J.S.ミルのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ミルがイギリスのセント・アンドルーズ大学の名誉学長就任する際の講演録である。なんと草稿に1年の準備期間を取ったという。彼は大学を出ているわけではないが、哲学者・経済学者という立場で、新聞や雑誌で公共知識人として意見を述べていて、多くの知識人に影響を与えた。
講演から150年が経過した今でも大学における一般教養教育の重要さは変わらない。専門性を生かすにしても、その人が持っている知性と良心によって効果が決定されるというような指摘は、近年の答申で何度も目にしているだろう。また、一般教養教育は、個別に学んできたことを包括的に見る見方と関係づける仕方を教えることであり、体系化と哲学的研究を踏まえて、諸 -
Posted by ブクログ
大学教育とは専門性を高めることのみならず、様々な概念を広範囲に適応することを学ぶ場である。教養教育のあり方が明示されている。
読書をある程度してきた者でないとなかなか難しい。大学受験が終わった学生に薦めたい。
今、たくさんの本を読みたいという気持ちがこの先の人生にとって良いものであることを認識することができた。
また、文学・科学・倫理学・道徳教育などは学ぶ価値あるものだとなんとなくわかるものだが、本書ではさらに「美学・芸術教育」の重要性を説いている。
「詩は、われわれの本性の非利己的な側面に訴え、われわれが属している制度の幸不幸を直ちに自分自身の喜びや悲しみとするそういう人生の一場面一場 -
Posted by ブクログ
「幸福」とは何か。人はどうするば幸福を高められるか、感じられるかについて考える時間を与えてくれる本。
「満足した豚であるよりも不満足な人間であれ」とは有名な言葉だが、この一言が全てを表していると言っても過言では無い。
また、幸福を得るために人はどう動くか、その行動の原動力は何かなど、根っこの部分まで分析をしていく。
また、本の後半では個人の幸福度だけではなく、社会全体の幸福度の高まりについても触れられている。
その中で徳を積もうとする行動の原動力は外的なものと内的なものに分かれるとも説いている。
少し心理学のような論文であるとも感じさせられる、まさに経済学とは経済だけにあらず、さまざまな学 -
Posted by ブクログ
※イングランド。都市労働者が議会に対して選挙権を要求。チャーティスト運動(1838-1848)。
すべての人は他人の自由を侵害しない限り、望むことを何でもする自由がある。国家は他人による自由の侵害から各人を守り、共同体を外国の侵略から守る役割のみをもち、それ以上の権力行使は認められない。ハーバート・スペンサーSpencer『Social Statics』1850
自由とは人間の独創性と多様性が最大限に発揮できること。価値観の画一化は個性の発展を妨げる。個性が発展しないと社会全体にもマイナス。異なる意見を十分に自由に比較でもしない限り、意見の一致は望ましいものではない。全人類が同一の意見をも -
Posted by ブクログ
「最近、ミルの『自由論』の翻訳でよいものが出た」と聞いたので、読んでみました。
1850年代に書かれた本ではありますが、現代でも十分に通用する内容だと思いますし、リベラリズムやネオ・リベラリズム、リバタリアニズムを考える上でも参考になると思います。
個人的には、ミルの『自由論』は、進化論との相性がいいな、と思いました。
生物がこれほど多様なのは、遺伝子(DNA)がガチガチに固定されているわけではなく、変化をする余地(自由度)があるため。
もちろん、遺伝子(DNA)の自由度のために淘汰されていった生物もいますが、生物全体を見ると、そのときどきの環境に応じて、より生き残りやすい形質が残ることにな -
Posted by ブクログ
個人的なハイライトは知的教育の意義を提示した部分。ミルによれば、大部分の真理の認知においては直覚に頼ることができない。この弱点を矯正、緩和するのが知的教育である、という。
たしかに大学教育を経た者は、全員ではないが、観察可能な部分から原理原則を推論することに長けている。この点については大学教育がある程度の成功を収めているといっても差し支えないかもしれない。
一方で大学教育のあるべき姿を巡る主張と議論はこうも変容しないものかと驚いた。大学教育論が19世紀から進歩していないわけではないだろうが、問題自体は根治していない、あるいは悪化していることが窺われる。
大学が専門性教育に傾倒せず知性を育み人 -
Posted by ブクログ
本書の主題は社会の中での「自由」について。つまりは、社会が個人の行動を規制することができる状況において、何が個人の自由の領域であるか。言い換えると、社会は、個人の不可侵の領域として、どんなことをしてはいけないか。また、そのためにどんなことを推奨すべきかということを論じた本。
1859年初版。
その原理は、ある個人が、他者に危害を加えた場合やその危険が明白にある場合以外は、その個人の行為に関して何も強制してはならない、というもの。
この原理とどのようにつながるのか理解が浅いが、
言論の自由についても強く語っていた。言論を擁護する理論は、真理は批判を打ち負かすことでより確実になるし、偽の真理で -
Posted by ブクログ
ミルが晩年に、功利主義の考え方についてまとめた本です。功利主義は、現代においても誤解や先入観によって批判的に捉えられることが多いですが、当時(1860年代)のイギリスにおいても、同様でした。本書は、想定される批判を潰していくという形式を取っており、当時の風当たりの厳しさを肌で感じ取れます。
ミルはまず、既存の倫理上の2つの学派として、「直覚主義学派」と「帰納主義学派」の2つを取り上げます。直覚主義学派というのは、道徳の原理は明らかにアプリオリ(最初から決まっている)という考え方です。一方の帰納主義学派は、観察と経験から道徳を決定しました。一見真逆の道徳観ですが、道徳は原理から導き出さなければ -
Posted by ブクログ
自然権といった経験を越えた普遍的な原理により何が正しいかを判断すべきでない。個々人の幸福はさまざまで、幸福の優劣を判定する客観的な基準はない。▼行為の正しさはそれが何をもたらすか(帰結)、幸福をもたらすかどうかで判断すべき。幸福は善であり、苦痛は悪。幸福をできるだけ増やし、苦痛はできるだけ減らす。自由はそれ自体に価値があるのではなく、幸福をもたらすなら価値があり、幸福をもたらなさないなら価値はない。▼自然権は特権階級の利益(一部の人々の幸福)を守るためでしかない。社会の幸福は個々人の個別の幸福の総計で見るべきで、これを最大化すべき。「一部の人々」の最大幸福ではなく、「最大多数」の最大幸福を目指
-
Posted by ブクログ
まず僕含め、ミルが語っているような学生生活を送る学生がほぼいない、この日本の「大学」という機関に絶望した。(勿論僕の環境に限った話ではあるが)
それは文理選択を高校の時に迫る制度が一つの原因だろう。文系が化学や数学をやらなかったり、逆に理系が歴史を勉強しないことが当然と言っても過言ではない制度だ。
文理問わず、教養として身に付けておくべきはずのものを学ばぬまま学生を終える。そんな人々に警鐘を鳴らす著作である。
本の内容からは逸れるが、僕は高校が大学という機関について教えるとともに、その存在意義を考える機会を設けることで、この課題がほんの僅かでも変わるのではないかと思う。(高校がこの著作を -
Posted by ブクログ
大学は職業教育の場ではない。では何を学ぶ場なのか。日本が明治維新を向かえるまさにそとのき、スコットランドでかのジョン・スチュアート・ミルが、学生選出の名誉学長就任講演として、大学教育の原点と理念を既に話し尽くしている。これは大学に入学した学生、そしてあまりにも経営・商業主義的な部分に偏りすぎている現在の大学教育に関わる全ての人々が一度は読むべき、そして心に刻んでおくべき内容だと思った。原文のJ.S.ミルの英文自身が長文かつ難解であるようだが、訳文があまりにも直訳調で、日本語としては読みにくいのは難点であるけど。この就任講演は3時間程度に渡ったようで、よっぽど意識の高い学生でなくては寝てしまうか
-
Posted by ブクログ
ネタバレ-----
人間が獲得しうる最高の知性は、単に一つの事柄のみを知るということではなくて、一つの事柄あるいは数種の事柄についての詳細な知識を多種の事柄についての一般的知識と結合させるところまで至ります。(中略)広範囲にわたるさまざまな主題についてその程度まで知ることと、何か一つの主題をそのことを主として研究している人々に要求される完全さをもって知ることは、決して両立し得ないことではありません。この両立によってこそ、啓発された人々、教養有る知識人が生まれるのであります。
--J.S.ミル(竹内一誠訳)『大学教育について』岩波文庫、2011年、28頁。
-----
19世紀中葉、専門知