「大きくなったら、何になるの?」や「あなたが今、一番したいことは何ですか?」等々、人生は目的をもって生きるべきもの、生きなくてはならないもの、という考え方が、いつの間にか当たり前になっているような気がする。
かの大谷選手も、高校生の頃には何歳に何を達成している、という目標(=計画)を立て、それを基に行動していったとのこと。大谷選手ほどの偉人でない我々凡人も、またいつの間にか、今日、今年、○年後の計画を立て、修正しながら遂行しつつ生きなくては人間ではない(少なくとも、立派な人間ではない)かのような風潮に取り囲まれている。
本当にそうなのかとか、その風潮が息苦しいとか、ましてや目標を持たずに生きては駄目なのか、という問いは発せられることすら憚られるようなご時世。とりもなおさず、人生とは目標を立ててそれに向かっていくことで、本書の言い方を借りれば「攻略」しうるものであるかのようだ。
別の言い方をすれば、人生に対して正しく働きかければ、人生は予測できる範囲で答えてくれる、システムの様なものであるとの把握なのだろう。それは人生のみならず、世界(本書でいうところの、貨幣などの測定可能な尺度を有する象徴的世界)が、人間が予測でき、コントロールでき、「攻略(=制覇、支配)」しうるものである、という認識が根本にあるのだろう。
おそらく、大谷選手ほどの人であれば、思い通りにならないことは承知の上で修正を積み重ねるものであるとの謙虚さの上に立っていることとは思うが、これまた凡人のレベルだと、世界は正しく働きかければ正しく答えてくれる、という、ある種の公正世界仮説の様な認識に陥りがちである。
筆者は、人が物語を通して他者を把握することを好むのはお互いを物語の上で理解し理解されたいからだ、と論じている。個人的にはさらに広い範囲で、世界を自分の理解できるストーリーに押し込めたい、というゆがんだ公正世界仮説的な解釈を、ほとんど本能的に選択してしまうからではないかと思う。
けれで、本当に世界はそのようなものだろうか。思い通りになる(そう見えているだけ、というのが本当だと思うが)時もならない時もあり、予測がつかないもの、そもそも人の意志や願いなどに完璧なまでに没交渉で無頓着なものこそが世界なのではないか。芥川龍之介の「侏儒の言葉」に、人生が地獄よりも地獄的であるのはその予測のつかなさ故、といった言葉があるが、本来そうしたものではないのか。
そうだとするならば、人生を、世界を、目的/ゴールを有しそこに向かって一直線に進んでいける物語と解釈することは、世界をコントロールしうると錯覚した人間の傲慢にすぎないことになる。
筆者は、他者を(おそらく、世界も)物語の上で解釈することは、他者をその物語に押し込め、本来多面的であるはずの人間を、ある「目的」に沿った物語上での解釈に限定してしまう不正義をもたらすと論じている。その通りだと思う。
人生は「目的」に沿って一生懸命に努力すれば道は開けるもの、もし道を外れたとすれば、それは努力不足か、目標の立て方に誤りがあるか、とにかく本人の不作為によるものとされる。公正世界仮説の負の側面である、ある人が不幸な目に合うのはその人が不幸を招くような行動をしたからだ、というまさにそのままの思考というわけだ。人間を、ひいては世界を、そのような単一で単純な目的で語ろうとすること自体が不正義だ、と個人的には言いたい。
私見だが、このような見方は、西洋の一神教的教義の影響を強く受けているように思われる。一神教は西洋の専売特許ではないが、現在、西洋的文明が大きな力を持っていることを考えると、背景にある一神教(≒キリスト教)の見方も大きな影響を与えていることは無理な想像ではないと思う。
キリスト教では、唯一神が似姿として想像した人間が万物の長であり、他の動植物や世界は基本的に人間に、それを通じて最終的に神に奉仕することが定められている。ならば、神への奉仕という目的以外は人生/世界に不要で、ただそこに向かって努力すればよい。もしその目的が果たせないのなら、本人の努力(=信仰)の不足でしかないのだ。実に明快で、他の解釈も、他の目的も入りようがない。
世界も人間が神のために支配すべきものであるわけなので、世界すらも目的論的な存在に堕落させてしまう思考ならば、人生など目的なしには過ごしてはならないという解釈になるのはむしろ当然であろう。その思想の影響を強く受けた社会契約に基づく文明を築き、また同様に強く影響を受けた資本主義社会を築いたのなら、目的があっての人生、という生き方になるのもまた当然と思われる。
著者は、人間を物語として解釈することの認知的な強制手段として、「ゲーム」「パズル」「ギャンブル」の視点を挙げている。それぞれに、「物語」という目的に向かって進んでいくストーリー的な解釈の枠組みを突き崩す側面を持っており、特にギャンブルについての考察(いまの世界を脱価値すること)が面白い。
ただ個人的には、4つ目の「おもちゃ」こそが世界を物語/コントロールしうるストーリーとしてとらえる思考を解毒する最も良い方法だと思う。おもちゃの持つ「脱目的」という側面はきわめて強力で、本書内で語られる通り時には残酷な面すら持ちうるが、それゆえに、もともと人間の思う通りになるはずのない世界をありのままに見る思考法を思い出させるものとして、有効なのではないか。
最期に語られる、「私たちはもっと子どもたちに学ぶべきであるようだ」「大人たちはもっと、子どもたちのように成熟しなければならない」。これこそ、我々大人が身に着けるべき中庸の考え方であるように思われる。それでこそ、本書でいう「責任感を持たないという責任感」を身に着けられるのではないか。
なお、本書の参考文献としてマッキンタイアの「美徳なき時代」が挙げられているのが面白い。マッキンタイアは、私の解釈では、人には「物語」が必要で自らのアイデンティティは物語に沿った文脈で語られうる、と論じている。
一見、本書の内容と矛盾するようだが、個人的にはむしろ響きあうものではないかと思う。マッキンタイアの言う物語は、人が寄って立つあり方は、その人が存在している時代/場所に付随する歴史に基づいており、それなしで「自由な」自己を確立することはできない、という意味での、いわば個人の過去に関する物語だと思う。
もちろん、誤って解釈すれば、人は祖先や時代/場所のしがらみから逃れられない、ということにもなりかねないが、そうではなく、偶然の結果であれ、自分が生まれ属することになった集団の歴史を基にしてアイデンティティを認識し、そこから未来に向けて自分の歴史を紡いでいくことこそが責任ある態度だ、ということだと思う。もし日本人に生まれたのなら、過去に素晴らしい歴史もあれば他社を迫害した歴史もあったことを全部呑み込んだうえで、自分の生き方を選択すべきだ、ということだと思っている。
この考え方が正しいのならば、他者を軽々に物語として判断すべきではなく、マッキンタイア的な物語のバックグラウンドを持った者同士がどのようにかかわりを持っていくか、ということを考えるべきなのだろう。ある人が特定のバックグラウンド(=物語)を持っているからと言ってイコールその人がそのバックグラウンドそのものではない、バックグラウンドでその人を分かった気になってはならない、という態度を持てるか、が大事なのではないか。