【感想・ネタバレ】物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすためにのレビュー

あらすじ

物語はなぜ苦しいのか?「物語」が過剰に要求される現代社会で、「人生とはかくあるべきだ」という押しつけに抗う。
新進気鋭の美学者による「次世代の哲学」。

【推薦の声、続々!】
〇永井玲衣氏(哲学者・『水中の哲学者たち』『世界の適切な保存』)
わたしたちは何のために哲学するのか。
それは、もっと世界に出会うため、もっと広々とした場所に行くため、もっと可能性にめまいをおぼえるためなのかもしれない。難波さんは、考えれば考えるほど、自由になっていくみたいだ。

〇田村正資氏(哲学者・『問いが世界をつくりだす』「あいまいな世界の愛し方」『群像』)
ずっと、アイデンティンティを見つけなければと思っていた。
でも、アイデンティティという名の物語に囚われていただけだったのかもしれない。難波さんの本はそんな僕に「世界を見くびるな。そこから出てこい!」と語りかけてくれる。

【抜粋】
清涼飲料水の広告の少女はいつもドラマティックな青春を謳歌しているし、「推し」はファンの期待した筋書きどおりに振る舞うし、就活面接では挫折経験を「美談」として語らねばならない。
私は端的にこう思う。何かがおかしい、と。

人々はあまりにも強い物語の引力に引き寄せられて、もはや物語に支配されつつあるのではないか、と私は危惧し始めた。
だから、私はこれから、物語に対抗したいと思う。何かしらの物語が私たちの幸福を奪うのだとしたら、もはやそんな物語は廃棄されるべきだろう。私はよき物語を愛している。それゆえ、物語を批判したいと思う。愛するということは、支配されるわけでもなく、支配するわけでもなく、独特のバランスのなかで惹かれ合い、反発し合うことなのだと考えている。

第一部の「物語篇」では、物語化の持つ魔力と危うさを論じていく。第二部の「探究篇」では、物語の危険を避け、物語を相対化できるような思考を「遊び」を手がかりに探索していこう。その中で、改めて物語との向き合い方がみえてくるはずだ。
物語化批判、そして、遊びの哲学を始めよう。

【内容紹介】
〇 誤解を生む「自分語り」(第1章 物語批判の哲学)
〇「感情的だ!」という批判をする人こそ、実はもっとも「感情的」(同上)
〇 アイデンティティは服のように「着替えられる」(同上)
〇 人生を「攻略」しようとする人が陥る「視野狭窄」(第2章 ゲーム批判の哲学)
〇 なぜ人は「考察」と「陰謀論」にハマってしまうのか(第3章 パズル批判の哲学)
〇 真のギャンブラーが欲しいのは「お金」ではない(第4章 ギャンブル批判の哲学)
〇 残酷だけど創造的な「おもちゃ的生き方」(第5章 おもちゃ批判の哲学)

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Posted by ブクログ

新進気鋭の美学者が、社会に浸透する物語化へ無文別な態度対する疑問を呈する。
登場する用語は、情動、陰謀論、考察、推し活、MBTI、SNSなど昨今様々な形で論考の題材となっているものである。現代重要ワードの詰め合わせである。これらの用語の解釈を経て、人生を自分ごととして取り戻す契機として、「おもちゃ」遊びへと到達する。

私の人生はどのタイプなのだろうと思い返してみる。個人的には意外であったが、「ギャンブル」が当てはまるのではと本書による解釈を得る。

若い時分は人生に意味や目的を持たずただ惰性で過ごしていた、何かを発散するわけでもなく昨日と同じ今日が無意味に繰り返されることにちょっとした絶望を抱きながら。就活は自己分析・面接の自己欺瞞さに嫌気がさし、ただやってる感だけで取り組んでいた。思うに「情動」駆動が乏しいのだろう、現在のSNSコミュニケーションにもまったく適応できていないところからも推察される。物語的(自己定立)のもゲーム的(ノルマや達成)にも生きていない。

世の中ままならないと思いながら、無力の浮遊感に漂いながら暮らしてもいる。唯一無二の真理を探究する野心もございません。おもちゃ遊びのような敵意のない無邪気さを発揮する世界のかかわり方はもっての外。となると消去法で、「ギャンブル」にたどり着くのだが、私にとってそれは競馬やパチンコではない。
日常性からの逸脱という意味では、酒宴と接続される。深夜酩酊している瞬間の非日常からの逸脱、世間の退屈から一瞬だけ解放させる、本書の表現を借りれば「象徴的秩序」からカオスな「現実界」に足を踏み入れる会館があるのだろう。ついでに言うと、お金の価値も崩壊する。(コンビニおにぎりの値段に敏感な私は消滅し、高いショットをがばがば煽るのである)

ということで、私は「ギャンブル」的生なのである。これが著者の最後の問いかけに対する答えだ。本書を読んでみて自分がどの生を営んでいるか、占い気分で手に取ってみてはいかがでしょうか。

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2026年02月22日

Posted by ブクログ

カオスで単一の生活があるはずもない世界を物語の力で平面化することの危うさを論じた本。おもろかった!
何らかのフィルターを通して世界を解釈・整理しようとする試みは強制的に世界の「次元」を下げて単純化することに他ならない、という主張。この本では「物語」がメインで語られるフィルターとして取り上げられているけれど、きっとどのフィルターであっても同じことが起きるだろう。
単一のフィルターを通した世界にとどまり、その短所を意識せずに過ごすのではなく、いくつもの世界を渡り歩いてそれぞれの世界の軋轢の様子を楽しんだり、創造的に世界自体を破壊してリビルドすることで複雑な世界を生きてゆこう、という考えはそうだなと思った。大人として賢くあろうとするほど「この世界にフィルターをかけたのは誰か」という論点に目を向けなくなる。そこを破壊する態度が自分には必要だなと感じた。

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2026年02月08日

Posted by ブクログ

タイパ、コスパ、という言葉や概念が、こんなに流行ったり浸透して、良いものとして受け入れられている背景には、人生を物語化している、またはそうさせるような仕組みのある社会があるのかな、と感じた。
もっと遊ぼうぜ。

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2026年01月25日

Posted by ブクログ

このような本を読むたびに「それは貴方が可能性や善や自由を好ましいと思っているだけではないか」という感想が浮かぶ。

歪んで閉ざされた自己理解で大いに結構である。

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2026年01月02日

Posted by ブクログ

世界は物語で溢れている。お湯を注げば誰でも美味しいカップラーメンができるような、ありもので定型的でわかりやすい物語にいい加減辟易している。しかし、物語を紡ぐことで私たちは歴史や価値観を伝承してきた。私たちは人の言葉を食べて、言葉で生き方を決められる生き物なのだ。
物語は用法と容量を守って正しく服用を。そして、物語から逸脱した楽しい遊びに思いっきり自分を没入させよ。そうメッセージを受け取った。

刊行イベントにお邪魔したが、難波さんは宇宙人だと自称し、確かにエピソードも浮世離れしていた。なぜ知らない人の顔のポスターを家に貼るのか、なぜ締め切りが頭にあるのに実行できないのかなど…優しい宇宙人が舞い降りてきて語りかけるよいな、妙なイベントだった。

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2025年12月27日

Posted by ブクログ

私たちは「物語」を生きている。そして、「物語」は、きっと私たちを支配している。それは、不可解なことがらに出会ったときに、理由としての「物語」を求めてしまうように。

いま、「物語」は権威的な、マジックワードになりつつある。著者は、その「物語」の看過されている特権性を指摘し、「物語化」からの逃亡を図る。本書は、「物語」ではない世界との接し方の提案を試みる意欲的な論考である。
著者は、「物語」以外の理解の型として、「ゲーム」「パズル」「ギャンブル」「遊び」に目を向ける。重要なのは、単に代替手段として提案するのではないことである。これらにも、きちんと批判のまなざしを向けている。そして、結局は万能なものは存在しないことに辿り着く。しかしながら、これらは、力を持ちすぎている「物語」に抵抗するための、武器のようなものだと言えるだろう。
本書は、「物語」を批判的に捉えるための考え方と方法を提示する、実践的な書である。

ただし、個人的には、やはり「物語」から逃れることはできないのだろう、という実感がある。「ゲーム」「パズル」「ギャンブル」「遊び」という世界の切り取り方の違いをもってしても、「物語」からは逃れられない。なぜなら、「物語」はそれらを包括するような、もっと大きな概念だと捉えられるからだ。
本書は、力を持ちすぎた「物語」を批判的に捉え、「物語」ではない世界との接し方を模索する「物語」なのである。

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2025年12月19日

Posted by ブクログ

面白かったしびっくりするほど読みやすかった!

自分語りは過去を再構築することである。創作である。
歴史の再構築は訂正可能性があるのに対して、自分語りは真偽を確かめられる人がいないため、自己理解にも他者からの自己理解にも歪みが生じる。

なぜ私たちは情動を感じたいと思うのか。それは第一に、私たち人間にとって、適切に情動を感じることそれ自体が喜びになりうる。それは、世界に対して適切に反応する、という能力だ。

私は感情的にならないというのも論理的な気分なので、私たちは気分に支配され続けている。

パズルは正解があるからジリジリ感が楽しめる。正解がないもの(例えば今月の予算など)を考えるのは全く楽しくない(確かに!!)

求められているのは、個人的な経験と構造的・制度的な次元とを行き来しながら自分がいま直面している困難が果たしてどのような社会的文脈によって生み出されているのかを考える力(ハッとする感覚)と、一つの単純な答えに固執しない柔らかさを持ち、パズルの解けなさとともに粘り強く生きること。

人生は物語ではない。パズルである。

ギャンブルで買ったお金はなんの努力もせずに手に入れたものだから価値を感じず、貨幣の大事さがなくなるためギャンブルに身を投じた人は社会に帰って来れなくなる。

物語にとらわれずに想像と破壊、おもちゃ的発想を大事にすることが大事だ。

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2025年12月16日

Posted by ブクログ

物語化のバランスをとることから、オルタナティブな生き方としてのゲーム、パズル、ギャンブルへの展開、そしておもちゃへ

この切り口おもしろい

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2025年12月07日

Posted by ブクログ

「物語」の持つ力の功罪について関心があったので発売当初から気になっていた本。ちょっと遅れましたがやっと読みました。
前半の物語篇は大枠として私も共通した問題意識や関心を持っていて、とはいえ私は考えていなかったような領域の話も含めて論点をうまく整理してくれた感覚が強い。
後半のゲーム・パズル・ギャンブル・おもちゃについてはなかなか面白い問題提起だなと思ったけど、物語の持つ力の功罪に直接つなげる形で考えた方が良いテーマなのかはちょっとまだ保留。今後それぞれのテーマを深堀りしていくとのことなので楽しみにしたい。

仕事柄「物語」を活用することは少なくない。傷ついた人や迷い悩む人が物語ることや物語を参照することによりエンパワメントされるポジティブな面もあれば、物語のイメージや構造が呪いになってしまうこともあるという個々人に対してのミクロな問題としての功罪がまずある。さらにマクロな問題というか、例えばマーケティング戦略や施策等の中で物語の力を活用することの功罪も色々ある。本書の中で何度か使われていた「バランス感」という言葉だけに頼ってしまっていいのか、著者の言うように物語以外のメタファーとの併用がいいのか、もう少し考えていきたい。

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2026年02月22日

Posted by ブクログ

「何者かになりたい」は呪いだというタイトルに惹かれて読みました。

内容は、想像していたものよりも恐ろしいと感じました。

今の自分って本当は何者なのか?と考えさせられました。

自分は、どのような人物かを説明する就職活動の面接で語る内容は、面接用(合格するためのきれいな)の自分を作り上げていく。

これについて本の中で話は進められていく。

今思うと面接当時に作った自分を少しずつ修整してきて今の自分がある。

この自分は、本当に自分なのか?それともよそ向けの自分なのか?

深く考えたことがないテーマであり、とても面白かったです。

また、時間を空けて読むとまた違う面白さが出てくる本であると思います。

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2026年02月14日

Posted by ブクログ

ネタバレ

ギャンブルの面白さについて、現実そのものへのアクセスという視点が面白かった。
具体的には、
私は以前から、ギャンブルに狂信者の如くのめり込むキャラクターなどを見たとき、そこまで駆り立てるものは何なのかと思っていたが、
それは著者のいうような、やれることをやった上で可能となる制御不能でどうしようもなく壮大な現実との接触なのかもしれないと思うと、かなり納得できるり
というのも、私の趣味である学問も、それを通してそのような現実の巨大さ・崇高さを実感することが魅力だと個人的には思うため。

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2026年02月12日

Posted by ブクログ

事前に予測していた内容と少し違っていたが、過度に物語的な枠組みに当てはめて人物・事物を理解することを「物語的不正義」という概念で説明しているところと、筋の通った物語が存在しない「ギャンブル」に関して論じているところが面白かった。
「むしろお金というのはギャンブルをするために作られた紙と言ってもいいほどです。」という名言を吐いた芸人がいたとは。

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2026年02月08日

Posted by ブクログ

人生は物語ではないというビックリする提唱から、ゲーム・パズル・ギャンブル、そしておもちゃへと論考が移ろう。
物語がもたらす危険性とそこからの脱却をするための考え方が語られ、盲信的に自分を物語ってばかりいたことに反省した。何も物語が悪いわけではないが、世間が求める物語に自分を当て込んでしまっていることに愕然としたのだ。
日々様々な役割を演じ、自分が見えづらくなっている実感があるなかで、それをいかに壊してまた新しい自分を手に入れることができるのか、それを求めていきたいと考えさせられた。

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2026年02月05日

Posted by ブクログ

ネタバレ

本屋をプラプラしていてタイトルに惹かれて手に取る。自分は物語やナラティブについて肯定的に捉えていたので、それらをどのように批判するのか興味がでた。物語信仰の危うさは納得。物語的徳という言葉、頭の片隅に残しておこう。物語思考と並べて、ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃ遊びを比較。
おもちゃ遊びは、軽やかさ、破壊力、偶然、無秩序、浮遊などの要素が他の主体を怒らせがっかりさせる。しかしそれを超越したとき、それぞれの世界の論点がずれ、その場に朗らかな関係が生まれたときおもちゃ遊び的連帯が生まれるのでないか、と主張。それって素敵だよねってニュアンスだと思う。新たな視点を得られた気分。でもこの獲得の流れは物語的だ!笑
子供のルール無視、意味不明、突発的なふわふわした遊びも寛容に付き合ってあげようと思うとともに、分断する世の中を理屈や論理だけで決めつけるのは良くないなという思いも強くなった。途中文章が入ってこなくなることもあったけど、昔の哲学書みたいで鍛えられ良き読書体験だった。

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2026年01月31日

Posted by ブクログ

なんとなくマーケティングや政治で物語が悪用されているのでは?と問題意識を持っていた時に出会えた一冊。当然ながら自分よりも広い視野と洞察力で物語の問題点を指摘していて感動しました。
後半のオルタナティブは物語と比べてだいぶ弱いという印象。私自身が物語に染まってしまっているからかもしれません。

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2026年01月07日

Posted by ブクログ

ナラティブという言葉をよく聞くようになり、物語について肯定的な世間だが、それについて一石を投じている書名なので気になった。

出典の哲学についてよくわからないが、それでもわかるように記述されており、予想したよりも深いところまで引き込まれたと思う。

ギャンブルと物語の関係など、言われると唸ってしまうような項目も多く、視野を広められたと感じる。

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2025年11月19日

Posted by ブクログ

人生の意味をいかに見つけるか(=生き方であり遊び方)として、物語的、ゲーム的、パズル的、ギャンブル的、おもちゃ的という5つの人生観を整理したうで、現代の生き方で最も現実的とされている物語的・ゲーム的生き方が伴う危うさと、1つの遊び方に呑み込まれないことを説いている本。
現代の資本主義のもとでビジネスと向き合っているなかでは、当たり前のように物語的主体やゲーム的主体の考え方が正しいとされているが、遊び方はそれだけではなく多様なものであるとハッとさせられる。「人生を意味を感じるのに必ずしも物語を通す必要はない」というのは、物語化を生業としている人こそ意識しておくべき言葉。当然、人生理解と事業推進などでは文脈も異なるが、なにもかもストーリーに落とし込むことが是とするのは、解釈の独占を行うような物語的不正義を生じさせるほか、解釈の楽しさを削っている行為とも考えさせられる。
物語化批判というタイトルの通り、近年特に過大評価されている物語化への批評に尽きるかと思いきや、最後のおもちゃ的哲学の展開はまさに哲学的で面白かった。おもちゃ遊びは意味や目的を持たず、偶然の遊びを優先する。そこには物語のようなエモさも、ゲーム的なフロー状態も、パズル的なハッとする経験も、ギャンブル的な崇高も、人生のだいそれた意味はあまりない。物語化批判の展開としてそうした偶然性に委ねる遊び方にロマンを求めるのは論理的であるとは思うものの、誰しもが経験するおもちゃ遊びとして捉えるところに非常に面白さを感じた。

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2025年11月15日

Posted by ブクログ

物語化や自分語りになんとなく違和感があり、読み始めました。モヤモヤが言語化されてすっきりしました。批評、言語化の大切さを改めて認識しました。

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2025年11月14日

Posted by ブクログ

ずっと思っていた違和感に言葉が与えられた感じ。そうか、自分は何かを物語化することが嫌いだったんだ。わかるわかる、もっと若いときに読んで、周りの人にもこういう考え方があるって共有したかったな。
と思ったら、後半はホイジンガの遊びの類型を現代風にアップデートした哲学が出てきて、ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃのそれぞれの魅力と危険性、物語との比較がなされる。なんで遊び?となるが、自分の物語からもっと自由になるためのエクササイズであることがわかる。あとがきでも触れられるが、これはあくまでラフスケッチ。それぞれの遊びの哲学について書きたいとのこと。意欲的だ。

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2025年11月13日

Posted by ブクログ

ネタバレ

筆者が言いたかったのは、なんでもかんでも何かに当てはめたり、意味を求めたり、固定化するなということだと思う。一貫性とかキャラとかルールとか自分を縛るものが窮屈に思えるなら無理に乗っかる必要はない。その時その時必要な考え方を道具のように切り替えて使えばいい。

あと、人は感情的になりたいから物語や芸術・表現を求めるという断定や、常に何かしらの気分のもとにあるという視点は面白い。言われてみればそうだとも思う。感情や気分はコントロール可能なのではないかという可能性を感じた。大抵の人は意識的かそうでないかは別として、うまく実践しているのかもしれない。

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2026年01月29日

Posted by ブクログ

物語をどのように捉えるのか。
物語を求めすぎな状況。物語があると心が動くのも事実。
おもちゃ化のところは文章も軽やかだったように思う。

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2026年01月26日

Posted by ブクログ

人生を物語として捉える生き方に問題提起する本。
物語的な生き方のオルタナティブとして、人生を「遊ぶ」というしかたを新たに筆者は提示する。具体的には、ゲーム的、パズル的、ギャンブル的、そしておもちゃ的な生き方。
自分への備忘としてそれぞれの生き方は簡単に(!)まとめる。ゲーム的とは人生をハックすること、パズル的とは人生にトゥルーエンド(答え)があると信じること、ギャンブル的とは人生において自分がコントロールし得ない純然たる偶然性を愛すること、そしておもちゃ的とはそういった目的や意味から逸脱してしまうこと。
これらのいい面、わるい面が本書では分析されていて、いずれかの生き(遊び)方が推奨されるわけでは無さそう。もう少し突っ込むと、おもちゃ的な生き方が他のそれ以外の生き方(「世界」)の橋渡しとなって、それぞれを行き来しながら旅をすることが本書の結びでは提案されていた。
自分の人生を「物語」として捉えてしまうがために思い悩むことが2025年(自分にとっては社会人1年目の年)はドッと増えて、そんな時に助けを求めるように手に取った一冊だったが、一先ずあと5年くらいはこの問題と向き合わないといけないんだと最近は思ってる。

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2026年01月18日

Posted by ブクログ

序盤の物語化の課題については理解できたが、最後のおもちゃ遊びはコンセプトはなんとなく理解や共感できつつ、あまり腑に落ちなかった

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2026年01月02日

Posted by ブクログ

就活が嫌になる理由、「MBTIこれっぽいね」と言われた時の不快感など、自分を物語化されることがなぜ嫌だったのか言語化して理解できた。ゲームやパズル、ギャンブル、おもちゃなど様々な視点から人生の遊び方が書かれており、何が正解とはなくとも、そうした生き方をしている人がいることやそれぞれの危険性が理解できた。著者が若いからか、アーティストや芸人の引用が身近で入ってきやすかった。

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2026年01月01日

Posted by ブクログ

就職活動の「ガクチカ」(私の就活時にはそんな略語はなかったが…)などの自分語りやら、「16Personalities性格診断テスト」(血液型性格診断、動物占いの焼き直しに見える)といった性格の類型化やらに物語の悪さを見、物語がもたらす欺瞞や視野狭窄といった危険を訴え、その対策として物語以外の遊び(ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃ)を検討する。で、「ゲーム的主体」やら「パズル的主体」やらといった言葉が出てくるのだが…、これらのオルタナティブな生き方が世に受け入れられるとしたら、それは結局「私ってパズル的主体の人だからぁー、おもちゃ的主体の彼とは相性最悪なのよねー」とかいった、何処かで見た景色の更なる焼き直しになるだけでは? と思った。

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2025年12月31日

Posted by ブクログ

作者の意図とずれてたらアレだけど、世の中の常識やステレオタイプ(物語)で自分の範囲を決めてしまう事のリスクや、ゲーム性、パズル性、ギャンブル性、おもちゃ(目的のない行為)の重要性、これら5つのバランスが大事とか、今までの人生経験で感じてたことがそのまま文章になってた。
あまり新しい発見がなかった(出来なかったのかも)のが残念だが、良い復習の機会になった。

なんか文章が無駄に難解。話の流れも散らかってて、読んでて体力使う。

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2025年12月27日

Posted by ブクログ

現代日本の批評家である難波優輝(1994-)による現代文化批判。2025年。

本書は、物語を愛するという著者が、人生を物語として意味づけようとする現代の風潮に対して、違和感を表明するところから出発する。①そこから現代人が物語を欲してしまう理由と物語的な意味づけの危険性とを分析し、②さらに物語に代わって生と世界を意味づける多様なスタイルについて検討し、③最後は物語を相対化することを試み、そこから他者との連帯の可能性を探る。

「愛するということは、支配されるわけでもなく、支配するわけでもなく、独特のバランスの中で惹かれ合い、反発し合うことなのだと考えている。」(p7)

人はなぜ物語を欲するのか。それは、根源的には生と世界が無意味であるという端的な事実性と、その無意味さに自足できない人間の過剰さとに起因するといえる。人は、物語を通して生と世界を整序することによってはじめて、それらを有意味なものとして理解することができるようになる。本書は「生と世界の無意味さを前にして人はいかに生きていくべきか」という問いに、他者との連帯の可能性を接続しながら、応答していこうとする。

□ 「物語」批判

本書では、無意味な生と世界を意味づける多様なスタイルの例として、物語(「人生(世界)は来るべきエンディングに向かって進んでいく物語である」)、ゲーム(「人生(世界)は課題を克服してハイスコアでクリアすべきゲームである」)、パズル(「人生(世界)は唯一存在する単純明晰な正解を発見することによって解き明かされるべきパズルである」)が挙げられている。ここでは、人生(世界)をひとつの意味を有する体系として解釈する、これら多様なスタイルの総称として、カッコ付きで「物語」の語を用いることにする。

「物語」とは、生と世界をひとつの意味の体系として解釈することである。「物語」には以下のような困難がある。

第一に、「物語」による意味づけは必然的に不十分である。例えば、人は突然の災難や喪失に見舞われると、それまでの日常においては確かなものとして感じられていた他者や世界との紐帯から断ち切られて宙吊りにされてしまう。そこで起こっているのは、それまでの安定的な日常を成立させていた「物語」の無効化であり、このとき人は強い存在論的不安に襲われる。こうした危機的状況にあって、人は、他者や世界との関係の中に自己を位置づけ直し、再び自己の生の意味と目的を回復すべく、自己が置かれている状況に新たな「物語」の枠組みをあてがうことを試みる。新たな「物語」を通して、過去を構成し直し、現在の苦難の意味を解釈し直し、進むべき未来の行き先を設定し直すことで、何とかして自己を新たに立て直そうと苦闘する。そこでは、複数の「物語」を試行的にあてがってみて、それらの中で存在論的不安を最も緩和してくれる「物語」を生きようとする。では、それら複数の「物語」の中から最適なものを選択する基準は何か。「何がしたいか」(欲望、エスの観点)、「何をしたほうがいいか」(功利、自我の観点)、「何をすべきか」(当為、超自我の観点)など、どの様相の観点から「物語」を選択し、そこからいかにして具体的な「何」を導き出せばいいのか。実はここで、この問いの解を導いて、最適な「物語」を選択するための、meta-levelの「物語」が要請されている。しかし、これは無限背進である。よって、「物語」は決定不可能である。人は、生の意味の根拠を求めて「物語」を欲するにもかかわらず、無根拠にひとつの「物語」を選び取らねばならない。このように、「物語」は、あくまで暫定的なそのつどの代物なのであって、常に改訂可能性に開かれているのであり、決して普遍的不変的な真理を約束してくれる枠組みなのではない。

第二に、上述の不十分さにもかかわらず、「物語」による意味づけは過剰に陥る懼れがある。則ち、生や世界を理解可能なものとして整序するための「物語」が、適用可能な範囲を超えて濫用され、自己や他者に対して暴力や抑圧として作用する可能性がある。なぜなら、自己や他者の在り方は無限に多様であるためその全体を単一の「物語」の枠内に押し込めてしまうことは不可能であるのだが、にもかかわらずこの事態は、人を「物語」の不十分さ(改訂可能性、適用可能範囲の限界など)への認識には向わせず、寧ろ「物語」に還元し切れない理解不可能な部分を「その人に相応しくない不純物」として排除する方向に向かわせてしまうから。ここでは、「物語」がそれを包摂可能であるか否かという「物語」の側の解釈の問題が、それが自己や他者に「相応しい」か否かという客観の側の価値の問題にすり替えられてしまっている。これは、人が「物語」の不十分さを受け止められず、「物語」と適切な距離を取れなくなっていることに起因する。

□ 「物語」的徳

以上の「物語」批判を踏まえて、「物語」的徳(「物語」との適切な向き合い方)として肝に銘じておくべきことを列挙しておく。

①「物語」は可変的である。つまり、「物語」は既に完成されたものではなく常に改訂可能性に開かれており、ひとつの形に固定せず改良し続けなければならない、ということ。②「物語」は複数的である。つまり、自分の「物語」は数多ある「物語」の中からたまたま自分の都合によって選び取られただけのものであり、他者は常に自分とは異なる「物語」を生きている可能性に開かれている、ということ。③「物語」は部分的である。つまり、単一の「物語」に他者や世界の多様性の全体を包摂させることは不可能であり、そこから排除されてしまう外部に対して常に想像力を働かせなければならない、ということ。なぜなら「物語」は、排除された部分に対して(それが自己であれ、他者であれ、世界であれ)、現実的な暴力や抑圧として作用し得るものであるから。④「物語」はイデオロギー的である。つまり、「物語」は自らが可変的、複数的、部分的であることを隠蔽し、自らを不変的、単一的、全体的なものとして偽装するため、「物語」に対して常に批判的な距離をとって外部から対象化し、そのイデオロギー性を自覚しなければならない、ということ。

「ここで重要なのは、「人生はゲームである」というメタファーは、社会制度や経済制度、道徳的規範といったルールを変更不可能な「前提」としてしまうという点だ。「ルールの改変」はゲームのメタファー中に埋めこまれづらく、それゆえに、多くのゲーム的主体は、ゲームのルールを攻略する、適応する、うまくやる、という発想しか出てこない。/けれども本来は、「ゲームそのものを新しく作り変える」ことや、「既存のゲームのルールを大胆に変更してしまう」行為も可能なはずだ。〔略〕。われわれは常に、プレイヤーでありながら、同時にデザイナーでもある。/その二重性を力として活用できるとき……そのときはじめて、「ゲームとしての人生」というメタファーは、資本主義の存続のための役割や、人生の意味を注入する手段としてではなく、人生と社会を編みなおし、リデザインする、抵抗のための重要なメタファーとなるのだ。」(p134-140)

「つまり、パズル的な最良の態度とは、謎解き(問題解決)の「じりじり」を愛する探究心を持ちながら、社会学的想像力によって個人の経験と社会の構造を往復し、「ハッとする」ことを楽しみながらも、一つの単純な答えに固執しない柔らかさと、再び「じりじり」を味わい、解けなさと共に生きる粘り強さを兼ね備えることにあるといえる。」(p170)

□ ギャンブルによる「物語」の無化

ギャンブルを通して「物語」は無化される。ギャンブルとは、生と世界の無意味性に放下することである。これはハイデガー的な本来性と決断の議論であるといえる。國分功一郎『暇と退屈の倫理学』で展開した、ハイデガー『形而上学の根本諸概念』における「退屈の第三形式」に関する議論とつながるように思われる。

ギャンブルとは、日常において有効な計算的理性によっては制御し切れない、究極的には単なる運不運によって左右されてしまう非日常的な偶然性に、我が身を曝すこと。ギャンブルによって、どこまでも擬似的で欺瞞的なものでしかあり得ない「物語」の被膜が生と世界から剥ぎ取られ、ギャンブラーは非本来的な日常(ラカンの「象徴界」)の惰性態を突破し、本来的な非日常(ラカンの「現実界」)に、則ち生と世界の無意味性という端的な事実性に、我が身を放下する。このとき、「物語」は無化される。こうして一切の「物語」つまり意味連関から切り離された人間は、そこに自らの根源的な「自由」の可能性を見出す。この「自由」の可能性はそのつど「決断」(一切の「物語」に依拠することなく無根拠に何かを選び取ることで、自己を生と世界へと投げやること)によって現実化される。ここに「物語」からの「自由」が実現する。

「空中の綱に乗っているとき、生きているのさ。降りているときは待ち時間だね」(p176、サーカス曲芸師の言葉)

しかし、一切の「物語」が無効化した非日常(「現実界」)を、ギャンブルを通してほんの一瞬だけ垣間見ることは可能であるかもしれないとしても、そこにおいて安定的に社会生活を継続することは極めて困難である。なぜなら、非日常(「現実界」)において無化された「物語」とは、日常(「象徴界」)的な社会生活の基盤となる「象徴秩序」を含むのであり、この「象徴秩序」によって社会はカオスに陥らずにいられるのだから。「物語」の危険性に対して、ギャンブルによる「物語」の無化は、現実的なオルタナティヴたり得ないだろう。

□ 遊びによる「物語」の相対化

遊びを通して「物語」は相対化される。遊びとは、生と世界の意味の複数性を遊動することである。これはポストモダン的な両義性と戯れの議論であるといえる。同じく國分功一郎の前掲書で展開した「退屈の第二形式」に関する議論につながるように思われる

「自分も相手も固定化された存在ではない。オープンさ、不確定性への寛容さ、自分を過度に重要視しないこと、馬鹿げたことや冗談に身を投じる柔軟性。これがルゴネスの遊び心だ。/異なる価値観や規範の中で生きる相手に対して、相手の想定外の行動や発言を柔軟に受けとめ、自分も一時的に別の自己を遊んでみること。〔略〕。相手の「世界」に一度旅してみること。/こうした態度こそが、ルゴネス曰く、異文化・異人種の女性たちが互いを「自分と等しく主体的な存在」として認め合う道筋を作り出し、愛や連帯を可能にするのだ。」(p219-220)

「そう。おそらく、おもちゃ的世界というものは、他のすべての世界とつながる交通経路のような細く伸びた世界なのかもしれない。他の「世界」の明確で一貫した論理に呑みこまれそうになりながらも、それらから逃れ出て、すぐに他の世界へと旅していける。」(p222)

「もしおもちゃ的主体が、ただ自己の楽しみだけに没頭するのでなく、相手の「世界」を面白がり、互いに軽やかに遊び合うことができれば、それはある特殊な連帯へと転じる。/それは共感の連帯というよりも、その場所でともに遊ぶ連帯だ。」(p225)

複数の「物語」間の遊動について、フッサール現象学の用語を流用して整理してみる。①日常において「生と世界の意味は、「物語」の外部に、それ自体として実在している」と素朴に前提してしまっている(意味定立)。②しかし、生と世界は端的な事実性において無意味である。③つまり、意味定立は、素朴ではあるが根拠のない思い込みに過ぎない(自然的態度)。④そうした自然的態度およびそのもとで営まれる自然的経験から批判的に距離を置くために、意味定立の判断を一旦停止し(エポケー)、そうした判断を前提とすることを一切禁止する。⑤こうして、生と世界の意味は、「物語」の外部にあるのではなく、その内部に引き戻される(「物語」論的還元)。⑥生と世界の意味は、「物語」の外部に実在するのではなく、「物語」の内部に引き戻されて(「「物語」論的」)、そこにおいて個人と文化との相互関係によって共同的に構成される(「間主観性」)ことになる。この働きを「物語」論的間主観性と呼ぶことにする。⑦「物語」の外部を前提していた自然的態度は、「物語」論的還元によって、「生と世界の意味はそのつど選び取られる「物語」の枠組みの内部において構成されるものである」ということを自覚する「物語」論的態度に切り替わる。⑧一方において、「物語」論的間主観性は、生と世界の意味を、「「物語」の外部に、それ自体として実在している」という「「物語」的な存在意味」をもつものとして、構成する。「「物語」的な存在意味」とは、「物語」論的間主観性が、生と世界の意味を、自らと切り離して、自らとは無関係なそれ自体として、客観化、実在化するということ。これは上述した「物語」のイデオロギー性につながる。⑨他方において、生と世界の意味は、「物語」論的間主観性によって構成されたものとして、「物語」論的間主観性の相関項として、それ自体として存在するのではなく「物語」論的間主観性にとって相対的に存在するものとして、則ち「「物語」論的相対性」において、存在する。「「物語」論的相対性」とは、生と世界の意味が、「物語」論的間主観性との関係において、あらしめられる、ということ。⑩生と世界の意味を、「「物語」論的相対性」のうちに捉えるか、「「物語」的な存在意味」において捉えるかによって、「物語」論的態度/自然的態度という相異なる態度が採られることになるが、人はいつでも一方から他方へと態度を切り替えることができる。このように、「「物語」論的相対性」と「「物語」的な存在意味」とのあいだを任意に往還することで、特定の「「物語」的な存在意味」に縛られることなく、いつでも別の「「物語」的な存在意味」に移動することができる。

このように「「物語」論的相対性」によって個々の「「物語」的な存在意味」の相対性が認識されることで、上述の「物語」的徳を獲得することができる。例えば、自他にとって暴力や抑圧として作用する「物語」があれば、それに固執することなく、別の「物語」に着替える可能性にも開かれている。また、遊びを通して、自他の「物語」に対する執着が相対化され、互いの「物語」に乗り入れ合ってみせることで、他者との連帯の可能性が開かれる。この意味で、遊びは「物語」と適切に向き合うことができる現実的なスタイルであるといえる。

□ 「物語」をおもちゃにする

「物語」を、現実の生と世界の意味づけではなく、現実から自律した全く別の世界、虚構を創出する遊びに用いてみてはどうか。「物語」をおもちゃにする遊び。現実から自律した世界の原理、法則、言語、地図、歴史、価値、社会などを、体系的に構築していく。虚構とは、現実とは別に、現実の外に広がる可能性のことであり、虚構への想像力は、現実が、無限にある可能性の中の、偶然のひとつに過ぎないことを教えてくれる。虚構というものの可能性を考えることは、「現実とは何か」「現実感とは何か」「現実と虚構はどのような関係にあるか」「現実と「物語」はどのような関係にあるか」という現実そのものに関する問いを考えることにつながっていくと思われる。虚構は現実を逆照する。

「物語が、何の社会的意義も見出されず、攻撃性も扇動力も持たず、ただひたすらに単なる物語として愛される社会。そんな社会こそ、私にとってのユートピアだ。」(p99)

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2025年12月26日

Posted by ブクログ

当たり前だが人生の捉え方が多様にあるということが改めて分かった。
自分はゲーム的、物語的な人生の捉え方をして今まで生きてきたと思う。「大変な時も自分の能力が上がれば乗り越えることができる」、「理想の姿に向けて成長することが大切」、常にゲームクリアや成功を目指して努力することに価値を見出していた。

『人生をRPG的に捉えることは、あらゆる出来事をクエスト達成のための通過点とみなす態度を助長しかねない。人間関係の葛藤や挫折、悲しみも「レベル上げのための必要なイベント」と解釈してしまえるからだ。そこにある一回一回の痛みや本当になすべきだったのかという倫理的な葛藤がなきものにされるかもしれない。』

この言葉が胸に刺さった。成長することに価値をおきすぎると、苦しいことや大変な状況に対して、それは当たり前であると考えてしまう。そして、苦難を乗り越えればその先に成功が待っていると思ってしまう。でも、人生はそんなゲーム的に作られていないし、人間の心はそんな機械的にものごとを処理できるわけではない。だから、一回一回の感覚や感情を大切に生きること、この本でいう「おもちゃ的」な人生の捉え方も重要だと思った。

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2025年12月24日

Posted by ブクログ

要は、緩やかにバランスよく生きようということなのかなぁと思った。かくあるべきも違うし、流されるのも違うし、答えを出すべきなのも違うし、、、ということか。
還暦前に不安もあるけど、なるようにしかならんもんだし、しなやかに余生を過ごしていきたいなと思うよ♪

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2025年11月24日

Posted by ブクログ

掴みが良かった。うちら物語に人生の自由もとい批判的な思考力を奪われてない?という認識があったので、危機感とともに本書を手に取った。

物語には情動を動かす作用が含まれており、良い点も注意すべき点もある。情動をさらに深掘りしていくと、ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃというオルタナティブに行き着くという考察を行っていた。後半は分かるようで分からないような…。要素としては理解できるんだけど、他にもあるんじゃないか?という落ち着かなさがある。

「今後のキャリアはどうしていきたいか?のような人生の計画を立てたくない。行き当たりばったりで生きていたい」願望にめちゃくちゃ共感した。PDCAサイクルみたいな装置に人生を侵されたくない。

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2025年11月01日

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