あらすじ
物語はなぜ苦しいのか?「物語」が過剰に要求される現代社会で、「人生とはかくあるべきだ」という押しつけに抗う。
新進気鋭の美学者による「次世代の哲学」。
【推薦の声、続々!】
〇永井玲衣氏(哲学者・『水中の哲学者たち』『世界の適切な保存』)
わたしたちは何のために哲学するのか。
それは、もっと世界に出会うため、もっと広々とした場所に行くため、もっと可能性にめまいをおぼえるためなのかもしれない。難波さんは、考えれば考えるほど、自由になっていくみたいだ。
〇田村正資氏(哲学者・『問いが世界をつくりだす』「あいまいな世界の愛し方」『群像』)
ずっと、アイデンティンティを見つけなければと思っていた。
でも、アイデンティティという名の物語に囚われていただけだったのかもしれない。難波さんの本はそんな僕に「世界を見くびるな。そこから出てこい!」と語りかけてくれる。
【抜粋】
清涼飲料水の広告の少女はいつもドラマティックな青春を謳歌しているし、「推し」はファンの期待した筋書きどおりに振る舞うし、就活面接では挫折経験を「美談」として語らねばならない。
私は端的にこう思う。何かがおかしい、と。
人々はあまりにも強い物語の引力に引き寄せられて、もはや物語に支配されつつあるのではないか、と私は危惧し始めた。
だから、私はこれから、物語に対抗したいと思う。何かしらの物語が私たちの幸福を奪うのだとしたら、もはやそんな物語は廃棄されるべきだろう。私はよき物語を愛している。それゆえ、物語を批判したいと思う。愛するということは、支配されるわけでもなく、支配するわけでもなく、独特のバランスのなかで惹かれ合い、反発し合うことなのだと考えている。
第一部の「物語篇」では、物語化の持つ魔力と危うさを論じていく。第二部の「探究篇」では、物語の危険を避け、物語を相対化できるような思考を「遊び」を手がかりに探索していこう。その中で、改めて物語との向き合い方がみえてくるはずだ。
物語化批判、そして、遊びの哲学を始めよう。
【内容紹介】
〇 誤解を生む「自分語り」(第1章 物語批判の哲学)
〇「感情的だ!」という批判をする人こそ、実はもっとも「感情的」(同上)
〇 アイデンティティは服のように「着替えられる」(同上)
〇 人生を「攻略」しようとする人が陥る「視野狭窄」(第2章 ゲーム批判の哲学)
〇 なぜ人は「考察」と「陰謀論」にハマってしまうのか(第3章 パズル批判の哲学)
〇 真のギャンブラーが欲しいのは「お金」ではない(第4章 ギャンブル批判の哲学)
〇 残酷だけど創造的な「おもちゃ的生き方」(第5章 おもちゃ批判の哲学)
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「大きくなったら、何になるの?」や「あなたが今、一番したいことは何ですか?」等々、人生は目的をもって生きるべきもの、生きなくてはならないもの、という考え方が、いつの間にか当たり前になっているような気がする。
かの大谷選手も、高校生の頃には何歳に何を達成している、という目標(=計画)を立て、それを基に行動していったとのこと。大谷選手ほどの偉人でない我々凡人も、またいつの間にか、今日、今年、○年後の計画を立て、修正しながら遂行しつつ生きなくては人間ではない(少なくとも、立派な人間ではない)かのような風潮に取り囲まれている。
本当にそうなのかとか、その風潮が息苦しいとか、ましてや目標を持たずに生きては駄目なのか、という問いは発せられることすら憚られるようなご時世。とりもなおさず、人生とは目標を立ててそれに向かっていくことで、本書の言い方を借りれば「攻略」しうるものであるかのようだ。
別の言い方をすれば、人生に対して正しく働きかければ、人生は予測できる範囲で答えてくれる、システムの様なものであるとの把握なのだろう。それは人生のみならず、世界(本書でいうところの、貨幣などの測定可能な尺度を有する象徴的世界)が、人間が予測でき、コントロールでき、「攻略(=制覇、支配)」しうるものである、という認識が根本にあるのだろう。
おそらく、大谷選手ほどの人であれば、思い通りにならないことは承知の上で修正を積み重ねるものであるとの謙虚さの上に立っていることとは思うが、これまた凡人のレベルだと、世界は正しく働きかければ正しく答えてくれる、という、ある種の公正世界仮説の様な認識に陥りがちである。
筆者は、人が物語を通して他者を把握することを好むのはお互いを物語の上で理解し理解されたいからだ、と論じている。個人的にはさらに広い範囲で、世界を自分の理解できるストーリーに押し込めたい、というゆがんだ公正世界仮説的な解釈を、ほとんど本能的に選択してしまうからではないかと思う。
けれで、本当に世界はそのようなものだろうか。思い通りになる(そう見えているだけ、というのが本当だと思うが)時もならない時もあり、予測がつかないもの、そもそも人の意志や願いなどに完璧なまでに没交渉で無頓着なものこそが世界なのではないか。芥川龍之介の「侏儒の言葉」に、人生が地獄よりも地獄的であるのはその予測のつかなさ故、といった言葉があるが、本来そうしたものではないのか。
そうだとするならば、人生を、世界を、目的/ゴールを有しそこに向かって一直線に進んでいける物語と解釈することは、世界をコントロールしうると錯覚した人間の傲慢にすぎないことになる。
筆者は、他者を(おそらく、世界も)物語の上で解釈することは、他者をその物語に押し込め、本来多面的であるはずの人間を、ある「目的」に沿った物語上での解釈に限定してしまう不正義をもたらすと論じている。その通りだと思う。
人生は「目的」に沿って一生懸命に努力すれば道は開けるもの、もし道を外れたとすれば、それは努力不足か、目標の立て方に誤りがあるか、とにかく本人の不作為によるものとされる。公正世界仮説の負の側面である、ある人が不幸な目に合うのはその人が不幸を招くような行動をしたからだ、というまさにそのままの思考というわけだ。人間を、ひいては世界を、そのような単一で単純な目的で語ろうとすること自体が不正義だ、と個人的には言いたい。
私見だが、このような見方は、西洋の一神教的教義の影響を強く受けているように思われる。一神教は西洋の専売特許ではないが、現在、西洋的文明が大きな力を持っていることを考えると、背景にある一神教(≒キリスト教)の見方も大きな影響を与えていることは無理な想像ではないと思う。
キリスト教では、唯一神が似姿として想像した人間が万物の長であり、他の動植物や世界は基本的に人間に、それを通じて最終的に神に奉仕することが定められている。ならば、神への奉仕という目的以外は人生/世界に不要で、ただそこに向かって努力すればよい。もしその目的が果たせないのなら、本人の努力(=信仰)の不足でしかないのだ。実に明快で、他の解釈も、他の目的も入りようがない。
世界も人間が神のために支配すべきものであるわけなので、世界すらも目的論的な存在に堕落させてしまう思考ならば、人生など目的なしには過ごしてはならないという解釈になるのはむしろ当然であろう。その思想の影響を強く受けた社会契約に基づく文明を築き、また同様に強く影響を受けた資本主義社会を築いたのなら、目的があっての人生、という生き方になるのもまた当然と思われる。
著者は、人間を物語として解釈することの認知的な強制手段として、「ゲーム」「パズル」「ギャンブル」の視点を挙げている。それぞれに、「物語」という目的に向かって進んでいくストーリー的な解釈の枠組みを突き崩す側面を持っており、特にギャンブルについての考察(いまの世界を脱価値すること)が面白い。
ただ個人的には、4つ目の「おもちゃ」こそが世界を物語/コントロールしうるストーリーとしてとらえる思考を解毒する最も良い方法だと思う。おもちゃの持つ「脱目的」という側面はきわめて強力で、本書内で語られる通り時には残酷な面すら持ちうるが、それゆえに、もともと人間の思う通りになるはずのない世界をありのままに見る思考法を思い出させるものとして、有効なのではないか。
最期に語られる、「私たちはもっと子どもたちに学ぶべきであるようだ」「大人たちはもっと、子どもたちのように成熟しなければならない」。これこそ、我々大人が身に着けるべき中庸の考え方であるように思われる。それでこそ、本書でいう「責任感を持たないという責任感」を身に着けられるのではないか。
なお、本書の参考文献としてマッキンタイアの「美徳なき時代」が挙げられているのが面白い。マッキンタイアは、私の解釈では、人には「物語」が必要で自らのアイデンティティは物語に沿った文脈で語られうる、と論じている。
一見、本書の内容と矛盾するようだが、個人的にはむしろ響きあうものではないかと思う。マッキンタイアの言う物語は、人が寄って立つあり方は、その人が存在している時代/場所に付随する歴史に基づいており、それなしで「自由な」自己を確立することはできない、という意味での、いわば個人の過去に関する物語だと思う。
もちろん、誤って解釈すれば、人は祖先や時代/場所のしがらみから逃れられない、ということにもなりかねないが、そうではなく、偶然の結果であれ、自分が生まれ属することになった集団の歴史を基にしてアイデンティティを認識し、そこから未来に向けて自分の歴史を紡いでいくことこそが責任ある態度だ、ということだと思う。もし日本人に生まれたのなら、過去に素晴らしい歴史もあれば他社を迫害した歴史もあったことを全部呑み込んだうえで、自分の生き方を選択すべきだ、ということだと思っている。
この考え方が正しいのならば、他者を軽々に物語として判断すべきではなく、マッキンタイア的な物語のバックグラウンドを持った者同士がどのようにかかわりを持っていくか、ということを考えるべきなのだろう。ある人が特定のバックグラウンド(=物語)を持っているからと言ってイコールその人がそのバックグラウンドそのものではない、バックグラウンドでその人を分かった気になってはならない、という態度を持てるか、が大事なのではないか。
Posted by ブクログ
やっと読み終えた
ぼくの頭ではところどころ難解と感じる哲学者の言葉の引用があり、スルスルと読み終えるに至らず
ところどころマッチョな読書タイムとなった
さて本題だが前述の感想でも述べたように、数年前からInstagramや Xに始まる物語を見て、時々モヤル事が多かった(Xはやめて随分経ちます、影響受けやすいのでやめてよかったw)
影響をたぶんに受け、なぜだかわからない息苦しさがずっとあった
しかし、本書のおかげでその日々にようやく終止符を打てた、気がする
人が、というかぼくが、物語を欲するのは情動だとわかった。
そして、それにカタルシスのようなものを感じたくなるのはしょうがない、そういうもんだし、それは遊びなんだよ、それは一つのあり方に過ぎず、のめり込んじゃダメで、ベキネバではなく、あくまでもそれを柔軟に受け止め、自らの人生に対して割り切れない何かを持ちつつ、人生を謳歌することが肝要なんだよ、ということを教えてもらった気がする。
最適解なんてあるのかはわからない。
が、それがあったにしても、それを得るために逆算しながら人は生きてはいない、少なくともぼくはそう。
小さな力でより大きなものを得るという近代社会から続く資本主義的構造からすれば想像だにしやすいが、それだけで生きることの困難さに立ち向かうことはできないのではないかと僕は思う。
追記
難波さんのいうように、子どもの頃のように柔軟で純粋に遊ぶ心を忘れずに、エスプリの効いた人生にしてゆきたい。
そしてただ生きる、それでぼくはいいかなと改めて思う。
Posted by ブクログ
なぜ私たちは物語を物語以上に使ってしまうのか。例えば就活での自己PR、MBTIや推しなどのキャラクター性、自分語りなどのこと。これらは当てはめることで、診断どおりに動いてしまうなど視野狭窄になるリスクを背負ってしまう。そしてこの本では物語以外にも遊びを考えており、ゲームもゲーミフィケーションなど資本主義に結びつけて使われてしまっていることも批判している(レベルアップなど)。パズル的主体、ギャンブル的主体、そしておもちゃ的主体と、遊びから脱却の方法を考えていく。多趣味ですでに実践しているが、自分では言語化できなかったところも指摘していて興味深い本だった。
Posted by ブクログ
本来娯楽であるはずの物語を、世の中を理解するツールとして使うことの危うさを解くのが前半、後半は物語の代替となるツールを紹介し、より良い世界の捉え方を検討している。
好きなものを選んだり、組み合わせたりして世界を捉えればいいんじゃないと思うけど、個人的には物語は強すぎるよなという気がする。まぁ、だからこういった本が書かれるんだけれども。
本来多層性のある人間を、何かしらのキャラクタで規定してしまうというのは、自分に対して自己・他己に関わらず向けられると不自由さを感じるし、他人に対して向けるのは発信しない場合は理解を誤らせるし、発信する場合はその人の生き方を狭める可能性があるという意味で、権利を侵害しているな。
Jubilleの歌詞の一部が解説されてるんだけど、個人的にはそこだけでも読む価値ある本だったなと思った。
Posted by ブクログ
物語はパワフルが故に気をつけて使うことが大切だなと思いました。理想として固定化するより服を着替えるように変えられるものといった付き合い方ができると良いように思いました。
Posted by ブクログ
自分自身、人生を一つの整合性ある物語や目標達成のプロセスとして捉えるのが苦手で、いわゆる「非物語的」な要素が大きいタイプだと感じていた。それゆえに、世間から「努力家」といった物語的な枠組みで評価されることに対してどこかモヤモヤとした違和感を覚えてきた。
本書は、まさにそうした「物語的に生きていない人」の存在を正確に認識し、理論的に言語化してくれている。自分の生の実態を「逆引き」で確認していくような、非常にスリリングで面白い読書体験だった。
特に印象的だったのは、物語的に生きる人とそうでない人との間に生じる「摩擦」についての記述だ。
「おもちゃ的主体はさまざまな人々を必ずや傷つける。でもそれは、異なる『世界』に入るときに、必ず摩擦が起きるのと同じことだ。その傷つけ方が、軽やかで、互いのよさを潰してしまわないようなものであったとしたなら、それは喜ばしいことだ。」
これまで自分は、相手が提示する「悲劇的な語り」や一貫したストーリーに対して無邪気な問いを投げかけて話を折ってしまったり、相手の物語をぶち壊して傷つけてしまったりすることに漠然とした罪悪感を抱いていた。人に怒られるときの原因もまさにそこにあったのだとハッとさせられた。
しかし本書は、その摩擦を単なる「道徳的な悪」として切り捨てるのではなく、異なる世界観が交錯する中で生じる不可避な現象として捉え直し、互いの良さを潰さない「軽やかさ」があればむしろ肯定的な契機になり得ると示してくれる。
また物語化を否定しているわけではないので、おもちゃ的な視点とを適切に使い分けられれば良いのだと思う。
「みんなと物語を共有できない」と凹んだときや、他者とのコミュニケーションで摩擦が生じたときに、何度も読み返したくなる一冊。
Posted by ブクログ
物語、ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃと個別の話かと思いきやきちんと流れになっている。
物語の章もよかったが、ゲームとおもちゃは個人的なとても参考になる。
社会や共同体の中では物語が馴染みやすいが、人間そんなに画一的でもない。物語を使う有用性を理解しつつもそこからこぼら落ちるものをわざ忘れない。特に過去については今から語るしかない。
あと、他人を物語ることはその物語に嵌め込む危険性を意識する。
ゲーム、ハックするような生き方が蔓延するけど、そもそもゲームを作る側に回る視点も忘れずに。
そしておもちゃ。素晴らしかった。使い道が決まっていたら道具。そしておもちゃはおもちゃにしているのかされているのか、主客が入れ替わることもまた条件のようで、何かと物語、ゲーム、正解が一つのパズルが蔓延する中、責任を持たないという責任感のおもちゃの概念は有用で有効とおもった。
何か一つで生きる、嵌め込むとしんどい。ギャンブルやおもちゃだけで生きることも難しい。
組み合わせるとなかなかおもしろく生きられそう。
最後にギャンブル的なことをパチンコ、競馬、カジノなどギャンブルでしかできないことこそ、問題たいう指摘はもっともです。
Posted by ブクログ
生き方を物語、ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃ遊び的に考える方法が書いてある。自由なのはおもちゃ的。人間、型にハマったほうがラクだから物語やゲーム化しようとするんだよきっと。その時々で楽しいと思える現実的な選択をするまで。何かやらなくてはいけないわけではない。人生はもっとシンプルなのに。
Posted by ブクログ
なんか自分のことを俯瞰で観察されてる気分でした…。オタク仕草、気を付けよう。願わくば全ての人が何者にも支配されず、気ままに遊べる世界が実現せんことを。オタクは読んだほうがいい。
Posted by ブクログ
物語化を始め、ゲーム論、パズル論、ギャンブル論に基づき、一様の責任に縛られることへの責任と倫理的基調におもちゃ遊びを提案する。
異なる価値観の中で生きる他者の、規範に反した想定外の言動を受け入れ、愛するおもちゃ遊びこそ、軽やかで新たな可能性を生み出せる。
特に1章は共感が多く、夢中になって読んでしまった。結局、物語化からは逃れられないのかもしれないとも思った。
タイトルには哲学とあるが、エッセイを読んでいるような感覚で、著者の思考に触れるのが楽しい読み物という感じだった。
Posted by ブクログ
「物語化」することの光と闇に焦点を当てた上で、他にもゲーム・パズル・ギャンブル・おもちゃなど、自己や世界の様々な捉え方について考えさせられる一冊。
読後の感想としては、やはり自己や世界を一面的に捉えることは危険だと思った。どの捉え方も魅力的であり、自己や世界の理解の道標となり得る一方で、危険性を孕んでいることも確かである。物語化なんてのはまさにそうで、小説を読んだりや映画を観たりするのが趣味である自分としては、本著の内容は刺さる部分が多かった。
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〈※感想長め〉元来、僕は「人生は物語そのものだ」と考えてきた。もっと言えば、自分の人生を一つの小説や伝記のようなものとして捉えることが多い。たとえば、僕はすでに二度の転職を経験しているが、職場が変わるたびに「さあ、新しい章の始まりだ」「この章はどんなオチになるんや」と考えるように。物語に登場するようなおもしろい何者かであるように。
そんな折、本屋で本書を見かけて、「自分の人生観に対してどんな反論があるんや?」と興味本位に手に取った。
まさにグサグサと刺さった。結局のところ、自分は何者かになりたいと願っていただけ。こうあるべきだという凝り固まった自己像を勝手に作り上げて、その枠組みの中で自分自身を理解しようとしてただけだと気づかされた。
自分の人生を物語として語ろうとする時、過去の事実は今この瞬間にはもうどこにも存在せず、あくまで「過去は作られるもの」だと。なるほど、その通りだと思う。今という視点があるからこそ、過去は意味づけられ形作られていくってことか。
物語として自分の人生を他人に語る時、「自分は何者かだ」「他の人とは違う存在だ」なんて息巻いていたつもりだったが、その姿はどこか滑稽で、むしろ現代社会の価値観や空気にしっかり踊らされていたのかもしれない。恥ずかしい、、そんな感覚を抱いたのが、本書を読んでの率直な感想。
もちろん、人生を物語として捉えること自体は悪いことではないけど、その物語は後から編み直されるもので、自己像もまた固定的なものではないということを意識しながら、今後は自分の人生を振り返っていきたいって思う。
また、まったく別の論点やけど、印象に残ったのはギャンブルの哲学についての部分。僕自身、競馬をよくするのだが、人がなぜギャンブルに惹かれるのかが実に鮮やかに言語化されていて気持ちよかった。
運を支配しようとし、結果をコントロールしようとした時にはじめてぶち当たる不明確性。その不明確性を前にした瞬間に感じる震えるようなひりつき。あれがギャンブル特有の快感だという。なるほど。
世界を理解したつもりになるんじゃなくて、むしろ世界が本来持っている不明確さや偶然性を楽しんでいきたい。そんな姿勢を持ちたいと感じた一冊だった。
Posted by ブクログ
●自分や世界を理解するのに便利な「物語化」に警鐘を鳴らした本。
●事実よりも物語の方が人には響きやすいと言うけれど、その功罪について見つめ直す。→物語はわかりやすいけれど、その易きに流れる姿勢を正して世界を捉える努力が必要。
●物語化は自分や世界のことを理解する上で役に立つが、歪んだ理解に陥る危険性があると説く。序章のタイトル「人生は「物語」ではない」が筆者の主張のすべてだ。本書は、前半は物語化の力とそのリスクについて解説し、後半は物語化に対抗する別の思考のあり方を模索するという2部構成になっている。物語的な生き方に対抗する結論がおもちゃ遊び的な生き方というのは不完全燃焼なところがある。おもちゃ遊び的生き方の独自性は、物語・ゲーム・パズル・ギャンブルと比べてもひと際異質なものであることは理解したが、なぜ異質なのか、なぜ責任感のない責任感という考えが出てくるのかがよくわからない。おもちゃ遊びの性質について、もう少し詳しく解説してほしかった。
Posted by ブクログ
物語の危うさを語る
物語は過去を語り未来に向けて自己をキャラクター化したり、ゲームは成功に向かってスキルアップしたり、パズルは一意な正解に向かって悩んだり、ギャブルは不明性の崇高に触れたりしようとする。おもちゃはただ成り行きにしたがって遊びが始まり、どこかで終わる。脱目的性がある。
Posted by ブクログ
物語から始まり5つの視点を自分自身に照らし合わせて考える機会になりました。
やはり自分語りなど物語の章は印象に残っていて、日々のSNSや就職活動など、誰しもが自分を見失っているのではないかと不安になりました。
じゃあ何をすればいいか迷うことがありますが、自己語りをする時は優しく批判してくれる人が近くにいてくれると安心すると思った限りです。
Posted by ブクログ
人生を過度に物語化するしんどさについては共感できるところがある。
人間関係が流動的な都会では自分がどんな人間かをわかりやすく紹介することが求められるという主張も上京者として共感した。
Posted by ブクログ
様々な現代や生活を取り巻く物について、物語、言わば感情の動きやプロセスにより多少美化されてることもある。そのことを哲学用いた思考で解きほぐしていく感覚。
現代に寄り添った1冊だという印象だと感じた。
この感覚を活字でスラスラ読めたのが楽しかった。
Posted by ブクログ
過剰に物語に回収される風潮については私もどうなんだろうと感じてたので、主張としてはとても共感できる。それに、物語のカウンターとしてのおもちゃ的な考え方というのは面白いなと思った。
また、けんすう氏の「物語思考」にも言及されていて、タイトルから否定的な立場なのかと思っていたが、真っ向からそれを否定するわけではなく、むしろ物語をうまく使っているという立場で言及していたので、慎重に丁寧に物語とは何かに向き合ったのだなとは感じた。
ただ、私が哲学に慣れてないせいなのか、いまいち主張の核が掴みにくく、物語を批判してるというよりは偏見とかパターン化が悪いという話なのでは?と感じてしまった。
Posted by ブクログ
様々な事柄が物語として語られる現在において、物語化することの効用とその危険性を述べ、物語化と向きあうための思考について、まとめている本。
私自身、物語化に強い魅力を感じ、自分の人生を物語としてとらえる性分があることから、その危険性についての観点を得ることが出来たのは新鮮だった。
物語に魅力を感じつつも、違った視点、広い視野で、人生について考えたいと思う人におすすめの本。
Posted by ブクログ
前半後半ともに良かった。自己を書き残すことに取り組んでみて、そこに留まり続けることに耐えられなくて辞めたのは、自分の姿が勝手に解釈されることを避けたかったからだった。就活が受け入れ難かったのは、人生を線でつながった意味の連なりとして語らせられることに反抗したかったからだった。ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃ、それぞれを並べて語るのも面白い視点だったが、無理に比較や対応づけを示しているようにも感じた。
Posted by ブクログ
自己PRとか推し活とかMBTIや発達障害のキャラを演じ/押しつけとか労働にゲーム要素を持ち込んだりとか陰謀論とかスカッとジャパンとか、自分や他人や社会を安直に理解したがる我々!それはそう!良くない!でもそこから先が雑だなぁと思ったよ。
ギャンブルに崇高さはないし、「ネットのおもちゃ」は飽きられる前に取り返しのつかないほど傷つけられ、遊んだ側の他者理解に寄与することはない。エッセイ的な読み物だから緻密さは必要ないのかもしれないが、一つの分かり易い世界の見方に拘泥しない、という「物語化」への対抗策の為に無理矢理話を繋げている感が強く感じられた
Posted by ブクログ
人生を物語として捉え、生まれや置かれた環境を、ガチャと呼び、うまくいかないとキャンセル界隈、人間関係リセット。
人生ってそうじゃないよね。という話。
確かに、何かうまくいかないとなかったことにしたり、なるべく人と関わらないようにしたりとする人は多いように感じる。自分もそうだけど。
性格診断とかで自分のキャラを固定するのも今風だなと感じた。キャラがあれば自分の行動の理由を説明できるし、限界を設定できる。
でもそれって、人本来の在り方だっけ?
人っていろんな側面があるし、ブレるし、意味不明なものだよ。特に子供は未確定でいいはず。
そこで、物語として固定するのではなく、おもちゃで、あるいはギャンブルで、パズルで遊ぼうということ。人生にはたった一つの正解はない。正解っぽいものはあるけど、なかなか見つけられない。見つけられなくていい。
自分自身、子どものころと、働き始めた頃と、今とでやってることはあまり変わらないけど、考え方はかなり変わっている。日々悶々としている。
それでいい。そしてこれからもどう変わるか楽しみでもある。目的とか目標とか、大切だけど、全てじゃない。もっとおもちゃ的にギャンブル的に、パズル的に人生を生きようと思う。
Posted by ブクログ
いやー自分も結構思考の点と点を無理やり繋げて物語として成立させたがっちゃうから面白く読めた!
相変わらず新書は読むハードルが高いというか、難しいからちまちま読んでいきます
Posted by ブクログ
就職活動の語りに象徴されるように、人生を「物語」になぞらえる風潮に警鐘をならし、物語でなければ人生は何なのか、ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃの4つの「遊び」を対照させて、生きることを考えるという本。著者は「美学者」だそうで、哲学的な分析が加えられる。
物語やストーリーって、テーマパークのアトラクションとか、展示施設とか、そういう場面で効果的に用いられる、ということで、おれも中学校の文化祭の出し物とかだと、ストーリーを作ってお客さんを呼び込もう、とか指導する。ただ一方で、物語にしたときに漏れてしまうもの、見えにくくなるもの、思考、というのがあるのは当然だと思うので、そういった物語の危険性や陥ってしまう罠について、一度読んでみたいと思った。確かに、物語をリアルな人の人生にあてはめて、他人や自分を捉える、というのは賢い生き方じゃないなと思う。けど、ライフステージという言葉があるように、人間というのは多かれ少なかれどんな人も物語を常に参照しながら生きる動物だとは思うので、問題はそれを「利用」し始めた時の危険性について考えないと、と思った。
以下、気になったところのメモ。まず何と言ってもSNS時代の「インフルエンサー」という人たちの話が面白い。「インフルエンサーマーケティングにおいては、視聴者にインフルエンサーの『弱さ』を見せることが人気のコンテンツになっている。視聴者は、インフルエンサーの気持ちを誰よりも分かっている気持ちになれる。その理解の気持ちよさが視聴者をさらなる視聴や応援へと駆り立てていく。彼、彼女のことを分かるのは私だけ、という幻想を深めながら。」(p.17)だって。全然こういうのを体験したことないから分からないが、教員という仕事でも戦略的に自分の「弱み」を生徒に見せることはあるなあとか、どこかにも書いてあったかもしれないが、「他人を理解する満足感」というのはあるかも。保護者面談とか、男の子を持つ母親の気持ち分かりますよ、ですよねえ、という感じで話を聞くことが正直多い。そうやって、満足感ではないけど自分を優位に置いている、というのはあるかもしれない。あるいはそれこそ思春期の子育てを物語化していると言えるかも。「物語化はしばしば他人の理解をもたらすものとして称賛されるが、しばしば他人の安易なパターン化に堕落していく。理解できないことを無理に『理解しようとしない』勇気や、物語に還元できない断片的な声を『断片のまま』受容する想像力が、物語的不正義を抑止する新たな美徳となるだろう。」(p.44)ということだから、これは自分も教員として、生徒理解や保護者理解の時には気をつけようと思う。ということと、美しさとは何か、ということも考える。もう一つ、SNSについて、「SNSは、感情を増幅することで閲覧者を増やし、それによって収益を得るシステムである。政治活動と結びついたSNSは、情動を掻き立てる物語を跋扈させ、燃え上がる情動をエンジンとしてますますユーザーを惹きつけ、ユーザー同士の感情の相互作用をデザインする。そこでは物語を通じて、私たちの情動が商品化されている。」(p.51)というのも、SNSの仕組みをうまく表していると思った。あとはちょっと前から聞くようになった「自分語り」について。「自己語りをする者は、自分に都合のよい過去をピックアップすることで、自分自身を欺くような微妙な形の自己欺瞞に対して『決定的に、そして本質的に脆弱である』という。(略)自分だけが自分の自己語りの適切さを判断できてしまうがゆえに、他者からの修正可能性がなく、独善的な自己語りに陥る可能性がある」(p.32)というのは納得。基本的に自分語りを続けると自分で自分に嘘をつくことに抵抗がなくなっていくということか。辛い経験の再解釈とか、必要なことがあるのかもしれないけど、やっぱり気をつけたい。それから、上でも言ったが、多くの人が参照する、ある意味では規範としての「物語」は、「マスタープロット」と呼ばれるらしい。「『勉強しいい大学に入り結婚し子どもを設け持ち家に住み、幸せに暮らす』などが典型例だろう。マスタープロットは、それ以外の生き方を選ぶ人々を抑圧する物語として働いてしまうことが指摘されている。マスタープロットから抜け出すために、主流の物語から逸脱した生を歩もうとする人は、別のプロット、すなわち『カウンタープロット』を開発しなければならず、その労力はたいへんなものである。」(p.41)というのは、「生きづらい世の中」という表現を別の方法で言語化したような感じだなと思った。逆に物語を、より賢い生き方にするのに活かす、という方法の一つに、「スペキュラテイブフィクション」というものがあるらしい。「現実とは異なる社会を描くことで、現実の社会のあり方を批判するフィクション」(p.65)のことで、『侍女の物語』、『闇の左手』という小説が紹介されているが、ぜひ読んでみたい。あと、上にも書いてあった「安易なパターン化」としての物語化の例で、ASDとADHDの話は、やっぱり教員をしているだけに多い。親や本人がASDやADHDという「診断名」を得て安心する、というのはあるだろうが、もっとありうることは、「発達特性まで物語化し、それを『役割を演じる』形で示そうとするとき、本来は医学的・社会的に検証が必要な領域までもキャラクター化の対象となり、ステレオタイプが強化されていくリスクが高まる。(略)『ADHDあるある』が語られれば語られるほど、その当事者であると自認する人の自己理解が限定されていってしまう。(略)『ADHD』的なキャラクターとして自己を理解し、どんどんそちらに近づいていってしまう」(p.92)は、ありそうだな、というかそうなってるのかもな、と思う事例がある。でもこういうのって、いくら教員がそんなことないですよ、他の子もそんな感じですよ、と言ったところで、全く理解されない。全く理解されないどころか、先生は何も分かってない、うちの子は先生がこれまでに見たどんな子よりも特殊だからそんなやり方はダメだし、それで症状が悪化したらあなたはどう責任とってくれるんですか、みたいな親もいるから、どうしようもない。
そして第2章以降では、物語に代わるものとして、ゲームやパズル、ギャンブル、おもちゃが挙げられる。ゲームのところで、最近のゲームの特徴の一つ、「近年の異世界転生や『チートスキル』を題材にした作品は、『物語世界』そのものに『ステータス画面』や『スキルレベル』などのゲーム的要素が入りこんでいる。いずれにせよ、物語とゲームの融合である『RPG』もまた、メタファーに用いることができる。『人生はRPGである』と謳うこともできるのだ。(略)こうした人生理解は、モチベーションを高めるポジティブな手段にもなりうるが、これまで論じてきた『物語的不正義』を発生させる危険と同時に、ゲーム的なメタファーによる視野狭窄を生み出しもする」(p.132)というのは、結局物語の場合と同じで、分かりやすい。「人生というゲームは遊びじゃないんだ!つみたてNISAもしなきゃいけないし、老後に向けて戦略的に振る舞わなければならないんだぞ!」(p.213)って面白い。次に「パズル」として人生、世の中を捉えた場合の危険性についての話の中では、「考察本のブーム」の話が面白かった。まさに最近読んだ『変な家』という本は、「ホラーと考察が掛け合わさった文化」(p.144)として生まれてきたものらしい。次に、ギャンブルについて。ギャンブラーの行動や心理、といったものが観察、分析されており、ここでは省略するけど、おれは絶対このタイプではないというか、真逆だと思った。「ひりつき」(p.180)という言葉があるらしく、この「ひりつき」とか「ひりひり」ってどうやって英訳するんだろうと思う。そして最後、著者は「熟練のおもちゃ遊び」というものを勧めるが、これを腑に落ちるくらい理解するには、ちょっと生き方自体を変えないといけなくて、ハードルが高いなと思った。
物語化批判、というのは分かりやすく面白かったが、第2章の「探究」のところはどれも面白いものの、おれ自身はそのどれにもなれなさそう、という意味では、なんか微妙な感じで終わってしまった。というか「分かりやすいから面白い」というのがすでにその「物語」に入っていっているというメタ的な恐ろしさを今感じたところで、結局、人は物語化から逃れられないのかもしれないとも思う。(26/06)
Posted by ブクログ
今日的課題の問い。ただし答えは逸れていく。
・人生は物語ではない。目的などもたない。不幸は単に不幸であり、幸福は単に幸福である。
・彼らは事態がよくないとわかっているが、それ以上に、この事態に対してなす術がないということを了解してしまっている。けれども、この「了解」、この再帰性とは、既成の状況に対する受け身の認識ではない。自己達成的な予言なのだ(フィッシャー2018)
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フィクションとしての物語だけではなく、 自分や他者について「物語」として語ることに重きがおかれ、SNSやニュースからも「物語」を受け取る現代社会において、物語の危険性と遊びの哲学について論じた一冊。
自分は子どもの頃からフィクションとしての物語が好きだ。
それだけでなく、人の人生としての物語やニュースの物語性にも興味を惹かれる。
だからこそ、物語に対する批判を知っておきたいと思い、当書を手に取った。
読んでいて感じたのは、「自己」や「他者」を物語化することは自分や他者を「理解」しているとはいえないということ。
さらに厄介なことに、物語化することで理解しているような気になれてしまう。
自分自身、理解しているような気になれるからこそ「物語」が好きなのかもしれないとハッとさせられた。
その他にも、人生に起きたことの意味など見出さずにそのまま人生を愛する考え方もあることや、SNSやニュースで激しい情動を喚起するような現実の物語とどう付き合っていくかという話等、印象的な話題が多かった。
一方で後半は、物語を人生の「遊び方」の一種と捉えた上で、物語以外の「遊び方」としてゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃという4つを紹介をしている。
個人的には物語に対する批判や物語との付き合い方についてもっと読みたかったというのが正直なところ。
そういった自分の心境もあってか、前半とどのように繋がっているのか、最後まで理解しきれないまま読み終えてしまった感じがあった。
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タイトルの“物語化”とは、心理学者ジュリアン・ジェインズによって定義されたnarratizationのことか?
スケールが少し違うと感じるけれど、確かにその一部分ではある。
人生は多かれ少なかれドラマを持っている。どのように描かれるかによって、“平凡な人生”であったり、“稀有な人生”であったりするのだ。
物語篇は以上。
そして、自己や世界を理解するための扉の先にあるのがゲームやパズルやギャンブルやおもちゃ…という探求篇に続く。
それぞれ言いたいことはわかった。自己や世界を理解する方法を見つけるための筆者の思考をまとめたもの?
けれど、書籍名にある「物語」との結び付け方に強引さを感じるのは私だけ?
なるほど!ともならないし、じゃあアレはどうなのかな?ともならない。
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大学4年の夏、特別ゲスト講師として30分か60分かそこらの間、難波優輝と松永伸司の講義(という名の対談)を聞いた。なんの縁か、そこからこの本を手に取るに至ったが、なるほどどうして、タメになる本ではあったのだろう。
物語化批判の哲学、タイトル通りである。第1章ではページを繰る手が止まらなかったし、これは私のために書かれた本だ!とまで思った。第2章以降は残念ながら今の私には刺さらず…。
これまでの多くの期間で、あまりにも人生に『物語』を求めすぎてきた。「お前の人生は劇的か?悲劇的か?喜劇的か?歌劇的か?」という貝木泥舟の問いかけを胸に刻んだ中学時代から、兎角ドラマチックな生き様こそが有意味だと信じてきた。そんな私の心の裡に一石を投じるには十分すぎる本だった。自分のキャラクターには拘らず、過度な物語化を警戒しつつ、軽やかに遊びながら生きてゆこう。
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昨今の推し活や過剰な考察ブームに対する強烈なアンチテーゼ。イン・ザ・メガチャーチを読んだ後だと、より一層その批評性が際立つ一冊。偏差値やKPI、いいね数といったわかりやすいゴールに人生をゲーム化し、自らを型にはめてしまうことへの警鐘。効率よく適応するためのキャラになりきり、人生の複雑な本質を取りこぼしてしまう危うさに対する深い洞察。
小難しい用語が並ぶ一方で、オードリー若林と星野源の対談やシュタインズ・ゲート、さらには芸人の岡野陽一までを引用する独特の語り口。
明確な処方箋や熱い啓発を求める読者には不完全燃焼に映るかもしれない。しかし本書の真価は、現代社会を覆う物語化の暴走に一旦ストップをかけ、人生のあり方を根底から問い直すための問題提起的な本。
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1周目はなんか要領を得ないな何が言いたいんだと思いながら読む、2周目でこの人はつまりおもちゃ的主体でもってこの本を書いたのだと思った
メモ:物語…人間は感情的になること、感情を共有することを快と感じる生き物、情動とは社会的に構築されたものであるから再構築もまた可能、MBTI診断だのADHDあるあるだのの特徴に自己理解、他者理解を求め人間を「型にはめる」ことの危うさ、実際は場面で振る舞いを変える、TPOから離れた「真の自己」など存在しえない
その他①ゲーム…目標を数値化しクリアを目指す、「一階の欲求と二階の欲求」、与えられたルールの中でうまくやる(人生においては、ルールは可変)
②パズル…陰謀論と考察、「真実」を求めピースを集め「ハッとする」体験、唯一の正解
③ギャンブル…人生は不確定ゆえに現実に触れる実感がなく退屈、何を賭けているのか、途中までコントロールできる、ひりつき、現実に触れる実感がわく
④おもちゃ…破壊的であり創造的
まあそうだよね、極端だけどあえてか、それぞれよく分析している、理解できる
変わってんだろうなこの人、引用の名前が多いのはややノイズ、著者のドヤ顔が透ける
それぞれのテーマは面白かったけど自分には必要ないといえば必要ない本