難波優輝のレビュー一覧

  • アンチ・スポーツの哲学

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    まず、「スポーツする」をすごいやつを決めることという定義が気持ちよい。
    そして、ただただ「スポーツする」ことを愛することができたら、なんていいだろうと思ったが、それが無理なことも痛いほど知っているからこそ面白い。
    男性優位、健常優位の話もなんとなく引っかかっていたことなので、言語化してもらって、スッキリはしたが、だからこそ、ずっと考えるべきだなと思った。
    スポーツ観戦を趣味とするものとして、面白い本だった。

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    2026年10月09日
  • 本とは何か(新潮新書)

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    本とは何か、をいろんな視点から哲学する。ただ本を読むということだけではなくその周縁から考えることが読書をより自分の人生に染み込ませるということ。

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    2026年09月27日
  • 性的であるとはどのようなことか

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    タイトルにあるような結論めいた答えが書かれているのではなく、さまざまな「思考の道具」を提示しながら、「あなたはどのように感じ,それをどのように“考えますか”」と問いかけてくる一冊だった。参考文献だけでなく、さらに深く考えるための書籍まで紹介されており、著者の親切さと、この問いに対する真摯な姿勢が感じられて好感が持てた。

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    2026年08月30日
  • 存在のさみしさについて 気分はどのように世界をつくるのか

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    さみしさと日常をテーマに、あらゆるもののさみしさの理由が言語化されてゆく。

    全10項ほどあるため、難波さんの思考手順がトレースでき、「哲学はこう展開していけばいいのか」と参考になった。
    「おわりに」では、まだ挙げられていない数々の「さみしさ」を読者自身が考えていくよう要請されている。
    自分の場合は、ウイスキーにさみしさを感じる。本書の読書体験を通じ、そのさみしさの理由を自ら思考し、言語化ができるようになったことが、大きな収穫だ。

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    2026年08月27日
  • アンチ・スポーツの哲学

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    スポーツって、なんですか?
    と聞かれたら、どう答えますか。

    タイトル詐欺、というか、
    「スポーツ反対!!」という内容でなく、「スポーツってなんぞや」、「スポーツってこういうイメージあるけどそれって合ってる?」「スポーツにおいてこれって美徳だけど、ほんとに?」みたいな、終始スポーツを哲学してる本。
    とても面白かった。


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    2026年08月24日
  • 本とは何か(新潮新書)

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    読書をパフォーマンスと捉え、カテゴリーごとにアプローチを変えていく姿勢は私にとって新しい発見だった。
    そして、読書という手段にいくつもの選択肢という広がりを与えてくれた。
    この本を読んだら、すぐに書店へ足を運びたくなる。
    いつも行く書店すら景色が違って見えるかもしれない。

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    2026年08月16日
  • アンチ・スポーツの哲学

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    『アンチ・スポーツの哲学』(難波優輝)は、スポーツを礼賛するのでも否定するのでもなく、**「そもそも、なぜ私たちはスポーツを良いものだと思っているのか?」**という前提から問い直していく哲学書です。

    本書の面白いポイントは、スポーツに当たり前のようについて回る「努力」「勝利」「成長」「フェアプレー」といった価値観を、一度疑ってみるところ。スポーツは健康にいい、人格形成につながる、努力することは素晴らしい――私たちはこうした考えを自然に受け入れています。しかし、その“正しさ”が強くなりすぎることで、運動が苦手な人や競争したくない人が疎外されたり、「勝つために努力すること」が目的化したりする可能性もあります。

    タイトルに「アンチ」とありますが、単純なスポーツ批判ではないのも重要です。むしろスポーツを哲学的に分解することで、競争すること、勝敗をつけること、身体を動かすこと、遊ぶことの違いを考え直していきます。スポーツを疑うことで、逆にスポーツの面白さとは何なのかが見えてくる構造がユニークです。

    そしてスポーツについて考えているはずが、いつの間にか「努力すれば偉いのか」「競争に参加しない生き方は悪いのか」「成長し続けなければならないのか」という人生そのものの問いにつながっていく。

    スポーツ好きにも、スポーツが苦手だった人にも面白い一冊。当たり前に“良い”とされている価値観を疑うことの面白さを味わえる、少し挑発的で思考を刺激される哲学書です。

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    2026年08月13日
  • 物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために

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    「大きくなったら、何になるの?」や「あなたが今、一番したいことは何ですか?」等々、人生は目的をもって生きるべきもの、生きなくてはならないもの、という考え方が、いつの間にか当たり前になっているような気がする。
    かの大谷選手も、高校生の頃には何歳に何を達成している、という目標(=計画)を立て、それを基に行動していったとのこと。大谷選手ほどの偉人でない我々凡人も、またいつの間にか、今日、今年、○年後の計画を立て、修正しながら遂行しつつ生きなくては人間ではない(少なくとも、立派な人間ではない)かのような風潮に取り囲まれている。
    本当にそうなのかとか、その風潮が息苦しいとか、ましてや目標を持たずに生きては駄目なのか、という問いは発せられることすら憚られるようなご時世。とりもなおさず、人生とは目標を立ててそれに向かっていくことで、本書の言い方を借りれば「攻略」しうるものであるかのようだ。

    別の言い方をすれば、人生に対して正しく働きかければ、人生は予測できる範囲で答えてくれる、システムの様なものであるとの把握なのだろう。それは人生のみならず、世界(本書でいうところの、貨幣などの測定可能な尺度を有する象徴的世界)が、人間が予測でき、コントロールでき、「攻略(=制覇、支配)」しうるものである、という認識が根本にあるのだろう。
    おそらく、大谷選手ほどの人であれば、思い通りにならないことは承知の上で修正を積み重ねるものであるとの謙虚さの上に立っていることとは思うが、これまた凡人のレベルだと、世界は正しく働きかければ正しく答えてくれる、という、ある種の公正世界仮説の様な認識に陥りがちである。
    筆者は、人が物語を通して他者を把握することを好むのはお互いを物語の上で理解し理解されたいからだ、と論じている。個人的にはさらに広い範囲で、世界を自分の理解できるストーリーに押し込めたい、というゆがんだ公正世界仮説的な解釈を、ほとんど本能的に選択してしまうからではないかと思う。

    けれで、本当に世界はそのようなものだろうか。思い通りになる(そう見えているだけ、というのが本当だと思うが)時もならない時もあり、予測がつかないもの、そもそも人の意志や願いなどに完璧なまでに没交渉で無頓着なものこそが世界なのではないか。芥川龍之介の「侏儒の言葉」に、人生が地獄よりも地獄的であるのはその予測のつかなさ故、といった言葉があるが、本来そうしたものではないのか。
    そうだとするならば、人生を、世界を、目的/ゴールを有しそこに向かって一直線に進んでいける物語と解釈することは、世界をコントロールしうると錯覚した人間の傲慢にすぎないことになる。
    筆者は、他者を(おそらく、世界も)物語の上で解釈することは、他者をその物語に押し込め、本来多面的であるはずの人間を、ある「目的」に沿った物語上での解釈に限定してしまう不正義をもたらすと論じている。その通りだと思う。
    人生は「目的」に沿って一生懸命に努力すれば道は開けるもの、もし道を外れたとすれば、それは努力不足か、目標の立て方に誤りがあるか、とにかく本人の不作為によるものとされる。公正世界仮説の負の側面である、ある人が不幸な目に合うのはその人が不幸を招くような行動をしたからだ、というまさにそのままの思考というわけだ。人間を、ひいては世界を、そのような単一で単純な目的で語ろうとすること自体が不正義だ、と個人的には言いたい。

    私見だが、このような見方は、西洋の一神教的教義の影響を強く受けているように思われる。一神教は西洋の専売特許ではないが、現在、西洋的文明が大きな力を持っていることを考えると、背景にある一神教(≒キリスト教)の見方も大きな影響を与えていることは無理な想像ではないと思う。
    キリスト教では、唯一神が似姿として想像した人間が万物の長であり、他の動植物や世界は基本的に人間に、それを通じて最終的に神に奉仕することが定められている。ならば、神への奉仕という目的以外は人生/世界に不要で、ただそこに向かって努力すればよい。もしその目的が果たせないのなら、本人の努力(=信仰)の不足でしかないのだ。実に明快で、他の解釈も、他の目的も入りようがない。
    世界も人間が神のために支配すべきものであるわけなので、世界すらも目的論的な存在に堕落させてしまう思考ならば、人生など目的なしには過ごしてはならないという解釈になるのはむしろ当然であろう。その思想の影響を強く受けた社会契約に基づく文明を築き、また同様に強く影響を受けた資本主義社会を築いたのなら、目的があっての人生、という生き方になるのもまた当然と思われる。

    著者は、人間を物語として解釈することの認知的な強制手段として、「ゲーム」「パズル」「ギャンブル」の視点を挙げている。それぞれに、「物語」という目的に向かって進んでいくストーリー的な解釈の枠組みを突き崩す側面を持っており、特にギャンブルについての考察(いまの世界を脱価値すること)が面白い。
    ただ個人的には、4つ目の「おもちゃ」こそが世界を物語/コントロールしうるストーリーとしてとらえる思考を解毒する最も良い方法だと思う。おもちゃの持つ「脱目的」という側面はきわめて強力で、本書内で語られる通り時には残酷な面すら持ちうるが、それゆえに、もともと人間の思う通りになるはずのない世界をありのままに見る思考法を思い出させるものとして、有効なのではないか。
    最期に語られる、「私たちはもっと子どもたちに学ぶべきであるようだ」「大人たちはもっと、子どもたちのように成熟しなければならない」。これこそ、我々大人が身に着けるべき中庸の考え方であるように思われる。それでこそ、本書でいう「責任感を持たないという責任感」を身に着けられるのではないか。

    なお、本書の参考文献としてマッキンタイアの「美徳なき時代」が挙げられているのが面白い。マッキンタイアは、私の解釈では、人には「物語」が必要で自らのアイデンティティは物語に沿った文脈で語られうる、と論じている。
    一見、本書の内容と矛盾するようだが、個人的にはむしろ響きあうものではないかと思う。マッキンタイアの言う物語は、人が寄って立つあり方は、その人が存在している時代/場所に付随する歴史に基づいており、それなしで「自由な」自己を確立することはできない、という意味での、いわば個人の過去に関する物語だと思う。
    もちろん、誤って解釈すれば、人は祖先や時代/場所のしがらみから逃れられない、ということにもなりかねないが、そうではなく、偶然の結果であれ、自分が生まれ属することになった集団の歴史を基にしてアイデンティティを認識し、そこから未来に向けて自分の歴史を紡いでいくことこそが責任ある態度だ、ということだと思う。もし日本人に生まれたのなら、過去に素晴らしい歴史もあれば他社を迫害した歴史もあったことを全部呑み込んだうえで、自分の生き方を選択すべきだ、ということだと思っている。
    この考え方が正しいのならば、他者を軽々に物語として判断すべきではなく、マッキンタイア的な物語のバックグラウンドを持った者同士がどのようにかかわりを持っていくか、ということを考えるべきなのだろう。ある人が特定のバックグラウンド(=物語)を持っているからと言ってイコールその人がそのバックグラウンドそのものではない、バックグラウンドでその人を分かった気になってはならない、という態度を持てるか、が大事なのではないか。

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    2026年07月20日
  • 性的であるとはどのようなことか

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    性的であるとはどのようなことか
    『性的なもの』と区別する意味での美学的な『えっちなもの』の話で「陰翳礼賛」の羊羹のところが引用されていたので「陰翳礼賛」も読みました。
    オタクが言う『えっちである』にはこだわりの美学がある!と俺は思う。

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    2026年07月06日
  • 本とは何か(新潮新書)

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    「読書はパフォーマンス」というワンアイデアで全部押し切ってしまうスタンスが格好いい。章立ても自然な展開で、良質なエッセイのように、するっと頭に入りました。大満足。

    佐々木マキのカバーイラスト(全面帯イラスト?)も素敵。

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    2026年07月01日
  • 物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために

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    やっと読み終えた
    ぼくの頭ではところどころ難解と感じる哲学者の言葉の引用があり、スルスルと読み終えるに至らず
    ところどころマッチョな読書タイムとなった

    さて本題だが前述の感想でも述べたように、数年前からInstagramや Xに始まる物語を見て、時々モヤル事が多かった(Xはやめて随分経ちます、影響受けやすいのでやめてよかったw)
    影響をたぶんに受け、なぜだかわからない息苦しさがずっとあった

    しかし、本書のおかげでその日々にようやく終止符を打てた、気がする

    人が、というかぼくが、物語を欲するのは情動だとわかった。
    そして、それにカタルシスのようなものを感じたくなるのはしょうがない、そういうもんだし、それは遊びなんだよ、それは一つのあり方に過ぎず、のめり込んじゃダメで、ベキネバではなく、あくまでもそれを柔軟に受け止め、自らの人生に対して割り切れない何かを持ちつつ、人生を謳歌することが肝要なんだよ、ということを教えてもらった気がする。


    最適解なんてあるのかはわからない。
    が、それがあったにしても、それを得るために逆算しながら人は生きてはいない、少なくともぼくはそう。
    小さな力でより大きなものを得るという近代社会から続く資本主義的構造からすれば想像だにしやすいが、それだけで生きることの困難さに立ち向かうことはできないのではないかと僕は思う。

    追記
    難波さんのいうように、子どもの頃のように柔軟で純粋に遊ぶ心を忘れずに、エスプリの効いた人生にしてゆきたい。
    そしてただ生きる、それでぼくはいいかなと改めて思う。

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    2026年06月25日
  • 本とは何か(新潮新書)

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    楽しい読書でした。

    言わゆる読書術みたいなものではなく、本書で論じられる概念を利用して自分の読書の可能性を開拓するというような手触りの本。

    「趣味は?」と聞かれて3番目くらいまでに「読書」が出てくるような人が読むと、特に実りがあると思う。とは言え本書は、読書に興味がある人に広く開かれている。

    以下、自分の理解による概略(つまり面白かったポイント)です。

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    本書では読書をパフォーマンスと位置づけ、少し距離を置いて考察できるように整える。

    これによって、①自分が1冊1冊の本をどのように楽しんでいるかを反省的に観察できる、②パフォーマンスの巧拙を審査する(相対的な)基準を設けて自他のパフォーマンスを評価できる、ようになる。

    ①に関しては他者とのパフォーマンス比較(つまり感想のシェアなど)を通じて自分のパフォーマンスのクセや、自分がどんなふうな読書を楽しいと思うのかを考察できるようになるという点で有用だった。

    ②は言わゆる「読書が上手/下手」の話で、根本的にはどのように読んでも良いが、例えば本のジャンルごとにその特性ごとの読まれ方を考察し、それをその場での基準にして巧拙を評価することはできるだろう。小説と自己啓発本、雑誌、マンガ、楽譜では読み方がそれぞれに異なるはずで、全てを同じ「読書」として評価するのは無理がある。

    第1章が総論(読書パフォーマンスとは何か?)で、以降は各ジャンルの本について「期待される読まれ方」の考察が行われる。もちろんその全てが腑に落ちる主張なわけではないが、読者はそこからいくらでも自分の「読書の哲学」を始めることができる。言わば本書は、読書に関するレシピ本なのである(この意味はぜひ第7章で)。

    個人的には特に第6章の、マンガに関する考察が面白かった。マンガを読むのが読書と言い難いと思われているのはなぜか?について、独自でありながら明快で説得力のある主張がなされている。本だけど本じゃない、不思議な存在。これからマンガを読む際に見る視点が変わりそうだ。

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    2026年06月17日
  • 批判的日常美学について

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    日常のありとあらゆることを「倫理的なこと」と「美的なこと」に選別し、批評していく試み。

    第5章「分かり合わないことの美学──不同意コミュニケーション」がよかった。
    分かり合うことが善とされるが、手放しにそうとは言えないのではないかという批評。分かり合えないという事実も美学的でかけがえのないことであるという。世界をみつめる視点が少し明るくなる前向きな主張だと思う。

    第8章「 新しい快楽主義者たち──猫と廃墟とアナキズム」で、猫をアナーキーな存在として捉えているのも良い。アルゴリズムに支配され、常に最適化された世の中において、予測不能な存在というのはある種で救いとすら呼べるのかもしれない。

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    2026年05月20日
  • SFプロトタイピング SFからイノベーションを生み出す新戦略

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    SFプロトタイピングという技術を知った一冊
    内容は対談型で読みやすさ重視の一冊ですが、実際に人生を変えるきっかけとなった一冊

    SFプロトタイピングという使い方に特化してるわけでもなく、SFプロトタイピングという概要を網羅した一冊と言える

    SFプロトタイピングの理解度が広く学べる一冊

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    2026年04月11日
  • 性的であるとはどのようなことか

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    「性的なもの」にフォーカスした第一章は、街中の性的な広告についての論争を軸に、なるべく客観的に論点を整理する内容。一方「えっちなもの」についての第二章は、えっちなものを2つに分類分けした上で考察や展望(?)を述べていくという筆者の主観寄りな内容になっているので、読んでいる中で切り替えないと混乱しちゃうかも。
    タイトルのユーモラスさに惹かれてこの本を手に取った私としては、第二章のほうが新鮮な感覚もあり、筆者もノリノリで書いているように感じて楽しめた。


    個人的な話、車がグシャグシャになる動画を「えっちだ…」と思ってしまう自分の感性に、以前から疑問を抱いていたのだけれど、これって「崇高のえっちさ」なのか……。

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    2026年02月08日
  • 性的であるとはどのようなことか

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     先日これを家内に読んでいるところを見つかり、不必要なほどにこれが知的に面白い本であることをアピールしてしまったが、そのような気まずさがなぜどのような事情で生じるかを改めて知ることができる本。どうしても下世話な内容を連想させるテーマだが、気取ったり奇を衒ったりするところのない誠実な語り口が心地良く、作者の主張がすんなりと頭に入ってくる。
     なぜ性的な概念はこれほどまでに気まずさを呼び起こすのか?筆者は、人が自らの手の届かない領域の「向こう側」に抱く憧憬と同化の欲求が美的判断である「えっちさ」の根幹を成すとし、巷間言われるような生物的な性欲が文化的な「えっちさ」を規定したのではなく、逆に「えっちさ」に対する欲求こそが性欲の基底にあるのだと説く。この「えっちさ」を判断する基準が異なるがゆえに、特に公共的な領域で我々は気まずさを覚えるというわけだ。
     そして、この「向こう側」への欲求は、あまりに簡単に「男/女」や「接触/非接触」などの紋切り型二元論に回収されてしまい軋轢をもたらす。これを脱する手がかりとして、皮相的な理解を超えた「謎めき」という概念が導入されるが、そこで「〈世界史〉の哲学3(大澤真幸)」で取り上げられていたクリプキの「反記述説」に似た論理展開がなされているところが面白かった。
     子供の頃に読んだ「気楽に殺(や)ろうぜ」という藤子F不二雄の傑作短編を思い出した。

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    2026年02月06日
  • 物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために

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    なぜ私たちは物語を物語以上に使ってしまうのか。例えば就活での自己PR、MBTIや推しなどのキャラクター性、自分語りなどのこと。これらは当てはめることで、診断どおりに動いてしまうなど視野狭窄になるリスクを背負ってしまう。そしてこの本では物語以外にも遊びを考えており、ゲームもゲーミフィケーションなど資本主義に結びつけて使われてしまっていることも批判している(レベルアップなど)。パズル的主体、ギャンブル的主体、そしておもちゃ的主体と、遊びから脱却の方法を考えていく。多趣味ですでに実践しているが、自分では言語化できなかったところも指摘していて興味深い本だった。

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    2026年06月29日
  • SFプロトタイピング SFからイノベーションを生み出す新戦略

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    SF作家を私は知らない。けど村田沙耶香さんならわかるし『消滅世界』は読んでみたい

    いくつもある未来から意思ある未来を選んで描き出すSFプロトタイピング。多様な人たちと創りあげていく過程に意味があり、そのモデレーターが肝になる

    その素養がある人は罰に対する反応性が弱い、という指摘に驚きつつも納得

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    2023年05月02日
  • SFプロトタイピング SFからイノベーションを生み出す新戦略

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    近年、(主に米国の)先端産業の経営者がSF作品のファンであることにも起因して、SFというジャンルが注目されているようだ。
    そこで、SFを積極的に経営に活かしていこう、というムーブメントが生まれ、これがSFプロトタイピングとして市民権を得たものであろうと思う。
    「ドラえもん」、星新一から始まり、フランク・ハーバート、アイザック・アシモフ、神林長平、ウィリアム・ギブスン、士郎正宗、ダン・シモンズ、伊藤計劃などを濫読してきた身としては喜ばしいことだ。
    実は私が1990年代に所属していたSFコミュニティでは、「SFの終わり」が語られていた。
    もはや現実がSFに追いついたというのである。
    もちろん、現実がSFの中のテクノロジィが全て現実のものとなったというわけではなく、SFが描く未来像が輝かしいものではなくなり、世紀末的な終末観と相まって、「テクノロジィがこれ以上進化しても、先が見えている」といった気分を生み出していたのだろう。
    要は、「未来の終わり」(宮台真司風にいえば「終わりなき日常」)のような雰囲気が、当時のSF界隈には漂っていたのである。
    私見では、当時のSFも時代の気分とは無関係ではなく、見通しの暗い未来を前に「パンク」するしかなかったのかと思う(実は、私はスチームパンク作品も好物であり、中でもティム・パワーズはファンダジィ作品も含めてお気に入りだった。)。
    しかし、現在、SFプロトタイピングが注目されている事実は、むしろ現実がSFに近付いたこと(あるいはSFが現実に近付いたこと)が、SFに新しい意義を与えたことを意味するのではないかと、本書に気が付かされた。
    柄にもなくSF語りをしてしまったが、このレビューをもって、こうしたことを考えさせてくれた本書への感謝に代えさせていただく。

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    2023年04月08日
  • アンチ・スポーツの哲学

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    ネタバレ

    子どもの頃から運動に苦手意識があり、できることなら避けたいという思考で生きてきた。スポーツ観戦でさえ、これまであまり熱くなったことがない。
    それでも、「物語化批判の哲学」がとても刺さったので、こちらも手に取った。

    本書では、スポーツを「明確なルールに基づいて、すごいやつを決めること」と捉えた考え方を美学としている。スポーツの根源をそう捉えることには納得感があった。ただ、純粋に「すごいやつを決めること」だけに焦点を当てて楽しむのは、現実には難しいのだと思う。私たちはスポーツに、さまざまな意味や楽しみ方を見出しているからだ。

    数々の試練を乗り越え、時には国を背負い、勝ち負けをめぐって人間の感情をむき出しにしてぶつかり合う。観る側からすれば、これほど物語化しやすい状況もない。

    スポーツと物語化は、切っても切り離せないものなのだろう。しかし、それが行き過ぎると、「苦しみを乗り越えることこそ美しい」「苦しんでこそ成長できる」といった価値観が押しつけられ、息苦しい同調圧力へと発展してしまうのかもしれない。私がスポーツに対して抱いてきた苦手意識も、そうした空気への拒否感だったのだろうか。

    相変わらず哲学書らしい小難しい論調ではあるものの、結局のところ、著者の主観を軸に展開される議論でもある。そう思うと、難解な哲学書というより、ひとつの視点から世界を捉え直すエッセイを読んでいるような感覚で、すんなりと入ってきた。これからのスポーツ哲学の発展が楽しみだ。

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    2026年10月12日