J.S.ミルのレビュー一覧
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薄い本だけれど、目が覚めるような言葉が各所にあって、一度ではなく何度も読みたい。
・「文系教育と理系教育、どっちを取るか」と語られることがあるが、どうして両方ではいけないのか。
・「言葉」は思考を決定してしまうおそれがあり、より客観的に物事を見るために、多くの言葉を学ぶ必要がある。そのために古典の学習は有効である。
・実験科学を学んで、物事を正しく推測、検証する方法を学ぶ。
・人に物事を語るときのために、論理学に触れておくことは有効。
・好奇心は人生の最高のパートナー
大学で教養をつける重要性を語るが、ミルの話を聞いていると、彼自身が教養ある知識人を体現しているように思える。 -
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ミルがイギリスのセント・アンドルーズ大学の名誉学長就任する際の講演録である。なんと草稿に1年の準備期間を取ったという。彼は大学を出ているわけではないが、哲学者・経済学者という立場で、新聞や雑誌で公共知識人として意見を述べていて、多くの知識人に影響を与えた。
講演から150年が経過した今でも大学における一般教養教育の重要さは変わらない。専門性を生かすにしても、その人が持っている知性と良心によって効果が決定されるというような指摘は、近年の答申で何度も目にしているだろう。また、一般教養教育は、個別に学んできたことを包括的に見る見方と関係づける仕方を教えることであり、体系化と哲学的研究を踏まえて、諸事実の発見と検証することがその極致である、ということも同様だろう。
ただ疑問も残った。教養の要素は、「知識と知的能力」と「良心と道徳的能力」が主なものだが、少し劣るが「美・芸術」もあるとしている。イギリス人が伝統的に美に関心がなかったからだそうだ。これは意外だった。美の解釈こそ教養の代名詞かと思っていたからだ。ミルは、英国人の商業主義からの美を無駄なものと解し、清教主義で神を敬う心以外は罪悪に陥る一種の罠と考えていたからといっている。ドイツ・フランス・イタリアと全く異なっているところがおもしろい。
さらに、大学段階では、道徳教育・宗教教育は、身の回りや家庭でなされるものとして、管轄外としている。キリスト教社会全体の中における大学だからこそこのようにいうことができるのだろう。
解説で訳者が大学改革のキーワードが商業主義によるものばかりで、それを自浄作用できるのは、教養教育といっている。市場化・競争原理が促進される中でも、常に教養教育を考えていきたい。
2012.5.13追記
高等教育論5/12補助教材として、「科学教育」の項までの抜き刷りを講読。 -
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いやー難しかった。
最大多数の最大幸福を希求すること、
そして、快楽には質があること。
快楽の質の判定を知らなかった。
どちらの快楽も経験した人間が決める。
そして、それは合致するらしい。
「満足した豚であるより、不満足な人間である方がよい。満足した愚か者であるより、不満足なソクラテスである方がよい。」という文に代表されるように、ミルは、知的快楽をより高次の快楽と確信している。
そうはいかないから社会は難しいし、面白いんだと僕は思うけどどうなんでしょう。
知的快楽を享受する素養のない人間を、愚者と捉えてしまっていいのか。
それぞれが、異なる幸福の尺度を持ち合わせていているという複雑さを認めた方が楽しそう。
一定理解できるけど、まだ遠い。
もしかしたらはちゃめちゃ間違った解釈してるかも。 -
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大学教育とは専門性を高めることのみならず、様々な概念を広範囲に適応することを学ぶ場である。教養教育のあり方が明示されている。
読書をある程度してきた者でないとなかなか難しい。大学受験が終わった学生に薦めたい。
今、たくさんの本を読みたいという気持ちがこの先の人生にとって良いものであることを認識することができた。
また、文学・科学・倫理学・道徳教育などは学ぶ価値あるものだとなんとなくわかるものだが、本書ではさらに「美学・芸術教育」の重要性を説いている。
「詩は、われわれの本性の非利己的な側面に訴え、われわれが属している制度の幸不幸を直ちに自分自身の喜びや悲しみとするそういう人生の一場面一場面をわれわれにもたらし、また、行為を直接導くものではないが、真剣に人生を考えさせ、そしてわれわれの前に義務としてあるものすべてを引き受けさせる厳粛な、思いやる感情をわれわれの胸底深く刻み込みます。」126
「ある人間の知性と他の人間の知性とを区別する根本的でもっとも特徴的な点はなんでしょうか。それは証拠となるものを正しく判断できる能力です。」65
上記の部分は『学問のすすめ』(福沢諭吉・齋藤孝訳、ちくま新書)にも似たような部分があった。物事を正しく判断するために学問というものはある。 -
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「幸福」とは何か。人はどうするば幸福を高められるか、感じられるかについて考える時間を与えてくれる本。
「満足した豚であるよりも不満足な人間であれ」とは有名な言葉だが、この一言が全てを表していると言っても過言では無い。
また、幸福を得るために人はどう動くか、その行動の原動力は何かなど、根っこの部分まで分析をしていく。
また、本の後半では個人の幸福度だけではなく、社会全体の幸福度の高まりについても触れられている。
その中で徳を積もうとする行動の原動力は外的なものと内的なものに分かれるとも説いている。
少し心理学のような論文であるとも感じさせられる、まさに経済学とは経済だけにあらず、さまざまな学問と繋がっていることを教えてくれる一面もある本。 -
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※イングランド。都市労働者が議会に対して選挙権を要求。チャーティスト運動(1838-1848)。
すべての人は他人の自由を侵害しない限り、望むことを何でもする自由がある。国家は他人による自由の侵害から各人を守り、共同体を外国の侵略から守る役割のみをもち、それ以上の権力行使は認められない。ハーバート・スペンサーSpencer『Social Statics』1850
自由とは人間の独創性と多様性が最大限に発揮できること。価値観の画一化は個性の発展を妨げる。個性が発展しないと社会全体にもマイナス。異なる意見を十分に自由に比較でもしない限り、意見の一致は望ましいものではない。全人類が同一の意見をもっていて、ただ一人が反対の意見を持っている場合でも、その一人を沈黙させるのは不当。一人の権力者が全人類を沈黙させるのが不当であるのと同じ(ch.2)。沈黙させた封じ込めた意見のほうが正しいかもしれない。「自分こそ正しい」という考えは馬鹿げていて根拠がなく、あらゆる進歩の過程で最も頑固な障碍。自由な討論により様々な意見(部分的な真理)を互いに補完し合うことで真理に近づける▼他人の幸福を奪ったり、幸福を得ようとする他人の邪魔をしない限りにおいて、私たちは自分の幸福を追求する自由を持つ。幸福は人それぞれ異なる。他人に自分の幸福を強いるよりも、互いに相手の幸福に口出ししない方が得るところが大きい。相手が愚かなことをしているとき、やめたほうがいい、と保護者のように強制干渉するのもダメ。相手を自分の型にはめようとすべきでない▼”権力を行使する人民”と”権力を行使される人民”は同じとは限らない(cf.ルソー)。”人民”の意志とは多数者の意志であり、それは他の一部を抑圧するかもしれない(多数者による専制)(トクヴィルからの影響)。個性を封殺し、多数者の考えに従うことを強要する。社会の画一化の圧力から個人を守るべき。改革の精神は必ずしも自由の精神ではない。なぜなら、それは改革を欲しない民衆にそれを強制するかもしれないから▼政治に参加することで人々は公共について学ぶ。政治参加は教育効果がある。できるだけ多くの人が政治参加を通じて公共を学ぶべきなので、参政権を女性にも拡大すべき。ジョン・スチュアート・ミルMill『自由論』1859 (95)
多数者の利益が、一部の利益を犠牲にする形で統治に反映されるのはよくない。多数者による専制は避けたい▼教育ある有権者には2票以上の投票権を与える▼個人の自由を守るための政治体制。国民全体の利益を十分に考慮できる政治体制が仮に存在しても、それは望ましいものではない。過保護になりすぎ、個人の自治能力を減退させ、個人の自由を制限してしまう。ジョン・スチュアート・ミルMill『代議制論』1861
※イングランド。都市労働者に選挙権が拡大される。第2回選挙法改正(1867)。
他人から干渉されることなく、自分のしたいことをする。こうした消極的な自由をまずは保障すべき。一方、自分は自分の主人であり、他人に支配されるのではなく自分で自分を統治する、という積極的な自由もある。自ら主体的に決定する自由。自律としての自由。しかし、こうした積極的な自由は社会全体が目指すべき理想・「何に価値があるか」の強制が入り込みかねない。単一の価値を達成することが、自己の統治「真の自由」である(cf.ルソー, 一般意志)と主張し始める。権力の決定への服従を強制し始める。積極的な自由は多数者による専制・全体主義への隷属につながる。人間の価値は多様であり、単一の価値に昇華できない。だから、他人に干渉・強制されずに行為できる自由(消極的な自由)こそ、まず保障されるべき。アイザイア・バーリンBerlin『自由論』1969 (93) ※ラトビア出身。OX。 -
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「最近、ミルの『自由論』の翻訳でよいものが出た」と聞いたので、読んでみました。
1850年代に書かれた本ではありますが、現代でも十分に通用する内容だと思いますし、リベラリズムやネオ・リベラリズム、リバタリアニズムを考える上でも参考になると思います。
個人的には、ミルの『自由論』は、進化論との相性がいいな、と思いました。
生物がこれほど多様なのは、遺伝子(DNA)がガチガチに固定されているわけではなく、変化をする余地(自由度)があるため。
もちろん、遺伝子(DNA)の自由度のために淘汰されていった生物もいますが、生物全体を見ると、そのときどきの環境に応じて、より生き残りやすい形質が残ることになり、しかも、様々な形質が残ることになり、結果として、現在のように、多様でレジリエンスのある生物圏が形成されたわけです。
人間社会と生物圏を、単純に対比させてよいものなのか、自分にはよくわかりませんが、それでも、生物圏を見ていると、ミルの『自由論』には、一定の説得力があるように思います。 -
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個人的なハイライトは知的教育の意義を提示した部分。ミルによれば、大部分の真理の認知においては直覚に頼ることができない。この弱点を矯正、緩和するのが知的教育である、という。
たしかに大学教育を経た者は、全員ではないが、観察可能な部分から原理原則を推論することに長けている。この点については大学教育がある程度の成功を収めているといっても差し支えないかもしれない。
一方で大学教育のあるべき姿を巡る主張と議論はこうも変容しないものかと驚いた。大学教育論が19世紀から進歩していないわけではないだろうが、問題自体は根治していない、あるいは悪化していることが窺われる。
大学が専門性教育に傾倒せず知性を育み人間精神を涵養する場であってほしいと、大学を職業訓練に利用してしまった身として自戒の念を込めて願う。 -
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本書の主題は社会の中での「自由」について。つまりは、社会が個人の行動を規制することができる状況において、何が個人の自由の領域であるか。言い換えると、社会は、個人の不可侵の領域として、どんなことをしてはいけないか。また、そのためにどんなことを推奨すべきかということを論じた本。
1859年初版。
その原理は、ある個人が、他者に危害を加えた場合やその危険が明白にある場合以外は、その個人の行為に関して何も強制してはならない、というもの。
この原理とどのようにつながるのか理解が浅いが、
言論の自由についても強く語っていた。言論を擁護する理論は、真理は批判を打ち負かすことでより確実になるし、偽の真理であれば批判によってより真に近づく機会を得れる。言論を封じることは現状を無批判に受容することで、人類の発達への危害である。まあこんな感じ。
その文脈で、無批判の受容は無気力に繋がり、それもまた悪だとする。自分で選ぶことに重要性があり、選択を通じてこそ活力が生まれる。これはミルが考える自由人像の一つかもしれない。
とはいえ、時代背景含むコンテクストへの理解は浅いし、疑問も多い(何が疑問かも怪しい)ため、全部的外れな見解かもしれない… -
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ミルが晩年に、功利主義の考え方についてまとめた本です。功利主義は、現代においても誤解や先入観によって批判的に捉えられることが多いですが、当時(1860年代)のイギリスにおいても、同様でした。本書は、想定される批判を潰していくという形式を取っており、当時の風当たりの厳しさを肌で感じ取れます。
ミルはまず、既存の倫理上の2つの学派として、「直覚主義学派」と「帰納主義学派」の2つを取り上げます。直覚主義学派というのは、道徳の原理は明らかにアプリオリ(最初から決まっている)という考え方です。一方の帰納主義学派は、観察と経験から道徳を決定しました。一見真逆の道徳観ですが、道徳は原理から導き出さなければならないと考えている点は共通です。しかし、この2学派は、その原理を列挙したり、共通の根拠に還元したりはしませんでした。これに対して、功利主義の新しさは、「最大幸福原理」という単純な原理を持ち出したことです。
効用(utility)とはなんでしょうか。これは、快楽や苦痛でないことに加え、精神的な喜びもひっくるめた、幸福全般を指します。ミルに言わせると「満足した愚者よりも満足していないソクラテスがよい」のであり、精神的な喜びは重要です。で、功利主義(utilitarianism)は何かというと、すべての人の効用の総和を最大化すること基本原理とする考え方です。シンプルですね。功利主義においては、自己犠牲の精神や禁欲主義は否定されます。他の人々のために自分の善を犠牲にすることは素晴らしいことですが、犠牲それ自体を善と考えるわけではないんですね(これ、現代では受け入れられると思うんですが、当時のキリスト教の文化背景を考えると結構ショッキングなはずです)。
道徳と功利主義の関係性を見ていきましょう。人々の行為は、一般的に道徳に従って行われます。道徳は慣習的なものになっていて、ある種、神聖化されており、拘束力も大きいです。このように、「道徳→行為」と見方が自然に思えますが、ミルは道徳を二次的原理と見ます。じゃあ一次的な、根本の原理は何かというと、効用の原理なわけです。効用の原理という一般原理があって、そこから二次的原理である道徳が生み出され、行為につながる、と考えます。
個人の効用の最大化ではなくて、社会の効用の最大化を目指すことについては、少し論理の飛躍があります。これに対して、ミルは「一体感」という説明をしています。社会が形成されていない野蛮状態においては、個人の効用を追求した方が良いように思います。しかし、社会的な絆が強化されると、他の人々の幸福に配慮することは、自分の個人的利益にもつながるようになります。そして、自分の感情を他の人々の幸福に重ねるようになる。これを一体感と呼んでいます。そして、一体性の感情は、教育のもたらした迷信とか、社会の権力が押し付けた専制的な規範ではなく、自分達の幸福に欠かせない特性であるとしています。
また、認められるべき権利とはなんでしょうか。ミル流に読み解いていくと、権利とは、自分の所有するものを、法の力や教育と世論の力によって保護するよう社会に要求するのは当然と考えられることを指します。例えば、ある人がタピオカ屋を営んでいて、年間2000万円の売り上げがあったとします。翌年、全然売れなくて売り上げが500万円だったとしても、差額の1500万円を補償しろっていうのは話になりませんよね。他方、1000万円の債券の利子5%が不払いになった際には、これは50万円の支払いを求める権利がありそうです。だってこの権利を認めないと、誰も債券を購入してくれなくなって、金融市場が成立しません。権利は、それが認められることが社会全般の効用のためなるから認められるのです。
全体を通じて、功利主義はとても分かりやすいし、しっくりくる方は多いと思います。とくにぼくのバックボーンは経済学なので、すでに功利主義に染まっていた感もあります。ただ個人的には、「一体感」のところは弱いかなと思いました。一体性の感情がアプリオリだと言っていいのか。一体性の感情があってほしいからそういう教育をしているんだ、という説明の方が現実的じゃないのかなと。 -
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自然権といった経験を越えた普遍的な原理により何が正しいかを判断すべきでない。個々人の幸福はさまざまで、幸福の優劣を判定する客観的な基準はない▼行為の正しさはそれが何をもたらすか(帰結)、幸福をもたらすかどうかで判断すべき。幸福は善であり、苦痛は悪。幸福をできるだけ増やし、苦痛はできるだけ減らす。自由はそれ自体に価値があるのではなく、幸福をもたらすなら価値があり、幸福をもたらさないなら価値はない▼自然権は特権階級の利益(一部の人々の幸福)を守るためでしかない。社会の幸福は個々人の個別の幸福の総計で見るべきで、これを最大化すべき。「一部の人々」の最大幸福ではなく、「最大多数」の最大幸福を目指すべき▼各人がそれぞれ自由に幸福を追求することでおのずと最大幸福が実現される。政府の役割は各人の利益衝突を調整すること。ジェレミー・ベンサムBentham『道徳および立法の諸原理序説』1789 (93)
幸福・快楽には質的な優劣がある。正義や真理を追求したり、利他的な行為によって得られる快楽は高次のもの。一方、本能的な欲求を満たすことによって得られる快楽は低次のもの。(低次の快楽に)満足した豚よりも、(高次の快楽を目指して)不満を抱えた人間の方がよい。(低次の快楽に)満足した愚か者よりも、(高次の快楽を目指して)不満を抱えたソクラテスの方がよい。ミルMill『功利主義』1861 (98) -
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まず僕含め、ミルが語っているような学生生活を送る学生がほぼいない、この日本の「大学」という機関に絶望した。(勿論僕の環境に限った話ではあるが)
それは文理選択を高校の時に迫る制度が一つの原因だろう。文系が化学や数学をやらなかったり、逆に理系が歴史を勉強しないことが当然と言っても過言ではない制度だ。
文理問わず、教養として身に付けておくべきはずのものを学ばぬまま学生を終える。そんな人々に警鐘を鳴らす著作である。
本の内容からは逸れるが、僕は高校が大学という機関について教えるとともに、その存在意義を考える機会を設けることで、この課題がほんの僅かでも変わるのではないかと思う。(高校がこの著作を大学入学を控えた生徒に読ませるのも有効かも知れない)
近年、大学不要論なんかがよく唱えられてる。
大半が大学を手段でなく目的にして、その本質を見失ってるから当然の話であって、上記のことを高校が実施するだけでも状況は変わるのではないか?
もっと言えば、教養の有無が人生の豊かさを左右するとも本書で述べられている。大学が学生の未来を決めかねない。
その教養を培うための、「独力で学ぶために必要な読書習慣と楽しみを生徒の心に育てないような教育制度がもしあったとしたならば、それはまったくの失敗」ともミルは嘆いている。
美学・芸術の教養についてはめちょくちゃ共感!
「ゴシック様式の大聖堂の壮観さによって喚起される感動に浸る」や「日常の仕事が味気ないものであればあるほど、あの高尚な思想と感情の息づくところをしばしば訪れることによって、われわれの心の調子を高めておくことがますます必要」
本書に書いてある水準まで学ぶことは困難でありつつも、まずは論理学・歴史哲学・幾何学を最低限勉強しようと決意した。