難波優輝のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
『アンチ・スポーツの哲学』(難波優輝)は、スポーツを礼賛するのでも否定するのでもなく、**「そもそも、なぜ私たちはスポーツを良いものだと思っているのか?」**という前提から問い直していく哲学書です。
本書の面白いポイントは、スポーツに当たり前のようについて回る「努力」「勝利」「成長」「フェアプレー」といった価値観を、一度疑ってみるところ。スポーツは健康にいい、人格形成につながる、努力することは素晴らしい――私たちはこうした考えを自然に受け入れています。しかし、その“正しさ”が強くなりすぎることで、運動が苦手な人や競争したくない人が疎外されたり、「勝つために努力すること」が目的化したりする可能性もあります。
タイトルに「アンチ」とありますが、単純なスポーツ批判ではないのも重要です。むしろスポーツを哲学的に分解することで、競争すること、勝敗をつけること、身体を動かすこと、遊ぶことの違いを考え直していきます。スポーツを疑うことで、逆にスポーツの面白さとは何なのかが見えてくる構造がユニークです。
そしてスポーツについて考えているはずが、いつの間にか「努力すれば偉いのか」「競争に参加しない生き方は悪いのか」「成長し続けなければならないのか」という人生そのものの問いにつながっていく。
スポーツ好きにも、スポーツが苦手だった人にも面白い一冊。当たり前に“良い”とされている価値観を疑うことの面白さを味わえる、少し挑発的で思考を刺激される哲学書です。 -
Posted by ブクログ
楽しい読書でした。
言わゆる読書術みたいなものではなく、本書で論じられる概念を利用して自分の読書の可能性を開拓するというような手触りの本。
「趣味は?」と聞かれて3番目くらいまでに「読書」が出てくるような人が読むと、特に実りがあると思う。とは言え本書は、読書に興味がある人に広く開かれている。
以下、自分の理解による概略(つまり面白かったポイント)です。
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本書では読書をパフォーマンスと位置づけ、少し距離を置いて考察できるように整える。
これによって、①自分が1冊1冊の本をどのように楽しんでいるかを反省的に観察できる、②パフォーマンスの巧拙を審査する(相対的な)基準を設けて自他のパフォーマンスを評価できる、ようになる。
①に関しては他者とのパフォーマンス比較(つまり感想のシェアなど)を通じて自分のパフォーマンスのクセや、自分がどんなふうな読書を楽しいと思うのかを考察できるようになるという点で有用だった。
②は言わゆる「読書が上手/下手」の話で、根本的にはどのように読んでも良いが、例えば本のジャンルごとにその特性ごとの読まれ方を考察し、それをその場での基準にして巧拙を評価することはできるだろう。小説と自己啓発本、雑誌、マンガ、楽譜では読み方がそれぞれに異なるはずで、全てを同じ「読書」として評価するのは無理がある。
第1章が総論(読書パフォーマンスとは何か?)で、以降は各ジャンルの本について「期待される読まれ方」の考察が行われる。もちろんその全てが腑に落ちる主張なわけではないが、読者はそこからいくらでも自分の「読書の哲学」を始めることができる。言わば本書は、読書に関するレシピ本なのである(この意味はぜひ第7章で)。
個人的には特に第6章の、マンガに関する考察が面白かった。マンガを読むのが読書と言い難いと思われているのはなぜか?について、独自でありながら明快で説得力のある主張がなされている。本だけど本じゃない、不思議な存在。これからマンガを読む際に見る視点が変わりそうだ。 -
Posted by ブクログ
日常のありとあらゆることを「倫理的なこと」と「美的なこと」に選別し、批評していく試み。
第5章「分かり合わないことの美学──不同意コミュニケーション」がよかった。
分かり合うことが善とされるが、手放しにそうとは言えないのではないかという批評。分かり合えないという事実も美学的でかけがえのないことであるという。世界をみつめる視点が少し明るくなる前向きな主張だと思う。
第8章「 新しい快楽主義者たち──猫と廃墟とアナキズム」で、猫をアナーキーな存在として捉えているのも良い。アルゴリズムに支配され、常に最適化された世の中において、予測不能な存在というのはある種で救いとすら呼べるのかもしれない。
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「性的なもの」にフォーカスした第一章は、街中の性的な広告についての論争を軸に、なるべく客観的に論点を整理する内容。一方「えっちなもの」についての第二章は、えっちなものを2つに分類分けした上で考察や展望(?)を述べていくという筆者の主観寄りな内容になっているので、読んでいる中で切り替えないと混乱しちゃうかも。
タイトルのユーモラスさに惹かれてこの本を手に取った私としては、第二章のほうが新鮮な感覚もあり、筆者もノリノリで書いているように感じて楽しめた。
個人的な話、車がグシャグシャになる動画を「えっちだ…」と思ってしまう自分の感性に、以前から疑問を抱いていたのだけれど、これって「崇高のえっちさ」なのか……。 -
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先日これを家内に読んでいるところを見つかり、不必要なほどにこれが知的に面白い本であることをアピールしてしまったが、そのような気まずさがなぜどのような事情で生じるかを改めて知ることができる本。どうしても下世話な内容を連想させるテーマだが、気取ったり奇を衒ったりするところのない誠実な語り口が心地良く、作者の主張がすんなりと頭に入ってくる。
なぜ性的な概念はこれほどまでに気まずさを呼び起こすのか?筆者は、人が自らの手の届かない領域の「向こう側」に抱く憧憬と同化の欲求が美的判断である「えっちさ」の根幹を成すとし、巷間言われるような生物的な性欲が文化的な「えっちさ」を規定したのではなく、逆に「えっちさ」に対する欲求こそが性欲の基底にあるのだと説く。この「えっちさ」を判断する基準が異なるがゆえに、特に公共的な領域で我々は気まずさを覚えるというわけだ。
そして、この「向こう側」への欲求は、あまりに簡単に「男/女」や「接触/非接触」などの紋切り型二元論に回収されてしまい軋轢をもたらす。これを脱する手がかりとして、皮相的な理解を超えた「謎めき」という概念が導入されるが、そこで「〈世界史〉の哲学3(大澤真幸)」で取り上げられていたクリプキの「反記述説」に似た論理展開がなされているところが面白かった。
子供の頃に読んだ「気楽に殺(や)ろうぜ」という藤子F不二雄の傑作短編を思い出した。 -
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近年、(主に米国の)先端産業の経営者がSF作品のファンであることにも起因して、SFというジャンルが注目されているようだ。
そこで、SFを積極的に経営に活かしていこう、というムーブメントが生まれ、これがSFプロトタイピングとして市民権を得たものであろうと思う。
「ドラえもん」、星新一から始まり、フランク・ハーバート、アイザック・アシモフ、神林長平、ウィリアム・ギブスン、士郎正宗、ダン・シモンズ、伊藤計劃などを濫読してきた身としては喜ばしいことだ。
実は私が1990年代に所属していたSFコミュニティでは、「SFの終わり」が語られていた。
もはや現実がSFに追いついたというのである。
もちろん、現実がSFの中のテクノロジィが全て現実のものとなったというわけではなく、SFが描く未来像が輝かしいものではなくなり、世紀末的な終末観と相まって、「テクノロジィがこれ以上進化しても、先が見えている」といった気分を生み出していたのだろう。
要は、「未来の終わり」(宮台真司風にいえば「終わりなき日常」)のような雰囲気が、当時のSF界隈には漂っていたのである。
私見では、当時のSFも時代の気分とは無関係ではなく、見通しの暗い未来を前に「パンク」するしかなかったのかと思う(実は、私はスチームパンク作品も好物であり、中でもティム・パワーズはファンダジィ作品も含めてお気に入りだった。)。
しかし、現在、SFプロトタイピングが注目されている事実は、むしろ現実がSFに近付いたこと(あるいはSFが現実に近付いたこと)が、SFに新しい意義を与えたことを意味するのではないかと、本書に気が付かされた。
柄にもなくSF語りをしてしまったが、このレビューをもって、こうしたことを考えさせてくれた本書への感謝に代えさせていただく。 -
Posted by ブクログ
本を読む、という所作全般を「読書パフォーマンス」として捉え、読書とは何か、本とは何かを考えていく。
内容はだいぶ難しいが、文体の柔らかさやわかりやすい例えが差し込まれているので、じっくりゆっくり読むとなんとかついていくことはできた。ただ、真に理解しているかは自信がない。日頃の読書も漫然と読むのではなく反芻しながら読むことで(つまり頭を存分使う)自分の中で何かしら変化があるかもしれないとは思った。
漫画はなぜ「本」とは言わないのかや、映画を観ることと本を読むことの違い、など立ちどまってよく考えてみると興味深いトピックはそれなりにあったので、もう一度読み返してみたいとは思った。 -
Posted by ブクログ
スポーツが好きで、自分でやるし、観戦も好んでするのだが、まさかスポーツにアンチする考えがあるとは思いもしなかったので、おもわずこの本を買ってしまった。
世間一般で、スポーツ結びつく美徳、礼儀が身につくとか、逆境に強くなるとか、教育に良いとか、そういったものを、本当にそうなのか、なぜそう思われているのかを平易な言葉と哲学の概念・議論を使って説明していて、面白い。スポーツに対して、新たな視座が得られる内容だった。
内容には、確かにそうだと思えるものと、それは何か違和感があると感じられるものがあったが、特に自分が違和感を感じたところは、この本のスポーツの定義だ。
本書では、スポーツとは「すごいやつを決めること」と定義されていたいる。この定義によると、ゲームや将棋など全身的動作のない競技もスポーツされる。しかし、私は全身的動作の伴わないものをスポーツと呼ぶことに強い抵抗感を感じる。スポーツには全身的動作は不可欠であると思っているが、その理由をうまく言語化できていなかったので、この機会に考えてみた。この定義では、卓越性が重要なファクターとされており、何に於てすごいか、というところで全身的動作の有無が自分のなかで引っ掛かっているのだろう。
まず、競技者の目線で考えてみる。身体的動作には必ず制御不可能性が伴う。自分の体を完全に思う通りに動かすことはできず、物理や神経などの要因によって、制御できない部分が出てくる。eスポーツを例に説明してみる。ゲームではボタンを押すと必ずそのボタンに応じた反応が起こる。それはだれが押しても同じ反応が起こる。
ゆえにゲームは老若男女誰でも平等な立場で競い合えるスポーツだといわれる。自分はこの制御可能性というか、公平性が、スポーツとかけ離れているように感じる。チェスや将棋なども同じだ。身体性の高い競技では、体を動かそうとしても、必ず、自分が思った通りの動きはされない。人それぞれ体格が異なるので、まったく同じ動作をしようとしても、違う動作になる。この制御不可能性、個別性、非公平性ともいえるかもしれない、を伴いながら、同じルールの中で競い合うことこそがスポーツたるゆえんと感じるところなのだと思う。
視点を変えて、スポーツを観戦する側から改めて全身的動作がスポーツに必要かを考えてみる。見ている側からすると、制御不可能性に向き合い続けることは、スポーツを見ている感には関係がない。というか想像するしかないのでわからない。しかし、将棋やゲームの試合を見ていても、面白いとは思うが、スポーツを見ている感はない。見ている側からは、身体性が必要な理由が別にあると思われる。以下の2つの説明が候補として考えられる。
① 身体運動の"直接可読性"
将棋の一手の凄さは、その背後にある読みの深さ・大局観を理解できて初めて分かる。素人が見ても「なぜその一手が凄いのか」はほぼ分からない。一方、100m走のフィニッシュや、体操の着地の美しさは、専門知識がなくてもある程度直感的に感じ取れる。身体の動きは、思考と違って外部化された、直接知覚可能な卓越性である。
② 運動感覚的共感
アスリートの動きを見るとき、自分の運動野やミラーニューロンが部分的に発火し、あたかも自分の身体で追体験しているかのような感覚が生じるとされている。将棋の一手を見ても、こうした身体的な「乗り移り」は起きない。観戦の興奮そのものが、身体を持つ者同士の共鳴に由来する。
この2つの説明で、eスポーツの例を考えてみる。eスポーツの観戦は近年非常に盛り上がっており、観客は熱狂し、実況に合わせて歓声を上げ、スポーツイベントのような興奮を観客は感じているようにも見える。この興奮はスポーツのそれとは別種の興奮だと考えているが、別具合はゲームの種類にもよる。例えば、ストリートファイターのような、人間のキャラクターが肉体を動かして戦っているように見えるゲームは①と②をある程度満たしている。しかし、FPSなどのゲームは満たしていない。eスポーツの興奮は、音楽のライブとかの興奮同種のもののように思う。その場にいる人と同じものを見聞きして、同じ興奮を感じている、感情と経験の共有の興奮だろう。
もちろんスポーツの観戦にも同じ興奮があるが、上記のようなスポーツ独自の興奮も備えている。つまり、スポーツの観戦には、「共有の興奮」と「スポーツ独自の興奮」の2つがあり、eスポーツには前者だけがある。一方で、ストリートファイターのようなゲームが①②を部分的にしても満たしているのなら、スポーツは人間がやっている必要はなく、精巧なCGを見ていても、スポーツ観戦は成り立つといえてしまうのだろうか。成り立ちはしないだろう。スポーツには、競技者と観戦者がいる。観戦者の体験と、競技者の「制御不可能性への抗い」が合致したときにはじめてスポーツだといえるといえる。
つまり、ここまでの議論をまとめて定式化すると自分にとってのスポーツは、以下のようになる。
「「スポーツ」を二つの条件の合致として定義する。
存在論的条件:競技者の側で、制御の完成が原理的に不可能な身体との格闘が実際に生じていること
現象学的条件:観戦者の側で、その格闘が想像的に追体験されていること」
この定義だと、自分が思っているスポーツはうまく拾えていそうだ。
本書で説明されていた、記述的定義と規約的定義の中間(スポーツといわれているものを含みつつ、こうあるべきというべき論の内容も含む)
の定義となった。 -
Posted by ブクログ
ちょうど友人から「本を読むなんて偉いね」と言われたばかりだった。全くしっくりこなかった。偉いと思ったことはない。ただ純粋に色々な本を読みたいと思うだけなのだ。その感覚は一体なんだろうと思っていた時に見つけた本がこちら。
手にとって良かったと思った。
驚くほど的確に言語化されていて、腑に落ちることの連続だった。難波さんはとても言葉の選び方が上手だと思う。自己啓発書を読む時にカバーをかけたくなる感覚の理由がわかってスッキリしたし、自己啓発書に向けられた難波さんの人間愛に満ちた眼差しに感動までした。
なぜ私が読書をやめられないのか、ちょっとだけわかった気がした。
自分のタイミングでページをめくり、手を止めて考える。小説で自分の人生ではできないことを擬似体験してみたり、新書で思いもよらない言語化に触れてみたり、自己啓発書で新たな自分を夢見てみたり。そういう刺激を受けて、頭の中で考えて、新たな言葉を自分にインストールして、落とし込んでみたり、既存の価値観が間違っていたと思わされたり、そういう揺さぶられる体験そのものを求めているんだと思った。スクラップアンドビルド。破壊と創造だ。
そしてそのために本を読むことはやはり偉いことではない。そういうことを通して考え続けるのが好きなだけで、やっぱりただの趣味なのだ。
とすれば趣味が読書と言ってもいいんだなぁ。おこがましくて言えないと思ってたけど、大丈夫なんだなと思った。そんな素敵な読者パフォーマンスをさせてもらえました。