中島国彦のレビュー一覧
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荷風の日記である。第4巻。昭和8年から10年。日中戦争は泥沼に嵌りつつあり、街頭では右翼壮士が戦局拡大をあじり、庶民自ら戦争に突き進んでいる。其の中で荷風は、世捨て人として過ごしている。
⸺これは「断腸亭日乗」読書日記である。気に入った箇所を書写し感想を添える。備忘録として記していた為に文字数は約一万一千字となってしまった。これよりのちはスルーしても良し、適当に摘み食いしても良し。お任せ致します。
R08/03/18春寒く雨降る
今日、川本「荷風の昭和」レビュー上梓。やっと日乗4巻目に手をつける。読み終えるはいつの日か。
昭和八年
・正月2日。曇りてさむし。
元旦は墓掃除・参りで終わる。いつも通り訪れる家、訪ねてくる人無し。2日目で、深川の大石医院に指洗浄に行き(開院してる!)、銀座で夕食。
←荷風にとって、正月は一大イベントではないが、世間も正月休みという概念がなかった?
・3月19日 晴。毎朝鶯語綿蛮たり。瑞香花ひらく。
←89年前の3月終わりの天候。漢文素養のある文、其の点だけでなく、東京自然を観察する眼に感心する事頻り。
・4月6日 微雨後に曇る
サロン春の女給所持の日勤簿に書かれている「女給心得書」を書き写し、「その文言滑稽」とする。即ち以下。
「サロン春の私達は
日常の何事にも人間愛を持ちませう
仕事の上で公平無私に働きませう
何人に対しても謙遜いたしませう
心も気持も正しく爽々しい一日を過しませう
御互の為に家の為に国の為に貯金しませう」
←この「滑稽」の意味が今ひとつわからない。最後の一文以外は、極めて真っ当なことを書いていて、最後の一文は、振興職業女給の為に経営者の「おせっかい」だろう。「サロン春」は当時有名らしく、既に「銀座細見」に詳しい紹介があり、吉井勇作詞「春の行進曲」の歌詞にも出てくるらしい。
・4月10日 雨はやみしが空くもりて風冷なり
「路傍の電柱又は空地の板塀などに護国大祈禱会または皇道会結盟大会或は又共産党討滅大演説会等大書したるビラ貼りてあり。之(以下三行弱切取)」
←この頃、万が一「日乗」が警察に押収された時の用心が出ている。(以下三行弱切取)どんな文句を書いていたのか気になる。
・5月初5 晴れて既に薄暑を催す
この日、荷風は昭和6年8月より引き取った関根歌の仔犬「只魯(しろ)」を知り合い紹介の「婦人」に引き渡した。婦人の与える菓子を食い懐いたのを見て安堵している。
←まさか1年9ヶ月も荷風が家に犬を飼っていたとは思わなかった(『荷風の昭和』では「半年」と書いていた。川本の思い違いか)。勿論、「去年の秋より心身甚だしく衰弱し」世話は下女に任せていたらしいが、別れる時は「愛惜の念絶ちて」だった。荷風と仔犬、今ひとつぴったり来ない。結局只魯は、その2日後「家出」し行方不明になる。野良犬としてどういう生涯を送ったのか。これも小説題材になりそう。
・5月7日 天気快晴
荷風家に「怪しき葉書」来れり。喫茶店で故人小山内薫のことを語っていたのを盗み聴きし、「故人の噂を公開の場所でなすは不届なり、店主も迷惑に感じ入りているので、この後は同店へのお立ち寄りはご遠慮あるべし」日乗欄外朱書にて、差出人は白鳩銀子(田村百合子)と露見、とある。
←銀子は元荷風愛人。捨てられた愛人が腹いせで出した葉書である。喫茶店出禁も嘘。百合子らしい葉書。この女性は、別れる時もヤクザまがいの情夫が出てきて、弁護士を雇うなど一悶着あった。葉書指摘はまんま現代、一種の炎上騒ぎの原型と見えなくもない。89年前。ホント、人の小根は一つも変わらない。
・8月9日。晴。
始めてつくつく法師の啼くを聞く。
是夜東京全市防空演習のため燈火を消す。
8月10日。晴。
終日飛行機砲声陰々たり。此夜も燈火を点ずる事能はざれば薄暮家を出で銀座風月堂にて晩餐を食し金春新道のキュベル喫茶店に憩ふ。防空演習を見むとて銀座通の表裏いづこも人出おびただしく、在郷軍人青年団其他弥次馬いづれもお祭騒ぎの景気なり。
←初めての防空演習、灯火禁制。お祭り騒ぎの一般大衆に対して、知識人荷風の気持ちは大いに沈む。正に昭和8年の東京風景だろう。
R08/03/21汗掻く程の暖春
・10月7日くもりて南風烈しく溽暑更に甚し
この日、荷風は机中に2年前に書いて出さなかった手紙を発見す。「教科書出版書肆某に答ふる書」自身の小説がたびたび教科書に無断転載されているのを怒る手紙である。これは掲載打診を断る手紙らしいが、荷風の自作についての想いがよく出ている文章である。
「拙著小説の類はもともと慰みに書き候ものにて、女子教育などに使用致候為書き候ものには無御座候、旦又小生の品行思想両ながら男女青年子弟の教育には甚弊害有之候」「小説家輩の文章を編纂して学生に売付利を食る書肆の悪事を憎み候ものに御座候」
要は、「私の作品は慰みに書いたもので、教育上にもよろしくない、こういう文章を編纂し金儲けしようとするのは大嫌い」ということである。
←偏屈親父ここにあり。勿論褒め言葉。
・10月18日 晴又陰
この夜、待合叶家の女主人より私娼状況を詳しく聴いている。
震災後一夜の値段は2、30円だったらしいが、追々下落し只今は15円がまず高い方にて、並みは6、7円より10円。最近は芸者の出入りする待合で頼む。(以下詳細に店の名前、特徴)この道上手6名挙げている。欄外朱書にて、お客に子爵井上匡四郎(井上毅の養嫡子)、男爵前田某と記す。
←明治憲法起草者の故養父・井上毅が聞いたら何と言ったろうか。
・10月25日小春の好き日なり
昭和3年-8年の流行歌題名を書き写しているが、欄外朱書で「昭和7年玩具ヨウヨウ流行」と書く。
←wikiで調べると、「昭和8年に洋行帰りの教員が流行らせた」とあり、これが日本では享保年間第一次ブームの次の第二次ブームだったらしい。荷風の流行への目ざとさかわかる。因みにスケバン刑事でヨーヨーが流行った1980年代は第四次ブーム。
・11月10日
末尾に
「雨止みて風起る。門外の小径落葉狼藉たり」とあり。
←あたかも句の如し。
・11月11日 終日雨ふる
84頁から4頁に渡り「独身論」を記す。
←途中、6行抹消、2行半抹消有り。拘ってないようで、何処か拘っていたのかもしれない。
・11月17日快晴風あり。近鄰岨崖の霜葉甚佳し
「烏森境内の小待合真砂に往き黒沢おきみに逢ふ。去年十二月の初蠣殻町小待合近藤の帳場にて始めて逢ひしなり。年甘五六。閨中秘戯絶妙。而も慾心なく顔廉価なり。元高嶋屋百貨店売娘なりしと云。」
←有名な荷風の「馴染みになった女」一覧表の最後から2番目に現れる黒沢きみ。秋になって月に2-3回ほど逢っている。
←件の表には「昭和9年暮より10年秋まで毎月50円をやり3,4回出会いたる女なり」とあるが、8,9年の記憶違いだろう。先の私娼ランクで言えば、平均の値段ということになる。「砲兵工廠職工の女」と書いている。それ以上の詳しいことはわからないけど、職工元妻で、百貨店売り子から私娼に転落したのだろうか。なんか込み入った事情はありそうだ。解説によると「ひかげの花」(昭和9年発表)モデルらしい。
荷風の私娼通いは確かに買春なのではあるが、単なる遊びではない。女のことを理解しようとし、実際に幾つも作品に昇華している。この時代だからこそできた、作品取材である。
12月16日 陰。
台所の老婆先月より病気なりしがこの日午後荷物を取りまとめ、親類の者をたよりて我家を去りぬ。この老婆大正十四年の秋より選入れしなれば今年
にて十年とはなれるなり。光陰実に矢の如し。
←下女を置いているとは思っていたけど、老婆だったんだ!荷風の生活は財産持ちにしては質素だとは思う。しかも昼食、夕食はほぼ外食だ。ただ、病気のときはどうしたのかと思っていた。独身男にはやはり下女は必要だ。私も下女が欲しい!
12月31日 晴。時々くもる。
村岡千代という女から50円を貸してくれと言ってきて、押問答の末、車代1円を渡して帰らせている。3日前には10円を貸している。10年ほど前知人の紹介であっているが、最近会い、身の上話を聞かされて、その後借金を言い出した。荷風は、寝てもない女に突然の金の無心を言われたことはない、「これも現代の人心悪化せし1例なるべし。実に怖る可きことなり」という。
←いや、荷風さん、昔も今もずっとこの手の人は居ますぜ。大晦日なので、千代さんかなり切羽詰まっていたのだろうが、段階踏んでいるので、荷風さん金持っているし「金づるでいくらでも引き出せる」と踏んだ面もありそう。荷風、こんな女はホントに大嫌いで、完全な千代さんの見込み違いである。
R08/03/24 暴暖初夏のごとし
昭和九年
・正月20日。暗。寒気や、寛なり。
「高橋君来り放送局アナウンサア雇入試験の事を語る。鮨をまぐろとよむも
のあり。金平牛蒡(きんぴらごぼう)の何物たるかを知らざるものあり。小督局をコトクキョクと読むものあり。いずれも私立大学の卒業生なりと云ふ。」
←当時のアナウンサー試験の一端がしれて興味深い。金平牛蒡は当時の最先端料理だった様だ。小督局(こごうのつぼね)は、人の名、清盛の娘。
2月初3。朝八時頃目覚めて窓外を見るに雪ふりしきりて、窓にちかき椎の木の枝雪の重さにたはみて折れむとす。
「千住に往き大橋の欄干に倚りて河上の雪景を見る。時に日は既に没し、暮雲連山の如く棚曳きわたり、黄昏の微光屋上の雪に映じて紫色を呈す。橋上及び人家の窓には燈火早くも輝き出したれど、空と水面との明さに対岸の屋根は却て暗く、その上につもりし雪さへ次第に黒く見ゆるやうになりぬ。夕雲の連りわたるさま見る見る中に変り行くを眺めやる時、ふと雲の切目より思ひもかけぬ富士の影を認め得たり。北斎が描きし三十六景の中にも千住の図あれど、余は大橋の上より富士を見しは始めてなれば、珍しき心地して手帳取出し橋の灯をたよりに見たる処を描きぬ」
←非常に鮮やかな文章描写。次頁に荷風のスケッチあり。文章程鮮やかでは無い。明確な富士の形無し。それが却ってリアル。一枚絵に瓦波上に5本も煙突つき出たり。下町に2階家以上は無いが、工場地帯ということもあり煙突はあるのだ。
・2月11日 晴。寒気きびしからず。
「小説の腹案をなす」この日黒沢きみに逢っている。2月16日、きみから聞いて新富町平林重坊(私娼を斡旋する老人)が5日召し捕えられたと聞く。おきみ馴染みの千束町喫茶店(一人前金10銭)を取材。私娼や芸者の女連れが多いことを確かめる。
←「ひかげの花」に登場する平林らしき男は10章に出てくるらしい。
・2月20日 晴れて風静なり
(欄外朱書)銀座裏通淫具店ノ看板性とかきたるものこの頃俄に衛生器具とかき替えられたり
←いよいよ、危険思想の取り締まりだけでなく、風俗に対しても警察は目を光らせ始めたと云うことなのだろう。これが「戦時」ということなのだろう。
・2月23日 晴れて風寒し
当世青年男女の用語
どうかと思ふね/わしゃァつらいョ/参つたョ/相当のもんだ 相当にうるさい奴だ/のしちゃう/雰囲気に酔った/バックを離れて自分だけとして考へる/わし顔まけした/腐った あいつ腐ってゐたョ/憂鬱だョ/転向/清算する 過去を清算する/しけてゐる/ダンチだ/タイアツプ
←突然出てきた用語集。半分くらいは現代も使われている用語。むしろ東京弁。しかし、当時は新語流行語たったとは意外。
2月27日 晴
午後黒沢より電話あり。私娼に飽きたので暫く茨城の田舎に帰るらしい。荷風は言葉を尽くして止めるが聞かず(この後も3-4回会っている)。「この女稀代の淫婦にて」云々。ここでは書くのを憚れる様な事なので省略。多分、決して貶していない。褒めている。
←もしかしたら、「飽きた」「田舎」等々は別れるための嘘かもしれない。荷風の取材を薄々気がついたか(^^;)。荷風もそのことに気がついている。1週間後、警察署に行き仮名の黒沢きみの戸籍を見ようとするが果たせなかった。2日後、遂にかの岩井三郎探偵にきみの調査を依頼する。3月27日、調査票受け取る(結果の詳細は一言も書かず。どちらにせよ、小説に活かしたに違いない)。
・3月8日 晴れてさむし
「牛肉店松喜にて夕飯を食す(ロース二人前1円30銭)一人の青年乞食の子供二人をつれて突然入り来り、牛鍋を命ず。青年は洋服をき頭髪を乱したる様子雑誌記者ならずば例の似而非社会主義者なるべし。下足番の若衆と何やら高声に押問答をなす中、ぼろ着たる二人の乞食は外へ逃げ出し、やがて洋服の男も今は手持無沙汰の様子にて立去りたり。何の事かわけ分らず。近頃の世の中は何事にかぎらず常識にては解し難きこと多し。」
←わざわざ日記に記していることは、つまりは何らかの「ドラマ」を見ているということだろう。この時荷風は当時の上流階級として店にいる。こういう目の配りようが、私の荷風を好きなところ。
・5月23日。雲の往来おだやかならず南風烈し。
薄暮西銀座の栄湾に食して後表通を歩む。白鉢巻白襷黒紋附に袴をはきたる壮漢十四五名竹刀を打振り街上を練り行く。巡査も見ぬ振りして之を制せず。此夜また街頭にて悲憤慷慨の演舌をなすものあり。宛然幕末の光景なり。
←おそらく、政府の中国侵略の「弱腰」を叱る演説なのだろう。警察は、この類は見て見ぬふりをする。次の日に鶯が例年と違う鳴き方をするのに気がつき「思うに、乱世にありては可憐の小禽も雷鳴を恐れざるものか」と書く。これも昭和9年の光景。4-5月にかけてずっと「ひかげの花」執筆(6月5日脱稿)。
R08/03/28 晴 桜開花せり 遂にクーラーを贖う
・7月11日 午後より晴る。蔵書をさらす。
甘五日雇入れたる下女亭主持にて折々夜ひそかに亭主を引入れるのみならず、四五日御尼介になりたしと虫の好い事を申出でたり。多年召使ひたる者なれば事情によりては許しもすべけれど、まだ半月もたたぬに、のめのめと勝手な事を言出す心底測りがたく、気味悪くなりたれば、解雇す。
←当然だろう。私も気味悪い。
・7月12日 雨ふりつづきて俄に涼しくなりぬ
銀座の百貨店に巣食う「ダニ」が繁殖、店員全員が食われている「噂話」記す。米国産材木にいたという説。
←外来種問題としては、非常に早い時期の指摘ではないか?
・7月13日 雨降りては止む。華氏72、3度(←22、3度)の涼しさなり。
ロンドン万国博覧会の時購入した金時計を潰して金に換え売却を、知り合いの歯医者に依頼。結局132円(40万円?)になった。
←何処にも書いてないが、何処からか政府による金拠出の噂を聞きつけ先手を打ったと思われる。ブルジョワたちは、こんな風に自らの利益だけは確保したのだ(金の国勢調査は昭和14年である。5年も早い)。荷風は株は時々買うわ、こんな事をするわ、自らの財産にはかなり執着している。小説書きでは生活は成り立たないと思い定めているのは殊勝(実際にはそうでもないのだが)だが、金には執着している。悪くないと、私は思う。因みに「ひかげの花」の稿料は1310円(300万円?)だった。
・7月21日 陰。哺下細雨烟の如し。
「喫茶店テラスコロンバン店頭板囲にはりたる紙に「閉店させて頂きます云々」とあり。去年頃より工作という語大いに流行す」
←感想は述べてはないが、「語の乱れには困ったものだ」と思っているのは明らか。やがて「工作」は廃れたが、「させて頂きます」は、80数年後普通に使われているのを見たら、荷風先生はどう言うか。
・8月25日 くもりて俄に涼し
物集芳子という婦人から、「探偵小説を書いたので「序文」を下さい」と紹介書をもって訪ねてくる。荷風は仕方なく序文をその場で書いたようだ。内容は、正にそのまま「仕方なく書いた」事情をそのまま書いている。
←芳子はホントの小説家である(筆名大倉輝子)が、第一小説集には、日記に記した序文は載っていない。流石に藪蛇と思ったか。
・9月18日 終日雨止まず
「この頃銀座夜11時に至れば人通り稀になりてカフェーはいずこも客足途絶えがちなりといふ」
←8月から灯火禁制が敷かれた。
・9月21日。朝来大風雨襲ひ来る。風は正南より来るが如し。正午風勢尤強し。裏庭のプラタヌスー株倒れ屋根瓦四五枚落つ。三時頃より風勢次第に緩かになり六時頃に至り空晴れわたり夕腸・燗たり。既にして明月の昇るを見る。(略)関西地方風害最甚しと云ふ。大阪天王寺の塔、京都建仁寺本堂崩壊せしと云ふ。
←この台風、室戸台風だったらしい。関西地方では死者3千人。先に名古屋に行った際に、おそらく水に浸かったであろう所には、異様なくらいに基礎の高い家が多く連ねていた。爪痕は長い事関西の人たちを苦しめたのだろうと思った。
・10月17日。霧雨歌まず風また烈し。午後銀座尾張町新川洋服店の店員新調の外套を持来る(価金117円)。今日までの経験によれば冬の外套は七八年あまりも着られるなり。五年目位に裏返しをすれば前後を通じて十年間は着られるなるべし。此れを思へばこの度新調したる外套の破れて用をなさいるに至るは十年後にして余は六十六七の齢に達する時なり。病果して其年まで生存するや否や。
←これと全く同じ計算を、私は車に対して行っている。荷風の67,8歳で亡くなるだろうという予想は当たらなかったが、私は長生きしても、多分、次の買い替えが最後だろうと思っている(もう既に12年経ったがまだ乗る積り)。
・10月7日。くもりて風寒けれど雨にはならず。
「是夜銀座通のところどころに私服の刑事立するを見る。街娼を捕へむと欲するなるべし」
←軍靴近づく頃は、風紀の取り締まりもきつくなる。と、私は思っている。
・11月8日 立冬。快晴。
「謡曲蝉丸を歌うこと」禁止の報道を見て、そのうち時代浄瑠璃大半も禁止になるだろう。と書く。2日後には「日蓮宗より発刊された本」の発売禁止の報道を聴き「(1行抹消のあと)武断政治の弊害追々顕著となる、恐るべし恐るべし。」と書く。その後、中国の文章「書九厄」(焚書坑儒など、書物の大半が失われた歴史外観を書いた文章)を写している。26日、洋書の日本に関する本も禁止と書いて「思想上の鎖国はいよいよ実行せらる」と書く。
←この頃はまだ、(これでも)公然とした政府批判を書くまいとしている。もし書いたときは抹消している。一体「抹消部分」はなんと書いていたのだろう。
R08/03/29 桜花悉く開く
昭和十年
・正月5日。くもりて西北の風強し。
哺下渡辺春子来る。(略)春子といふ女年二十三四なるべし。十七八の頃
活動役者岡田利彦の情婦となり一時同居せし事あり。(略)
←このあと、日記をいいことに中々書くも憚れる房中秘事を書いている。また、岡田はその後の研究でどうやら女優岡田茉莉子の父らしい事が判明。その他の客には前田男爵(昭和8年10月の日乗にも記載)、日本画家伊東深水が居ることも暴露している(^^;)。日乗は昭和に全文が公開されたが、昭和では個人情報はあって無きが如し。
・正月25日 快晴。寒気甚しからず
美代子(←新しい恋人?)と寝ていると、頻りに電話あり。大石医師危篤。急ぎ行って小康を得る。大石医師は20年来の弟の同級生にして、荷風主治医。調薬を服することやはり20年。「悲しみに堪えざるなり」
←危篤で呼ばれるとは、単なる主治医や知り合いの関係から大きくずれている。病気以上の付き合いはなかったはずなのではあるが、昔の医師患者の付き合いは今とは違うのか?2日後、死亡。
・2月初3。前夜の微雨いつか雪となる。午後に至つて止む。
三越百貨店に入り目の丸の旗(竹竿付き円60銭)を購ふ。余大久保の家を売りてより今日に至るまでいかなる日にも旗を出せし事なく、また門松立てし事もなし。されど近年世のありさまを見るに〔此間約三字切取、約十字抹消〕祭日に旗出さぬ家には壮士来りて暴行をなす由、耳にする所なり。依つて万一の用意にとて旗を買ふことになせしなり。余はまた二十年来フロツコートを着たることなし。礼服を着用せざる可からざる処へは病と称して赴くことなかりしなり。余は慶応義塾教授の職を辞したる後は公人にあらず、世を捨てたる人なれば、礼服をきる必要はなきわけなり。されどこれも世の有様を見るに、わが思ふところとは全く反対なれば残念ながら世俗に従ふに若かずと思ひ、去月銀座の洋服店にてモーニングコートを新調せしめたり。代金九十余円なり。
←世捨て人荷風が、正月儀式なし、たびたび葬式を欠席していた理由がやっとわかった。また、旗を掲げるのは「壮士防止のため」仕方なく、ということ。反対に言えば、旗を掲げないだけでそういうことがあるのは初めて知った。昭和10年にして、なかなか住みにくい日本になっている。
・2月27日 陰
近年埋め立てられし市中の溝渠(←小川のことか)を28ヶ所も並べている。例えば御徒町忍川、根津藍染川、小石川竹島町人参川、本所区内南北の割下水等々。
←いずれも時代小説の重要な背景となっている川や堀やドブなどが無くなっているようだ。それを全て、ソラでこのように書き記すことのできる荷風も凄い。
・3月12日に平井程一(小泉八雲訳者)に出会って以降、急激に小泉八雲フランス訳や和訳全集などを読み始め、日本印象が自分に似ている事を書き記している。
←最初の頃は代表作ではないのに、直ぐにその日本論に同調するあたりは、読みの深さともに相性の良さがあったのだろう。私が昨年より今年にかけて小泉八雲を連続読んだのも、宜なるかなと思った。
・5月29日 曇りて蒸暑し。隣家の卯木花開く。
ある人の話として、講談社社長野間清治が取引先王子製紙副社長に芸者の裸踊りの如く裸踊りを強要し、副社長仕方なく裸踊りをしたと書く。
←現代でいうパワハラ。多分それを見ていた芸者の証言を聞いたのだと思う。野間清治は、いわゆる講談社を大出版社にした立役者である。当時も現代も尊敬される人物である。現代はこの一事のみを以て引退さされかねない。思えば、異常な時代なのかもしれない。戦中そうはならない事を知っているからこそ、密かに日記に書いて荷風は憂さを晴らしている。思えば可笑しな話。やっていることは全く同じでも、人の進退の理由になる時代とならない時代がある。荷風はこういう話を好む。
R08/03/30 爆暖黄砂街を覆う
・6月16日。晴。日暮銀座に往き不二あいすに食す。
英国外交官アーネストサトウの維新外交史は幕末維新の事を知らむとするもの必一読せざる可らざる良書なり。日本人の著述には見ること能はざる秘事多きのみならず、共観察飽くまで公平にして其の記事極めて率直なれば、読み行く中に時代の変遷するさま、さながら大河の岸に立ちて流れ行く水を見るが如き思ひをなさしむ。これ邦人の著書に就いては決して見ること能はざるものなり。維新の変革を記述したる邦人の著書には必悲憤嫌慨の文字多く挿入せられ、薩長志士の行動を無理無態に称揚し、これを英雄として崇拝せしめむとするに過ぎず。これに反して西洋人の文には偏狭なる道徳的判断少く、事実を其のまま忠実に記載する事を主となすを以て、読後の印象甚鮮明にして、感概も亦却て深刻なるものあるな
り。余は明治維新の史伝に就いて邦人の著したるものにては、岡千仭の尊攘紀事と、田口卯吉の日本開化小史とを以て最公平無私の良書となすなり。
←サトウ著書は「一外交官の見た明治維新」(英語版)、「尊攘紀事」(明治15年竜雲堂刊)は漢文でペリー来航から大政奉還まで描く。「日本開化小史」は岩波文庫で読める。サトウ著書は最も早い時期の的確な評価だと思う。
・6月19日 晴また陰。隣家の卯の花ひらく。溽暑昨の如し。
銀座通り新橋近く。山高帽モーニング姿で帝都美化普及会と書いた布をまき、箒と塵取り持って道路を掃除する男がいたそう。金銭強要なし。荷風は「現代流行の愛国狂なるべし」と評価。
←何となく判る。現代を非常時だと認識した庶民の中から「純粋に社会の潔癖を求める風潮」が台頭することは、現代これからの未来を予測しているかもしれない。
7月3日 晴。溽暑退かず静座するも油汗出るほどなり。
川本三郎「荷風の昭和(前編)」で紹介した通り、食品サンプル事始めを書いている。大阪で、昭和7年から始まった食堂の「革新」。これにより、婦女子も気軽に外食ができるようになった。
←この記述の前には、銀座食堂店先に池を作り鯉緋鯉を放ち通行人の足を止めている様を書いて「金魚屋の如し。現代人の趣味幼稚俗悪なることかくの如し」と貶している。おそらく食品サンプルを「イイね」と言っているのではなく、いわゆる「頑固ジジイ」の「何ちゃらちゃらしたことやってんのか」という気持ちだったのだろう。風俗の変化に敏なることは確かなのだけど、気持ちは基本保守主義なのである。
・10月23日。晴。
哺下のぶ子来訪す。昭和三四年頃まで多年銀座尾張町タイガアといふ酒楼にはたらきるたる女なり。三四年前より伊太利亜大使の婢女となり其邸内に住むなりと云ふ。夏は毎年鎌倉なる大使の別荘に行き乗馬のけいこをもなすとて、ハンドバツクの中より写真数葉を取出して見せたり。タイガの女給数百人の中玉の輿に乗りたるものはこの女と赤組の光子二人なるべし。のぶ子は紫組に属したり。一人は伊太利亜大使の婢、一人は白耳義公使館通訳官の婢となり。大分貯金もできたる様子なり。談話一時間あまりにて去る。
←「タイガー」はこの年秋に閉店したばかり。昭和は女給がいっとき大いに持て囃された時代ではあるが、其の栄華は永くは続いていない。有名店でも「玉の輿」に乗ったのは2人だけだというのが、荷風の見立てである。
・10月30日。晴。
この頃新聞紙上の論文に欧禍といふ新文字を見る。非常時の語は満洲事変の際〔此間三字抹消。以下行間補]軍人の(以上補〕造り出せしもの。この度は欧禍の話となる。〔以下六字抹消)
←「欧禍」は「非常時」ほどは流行らなかった。しかし、第二次世界大戦勃発は、正に「非常時」であり、それを醒めてみる荷風の姿は当時としては少数派だったろう。
・11月7日。晴。微邪。門を出でず。午後降灰あり。屋根瓦の上霜の如し。浅間山噴火のためなりと云ふ。天明のむかしは知らず東京の町に浅間の灰の降り積りしは余の生れてより一たびも見ざりしことなり。
←私も、江戸時代はまだしも、昭和の東京に「降灰」があったことを初めて知った。現代ならば、少し降灰しただけで、やれ機械が止まる等々大騒ぎだろう。しかし、ないことはないのである。
・11月14日 晴れて風静なり
この年創立の「日本ペンクラブ」(初代会長島崎藤村)から加入の誘いがあり、辞退の返書を送った。
←こんな年にペンクラブ創立とは知らなかった。荷風は当然辞退するだろう。現代、作家が公式に政治に発言する唯一の組織になっているのは皮肉というべきか。
※昭和10年は直木賞芥川賞の始まった年ではあるが、菊池寛を嫌悪する荷風の日記からは、芥川のあの字も出てこない。世の文壇から大きく距離をとりながら、戦争前夜の東京を、荷風はこの年も闊歩していた。 -
Posted by ブクログ
以下は、「断腸亭日乗(三)」の読書日記である。気に入った箇所を書写し、感想を添える。
昭和の初めの頃の東京を、此処迄色濃く遺した文学は他にはない。永井荷風。親の遺産を運用して、気侭に帝都を闊歩する作家であり自由人であり放蕩人であり、50うん歳にして自らを晩年と称す心配性の知識人である。
7500字超のレビューと相なった。読者の時間を奪うことは私の本意ではない。薄目で日記を眺め、興味ある項目のみを読むこと奨励す。
R07/08/29 「残暑厳し‥‥とはいつ迄言わなくちゃいけないのでしょうね」「彼岸まで、じゃないですか」「甘いと思うわ」という会話が交わされた日
昭和四年
正月初九 晴れて好き日なり、午後中洲に往く、脚気猶癒えず尿中蛋白質ありと云ふ、憂ふべきなり。
←好日を「好き日」というセンス!この時荷風は51歳。本人は晩年だと思っているが、未だ20年以上生きることを私たちは知っている。蛋白質もちょっとした不摂生の結果なのである。
一月二十日 晴れて寒し、終日机に凭(もたれ)る、昏黒銀座にて食料品を贖(あがな)い三番町に往く(略)この夜一座の談話によるに、過日女記者三宅某の家を襲ひたる強盗は世人の呼んで説教強盗となすものなり。
←「過日」とは9日前に強盗に遭いて三宅やすという女性記者が強盗に向かって「私を知って押し入ったのか」と啖呵を切ったという記事に対して「大した自惚れ女だ」と荷風は貶したのではあるが、実は反対に、説教された上に陵辱する常習犯だったということがわかった、という事である。荷風も少し反省したのか、欄外に昭和八年この岡崎某は20年の刑に処せられた、と書いている。
三月廿七日 細雨糠の如し、雨中の梅花更に佳なり(略)この日偶然文藝春秋と称する雑誌を見る、余のことに関する記事あり、余の名声と富貴とを羨み愚劣なる文字を連ねて人身攻撃をなせるなり、文藝春秋は菊池寛の編輯するものなれば彼の記事も思うに菊池の執筆せしものなるべし
←思うに、荷風も日頃から菊池寛の悪口を広め、菊池寛はそれに応えた様にも思う。まぁどっちもどっち。
四月十四日 快晴(略)昨年頃まで太牙にて働きたるお道という女、太牙隣りの建物の2階借り受け、邪奔(ヤポン)という酒舗を開きたり(略)以前ならば浅草辺に生まれたる貧家の女は、藝娼妓になりても迷信にとらわれ神信心などするが例なり、しかるに今は日本人よりも西洋人を好み活動写真にて見たる西洋私娼の生活をそのまま実行せりに至れり、時勢の変化唯驚くの外なし
←お道の半生、この文に書き足して余り無し。兎も角、女の噂話の蒐集に凝っている様だ。
四月廿日 雨 門外の椿落尽くして山吹ひらき胡蝶花(しやが)またひらく
←荷風の庭は春夏秋冬素晴らしかった様だ。
六月廿五日 晴れて風涼し この日荷風はお歌を伴い銀座を散歩、蓄音機から流行歌を聴く。沓掛時次郎、はぶの港、君恋し、東京行進曲。
←長谷川伸作詞、野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐々紅華作曲、西条八十作詞等々。昭和の初めは未だ平和だった。
七月十三日 梅雨明けて炎暑忽ち焼くが如し
←梅雨明けは今と同じ
以下
炎熱日に従って弥甚し、
風なく苦熱益甚し、
雲気欝勃、風絶えて溽暑甚し、日暮驟雨あり
酷熱益甚し、
雨来らむとして来らず、溽蒸忍難し、
←昭和四年の夏は例年になく暑かったらしく(とは言え令和7年の様ではないだろう)、八月半ばまで、「暑い」ことしか日記に書いていない。それでも時折、涼気風が吹くのだから羨ましい。9月5日より、めっきり秋めく。8日には「冷気益甚し」となる。
R07/09/10 昼飯時雷雨過ぎし後暫し涼風吹
十月廿八日
人の噂として、歌舞伎役者河原崎長十郎と共産党学生との付き合いをかなり詳しく記述。荷風としては距離を置いているし、「(河原崎はそもそも)役者としての力量ないのだ」という意見を持っているが、共産主義そのものに対する嫌悪がない。
十月三十日
『近江縣物語』を「文章の優美なるは上田秋成の雨月物語に匹敵するすべく、全篇の布局構想に至っては寧雨月の上に在りと謂う可し、余の縣物語をよみて最興味を覚えたるは優雅なる滑稽の極致に富たるを以てなり、元来わが国の文学には古今を通じて雅馴なる滑稽即洋語のヒューモアに適応すべきもの殆稀なたり、是を以って論ずれば六樹小説は江戸文学史上の珍珠にして滑稽小説の規ちとすべきものなり」とベタ褒め。
←でも、この作品、文学史上で聞いたことない。
昭和5年(荷風52歳)
正月元旦 空隈なく晴れ渡りしが西北の風吹き続きて寒し
「(色町の)今年は殊に甚だしく火の消えたるようなり」
←昨年末の世界恐慌ならびに銀行取付騒ぎによるものらしい。
正月初八 晴れて寒気甚だし
悪童2,30人が朝鮮人乞食女を「鬼婆鬼婆」と叫び棒にて地を叩いているのを荷風は行き合う「遠国よりさまよい来れる老婆のさま余りに哀れに見えたれば半円の銀貨一片を与えて去りぬ」
←①荷風は「暴力」を嫌い、特に子供の暴力に嫌悪感を示すようだ。②朝鮮人に対して、フラットに接している。
ニ月十日
妓家の50歳の亭主から、16の時に叔父の家の妾から女を教えられて以降、半生の妓家の男妾人生を聞く。
←長文日記。メモはしていないはず。よく覚えている。
四月廿八 空くもりて若葉の梢を渡る風の音静かなり
四時ごろやってくる自転車の紙芝居を見る。飴売り制度も戦後のそれと同じ。荷風は3年前神楽坂富士見町辺りでも見たと記す。
←いずれにしても紙芝居の早期の記録だろうと思う。荷風は創業者を見ていたのか、それとも既に組織化された集団を見ていたのか。
七月十一日
荷風の同級生にして生涯の友、井上啞々子(精一)の7回忌を期に、彼の一生を記している。
←荷風は友達想いだった。
七月十四日
「ヂィヂィ蝉鳴きはじめたり」
←現代よりも若干遅い。これも温暖化の影響か。
八月二十日
谷崎潤一郎から「細君譲渡宣言書」が届く。佐藤春夫との三角関係は、当時よく知られており、新聞にも報道された由。
←「あまりにも可笑しければ次に記す」と全文書いている。世間は眉を顰めたのかもしれないが、友達はそもそもそういう展開自体を面白がり、谷崎潤一郎も面白がっていたということなのだろう。現代と比べ、私はこちらのほうが良いと思う。
この頃、お歌との逢瀬は全くなく、山児(園香)という女子との逢瀬を重ねている。
十一月九日
街なかで「値下げ断行」張紙を見る。市中一般菓子も一銭値下げ、タクシー市内1円がこの春から50銭となり、今は30銭となった由。
←これも世界恐慌の影響。それにしてもタクシー1/3になるのは凄まじい。
十一月十ニ日
稲叟(いなそう)という男と日を空けず会っている。稲叟はあだ名。稲の翁?日暮の周旋宿の番頭。半生を記す。
「酒を好まされど、その性行の活淡寡欲なること往々余が亡友唖々子と似たる所あり」
←食事友達は必要なわけだ。この2日後、濱口総理狙撃事件が起き、政情益々不安に。
十ニ月丗一日
大晦日も園香と逢い別、車中で除夜の鐘を聴いている。荷風今年を思えば、小説収入も半減し、株の配当は無くなった。しかし、健康は例年に無く良く「52歳の老年に及びて情痴猶青年の如し、笑う可く悲しむ可く、また大いに賀すべきなり」
←荷風、基本はブルジョワなのである。ほんと女を欠かさない。素人女には手を出さないという自分ルールのみは守っている。
R07/09/14 晴、残暑忍難し、(ジョイフルにて)読書午睡晩涼を待つ
昭和6年(荷風53歳)
正月八日 雪粉々たり、正午神楽坂の鶴福に飲む、園香来る、雪深更にいたるも止まず、
←正月より園香と逢った時には頂に朱点を施す(例外あり)。意味不明。昨年より深まった園香との仲を重視しているのは分かる。また、2月8日には、元愛人が嫉妬して危害を加えようという噂を聞き、探偵を雇ったという記述あり。その点で、早くも園香に冷めかけていることを告白している。そのことを後々に反芻するために、のちに朱点を記したのかもしれない。園香のために「悪夢紫陽花」という短編をものにしたという記述あり。しらべたが、よくわからず。また、この頃しきりに「小星」という女性?と逢うこと多し。小星て誰?(どうやらお歌のことらしい)←春に荷風病中、小星は長く看護をした。六月小星倒れ入院時、荷風は2日看護入院手続に奔走する。なかなか良い関係と思う。病名はヒステリー?1ヶ月以上入院。10数日は見舞っている。
四月廿八日 「東仲通を過るに黎明橋(この年架橋された月島晴海の橋)と称する橋あり、橋を渡れば新築の埋立地として広?殆考察すべからず、品川湾砲台上に緑草わずかに地平線の上に凸起するを見るのみ、黎明橋の畔に東京湾博覧会建築場敷地と書きたる掲示杭あり、仮小屋数宇散在するのみにて、一株の樹木もなく、東南の海風習々として地上の草を吹きて響をなす、踵を回らして西仲通に出で、渡船に乗り築地明石町の岸に登る、銀座通に至るに日はまさに暮れむとして燈影忽新なり」
←東京博覧会建築場敷地とは、1940年(昭和15)に、幻の東京オリンピックと同時に開催される予定だった東京万博予定地(月島4・5号埋立地=現在の豊洲)のことである。将来に行きたい荷風東京散策のためのメモとして記した。荷風の日常は、江戸情緒と現代風俗と都市景観を発見する旅であった。
五月廿六日 2月より書いていた小説数日前に脱稿、当初「夏の草」と題すが、この日「つゆのあとさき」と命名す。どうやら園香の影響大きいらしい。
←この頃、園香への情冷えているが、それさえも、この名作の題材にしたことが伺える。この後、改造社に持ち込むが、山本社長に断られた由。
八月六日 晴、始めて夏らしさなり、
←この年は冷夏だったようだ。
八月十四日 晴、残暑忍難し、読書午睡晩涼を待つ、夕餉の後番街の病婦を訪ふ、裏二階の一室に白き蚊帳をつりて病み臥したるさま円朝の怪談を想起せしむ
←ちょっと失礼。でも、お歌の病状は深刻で、(数日後「発狂する虞あり」との言葉)荷風が出資した待合店も母親と相談して畳むことにした。お歌25歳。里に帰り養生することになった。関係は打ち切り「悲しいかな」。園香とは全然違う。
九月廿五日 晴、午後中洲に往く、満州戦乱の号外?出づ
←後に荷風朱書して「満州戦争始」。
wikiより「1931年9月18日、中国・遼寧省の奉天(現・瀋陽)郊外で起きた線路の爆破事件をきっかけに、現地に駐屯していた日本軍(関東軍)が中国軍を攻撃、中国東北部(満州)を占領下に置きました」考えれば、あと6年もすれば「日中戦争」100周年になる。今年の戦後80年と同等の報道が果たしてされるだろうか?未だに日本は「満州事変」としてwikiに載っているが、これは荷風の言うように「戦争の始まり」なのである。
十月廿二日
お歌の飼い犬ポチの産んだ仔犬(6月頃出産)7匹の行方を詳述。1匹のみ「形見」として荷風が引き受け、名前を只魯(しろ)と名付く。子路としたかったが、孔子の弟子の名前にすると、「甚しき戯れ」と思ってしまった。これが「旧弊人の旧弊人たるところ」か、と荷風自身が苦笑いしている。
十一月十日 好晴、暖気初夏の如し
行きつけの食堂で、荷風は数名の壮士が時事を論じているのを耳欹(そばだ)てた。「(若槻首相の暗殺・クーデター失敗の反省をもとに)来年紀元節に再びクーデターをするべし」との内容。荷風はこれを否定していない。今の世では武断政治は長続きはしないものの、「今日吾国政党の政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新たにするものは、蓋し、武断政治おきて他に道なし、(略)旧弊を一掃し人心を覚醒せしむるには大いに効果あるべし」。
←自由主義の荷風でさえ、そう感じるのが、昭和初年の日本の姿だったことに、改めて唖然とする。正に、来年の犬飼首相が暗殺された5.15事件の予兆がここにあった。
十二月 初旬
この頃、荷風はしきりに下町散歩を繰り返し、震災前と現在とを見比べている。この年1912年震災より19年。色々見違える程の変化あり。それを読み乍ら是非令和の今を歩いてみたいと思う。
R07/09/20 彼岸の入り 暑さ寒さも彼岸迄。季節のなくなったと言われる日本ではあるが、この言葉が生きているのが嬉しくて堪らない
昭和7年(荷風散人年54)
一月初六 快晴
酒館タイガ店先に鳶の人足来たりて梯子乗りをなす。カフェ女給たちは心付けを渡す。「実に不可思議なる世の中なり」
←ということは、昭和初年の頃から始まった「習俗」という事か?
一月初八 朝の中、華氏65、6度の暖かさなり
李奉昌が桜田門で昭和天皇に手榴弾を投げ入れたが失敗、犬養内閣は総辞職したが後に天皇のお言葉により撤回。
←摂氏19℃くらい。なかなかの温暖。荷風こういう種類の時事に一切感想は書かない。砂村八幡宮の絵を描いている。少し上手い。
一月廿二日 快晴、暖気春の如し
堀切橋を渡り玉の井のまで散歩している。「大通りを中にしてその左右の小径は悉く売笑婦の住める処なり、小路の間に飲食店化粧品売る小店などあり、(略)立ち寄りて女のはなしを聞くに、玉の井の盛り場は第一区より五区まであり、第一区は意気向の女多く、二区三区は女優風のおとなし向が多し、祝議はいづれも一二円なりといふ」
←この時より、荷風は足繁く通う。それが「墨東奇譚」に繋がる。
二月初一
所謂上海事変の号外続報を記しているが、何処か他人事。
二月十日
井上蔵相襲撃死亡事件
二月十一日 紀元節
(文章12行抹消、二行半切取りあり)
「去秋満州事変起こりてより世間の風潮再び軍国主義の臭味を帯びること益々甚しくなれるが如し」
去年事変が起きた後に、東京朝日新聞は「軍国主義の鼓吹には甚冷淡なる態度」をとったことに陸軍は大いに悪(にく)み、全国在郷軍人会は不買運動をし、資本家と謀って財源を脅かた。朝日はなんと陸軍を料亭に呼び謝罪し、記事を一変させて軍閥謳歌をなした、と「道路の言」を聞いたと書く。「この事もし真なりとせば言論の自由は存在せざるなり、且又、陸軍省の行動は正に脅嚇取材の罪を犯すものというべし」
←日記なので、かなり突っ込んだところまで書いているが、それでもなお、後々戦況進んでまずいと思ったのか、冒頭の削除をしたのだろう。果たして、どんな言葉だったのか、とても気になる。
それまでの日記は、それでも戦争支持に若干傾いていたと思うのであるが、この文章に限れば、完全なる「厭戦」である。以後次第に「反戦」に傾いてゆく。また、前日井上殺傷事件は、昨年末の居酒屋で聴いたことの行動だとピンときたはずだ。あの時は、「そうなれば良い」とまで書いたのに、この心変わりはどういうことなのだろう。
四月四日 快晴、桜はまだ花開かれど柿楓の芽萌出たり 連翹木蓮の花正に盛りなり
仙台堀の橋の名前を調べて図に描く
また、大栄橋より深川の町の図も描く
←この頃、頻りに散歩途中絵を描いている。この散歩の内容を地図に照らして確かめたい。期日本を手中にせんと決意する。
四月九日 花ひらきて後却て冷なり
「日清戦争以来大抵十年毎に戦争あり。(略)今や日本全国挙つて戦捷の光栄に酔えるが如し。(略)百戦百勝は善の善なる者に非ず、戦ずして人の兵を屈するは善の善なる者とは孫子の金言なり。この兵法の奥義は中華人能く心得ているやうなり。」
←連戦連勝を伝える上海事変に、荷風は批判的である。自由人であり知識人である荷風の「見識」ではあるが、この水準、おそらく当時の日本には5%ほどはいたと思う。
四月十一日
深川万年橋北詰から東六間堀町の橋を数え、大塚橋から大久保橋、富川木賃宿を通って高橋に戻る。1時間半の散歩。
←深川散歩。啞々子ゆかりの地。是非散歩したい。
五月初六 晴れて俄に暑し
お歌と別れ、新しい女遊びが激しい。この日は前に名刺を渡していた街娼らしき女とバッタリ出会(でくわ)す。2人連れ、女は「友達には1円でも2円でもわたして私には5円ください。2人とも貴方の自由になるから」と囁く。2人は自称19歳と20歳。信じるに足らずであるが、案外男をあまり知らなさそう。荷風は「街娼に非らず、2人組みの万引きか」と推察する。「いや、その割には案外のろまにて朴直な所もある」「余が遊蕩30余年の経歴を以てするも、殆ど見当のつかぬ女なり」と言う。
←面白い。この時代、東京は都会化して、新人類(←古い!)が次々と生まれていたのやもしれない。後にもう一度会い、横浜伊勢崎町のカフェで働きいたる女と言う。
五月十五日。晴れていよいよ暑くなりぬ
夕飯時、号外で荷風は5.15事件を知る。
「近年頻りに暗殺の行はること、維新前後の時に劣らず。」「ある人曰く今回軍人の兇行は伊太利亜国に行われるファシズムの模倣なり。(略)真似事の如き豪も怪しむに足らず、と。ある人曰く。暗殺は我国民古来の特技にして模倣にあらず。(略)この説或いは正しかるべし」
←維新時のような暗殺ラッシュ。しかも、今日は壮士の仕業ではなく、軍人の兇行という点で質が違うと荷風は喝破している。現代これが起きたらかなり騒然とすると思う。
七月廿日 空薄く曇りて風なく溽暑甚し。寒暑計を見るに華氏八十ニ三度の暑さなれど座ながら汗じめじめと湧き出て心地よからず。
←華氏八十ニ三を調べると、28度だった。なんだ、涼しいじゃないか!という私の身体が既におかしい。違う地球人になっているのかもしれない。
十月初三 溽暑夏六月の如く驟雨来る
満州の記事を読んで荷風は思う(以下意訳)
英国も世界に領土あり、日本に植民地化欲を喜ばないのは奇怪の至というべきものである。偽善だ。弱肉強食、国家が悪をなさなければ立つことできず、個人として罪悪なさざれば生存する事はできない。人生は悲しい。然れども、つらつら世界のことわりを見るに、必ずしも、弱者は強者に食われるわけでもない。猫と鼠を見ても、鼠は繁殖して尽きることがない。雀の繁殖は猛鳥の方は学ぶことはできない。雀燕は安全なところにいて、事が過ぎるのを待つ。世界の生物はこのように各々処を得て初めて安泰なのだ。
←荷風は何が言いたかったのか。勿論、食物連鎖のバランスのことではない。力の政治は何処かで間違うかもしれない。という「カン」のような事を言いたかったのか。
十月十ニ日 ラインゴルトというドイツ風食堂で食事。。そこの女給の服装をスケッチしている。物凄く凝っている。日本人は凄い。
←348pには、この当時の銀座の食事飲み屋の地図を書いている。もっと絵が大きければいいのに。こういうのを見ると東京行きたいと思うけど、今はインバウンドで、東京宿があまりにも高くて行けない。
十一月十一日
青山南町の病院の斉藤茂吉博士を訪ねて不眠症の診察で採血の結果を聞いた。
←どうやら精神障害を疑ったらしい。陰性だった。文学者としての斉藤茂吉に気がついていない!!
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今年(二〇二五年)の初めから第二巻を読み始め、読み終わったのは三月の終わり。赤の他人の日記、しかも百年近く前のものを読むのは、面白いんだけど、途切れ途切れに数ヶ月かけて読むくらいでちょうどいいのかも。さてこの第二巻は大正十五年から昭和三年まで。荷風四十八歳から五十歳にかけての日記。約百年前と考えれば、まあそうか、とも思うけれども、荷風はやたら死を意識している。そのくせ、自分でも認めているように、これといった症状は特になく、せいぜいタンパク尿を指摘されているくらいだ。そして、やたら死ぬ死ぬといい、自分の若い頃の原稿を川にわざとらしく放り投げてみたりするくせに、自分よりもはるかに若い女の子たち(春をひさぐ女の子たち)を囲い、抱いている。はっきりいって、とても気持ちの悪い男だ。けれどこの日記が面白いのは、そんな気持ち悪い最低男の荷風が、その最低さを最大限に発揮して、同時代の人々の批評をしているところ。菊池寛を徹底して嫌ってたり、山田耕作の醜聞をねちっこく書き留めたり(pp39-40)。あなたもとことん最低な男だけどね、と思いながら、荷風の同時代批評を楽しみました。
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Posted by ブクログ
以下は「断腸亭日乗」マイ読書日記なり。
R06/07/26、炎天。車中温度37度を超える。
荷風の断腸亭日記を紐解く。全9巻の岩波文庫化は初めての由。1巻目は大正6(1917)年39歳より、大正14(1925)年迄。手許にあることに意義を感じ買い求めしが、ざっと読むことを自らに課す。校注は豊富な人名紹介あり。疑問に答えて秀逸。
難漢字多し。努力したが、書き写さなかったのは◯とせし。
大正7年日記については、既にレビュー済み。8月の米騒動勃発から、友人来りて3日間「時事を談じて世間を痛罵」している。何を語ったのか。
R06/07/27、酷暑。朝、室温31度より下がらず。
大正7年11月21日、第一次世界大戦終結の祝日の日、日比谷公園外で労働者のデモに遭遇。
12月26日浅草観音堂にて大吉を引き当て「喜び限りなし」
大正8年正月元旦、9時に目覚めて床の内にて一椀のショコラ(ココア?)を啜り、クロワッサンを齧る。3日にやっと墓参り。
←年末年始、この当時はお節、初詣という習慣はなかったのか。
1月29日、電話を初めて購入。独身生活には必要だったらしい。
2月27日、2代目市川猿之助(1888-1963)がふらっとやってくる仲。現猿之助の先先代。
4月6日、世情は騒がしいが、思えば幕末乱世の際に浮世絵師戯作者輩は兵馬騒然としながら、平然と自分の仕事をしていた。すべからく、倣うべき。という意味のことを書いている。
5月25日、新聞紙連日支那人排日運動の事報ず。要するにわが政府薩長人武断政治の致す所なり。国家主義の弊害、国威を失墜せしめ遂に邦家を危うくするに至らずむば幸なり。
←中国の五・四運動の事。荷風の面目躍如。
7月28日、(有楽座の)帰途驟雨、涼風炎暑を洗去る。←羨ましい。
R06/07/28、炎熱甚だし。車中温度44度、熱で愛車のブレーキストッパ破損。危なかった(@-@;)
大正9年5月23日。この日麻布に移居す。母上下女1人をつれ手伝いに来らる。麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ。←昭和20年の空襲で焼け落ちる迄、25年間荷風はここ(麻布区市兵衛町1-6)に住んだ。その年に「偏奇館漫録」を著す程に荷風はこの家を愛した。
12月晦日。早朝より雪降る。除夜の鐘鳴る頃雪やみて益々寒し。キュイラツソオひと瓶傾けて臥休に入る。
大正10年正月2日。雨やまず門前年賀の客なく静間喜ぶべし。夜風あり。
←この頃の正月の風景は年始詣りよりも年賀参りにあったようだ。
11月5日、(原敬首相暗殺の報を受けて)余政治に興味なきを以て1大臣の生死は牛馬の死を見るに異ならず。何らの感動をも催さず。人を殺すものは悪人なり。殺さるるものは不用意なり。
←荷風は政治に関心がないのではない。興味を持たないようにしていたのである。
←この日、逢引時にこの報を受け、百合子は偏奇館に泊まっている。暫くは都会女たる田村百合子(9月3日からの付き合い)が恋人だったようだ。百合子は、芸妓ではなく、稽古事に興味があるモダンガールだったようだ。いったい何の思惑で荷風と付き合ったのだろうか?決してハンサムではない。荷風歳も44歳で老年に入りかけ。教養は抜群で、金回りは良い。しかし、偏屈で、暫く付き合えば結婚の意思はない事は明らかだったろうに。でも結婚できると思って付き合ったのだろうか。何処かに研究書があるだろうか?←次年初めに百合子と会う記事があった以降、記事無し。別れたか。大正12年1月の「台湾喫茶店女給仕人百合子」とは誰か。この日色々付き合って8円の出費とつらつら書く。愛情醒めて面倒な女と思っていたのかもしれない。
R06/07/29、炎暑甚だし。
大正11年3月。芥川龍之介と知り合いになるが由。
7月8日、森鴎外の病状を見舞いに団子坂に赴く。
7月9日、早朝より団子坂の邸に往く。森先生は午前7時頃遂に纊(わた)を属せらる(←亡くなった)。悲しい哉。
←その後11日通夜、12日葬儀、16日森遺族と上野精養軒で食事している。8月には墓造営の記事あり。ここまで、人の死について長く詳しく記した事はない。森家にここまで食い込んでいる作家は居なかったのではないか。
11月2日、風月堂にて森鴎外全集の編集会議。その意に同意しかねる所あれども、未亡人の速やかな刊行の意を聴き「余は沈黙して諸家の為すがままに任ずるのみ」。
大正12年5月17日、曇りて寒し。夜森先生の渋江抽斎伝を読み覚えず深更に至る。先生の文この伝記に至り更に一新機軸を出せるものの如し。叙事細密、気魄雄動なるのみに非ず、文致高達蒼古にして一字一句含蓄の味あり。言文一致の文体もここに至って品致自ら具備し、始めて古文と頡頏(←拮抗)することを得べし。
←初めての荷風の渋江抽斎評。最初から絶賛である。言文一致文体の進化系として見ていたとは意外。一方伊藤蘭軒伝については淡白な記事しかない。
5月24日、両3年来神経衰弱症暫時昂進の傾あり。本年に至り読書創作意の如くならず。夜々眠り得ず。
5月25日、昨夜大石君調剤の催眠薬を服用して枕につきしが更に効験なし。
←多分ちょっとした気の病だったのではないか?
6月4日、昨夜より今朝にかけて地震ふこと五、六回なり。
←この頃より地震の記事多くなる。関東大震災の予兆とはこんなにあったのだったら、南海地震の予兆はまだまだということなのかもしれない。反対に言えば、3ヶ月前に1日に5-6回地震があれば2-3ヶ月後に大地震が来ると思った方がいいのかもしれない。
R06/07/30、いよいよ暑し。早朝スマホがブラックアウト。
大正12年9月朔。雨やみしが風猶烈し。空折々かき曇りて細雨烟の来るが如し。日まさに午ならむとする時天地たちまち鳴動す。予書架の下に座し◯◯館遺草を読みいたりしが、架上の書◯頭上に落ち来るに驚き、立って扉を開く。門外塵烟濛々殆ど咫尺(しせき)を弁せず。児女鶏犬の声頻なり。‥‥
←いうまでもなく、関東大震災である。偏奇館は丘の上にあったためか大した被害もなく、火の手も迫らず、荷風は昼食と夕食は近所の山形ホテルでとる。「愛宕山に登り市中の火を観望す。十時過ぎ江戸見阪を上り家に帰らむとするに、赤坂溜池の火は既に葵橋におよべり」と、比較的他人事である。客観的というべきか。この時、「下町」では、阿鼻叫喚の地獄があった事は言うまでもない。
R06/07/31、愈々危険な暑さ。室温1週間続けて一昼夜31度下がらず、加えて柔道とサッカーで寝不足。
大正12年9月3日。微雨。白昼処処に放火するものありとて人心恟恟たり。各戸人を出し交代して警備をなす。
←荷風は未曾有の災害に際し巷の人々を心配する気持ちは更々無い。徹底して個人主義なのである。友人の心配はする、知人を偏奇館に泊める、母上を4日訪ねているぐらい。勿論、「民間警備」にも疑問も何もない。焼け出された「美人」の今村令嬢と17日になって浴場に行き嬉々としている。下心を隠さず。すけべ親爺なのである。このお栄さん(25歳)とは、暫く付き合ったみたい。(10.27偏奇館を去るが、度々逢う)
10月3日、江戸見阪の坂上に上り焦土となった帝都を眺める。されど、荷風は考える。「(明治以降、帝都は)山師の玄関に異ならず」「自業自得天罰覿面(てきめん)といふべきのみ」
←主に焼け出されたのは罪ない庶民なのだが、荷風はそこまで考えない。
大正13年10月29日、この日「酒井晴次氏来談。お栄の事につきてなり」とある。
←この年6月ごろまでは頻繁に逢引きせし恋人であったが、いつのまにか日記に登場せず。11月11日、多病にて養生するため田舎に帰りたいと申出あり。約1年の交情であった。
←先の百合子といい、お栄といい、荷風の恋人は暫くすると離れてゆく。荷風が振るのか?いや、それはあるまい。おそらく荷風は八重次と離婚以降独身主義で貫くことを信条にしており、相手は当然それは翻意出来ないと気がつくからだろう。
11月16日、皇太子襲撃事件の難波大助死刑の報に接し荷風は「さして悪むにも及ばず、又驚くにも当たらざるべし」という。
12月29日、午前中執筆、日課の如し。曇りたれども温暖春の如し。午後川崎の大師堂に賽し、裏門より野径を歩み、細流に沿て塩浜の海辺に出ず。沖の方より海苔をつみたる小舟列をなして帰り来たり。
←東京の電車は中々優秀で、午後に麻布からふらっと川崎大師までお参りしても、そのまま海岸沿いに散歩できたようだ。海苔の舟や海苔の干したる様、ひな鶯を養い卵を売るもの、盆梅を栽培している様などを見物している。即ち大正帝都の年末風景なり。
R06/08/01、猛暑益々続く。雨一滴も降らず。
大正14年、荷風47歳。正月元旦。快晴の空午後に至りて曇る。風なく暖なり。年賀の客は1人も来らず。午下雑司谷墓参。
←47歳だが、既に気持ちは前期高齢者ぐらいの気持ちと思われる。
4月11日、風梢暖なり。桜花忽開く。
←現在より開花時期が20日以上遅い。
7月9日、木曜会という作家仲間の会合で、荷風は「文士山本有三」が自著の映画化に際し内容変えたとして映画興行を差し止め、遂に松竹から3千円の賠償金を得た、との噂聞く。「近時文士の悪風恐るべし」「ゆすりがましき所業」
←ホントか?山本有三良くやった!というのは現代の価値観。
8月朔。午後遠雷の響歇(や)まず。雨を待ちしが来らず。
←99年前の東京の8月1日の天気である。日乗によれば、7月16日ごろ梅雨が明けた模様。その後、炎暑甚だし時もあるが、間に涼しい日もある。3日などは「風涼しきこと彼岸頃の天気の如し」という。昔の夏は「涼し」かったのである。また、この年は9月中頃まで残暑に苦しむが21日にはすっかり彼岸好天になり秋になっている。羨ましい。
9月23日、午前春陽堂主人和田氏来訪。文士菊池寛和田氏を介して予に面会を求むといふ。菊池は性質野卑奸◯、交を訂すべき人物にあらず。
←菊池寛が断腸亭日乗に初めて登場する記述である。菊池は「文藝春秋」に荷風の文を掲載したいという旨を言ってきただけであるが、荷風がここまで嫌うのは珍しい。10月にも菊池を「悪むべきは菊池寛の如き売文専業の徒」と書いている。どうやら昔歌舞伎座、帝国劇場相手に「ゆすり」まがいのことをしたのを嫌ったらしい。ことの真実は何処かに研究書があるはず。
11月27日、6月頃から知り合いになった「お浪」という私娼窟の女(28歳)の十数年に渡る身の上話を紹介。当然荷風もお浪を買っている。「お浪は世に珍しき淫婦にてありながら、田舎に育ちし故か性質善良にて、愚鈍ならず。(略)造化の戯れとも言ふべきにや」
←この頃、1日の日記分量が多くなっている。日記を小説の糧にしようとする心つもりではないか。
12月21日、この秋、荷風はプルーストの「失われた時を求めて」(おそらく6巻迄)を、ずっと仏文のまま読んでいる。その感想「長編小説を読む中、いつしか華胥に遊べり。既にして隣家読経の声に夢寝るや、空晴れわたり、窗(←窓)前の喬木に弦月懸りて、暮霞蒼然、崖下の街を覆いたり。英泉が藍摺の版画を見るが如し」
←よくわからないけど、荷風はプルーストの本質を掴んでいる気がする。
12月22日、慶應義塾旧友井川君の訃報を知る。
←1924年久米秀治。1923年には中学以来の親友井上唖々子を亡くしている。もはや自覚的にはいつ死んでもおかしくはないと荷風は思っている。
12月31日、桜川町の馴染みの「女」と銀座で飲んで、偏奇館に一緒に帰り、除夜の鐘が聞こえた後に帰している(当然寝たのだろう)。
←「淫蕩◯惰の日々」を「心中慚愧に堪えざる」と一応反省している。しかし、真には悔悛してはない。おそらく「これがわたしなのだ」と自分で自分を肯定しているのがありありと見て取れる。
断腸亭日乗は、荷風、助平で自己中だが、近代日本に屹立する知性と自由人たる男を浮き彫りにしている。かつて岩波文庫で「摘録」(全2巻)が出たが、こちらの方がよほど面白い。 -
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荷風五十五歳から五十七歳まで、昭和八年から十年までの日記。枯れていない。とことん女好きである。昭和十年十二月廿七日、前月に新聞広告を出して雇ったばかりの三十歳前後の家政婦羽生政江を「下女政江を捕へて倶に入浴す」(p374)。五十七歳の荷風の性欲恐るべし。文壇や出版業界の一部に対して牙をむく姿勢も相変わらずで、昭和十年八月十七日には長年の知り合いであった生田葵山と銀座のきゆうぺるで「激論二三時間に及び余は兎に角葵山氏とは以後友人関係を断つ可きことを声明」(pp320-321)するし、同年十一月十四日には島崎藤村名義で勧誘されたペンクラブへの加入を断ってしまう(p360)。全九巻のうちの折り返し地点である第五巻は二〇二六年前半刊行予定とオビにある。ここまできたら最後まで付き合おうと思う。
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森鷗外に関し、コンパクトに纏まった通史を知ることができる。
紙面が限られるので、やむを得ないところがあるが、各作品の紹介は、情報としては不十分が否めない。
なお、作品を読んでから、本著を読むべし。
(これはMUST)
エピローグに戦後の鷗外研究の書籍一覧があり、これは参考になる。
以下抜粋~
・刷新を急いだ慶応義塾のために、荷風は鷗外と連絡を取りつつ、いろいろと相談にのってもらったことが、残された資料からうかがえる。二月、慶応義塾大学文学部教授永井荷風が誕生し、五月、「三田文学」が創刊される。鷗外は毎号執筆することを約束し、「スバル」、「三田文学」を拠点とする鷗外の創作活動が、一層加速されるわけだ。
・「八方塞がり」を「かのように」で処理するのは一つの方法だが、綾小路の言葉にもあるように、「突貫」する意欲を失ったら現実に飲み込まれるだけである。この一節に示された緊張感こそ、鷗外自身の一を示していよう。
・「制度」がそのものとして正しく機能しない、ゆがんだ人間社会の空隙に向かう鋒であり、いちは鷗外の思いを代弁する存在になっているようにも思う。 -
Posted by ブクログ
鴎外の生涯について知っている、そして、著作についても大体の作品名と内容を知っている、という人向けかもしれないなと思いました。
例えば、留学から帰国して書かれた「舞姫」のように、彼の人生のイベントとその時に書かれた作品には関連性が見出されたりするわけですが、本書は彼の人生を追いながら「この時期にはこの作品を、こういった雑誌を創刊し…。その頃の時世はこういうもので、当時交流あった文学者は…」と、タイミング毎に横串で紹介してくる形式なので、「森鴎外」という人物について「へぇ、こんな時期にこんなものを」的な気づきといいますか、すこし視野が広がって理解が進んだ気がします。面白かった。