊。手軽な小著ですが、最初に言及した通りおすすめです。ベンサムとミルでは断絶があるし、キーワードで対象化できない「横溢」が存在します。 -
Posted by ブクログ
・功利主義を前提とした著書。
・社会的自由:個人がそれぞれの個性を発揮する。そしてその個性の結果の言動によって他者を害することなく、様々な幸福を追求していくこと。だから、他者を害していない(一般的功利を損なっていない)行為の抑制は不当であり、そのラインまでが社会が個人に対して行使できる権力の限界。
・19世紀以降、国民と政府ではなく、個人と個人の間で抑圧が発生するようになってきた(多数者の暴虐)。多数者の暴虐についても対処が必要であり、そのために用いるのが「危害原理」。危害原理とは、社会の自己防衛が目的の自由の規制は正当であるが、他者に害が及ばない範囲で権力の行使は生徒と言う考え方。
・自由とは、他者の功利を損なわずに自分の多様な幸福を追い求めること -
Posted by ブクログ
1863年刊。
有名で、現在はしばしば悪評も高いベンサムのスローガン「最大多数の最大幸福」というアレに代表される「功利主義」の考え方について、あれやこれやと弁明を試みる著作。
私自身、「最大多数の最大幸福」というスローガンは目下大嫌いで、あれを浅はかに理解し利用し、多数者のためなら少数者を虐待しても良い、多数決で決まったら少数意見はことどとく蹂躙して良い、といった暴虐につながりかねないからだ。
ミルがどのようにこれを擁護するかというと、「効用」は人間の獣的な欲望の部分で測るべきはなく、すこぶる知的な・十全に道徳的な心性において最大限に長期的な視野に立って測るべきものだ、とするのだ。
だがこのような弁明は、ルソーが民主主義というものを十分に育成され知的に熟成された民の高度さを欠くべからざる大前提としているのに似ていて、現実とは大きく乖離せざるを得ないのではないか。実際の大衆というものは、もっと怠惰で、ワガママで、短絡的で、知的に劣悪な存在に過ぎないことを現実の歴史が明かしているのではないか。だから自由も民主主義も、本書で称揚される「効用」も、ことごとく劣化していき、解体してゆくほか無いようにさえ思える。
大海原を延々と漂流する救命ボートに5人の飢えた人間が乗り、何日間も食料を得られなかったとする。そのうちの、たとえば最も体力の弱い者を他の4人で殺害し、その人肉を食することによって4人の延命を図るべきなのか。5人もろともに死ぬよりも、1人が死という最大の不幸に追いやられてさえ、4人という多数が助かる可能性があるのだから、これを良しとするのか。
ミルならここで人間というものは人肉を食した経験を後半生において後悔し、ずっと夢にさえ見てさいなまれることになるだろうから、結局は幸福につながらない、と指摘しそうである。だが、現在の世論の一部は、4人の延命を支持しそうだ。すこぶる倫理的な問題を迫ってきたコロナ禍において、どうせ先の長くない老人が多少死んだって構わないから、若い者たちで社会の経済を栄えさせ楽しもうぜ、という主張の一派は少なくない。むしろそのような暗黙の主張がどんどん強まってきていると感じる。「最大多数の最大幸福」というスローガンは、結局はこのような帰結に至るのだ。そして、あの新自由主義という野蛮さにも。
従って、いかにミルが弁明しようとも、功利主義そのものを規範の核心とすることには私は危険性を感じてしまう。ボートの中の弱い1人を殺害するくらいなら、全員がおとなしく死を甘受するべきだと私は考える。