あらすじ
「これは性的だ!」という批判がある。「性的ではない!」という擁護もある。自治体のポスターに。食品のCMに。公園の裸婦像に。なぜ人は「何が性的か」ですれ違うのか? そもそも「性的」とは何なのだろうか? 私たちは、「性的」なものをめぐって議論するわりには、「性的」というものが何かよく分かっていない。私たちは、こう問うところから始めなければならない。「性的であるとはどのようなことか?」
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Posted by ブクログ
「性的なもの」にフォーカスした第一章は、街中の性的な広告についての論争を軸に、なるべく客観的に論点を整理する内容。一方「えっちなもの」についての第二章は、えっちなものを2つに分類分けした上で考察や展望(?)を述べていくという筆者の主観寄りな内容になっているので、読んでいる中で切り替えないと混乱しちゃうかも。
タイトルのユーモラスさに惹かれてこの本を手に取った私としては、第二章のほうが新鮮な感覚もあり、筆者もノリノリで書いているように感じて楽しめた。
個人的な話、車がグシャグシャになる動画を「えっちだ…」と思ってしまう自分の感性に、以前から疑問を抱いていたのだけれど、これって「崇高のえっちさ」なのか……。
Posted by ブクログ
先日これを家内に読んでいるところを見つかり、不必要なほどにこれが知的に面白い本であることをアピールしてしまったが、そのような気まずさがなぜどのような事情で生じるかを改めて知ることができる本。どうしても下世話な内容を連想させるテーマだが、気取ったり奇を衒ったりするところのない誠実な語り口が心地良く、作者の主張がすんなりと頭に入ってくる。
なぜ性的な概念はこれほどまでに気まずさを呼び起こすのか?筆者は、人が自らの手の届かない領域の「向こう側」に抱く憧憬と同化の欲求が美的判断である「えっちさ」の根幹を成すとし、巷間言われるような生物的な性欲が文化的な「えっちさ」を規定したのではなく、逆に「えっちさ」に対する欲求こそが性欲の基底にあるのだと説く。この「えっちさ」を判断する基準が異なるがゆえに、特に公共的な領域で我々は気まずさを覚えるというわけだ。
そして、この「向こう側」への欲求は、あまりに簡単に「男/女」や「接触/非接触」などの紋切り型二元論に回収されてしまい軋轢をもたらす。これを脱する手がかりとして、皮相的な理解を超えた「謎めき」という概念が導入されるが、そこで「〈世界史〉の哲学3(大澤真幸)」で取り上げられていたクリプキの「反記述説」に似た論理展開がなされているところが面白かった。
子供の頃に読んだ「気楽に殺(や)ろうぜ」という藤子F不二雄の傑作短編を思い出した。
Posted by ブクログ
「えっちさ」についての考察がとても面白かった。崇高のえっちさと崩れのえっちさ。わたしは崩れのえっちさの方がよく感じるような気がする。また、「この行動って他人からはどんなえっちさに見えてるのかな」などと生活の中で新しい視点を得てしまった。
下ネタが大好きなのだが、えっちだなあと思うことの中身を細分化し言語化してくれたこの本を読んだお陰で、日常がさらに楽しくなりそう。
Posted by ブクログ
まず「性的である」というものを三つに分けて考え、それを使いながら性的雰囲気や性的ペルソナの性質を考察。言語行為論などを用いてそれらが「性的である」ことによりどう悪さをしているかを解説している。
その次はえっちさについての考察と「性的である」ことと「えっちさ」の比較が行われ、大胆にもえっちさを用いて他人との分かり合えなさを味わう方法を模索している。
内容は面白いが、一つ一つのテーマがざっくりとした印象で、まだまだ議論の余白がたくさんありそうな一冊。それ故これから先の哲学の中でどんどんと枝葉のように発展していきそうな感じがする。特に最後のえっちさを用いた世界との関わり方に関してはかなり大胆な印象を受けたが、加速度的に分断が進む現代に生きている我々こそ、分かり合えないことを味わうことの可能性については特に考えるべき事柄だと思う。
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私はむしろ、私が惹かれる存在の前で停止することが、その存在に対して真にえっちなモードで接することであり、素敵なことではないか、と考える。
という部分から、恋愛においても同じことが言えるのではないかと感じた。
Posted by ブクログ
美学の方からの切り口はおもしろいと思う。「えっちさ」はふつうは「エロチック」なわけだけどあえて「えっち」を選ぶ理由もわかる。倫理的・社会的な判断についてはつっこみどころはけっこうある気はする。細かいコメントいずれ書くかも。
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性は「隠すべき恥ずかしいこと」でも「動物的な本能」でもなく、
美味しい食事や素晴らしい音楽と同じように、
人間が人生を豊かにするために追求してゆくコト
Posted by ブクログ
著者は性的なものは好きだが、街中にある性的な広告は嫌いだといいます。私も著者と同様に駅などに貼られる性的な広告が苦手です。
性的なイメージを公共の場に置くな派と表現の自由だから問題ない派が争って堂々巡りになる…という騒動をSNSなどでよく目にします。
本書はそうした議論を整理し何が起きているのかを哲学的にはっきりさせることが目的だといいます。この辺りの議論に興味があったので本書を手に取りました。
性的なものとはなにか?最初に性的なものとえっちなものとの区別を行います。性的なものは①性行為②裸体③性的興奮の三要素から定義されます。そして、美的性質としての「えっちさ(エロティックさ)」と区別します。
性的広告がなぜ悪とされるのかというと、一つ目の理由は性的な広告は性的な雰囲を醸し出す要素となるからだと著者はいいます。
雰囲気は、私たちの振る舞いや情動を制限し、ある特定の価値観や視点を押しつける力を持ちます。それゆえ、ある雰囲気が誰にとって過ごしやすいのか、誰を中心に設計されているか、誰を居心地良くさせているのか、誰を居心地悪くさせているのかを考えなければならないと述べられています。
雰囲気はその特性上曖昧なものです。そのため、苦情を訴えても単なる主観として片付けられてしまうことが多い。こうした事態は「認識的不正義」と呼ばれるそうです。認識的不正義とは、ある人の知識や経験が、社会に根付いた偏見や誤解によって不当に歪められるような構造的不正義を指すそうです。
性的広告の悪さの二つ目は、意図しないタイミングで性的興奮を催させることです。
では、性的興奮をかき立てられなければ性的広告に悪さはないのかといえば、そうではない。性的な広告は、特定のジェンダーに性的な役割を押し付けることで、そのジェンダーを生きる人は、性的に見られたくないにもかかわらず、性的な役割を担う人として見られてしまうのです。
上記の二つの理由は納得がいくものです。特に性的広告が女性に性的役割を押し付けることはSNSなどでも性的な広告を非難するときによく指摘されていることだと思います。
また、性的であるということとは別に「えっちさ」という概念について考察していきます。
この辺りからちょっと著者の主張が自分にはよく理解できず…。
えっちさには崇高のえっちさと崩れのえっちさがあると筆者はいいます。
筆者が崇高なえっちさの代表として挙げたのが、コンスタンティン・ブラクーシの『魚』という彫刻です。無駄を極限まで削ぎ落としたシンプルな形に美しさを感じますし崇高さというのも分かりますが、えっちさといわれると…??
筆者にとって「世界はなんでもえっち」だそうですが、このえっちさの概念が私の思うそれとは多分大きく違っていて…それがどういうことなのか結局よく分かりませんでした…。
Posted by ブクログ
む、難しい。
理解できる部分もあるけど、4章くらいから私と理解力では理解しきれなかった。
雰囲気を作り出すこと、見えない暴力性などの話はなるほどと思ったが、えっちに関する話から、理解が難しくなってきた。
リベンジしたい。
Posted by ブクログ
山本直樹『エロってなんだろう?』と比べると、ずっと真面目で堅い。硬すぎて何を言っているのかよく分からない部分も。性的であるとは①性行為に関わるもの、②人間の裸体や正規に関わるもの、③性的興奮を催させるもの、のいずれか、またはすべてを満たすもの、という定義はなるほどなと思う。