あらすじ
物語はなぜ苦しいのか?「物語」が過剰に要求される現代社会で、「人生とはかくあるべきだ」という押しつけに抗う。
新進気鋭の美学者による「次世代の哲学」。
【推薦の声、続々!】
〇永井玲衣氏(哲学者・『水中の哲学者たち』『世界の適切な保存』)
わたしたちは何のために哲学するのか。
それは、もっと世界に出会うため、もっと広々とした場所に行くため、もっと可能性にめまいをおぼえるためなのかもしれない。難波さんは、考えれば考えるほど、自由になっていくみたいだ。
〇田村正資氏(哲学者・『問いが世界をつくりだす』「あいまいな世界の愛し方」『群像』)
ずっと、アイデンティンティを見つけなければと思っていた。
でも、アイデンティティという名の物語に囚われていただけだったのかもしれない。難波さんの本はそんな僕に「世界を見くびるな。そこから出てこい!」と語りかけてくれる。
【抜粋】
清涼飲料水の広告の少女はいつもドラマティックな青春を謳歌しているし、「推し」はファンの期待した筋書きどおりに振る舞うし、就活面接では挫折経験を「美談」として語らねばならない。
私は端的にこう思う。何かがおかしい、と。
人々はあまりにも強い物語の引力に引き寄せられて、もはや物語に支配されつつあるのではないか、と私は危惧し始めた。
だから、私はこれから、物語に対抗したいと思う。何かしらの物語が私たちの幸福を奪うのだとしたら、もはやそんな物語は廃棄されるべきだろう。私はよき物語を愛している。それゆえ、物語を批判したいと思う。愛するということは、支配されるわけでもなく、支配するわけでもなく、独特のバランスのなかで惹かれ合い、反発し合うことなのだと考えている。
第一部の「物語篇」では、物語化の持つ魔力と危うさを論じていく。第二部の「探究篇」では、物語の危険を避け、物語を相対化できるような思考を「遊び」を手がかりに探索していこう。その中で、改めて物語との向き合い方がみえてくるはずだ。
物語化批判、そして、遊びの哲学を始めよう。
【内容紹介】
〇 誤解を生む「自分語り」(第1章 物語批判の哲学)
〇「感情的だ!」という批判をする人こそ、実はもっとも「感情的」(同上)
〇 アイデンティティは服のように「着替えられる」(同上)
〇 人生を「攻略」しようとする人が陥る「視野狭窄」(第2章 ゲーム批判の哲学)
〇 なぜ人は「考察」と「陰謀論」にハマってしまうのか(第3章 パズル批判の哲学)
〇 真のギャンブラーが欲しいのは「お金」ではない(第4章 ギャンブル批判の哲学)
〇 残酷だけど創造的な「おもちゃ的生き方」(第5章 おもちゃ批判の哲学)
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Posted by ブクログ
「大きくなったら、何になるの?」や「あなたが今、一番したいことは何ですか?」等々、人生は目的をもって生きるべきもの、生きなくてはならないもの、という考え方が、いつの間にか当たり前になっているような気がする。
かの大谷選手も、高校生の頃には何歳に何を達成している、という目標(=計画)を立て、それを基に行動していったとのこと。大谷選手ほどの偉人でない我々凡人も、またいつの間にか、今日、今年、○年後の計画を立て、修正しながら遂行しつつ生きなくては人間ではない(少なくとも、立派な人間ではない)かのような風潮に取り囲まれている。
本当にそうなのかとか、その風潮が息苦しいとか、ましてや目標を持たずに生きては駄目なのか、という問いは発せられることすら憚られるようなご時世。とりもなおさず、人生とは目標を立ててそれに向かっていくことで、本書の言い方を借りれば「攻略」しうるものであるかのようだ。
別の言い方をすれば、人生に対して正しく働きかければ、人生は予測できる範囲で答えてくれる、システムの様なものであるとの把握なのだろう。それは人生のみならず、世界(本書でいうところの、貨幣などの測定可能な尺度を有する象徴的世界)が、人間が予測でき、コントロールでき、「攻略(=制覇、支配)」しうるものである、という認識が根本にあるのだろう。
おそらく、大谷選手ほどの人であれば、思い通りにならないことは承知の上で修正を積み重ねるものであるとの謙虚さの上に立っていることとは思うが、これまた凡人のレベルだと、世界は正しく働きかければ正しく答えてくれる、という、ある種の公正世界仮説の様な認識に陥りがちである。
筆者は、人が物語を通して他者を把握することを好むのはお互いを物語の上で理解し理解されたいからだ、と論じている。その通りだと思う。さらに、個人的にはさらに広い範囲で、世界を自分の理解できるストーリーに押し込めたい、というゆがんだ公正世界仮説的な解釈を、ほとんど本能的に選択してしまうからではないかと思う。
けれで、本当に世界はそのようなものだろうか。思い通りになる(そう見えているだけ、というのが本当だと思うが)時もならない時もあり、予測がつかないもの、そもそも人の意志や願いなどに完璧なまでに没交渉で無頓着なものこそが世界なのではないか。芥川龍之介の「侏儒の言葉」に、人生が地獄よりも地獄的であるのはその予測のつかなさ故、といった言葉があるが、本来そうしたものではないのか。
そうだとするならば、人生を、世界を、目的/ゴールを有しそこに向かって一直線に進んでいける物語と解釈することは、世界をコントロールしうると錯覚した人間の傲慢にすぎないことになる。
筆者は、他者を(おそらく、世界も)物語の上で解釈することは、他者をその物語に押し込め、本来多面的であるはずの人間を、ある「目的」に沿った物語上での解釈に限定してしまう不正義をもたらすと論じている。その通りだと思う。
人生は「目的」に沿って一生懸命に努力すれば道は開けるもの、もし道を外れたとすれば、それは努力不足か、目標の立て方に誤りがあるか、とにかく本人の不作為によるものとされる。公正世界仮説の負の側面である、ある人が不幸な目に合うのはその人が不幸を招くような行動をしたからだ、というまさにそのままの思考というわけだ。人間を、ひいては世界を、そのような単一で単純な目的で語ろうとすること自体が不正義だ、と個人的には言いたい。
私見だが、このような見方は、西洋の一神教的教義の影響を強く受けているように思われる。一神教は西洋の専売特許ではないが、現在、西洋的文明が大きな力を持っていることを考えると、背景にある一神教(≒キリスト教)の見方も大きな影響を与えていることは無理な想像ではないと思う。
キリスト教では、唯一神が似姿として想像した人間が万物の長であり、他の動植物や世界は基本的に人間に、それを通じて最終的に神に奉仕することが定められている。ならば、神への奉仕という目的以外は人生/世界に不要で、ただそこに向かって努力すればよい。もしその目的が果たせないのなら、本人の努力(=信仰)の不足でしかないのだ。実に明快で、他の解釈も、他の目的も入りようがない。
世界も人間が神のために支配すべきものであるわけなので、世界すらも目的論的な存在に堕落させてしまう思考ならば、人生など目的なしには過ごしてはならないという解釈になるのはむしろ当然であろう。その思想の影響を強く受けた社会契約に基づく文明を築き、また同様に強く影響を受けた資本主義社会を築いたのなら、目的があっての人生、という生き方になるのもまた当然と思われる。
著者は、人間を物語として解釈することの認知的な強制手段として、「ゲーム」「パズル」「ギャンブル」の視点を挙げている。それぞれに、「物語」という目的に向かって進んでいくストーリー的な解釈の枠組みを突き崩す側面を持っており、特にギャンブルについての考察(いまの世界を脱価値すること)が面白い。
ただ個人的には、4つ目の「おもちゃ」こそが世界を物語/コントロールしうるストーリーとしてとらえる思考を解毒する最も良い方法だと思う。おもちゃの持つ「脱目的」という側面はきわめて強力で、本書内で語られる通り時には残酷な面すら持ちうるが、それゆえに、もともと人間の思う通りになるはずのない世界をありのままに見る思考法を思い出させるものとして、有効なのではないか。
最期に語られる、「私たちはもっと子どもたちに学ぶべきであるようだ」「大人たちはもっと、子どもたちのように成熟しなければならない」。これこそ、我々大人が身に着けるべき中庸の考え方であるように思われる。それでこそ、本書でいう「責任感を持たないという責任感」を身に着けられるのではないか。
なお、本書の参考文献としてマッキンタイアの「美徳なき時代」が挙げられているのが面白い。マッキンタイアは、私の解釈では、人には「物語」が必要で自らのアイデンティティは物語に沿った文脈で語られうる、と論じている。
一見、本書の内容と矛盾するようだが、個人的にはむしろ響きあうものではないかと思う。マッキンタイアの言う物語は、人が寄って立つあり方は、その人が存在している時代/場所に付随する歴史に基づいており、それなしで「自由な」自己を確立することはできない、という意味での、いわば個人の過去に関する物語だと思う。
もちろん、誤って解釈すれば、人は祖先や時代/場所のしがらみから逃れられない、ということにもなりかねないが、そうではなく、偶然の結果であれ、自分が生まれ属することになった集団の歴史を基にしてアイデンティティを認識し、そこから未来に向けて自分の歴史を紡いでいくことこそが責任ある態度だ、ということだと思う。もし日本人に生まれたのなら、過去に素晴らしい歴史もあれば他社を迫害した歴史もあったことを全部呑み込んだうえで、自分の生き方を選択すべきだ、ということだと思っている。
この考え方が正しいのならば、他者を軽々に物語として判断すべきではなく、マッキンタイア的な物語のバックグラウンドを持った者同士がどのようにかかわりを持っていくか、ということを考えるべきなのだろう。ある人が特定のバックグラウンド(=物語)を持っているからと言ってイコールその人がそのバックグラウンドそのものではない、バックグラウンドでその人を分かった気になってはならない、という態度を持てるか、が大事なのではないか。
Posted by ブクログ
やっと読み終えた
ぼくの頭ではところどころ難解と感じる哲学者の言葉の引用があり、スルスルと読み終えるに至らず
ところどころマッチョな読書タイムとなった
さて本題だが前述の感想でも述べたように、数年前からInstagramや Xに始まる物語を見て、時々モヤル事が多かった(Xはやめて随分経ちます、影響受けやすいのでやめてよかったw)
影響をたぶんに受け、なぜだかわからない息苦しさがずっとあった
しかし、本書のおかげでその日々にようやく終止符を打てた、気がする
人が、というかぼくが、物語を欲するのは情動だとわかった。
そして、それにカタルシスのようなものを感じたくなるのはしょうがない、そういうもんだし、それは遊びなんだよ、それは一つのあり方に過ぎず、のめり込んじゃダメで、ベキネバではなく、あくまでもそれを柔軟に受け止め、自らの人生に対して割り切れない何かを持ちつつ、人生を謳歌することが肝要なんだよ、ということを教えてもらった気がする。
最適解なんてあるのかはわからない。
が、それがあったにしても、それを得るために逆算しながら人は生きてはいない、少なくともぼくはそう。
小さな力でより大きなものを得るという近代社会から続く資本主義的構造からすれば想像だにしやすいが、それだけで生きることの困難さに立ち向かうことはできないのではないかと僕は思う。
追記
難波さんのいうように、子どもの頃のように柔軟で純粋に遊ぶ心を忘れずに、エスプリの効いた人生にしてゆきたい。
そしてただ生きる、それでぼくはいいかなと改めて思う。
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読み終えての感想は「まさに脱構築」「おもちゃ最高」。
哲学者というのは、語彙や表現や視点がすごいですね。
本当にすごい。って、哲学者ではないのかw
Posted by ブクログ
「遊び」を自分の生き方に取り入れられたら、自分と他者の違いを軽やかに楽しんで、世界がもっと広がると思った。自分の生き方を「物語」「ゲーム」「パズル」「ギャンブル」「遊び」の5点からそれぞれ振り返り、最終的には平和について考える書でもあると感じた。また、かなり個人的だが1980年代の代表的な評論である『逃走論』浅田彰著と併せて読みたくなった。
Posted by ブクログ
最高にキラキラ輝く本でした!
作者の難波さんが大好きになりました。
この人の語る言葉をもっと聞きたい。
もっと難波さんと遊びたいです。
どの論を取っても面白い。
実生活や経験と結びつけながら読みました。
最高でした。私の人生に大きな可能性を与えてくれる本になりそうです。
難波さんにまた本を書いていただきたいです。
全部で5冊絶対に書いてください。
また遊べるのを楽しみにしてます。
Posted by ブクログ
まえがきから一気に心を掴まれた。「青春」を強調した清涼飲料水のCM、就活で決まって聞かれるガクチカ、闘病する少女、ペット映画、大学生の性愛。消費されるエモーショナルはいつからか自分の文脈を離れて押しつけに変わっていく。そんな現実に抗うべくこの本は書かれたという。
本書は5つの遊びの視点から主体を切り出し、世界の見方を整理する。物語、ゲーム、パズル、ギャンブル、そしておもちゃ。それぞれが危うさを抱えていながらも、異なる美的感覚を持つものだと著者は解説する。
私は、これを読んで自分はキタニタツヤの『れびてーしょん』という曲を連想した。
「僕らは広告につかれている 例外なく端末と共に ほんとに欲しいものは 教えないくせにね」
インターネットが現実と区別がつかないものに変わり息苦しさを覚える人に贈られた曲なのだが、この曲が示唆するように、もはや生活インフラと化したインターネットでは顕著に、物語ることが強制されている。他にも至る所で推し活や炎上が関心のトピックに挙げられがちなことからも、そろそろ非現実での他者との関わり方のありようを見直す時が来ているのかもしれない。
とにかく、広告に、SNSの赤の他人に、終わりのないショート動画に疲れた人は、スマホ画面から目を離してぜひ本書を手に取ってみてほしい。
Posted by ブクログ
なぜ私たちは物語を物語以上に使ってしまうのか。例えば就活での自己PR、MBTIや推しなどのキャラクター性、自分語りなどのこと。これらは当てはめることで、診断どおりに動いてしまうなど視野狭窄になるリスクを背負ってしまう。そしてこの本では物語以外にも遊びを考えており、ゲームもゲーミフィケーションなど資本主義に結びつけて使われてしまっていることも批判している(レベルアップなど)。パズル的主体、ギャンブル的主体、そしておもちゃ的主体と、遊びから脱却の方法を考えていく。多趣味ですでに実践しているが、自分では言語化できなかったところも指摘していて興味深い本だった。
Posted by ブクログ
〈※感想長め〉元来、僕は「人生は物語そのものだ」と考えてきた。もっと言えば、自分の人生を一つの小説や伝記のようなものとして捉えることが多い。たとえば、僕はすでに二度の転職を経験しているが、職場が変わるたびに「さあ、新しい章の始まりだ」「この章はどんなオチになるんや」と考えるように。物語に登場するようなおもしろい何者かであるように。
そんな折、本屋で本書を見かけて、「自分の人生観に対してどんな反論があるんや?」と興味本位に手に取った。
まさにグサグサと刺さった。結局のところ、自分は何者かになりたいと願っていただけ。こうあるべきだという凝り固まった自己像を勝手に作り上げて、その枠組みの中で自分自身を理解しようとしてただけだと気づかされた。
自分の人生を物語として語ろうとする時、過去の事実は今この瞬間にはもうどこにも存在せず、あくまで「過去は作られるもの」だと。なるほど、その通りだと思う。今という視点があるからこそ、過去は意味づけられ形作られていくってことか。
物語として自分の人生を他人に語る時、「自分は何者かだ」「他の人とは違う存在だ」なんて息巻いていたつもりだったが、その姿はどこか滑稽で、むしろ現代社会の価値観や空気にしっかり踊らされていたのかもしれない。恥ずかしい、、そんな感覚を抱いたのが、本書を読んでの率直な感想。
もちろん、人生を物語として捉えること自体は悪いことではないけど、その物語は後から編み直されるもので、自己像もまた固定的なものではないということを意識しながら、今後は自分の人生を振り返っていきたいって思う。
また、まったく別の論点やけど、印象に残ったのはギャンブルの哲学についての部分。僕自身、競馬をよくするのだが、人がなぜギャンブルに惹かれるのかが実に鮮やかに言語化されていて気持ちよかった。
運を支配しようとし、結果をコントロールしようとした時にはじめてぶち当たる不明確性。その不明確性を前にした瞬間に感じる震えるようなひりつき。あれがギャンブル特有の快感だという。なるほど。
世界を理解したつもりになるんじゃなくて、むしろ世界が本来持っている不明確さや偶然性を楽しんでいきたい。そんな姿勢を持ちたいと感じた一冊だった。
Posted by ブクログ
正直に言うと、読みながら叫びたくなった瞬間があった。悲鳴に近いかもしれない。それくらい、ずっと頭の中でもやもやしていたことが言語化された本。
最近、世の中がやたらと「物語」を求めすぎていると感じてて。
例えば選挙で候補者の物語が語られたり、MBTIで人をカテゴライズするのもそう(もともとMBTIは「根拠ないものだし」)、就活で麗な自分語りをしてしまい、SNSでは感情を動かすストーリーが拡散される。
未知のものをそのまま受け取るよりも、わかりやすい物にはめ込んでしまいたがる傾向が、どんどん強くなっている気がしてそれがずっと気持ち悪かった。
この本はその気持ち悪さを書いてくれる。
特に1章はすごい。
心理系・カウンセラー系の人には必読だと思う。
自分のやっている仕事は欺瞞ではないかと思ってしまうかもしれない。全否定をするつもりはないが、とはいえ、物語(やナラティブ)にはこういう面があるよね、という認識はしておいて損はない。
気になった点を挙げるとすれば、後半が「遊び」の話にフォーカスしていくにつれて、前半の物語化批判との接続がやや薄くなっていく点。
ま、要するに新書って最初の章がすごいのが通例で、これもそれと同じ。
だから1章はすごい。ネタバレになるので書かないがP36.37.38はまさに悲鳴をあげてしまったところだ。
ただ、とはいっても4章と5章は良かった。
ギャンブルの章。お金から付属的な意味を剥き取った行為としてギャンブルを捉える視点はなるほどと唸った。また「おもちゃ的主体」という考え方は、正直けはできなかった。インターネット的な「冷笑」文化と重なって見えてしまう部分をどう捉えるのか
要するに、人生に意味があるかという話の中で、意味があるからナラティブが必要だという意見ではないというのがこの本の最大の主旨なんだろう。
そこは肯定できる。
大きな歴史のスケールで見れば、自分たちの存在なんてくしやみ一回分くらいの時間だ。意味なんてほぼない。でもだからこそ、他人の命を軽く扱ってはいけないし、環境にも配慮しなければと思う。「意味がないからこそ好き勝手やろう」とはならない。
でも「あなたの物語を生きよう」という昨今の風潮に対してちゃんと異議を唱えている本として、読む価値は十分にある。
物語に意味を持たせすぎることへの懸念、ナラティブを利用しょうとする力への警戒心ーそういう感覚を持っている人なら、きっと何度か叫びたくなると思う。
ふとよく他人とトラブル人って自分は自分のナラティブに囚われて、かつ他人をかってにナラティブの中に入れているからじゃないのか、と。
ちなみに、この本、引用文が良い。
一部しかないが。。
「死んだっていい」と憤慨しながら軽々しく吐き捨てるホビット族の主人公フロド。彼を制して、魔法使いのガンダルフはこう諭す。
「死んだっていいとな!たぶんそうかもしれぬ。生きている者の多数は、死んだっていいやつじや。そして死ぬる者の中には生きていてほしい者がおる。あんたは死者に命を与えられるか?もしできないのなら、そうせっかちに死の判定を下すものではない」
歴史哲学者の一人、ポール・ロスは、『歴史的説明の哲学的構造』において、過去の「事実」は存在せず、過去は作られると主張する(Roth 2019)。
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●自分や世界を理解するのに便利な「物語化」に警鐘を鳴らした本。
●事実よりも物語の方が人には響きやすいと言うけれど、その功罪について見つめ直す。→物語はわかりやすいけれど、その易きに流れる姿勢を正して世界を捉える努力が必要。
●物語化は自分や世界のことを理解する上で役に立つが、歪んだ理解に陥る危険性があると説く。序章のタイトル「人生は「物語」ではない」が筆者の主張のすべてだ。本書は、前半は物語化の力とそのリスクについて解説し、後半は物語化に対抗する別の思考のあり方を模索するという2部構成になっている。物語的な生き方に対抗する結論がおもちゃ遊び的な生き方というのは不完全燃焼なところがある。おもちゃ遊び的生き方の独自性は、物語・ゲーム・パズル・ギャンブルと比べてもひと際異質なものであることは理解したが、なぜ異質なのか、なぜ責任感のない責任感という考えが出てくるのかがよくわからない。おもちゃ遊びの性質について、もう少し詳しく解説してほしかった。
Posted by ブクログ
今どきの新書を読めて嬉しい。
MBTIとか時代を感じられるものや流行には疎いので、あまり積極的に触れてこなかったのだがなんか時代を感じてみたくて手にとった本。
Posted by ブクログ
『物語化批判の哲学』 自分用まとめ
1. 物語は「理解」と「共感」と「アイデンティティ」を与える
人は、
* 他人を理解したい
* 他人に理解されたい
* 同じ気持ちになりたい
* 自分が何者かを確定したい
という欲求を持つ。
物語は、その欲求を非常にうまく満たしてくれる。
過去と未来に意味を与え、感情を同期させ、「自分らしさ」を演出できる。
だから現代では、SNS・インフルエンサー・自己PR・就活・マーケティングなど、あらゆる場所で「物語化」が強力な武器になっている。
特にインフルエンサー文化では、「弱さの共有」が強い共感を生み、
「この人を理解できるのは自分だけ」
という幻想が、さらに感情移入と消費を加速させる。
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2. 物語化の危険性
問題は、物語が強すぎること。
人は、誰かが設計した情動に、自分の感情をチューニングし始める。
つまり、
* 「本当に自分が感じた感情」なのか
* 「物語に誘導されて感じた感情」なのか
境界が曖昧になる。
SNSでの自己紹介や自分語りも同じで、
共感を得るために、
* ドラマチックな演出
* 強調
* 大胆な省略
が入り込む。
その結果、「私とは何者か」という理解そのものが微妙に歪んでいく。
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3. 過去は固定されたものではない
本書のかなり重要な視点。
過去とは、単に保存された記録ではなく、
「現在の自分がどう語るか」によって更新され続ける。
つまり、
「思い出す」とは「語り直す」こと
である。
自己理解とは、
客観的な真実の発見ではなく、
その時々の視点で自分の歴史を再編集する行為。
だから人間の人生は、一貫性だけで測れない。
* ブレ
* 矛盾
* 失敗
* その人らしくない行動
もまた、その人の歴史の一部として尊重されるべき。
ハンナ・アレントの
「私は自分の人生の作者ではない。共同制作者にすぎない」
という言葉が象徴的。
人生は、自分だけで完全に設計した物語ではない。
⸻
4. 「正しい人生の物語」は人を抑圧する
社会には、
* 「女性は子どもを産んで幸せになる」
* 「成功とは高収入や出世である」
* 「若いうちは挑戦すべき」
のような、“当然の人生ルート” が存在する。
これは「マスタープロット」と呼ばれる。
マスタープロットは、生きやすさを与える一方で、
そこから外れる人を抑圧する。
だから別の生き方をする人は、
既存の物語に対抗する「カウンタープロット」を、自分で作らなければならない。
これはかなりエネルギーが要る。
⸻
5. 「理解しすぎない」ことの重要性
本書の核心の一つ。
他人を簡単な物語に押し込めないためには、
* 無理に理解しようとしない勇気
* 断片を断片のまま受け止める想像力
が必要。
人はすぐ、
* MBTI
* 性格分類
* キャラクター化
* 属性化
をしたがる。
確かにそれは理解の助けになる。
しかし同時に、
人間をステレオタイプへ固定する暴力にもなる。
本来、人間はもっと流動的で複雑。
⸻
6. 「本当の自分」は存在しない
かなり現代的なテーマ。
人は状況によって顔を変える。
職場、恋愛、友人関係、SNS、それぞれで違う人格を演じる。
しかしそれは「偽物」ではない。
むしろ、
本質そのものが可動的
なのである。
「本当の自分」をどこかに固定して探そうとするより、
複数の役割を演じ続ける存在として、自分を捉えるほうが自然。
⸻
7. 情動資本主義への批判
現代のプラットフォームは、
人々の「感情」そのものを経済資源として利用している。
* 共感
* 怒り
* 推し活
* 炎上
* 不安
* 救済
などの情動を増幅させ、
人々を滞在・消費・依存へ導く。
推し活も典型で、
感情のリンクが切れると、
ファンはアンチへ転落することがある。
人は、自分だけでなく他者までも「物語のキャラクター」として扱い始める。
それは他者を暴力的に規定する危険性を持つ。
⸻
8. 人生は「ゲームを遊ぶ側」であり「設計する側」でもある
現代社会では、
「与えられたゲームで勝つこと」
ばかりが重視される。
しかしそれだけだと、
* ルールそのものを疑う力
* 社会を再設計する発想
* 新しい価値観
が失われる。
重要なのは、
人はプレイヤーであると同時に、ゲームデザイナーでもある
という視点。
人生の価値は、
勝敗や数値化だけでは測れない。
* 美学
* 徳
* コミュニティ
* 失敗
* プロセス
もまた人生を構成する。
⸻
9. 「わからなさ」を残す
陰謀論は、
「世界には一つの真実がある」
という前提に立つ。
なぜなら、
単純な答えは安心を与えるから。
しかし本書は逆を言う。
世界はパズルではない。
むしろ、
簡単に解けない複雑さを持つ。
だから重要なのは、
「わからなさ」を残したまま考え続けること
一つの結論で満足せず、
思考を開き続ける態度そのものが、
世界への誠実さになる。
⸻
10. この本全体を通じたテーマ
この本は単純な「物語批判」ではない。
むしろ、
物語を愛しているからこそ、
物語に飲み込まれる危険を警戒している本。
人は物語なしでは生きられない。
しかし同時に、
物語は人を支配し、
固定化し、
感情を誘導し、
他者を単純化する。
だから必要なのは、
* 一つの物語に閉じないこと
* 自分や他人を簡単に説明しすぎないこと
* 「理解できなさ」を残すこと
* 常に語り直せる余白を持つこと
なのだと思う。
Posted by ブクログ
物語化の批判を通じて人生の捉え方を考え直す、書(?)。
物語化の他、ゲーム・パズル・ギャンブル・おもちゃを批判し(それぞれの考え方の一長一短を示し)、己がどの考え方を取るべきかを考えさせられた(?)。
映画や漫画やゲームや芸人さんやの例示があって、わかるモノはわかったけど、わからないモノはわからなかった。(←当たり前)。
Posted by ブクログ
人生は目的を持たない。物語ではない。不幸はたんに不幸であり、幸福はたんに幸福である。
私たちはそれぞれの場面・対面で、「顔」を付け替えながら生きる。それは、よく比喩として言われるような「仮面」ではない。私たちは仮面など付けていない。なぜなら、仮面の向とうに唯一の顔などないのだから。
私たちは、顔自体を替えて生きる。本質がないと嘆くにはあたらない。本質とそが可動的なのだから。ゴフマンはこう言う。「人がいてその出番が来るのではなく、出番があれば出番にふさわしい人が現れてくるのである」
世界は舞台だ。そして、舞台を離れてハムレットは生きられないように、あらゆるシーンや対人関係から離れた「本当」の自己は存在できない。ある会社の職場の課長でもなく、パートナーと付き合う恋人でもなく、自分の親の子どもでもなく、電車に乗っている人間でもないような、「本当」の自分はいない。
私たちは、社会的関係の中で、自己のいろいろな現れを呈示する。
世界という舞台の中で、複数の役割をパフォーマンスし続ける複数形の「私」の集まりが私であり、あらゆる状況から離れた「本当」の私は存在し得ない。
Posted by ブクログ
前半後半ともに良かった。自己を書き残すことに取り組んでみて、そこに留まり続けることに耐えられなくて辞めたのは、自分の姿が勝手に解釈されることを避けたかったからだった。就活が受け入れ難かったのは、人生を線でつながった意味の連なりとして語らせられることに反抗したかったからだった。ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃ、それぞれを並べて語るのも面白い視点だったが、無理に比較や対応づけを示しているようにも感じた。
Posted by ブクログ
自己PRとか推し活とかMBTIや発達障害のキャラを演じ/押しつけとか労働にゲーム要素を持ち込んだりとか陰謀論とかスカッとジャパンとか、自分や他人や社会を安直に理解したがる我々!それはそう!良くない!でもそこから先が雑だなぁと思ったよ。
ギャンブルに崇高さはないし、「ネットのおもちゃ」は飽きられる前に取り返しのつかないほど傷つけられ、遊んだ側の他者理解に寄与することはない。エッセイ的な読み物だから緻密さは必要ないのかもしれないが、一つの分かり易い世界の見方に拘泥しない、という「物語化」への対抗策の為に無理矢理話を繋げている感が強く感じられた
Posted by ブクログ
人生を物語として捉え、生まれや置かれた環境を、ガチャと呼び、うまくいかないとキャンセル界隈、人間関係リセット。
人生ってそうじゃないよね。という話。
確かに、何かうまくいかないとなかったことにしたり、なるべく人と関わらないようにしたりとする人は多いように感じる。自分もそうだけど。
性格診断とかで自分のキャラを固定するのも今風だなと感じた。キャラがあれば自分の行動の理由を説明できるし、限界を設定できる。
でもそれって、人本来の在り方だっけ?
人っていろんな側面があるし、ブレるし、意味不明なものだよ。特に子供は未確定でいいはず。
そこで、物語として固定するのではなく、おもちゃで、あるいはギャンブルで、パズルで遊ぼうということ。人生にはたった一つの正解はない。正解っぽいものはあるけど、なかなか見つけられない。見つけられなくていい。
自分自身、子どものころと、働き始めた頃と、今とでやってることはあまり変わらないけど、考え方はかなり変わっている。日々悶々としている。
それでいい。そしてこれからもどう変わるか楽しみでもある。目的とか目標とか、大切だけど、全てじゃない。もっとおもちゃ的にギャンブル的に、パズル的に人生を生きようと思う。
Posted by ブクログ
いやー自分も結構思考の点と点を無理やり繋げて物語として成立させたがっちゃうから面白く読めた!
相変わらず新書は読むハードルが高いというか、難しいからちまちま読んでいきます
Posted by ブクログ
就職活動の語りに象徴されるように、人生を「物語」になぞらえる風潮に警鐘をならし、物語でなければ人生は何なのか、ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃの4つの「遊び」を対照させて、生きることを考えるという本。著者は「美学者」だそうで、哲学的な分析が加えられる。
物語やストーリーって、テーマパークのアトラクションとか、展示施設とか、そういう場面で効果的に用いられる、ということで、おれも中学校の文化祭の出し物とかだと、ストーリーを作ってお客さんを呼び込もう、とか指導する。ただ一方で、物語にしたときに漏れてしまうもの、見えにくくなるもの、思考、というのがあるのは当然だと思うので、そういった物語の危険性や陥ってしまう罠について、一度読んでみたいと思った。確かに、物語をリアルな人の人生にあてはめて、他人や自分を捉える、というのは賢い生き方じゃないなと思う。けど、ライフステージという言葉があるように、人間というのは多かれ少なかれどんな人も物語を常に参照しながら生きる動物だとは思うので、問題はそれを「利用」し始めた時の危険性について考えないと、と思った。
以下、気になったところのメモ。まず何と言ってもSNS時代の「インフルエンサー」という人たちの話が面白い。「インフルエンサーマーケティングにおいては、視聴者にインフルエンサーの『弱さ』を見せることが人気のコンテンツになっている。視聴者は、インフルエンサーの気持ちを誰よりも分かっている気持ちになれる。その理解の気持ちよさが視聴者をさらなる視聴や応援へと駆り立てていく。彼、彼女のことを分かるのは私だけ、という幻想を深めながら。」(p.17)だって。全然こういうのを体験したことないから分からないが、教員という仕事でも戦略的に自分の「弱み」を生徒に見せることはあるなあとか、どこかにも書いてあったかもしれないが、「他人を理解する満足感」というのはあるかも。保護者面談とか、男の子を持つ母親の気持ち分かりますよ、ですよねえ、という感じで話を聞くことが正直多い。そうやって、満足感ではないけど自分を優位に置いている、というのはあるかもしれない。あるいはそれこそ思春期の子育てを物語化していると言えるかも。「物語化はしばしば他人の理解をもたらすものとして称賛されるが、しばしば他人の安易なパターン化に堕落していく。理解できないことを無理に『理解しようとしない』勇気や、物語に還元できない断片的な声を『断片のまま』受容する想像力が、物語的不正義を抑止する新たな美徳となるだろう。」(p.44)ということだから、これは自分も教員として、生徒理解や保護者理解の時には気をつけようと思う。ということと、美しさとは何か、ということも考える。もう一つ、SNSについて、「SNSは、感情を増幅することで閲覧者を増やし、それによって収益を得るシステムである。政治活動と結びついたSNSは、情動を掻き立てる物語を跋扈させ、燃え上がる情動をエンジンとしてますますユーザーを惹きつけ、ユーザー同士の感情の相互作用をデザインする。そこでは物語を通じて、私たちの情動が商品化されている。」(p.51)というのも、SNSの仕組みをうまく表していると思った。あとはちょっと前から聞くようになった「自分語り」について。「自己語りをする者は、自分に都合のよい過去をピックアップすることで、自分自身を欺くような微妙な形の自己欺瞞に対して『決定的に、そして本質的に脆弱である』という。(略)自分だけが自分の自己語りの適切さを判断できてしまうがゆえに、他者からの修正可能性がなく、独善的な自己語りに陥る可能性がある」(p.32)というのは納得。基本的に自分語りを続けると自分で自分に嘘をつくことに抵抗がなくなっていくということか。辛い経験の再解釈とか、必要なことがあるのかもしれないけど、やっぱり気をつけたい。それから、上でも言ったが、多くの人が参照する、ある意味では規範としての「物語」は、「マスタープロット」と呼ばれるらしい。「『勉強しいい大学に入り結婚し子どもを設け持ち家に住み、幸せに暮らす』などが典型例だろう。マスタープロットは、それ以外の生き方を選ぶ人々を抑圧する物語として働いてしまうことが指摘されている。マスタープロットから抜け出すために、主流の物語から逸脱した生を歩もうとする人は、別のプロット、すなわち『カウンタープロット』を開発しなければならず、その労力はたいへんなものである。」(p.41)というのは、「生きづらい世の中」という表現を別の方法で言語化したような感じだなと思った。逆に物語を、より賢い生き方にするのに活かす、という方法の一つに、「スペキュラテイブフィクション」というものがあるらしい。「現実とは異なる社会を描くことで、現実の社会のあり方を批判するフィクション」(p.65)のことで、『侍女の物語』、『闇の左手』という小説が紹介されているが、ぜひ読んでみたい。あと、上にも書いてあった「安易なパターン化」としての物語化の例で、ASDとADHDの話は、やっぱり教員をしているだけに多い。親や本人がASDやADHDという「診断名」を得て安心する、というのはあるだろうが、もっとありうることは、「発達特性まで物語化し、それを『役割を演じる』形で示そうとするとき、本来は医学的・社会的に検証が必要な領域までもキャラクター化の対象となり、ステレオタイプが強化されていくリスクが高まる。(略)『ADHDあるある』が語られれば語られるほど、その当事者であると自認する人の自己理解が限定されていってしまう。(略)『ADHD』的なキャラクターとして自己を理解し、どんどんそちらに近づいていってしまう」(p.92)は、ありそうだな、というかそうなってるのかもな、と思う事例がある。でもこういうのって、いくら教員がそんなことないですよ、他の子もそんな感じですよ、と言ったところで、全く理解されない。全く理解されないどころか、先生は何も分かってない、うちの子は先生がこれまでに見たどんな子よりも特殊だからそんなやり方はダメだし、それで症状が悪化したらあなたはどう責任とってくれるんですか、みたいな親もいるから、どうしようもない。
そして第2章以降では、物語に代わるものとして、ゲームやパズル、ギャンブル、おもちゃが挙げられる。ゲームのところで、最近のゲームの特徴の一つ、「近年の異世界転生や『チートスキル』を題材にした作品は、『物語世界』そのものに『ステータス画面』や『スキルレベル』などのゲーム的要素が入りこんでいる。いずれにせよ、物語とゲームの融合である『RPG』もまた、メタファーに用いることができる。『人生はRPGである』と謳うこともできるのだ。(略)こうした人生理解は、モチベーションを高めるポジティブな手段にもなりうるが、これまで論じてきた『物語的不正義』を発生させる危険と同時に、ゲーム的なメタファーによる視野狭窄を生み出しもする」(p.132)というのは、結局物語の場合と同じで、分かりやすい。「人生というゲームは遊びじゃないんだ!つみたてNISAもしなきゃいけないし、老後に向けて戦略的に振る舞わなければならないんだぞ!」(p.213)って面白い。次に「パズル」として人生、世の中を捉えた場合の危険性についての話の中では、「考察本のブーム」の話が面白かった。まさに最近読んだ『変な家』という本は、「ホラーと考察が掛け合わさった文化」(p.144)として生まれてきたものらしい。次に、ギャンブルについて。ギャンブラーの行動や心理、といったものが観察、分析されており、ここでは省略するけど、おれは絶対このタイプではないというか、真逆だと思った。「ひりつき」(p.180)という言葉があるらしく、この「ひりつき」とか「ひりひり」ってどうやって英訳するんだろうと思う。そして最後、著者は「熟練のおもちゃ遊び」というものを勧めるが、これを腑に落ちるくらい理解するには、ちょっと生き方自体を変えないといけなくて、ハードルが高いなと思った。
物語化批判、というのは分かりやすく面白かったが、第2章の「探究」のところはどれも面白いものの、おれ自身はそのどれにもなれなさそう、という意味では、なんか微妙な感じで終わってしまった。というか「分かりやすいから面白い」というのがすでにその「物語」に入っていっているというメタ的な恐ろしさを今感じたところで、結局、人は物語化から逃れられないのかもしれないとも思う。(26/06)
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今日的課題の問い。ただし答えは逸れていく。
・人生は物語ではない。目的などもたない。不幸は単に不幸であり、幸福は単に幸福である。
・彼らは事態がよくないとわかっているが、それ以上に、この事態に対してなす術がないということを了解してしまっている。けれども、この「了解」、この再帰性とは、既成の状況に対する受け身の認識ではない。自己達成的な予言なのだ(フィッシャー2018)
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フィクションとしての物語だけではなく、 自分や他者について「物語」として語ることに重きがおかれ、SNSやニュースからも「物語」を受け取る現代社会において、物語の危険性と遊びの哲学について論じた一冊。
自分は子どもの頃からフィクションとしての物語が好きだ。
それだけでなく、人の人生としての物語やニュースの物語性にも興味を惹かれる。
だからこそ、物語に対する批判を知っておきたいと思い、当書を手に取った。
読んでいて感じたのは、「自己」や「他者」を物語化することは自分や他者を「理解」しているとはいえないということ。
さらに厄介なことに、物語化することで理解しているような気になれてしまう。
自分自身、理解しているような気になれるからこそ「物語」が好きなのかもしれないとハッとさせられた。
その他にも、人生に起きたことの意味など見出さずにそのまま人生を愛する考え方もあることや、SNSやニュースで激しい情動を喚起するような現実の物語とどう付き合っていくかという話等、印象的な話題が多かった。
一方で後半は、物語を人生の「遊び方」の一種と捉えた上で、物語以外の「遊び方」としてゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃという4つを紹介をしている。
個人的には物語に対する批判や物語との付き合い方についてもっと読みたかったというのが正直なところ。
そういった自分の心境もあってか、前半とどのように繋がっているのか、最後まで理解しきれないまま読み終えてしまった感じがあった。
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タイトルの“物語化”とは、心理学者ジュリアン・ジェインズによって定義されたnarratizationのことか?
スケールが少し違うと感じるけれど、確かにその一部分ではある。
人生は多かれ少なかれドラマを持っている。どのように描かれるかによって、“平凡な人生”であったり、“稀有な人生”であったりするのだ。
物語篇は以上。
そして、自己や世界を理解するための扉の先にあるのがゲームやパズルやギャンブルやおもちゃ…という探求篇に続く。
それぞれ言いたいことはわかった。自己や世界を理解する方法を見つけるための筆者の思考をまとめたもの?
けれど、書籍名にある「物語」との結び付け方に強引さを感じるのは私だけ?
なるほど!ともならないし、じゃあアレはどうなのかな?ともならない。
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大学4年の夏、特別ゲスト講師として30分か60分かそこらの間、難波優輝と松永伸司の講義(という名の対談)を聞いた。なんの縁か、そこからこの本を手に取るに至ったが、なるほどどうして、タメになる本ではあったのだろう。
物語化批判の哲学、タイトル通りである。第1章ではページを繰る手が止まらなかったし、これは私のために書かれた本だ!とまで思った。第2章以降は残念ながら今の私には刺さらず…。
これまでの多くの期間で、あまりにも人生に『物語』を求めすぎてきた。「お前の人生は劇的か?悲劇的か?喜劇的か?歌劇的か?」という貝木泥舟の問いかけを胸に刻んだ中学時代から、兎角ドラマチックな生き様こそが有意味だと信じてきた。そんな私の心の裡に一石を投じるには十分すぎる本だった。自分のキャラクターには拘らず、過度な物語化を警戒しつつ、軽やかに遊びながら生きてゆこう。
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この本単体でも非常に興味深い内容ではありますが、(他作者の本で申し訳ありませんが)、「イン▪️ザ▪️メガチャーチ」を読み終えた後に読むとより内容に共感しやすいかなと思います。
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昨今の推し活や過剰な考察ブームに対する強烈なアンチテーゼ。イン・ザ・メガチャーチを読んだ後だと、より一層その批評性が際立つ一冊。偏差値やKPI、いいね数といったわかりやすいゴールに人生をゲーム化し、自らを型にはめてしまうことへの警鐘。効率よく適応するためのキャラになりきり、人生の複雑な本質を取りこぼしてしまう危うさに対する深い洞察。
小難しい用語が並ぶ一方で、オードリー若林と星野源の対談やシュタインズ・ゲート、さらには芸人の岡野陽一までを引用する独特の語り口。
明確な処方箋や熱い啓発を求める読者には不完全燃焼に映るかもしれない。しかし本書の真価は、現代社会を覆う物語化の暴走に一旦ストップをかけ、人生のあり方を根底から問い直すための問題提起的な本。
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痛烈な批判をテーマに論理立てて語ってるのかなと思ったらイメージと違った
話につながりがない訳では無いけど結局何を主題にしたいのか分かりにくいというか
作者と同い年なので例に出されてる作品はわかるんだけど、なんて言うか、それ言いたかっただけじゃない?みたいな例えとか引き合いが多くてあまり意味を感じなかった(シュタゲの例とか伝えたいことはわかるんだけど)
期待より面白くなかったかな
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1周目はなんか要領を得ないな何が言いたいんだと思いながら読む、2周目でこの人はつまりおもちゃ的主体でもってこの本を書いたのだと思った
メモ:物語…人間は感情的になること、感情を共有することを快と感じる生き物、情動とは社会的に構築されたものであるから再構築もまた可能、MBTI診断だのADHDあるあるだのの特徴に自己理解、他者理解を求め人間を「型にはめる」ことの危うさ、実際は場面で振る舞いを変える、TPOから離れた「真の自己」など存在しえない
その他①ゲーム…目標を数値化しクリアを目指す、「一階の欲求と二階の欲求」、与えられたルールの中でうまくやる(人生においては、ルールは可変)
②パズル…陰謀論と考察、「真実」を求めピースを集め「ハッとする」体験、唯一の正解
③ギャンブル…人生は不確定ゆえに現実に触れる実感がなく退屈、何を賭けているのか、途中までコントロールできる、ひりつき、現実に触れる実感がわく
④おもちゃ…破壊的であり創造的
まあそうだよね、極端だけどあえてか、それぞれよく分析している、理解できる
変わってんだろうなこの人、引用の名前が多いのはややノイズ、著者のドヤ顔が透ける
それぞれのテーマは面白かったけど自分には必要ないといえば必要ない本
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自戒を込めて読んだ。
今の世の中、ストーリーテラーパンデミックで怖いよね。物語を悪用して拐かすやつ、自分でも気がつかないうちに物語を流布するやつ、踊るやつ、踊らされるやつ。
わかりやすいところでは政治とか戦争とかでもほんとに物語化して焚きつける輩がいるし、自分もそのわかりやすい物語に流されてる部分もままあると思う。
「わかりやすさ」は同時に危険な甘言であることも多いから、飛び付かずにしっかりと自分の頭で考えて、どう動いていくかってことは考えないといけないと思うし、自分も気をつけようと、改めて。
Posted by ブクログ
2026/4/25
とりあえず読破。
言い訳するために、自分を守るために、物語化するところは少なからずあるよなと。子供のように柔軟に相手との違いを受け入れ、しなやかに遊ぶように生きていけたらと思った。
Posted by ブクログ
・難波優輝『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』は、人が自分の人生を「ひとつの意味ある物語」として整理・理解しようとする態度(物語化)を批判的に検討する書である。
・人は過去の出来事を因果的に並べ、「あの経験があったから今の自分がある」といったストーリーを作るが、それは後付けの解釈に過ぎず、偶然性や多様な可能性を切り捨ててしまう。
・物語化は自己理解を助ける一方で、「こういう人生でなければならない」という規範や自己拘束を生み、自由な選択や変化の余地を狭める危険を孕む。
・特に現代社会では、自己啓発やSNSを通じて「一貫したストーリーを持つ自己」が理想化されやすく、それが他者との比較や自己否定を強化する要因になっている。
・著者は、人生を一貫した物語としてではなく、「断片の集まり」「複数の可能性が併存する場」として捉える視点を提示する。これにより、過去の意味づけを固定せず、別様に解釈し直す余地が生まれる。
・「遊びなおす」とは、既存の物語を一度相対化し、異なる語り方や視点を試すことを意味する。これにより、自己像を更新し続ける柔軟性を獲得できる。
・重要なのは物語化を完全に否定することではなく、それが一つの仮構であると自覚し、必要に応じて書き換え可能なものとして扱う態度である。
・結論として、本書は「意味のある人生」を固定的に求めるのではなく、不確実性や偶然性を受け入れつつ、複数の解釈を行き来できる軽やかな自己理解のあり方を提案する。