難波優輝のレビュー一覧
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日常のありとあらゆることを「倫理的なこと」と「美的なこと」に選別し、批評していく試み。
第5章「分かり合わないことの美学──不同意コミュニケーション」がよかった。
分かり合うことが善とされるが、手放しにそうとは言えないのではないかという批評。分かり合えないという事実も美学的でかけがえのないことであるという。世界をみつめる視点が少し明るくなる前向きな主張だと思う。
第8章「 新しい快楽主義者たち──猫と廃墟とアナキズム」で、猫をアナーキーな存在として捉えているのも良い。アルゴリズムに支配され、常に最適化された世の中において、予測不能な存在というのはある種で救いとすら呼べるのかもしれない。
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まえがきから一気に心を掴まれた。「青春」を強調した清涼飲料水のCM、就活で決まって聞かれるガクチカ、闘病する少女、ペット映画、大学生の性愛。消費されるエモーショナルはいつからか自分の文脈を離れて押しつけに変わっていく。そんな現実に抗うべくこの本は書かれたという。
本書は5つの遊びの視点から主体を切り出し、世界の見方を整理する。物語、ゲーム、パズル、ギャンブル、そしておもちゃ。それぞれが危うさを抱えていながらも、異なる美的感覚を持つものだと著者は解説する。
私は、これを読んで自分はキタニタツヤの『れびてーしょん』という曲を連想した。
「僕らは広告につかれている 例外なく端末と共に ほんとに -
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「性的なもの」にフォーカスした第一章は、街中の性的な広告についての論争を軸に、なるべく客観的に論点を整理する内容。一方「えっちなもの」についての第二章は、えっちなものを2つに分類分けした上で考察や展望(?)を述べていくという筆者の主観寄りな内容になっているので、読んでいる中で切り替えないと混乱しちゃうかも。
タイトルのユーモラスさに惹かれてこの本を手に取った私としては、第二章のほうが新鮮な感覚もあり、筆者もノリノリで書いているように感じて楽しめた。
個人的な話、車がグシャグシャになる動画を「えっちだ…」と思ってしまう自分の感性に、以前から疑問を抱いていたのだけれど、これって「崇高のえっち -
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先日これを家内に読んでいるところを見つかり、不必要なほどにこれが知的に面白い本であることをアピールしてしまったが、そのような気まずさがなぜどのような事情で生じるかを改めて知ることができる本。どうしても下世話な内容を連想させるテーマだが、気取ったり奇を衒ったりするところのない誠実な語り口が心地良く、作者の主張がすんなりと頭に入ってくる。
なぜ性的な概念はこれほどまでに気まずさを呼び起こすのか?筆者は、人が自らの手の届かない領域の「向こう側」に抱く憧憬と同化の欲求が美的判断である「えっちさ」の根幹を成すとし、巷間言われるような生物的な性欲が文化的な「えっちさ」を規定したのではなく、逆に「えっち -
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近年、(主に米国の)先端産業の経営者がSF作品のファンであることにも起因して、SFというジャンルが注目されているようだ。
そこで、SFを積極的に経営に活かしていこう、というムーブメントが生まれ、これがSFプロトタイピングとして市民権を得たものであろうと思う。
「ドラえもん」、星新一から始まり、フランク・ハーバート、アイザック・アシモフ、神林長平、ウィリアム・ギブスン、士郎正宗、ダン・シモンズ、伊藤計劃などを濫読してきた身としては喜ばしいことだ。
実は私が1990年代に所属していたSFコミュニティでは、「SFの終わり」が語られていた。
もはや現実がSFに追いついたというのである。
もちろん、現実 -
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ネタバレ『物語化批判の哲学』 自分用まとめ
1. 物語は「理解」と「共感」と「アイデンティティ」を与える
人は、
* 他人を理解したい
* 他人に理解されたい
* 同じ気持ちになりたい
* 自分が何者かを確定したい
という欲求を持つ。
物語は、その欲求を非常にうまく満たしてくれる。
過去と未来に意味を与え、感情を同期させ、「自分らしさ」を演出できる。
だから現代では、SNS・インフルエンサー・自己PR・就活・マーケティングなど、あらゆる場所で「物語化」が強力な武器になっている。
特にインフルエンサー文化では、「弱さの共有」が強い共感を生み、
「この人を理解できるのは自分だけ」
という幻想 -
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人生は目的を持たない。物語ではない。不幸はたんに不幸であり、幸福はたんに幸福である。
私たちはそれぞれの場面・対面で、「顔」を付け替えながら生きる。それは、よく比喩として言われるような「仮面」ではない。私たちは仮面など付けていない。なぜなら、仮面の向とうに唯一の顔などないのだから。
私たちは、顔自体を替えて生きる。本質がないと嘆くにはあたらない。本質とそが可動的なのだから。ゴフマンはこう言う。「人がいてその出番が来るのではなく、出番があれば出番にふさわしい人が現れてくるのである」
世界は舞台だ。そして、舞台を離れてハムレットは生きられないように、あらゆるシーンや対人関係から離れた「本当」の自