あらすじ
物語はなぜ苦しいのか?「物語」が過剰に要求される現代社会で、「人生とはかくあるべきだ」という押しつけに抗う。
新進気鋭の美学者による「次世代の哲学」。
【推薦の声、続々!】
〇永井玲衣氏(哲学者・『水中の哲学者たち』『世界の適切な保存』)
わたしたちは何のために哲学するのか。
それは、もっと世界に出会うため、もっと広々とした場所に行くため、もっと可能性にめまいをおぼえるためなのかもしれない。難波さんは、考えれば考えるほど、自由になっていくみたいだ。
〇田村正資氏(哲学者・『問いが世界をつくりだす』「あいまいな世界の愛し方」『群像』)
ずっと、アイデンティンティを見つけなければと思っていた。
でも、アイデンティティという名の物語に囚われていただけだったのかもしれない。難波さんの本はそんな僕に「世界を見くびるな。そこから出てこい!」と語りかけてくれる。
【抜粋】
清涼飲料水の広告の少女はいつもドラマティックな青春を謳歌しているし、「推し」はファンの期待した筋書きどおりに振る舞うし、就活面接では挫折経験を「美談」として語らねばならない。
私は端的にこう思う。何かがおかしい、と。
人々はあまりにも強い物語の引力に引き寄せられて、もはや物語に支配されつつあるのではないか、と私は危惧し始めた。
だから、私はこれから、物語に対抗したいと思う。何かしらの物語が私たちの幸福を奪うのだとしたら、もはやそんな物語は廃棄されるべきだろう。私はよき物語を愛している。それゆえ、物語を批判したいと思う。愛するということは、支配されるわけでもなく、支配するわけでもなく、独特のバランスのなかで惹かれ合い、反発し合うことなのだと考えている。
第一部の「物語篇」では、物語化の持つ魔力と危うさを論じていく。第二部の「探究篇」では、物語の危険を避け、物語を相対化できるような思考を「遊び」を手がかりに探索していこう。その中で、改めて物語との向き合い方がみえてくるはずだ。
物語化批判、そして、遊びの哲学を始めよう。
【内容紹介】
〇 誤解を生む「自分語り」(第1章 物語批判の哲学)
〇「感情的だ!」という批判をする人こそ、実はもっとも「感情的」(同上)
〇 アイデンティティは服のように「着替えられる」(同上)
〇 人生を「攻略」しようとする人が陥る「視野狭窄」(第2章 ゲーム批判の哲学)
〇 なぜ人は「考察」と「陰謀論」にハマってしまうのか(第3章 パズル批判の哲学)
〇 真のギャンブラーが欲しいのは「お金」ではない(第4章 ギャンブル批判の哲学)
〇 残酷だけど創造的な「おもちゃ的生き方」(第5章 おもちゃ批判の哲学)
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Posted by ブクログ
世界は物語で溢れている。お湯を注げば誰でも美味しいカップラーメンができるような、ありもので定型的でわかりやすい物語にいい加減辟易している。しかし、物語を紡ぐことで私たちは歴史や価値観を伝承してきた。私たちは人の言葉を食べて、言葉で生き方を決められる生き物なのだ。
物語は用法と容量を守って正しく服用を。そして、物語から逸脱した楽しい遊びに思いっきり自分を没入させよ。そうメッセージを受け取った。
刊行イベントにお邪魔したが、難波さんは宇宙人だと自称し、確かにエピソードも浮世離れしていた。なぜ知らない人の顔のポスターを家に貼るのか、なぜ締め切りが頭にあるのに実行できないのかなど…優しい宇宙人が舞い降りてきて語りかけるよいな、妙なイベントだった。
Posted by ブクログ
私たちは「物語」を生きている。そして、「物語」は、きっと私たちを支配している。それは、不可解で理解できないことがらに出会ったときに、理由としての「物語」を求めてしまうように。
いま、「物語」は権威的な、マジックワードになりつつある。著者は、その「物語」の看過されている特権性を指摘し、「物語化」からの逃亡を図る。本書は、「物語」ではない世界との接し方の提案を試みる意欲的な論考である。
著者は、「物語」以外の理解の型として、「ゲーム」「パズル」「ギャンブル」「遊び」に目を向ける。重要なのは、単に代替手段として提案するのではないことである。これらにも、きちんと批判のまなざしを向けている。そして、結局は万能なものは存在しないことに辿り着く。しかしながら、これらは、力を持ちすぎている「物語」に抵抗するための、武器のようなものだと言えるだろう。
本書は、「物語」を批判的に捉えるための考え方と方法を提示する、実践的な書である。
ただし、個人的には、やはり「物語」から逃れることはできないのだろう、という実感がある。「ゲーム」「パズル」「ギャンブル」「遊び」という世界の切り取り方の違いをもってしても、「物語」からは逃れられない。なぜなら、「物語」はそれらを包括するような、もっと大きな概念だと捉えられるからだ。
本書は、力を持ちすぎた「物語」を批判的に捉え、「物語」ではない世界との接し方を模索する「物語」なのである。
Posted by ブクログ
面白かったしびっくりするほど読みやすかった!
自分語りは過去を再構築することである。創作である。
歴史の再構築は訂正可能性があるのに対して、自分語りは真偽を確かめられる人がいないため、自己理解にも他者からの自己理解にも歪みが生じる。
なぜ私たちは情動を感じたいと思うのか。それは第一に、私たち人間にとって、適切に情動を感じることそれ自体が喜びになりうる。それは、世界に対して適切に反応する、という能力だ。
私は感情的にならないというのも論理的な気分なので、私たちは気分に支配され続けている。
パズルは正解があるからジリジリ感が楽しめる。正解がないもの(例えば今月の予算など)を考えるのは全く楽しくない(確かに!!)
求められているのは、個人的な経験と構造的・制度的な次元とを行き来しながら自分がいま直面している困難が果たしてどのような社会的文脈によって生み出されているのかを考える力(ハッとする感覚)と、一つの単純な答えに固執しない柔らかさを持ち、パズルの解けなさとともに粘り強く生きること。
人生は物語ではない。パズルである。
ギャンブルで買ったお金はなんの努力もせずに手に入れたものだから価値を感じず、貨幣の大事さがなくなるためギャンブルに身を投じた人は社会に帰って来れなくなる。
物語にとらわれずに想像と破壊、おもちゃ的発想を大事にすることが大事だ。
Posted by ブクログ
わかりやすくてすいすい読めるが、よくよく考えるとよくわからない。
流石哲学だ。
物語=ナラティブの魔力と危うさを論じた後、
物語のオルタナティブ【代替?】、危うさを避ける遊びとして、
ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃを論じる。
一つ一つはすごくわかりやすい。
でも、この新書を通して、著者が何を言いたいのか、
まだわかってない。
229頁の表はわかりやすい。
しかしこれは何なんだ。
遊び方 時間のあり方 遊びの構造 カテゴリ 美的特徴
物語 通時的 理由と関係 物語 理解と情動
(小説、演劇、エッセイ、映画、悲劇、喜劇)
ゲーム ゲームごとの反復と連なり
課題と挑戦 ゲームプレイ 達成と成長
(RPG、格闘ゲーム、育成・恋愛シミュレーション)
パズル 止まった時間 謎解き クロスワードパズル、
ジグソーパズル、
謎解き、
探偵小説 じりじりとハッとすること
ギャンブル
駆け以前以後の断絶
賭け ギャンブル 不透明の崇高と<現実>
(くじ、競馬、パチンコ、丁半)
おもちゃ遊び
遺憾のない現在 遊動 世界のあらゆるものを用いた遊び
軽やかさ
よく整理されているが、、なんなんだ、、
しかし、物語は私も語る。
〇なぜ47歳でマラソンを走り始めたか
〇なぜ日本酒が好きになったか
〇ラグビー応援の変遷
・・・飲みの場でよく語る
マラソンが一番長く語れる。
仕事に行き詰っていた
小学生だった娘が持ってきたパンフで、夜川の土手35キロを歩くイベントがあったのでやってみた
その話をライバル会社の先輩にしたら、42キロ7つの山を登る日帰りハイキングに誘われたが彼のほうが早かった
脚力を上げたいと思っていた
仕事の行き詰まりはさらにひどくなった
中学の同級生が家業をやめて居酒屋を始めた
パワハラにもあった
学んでいたことを活かせる会社から声がかかり転職した
ビルの29階だった
元ライバル会社の先輩に勝つため、毎日登って100日で10キロ瘦せた
同級生の居酒屋の集まりに、同級生の女子がいて「フルマラソンを走った」といっていた
42キロ歩いているから、走れると思った
走った、サブ4で走れた。
ここにさらに転職に至る経緯もあわせることができる
バブルピーク1990年に父が急死した
土地を担保に借金して株を買っていた
株価は半分になった
相続税が払えなくなった 延納、物納、買い戻しで苦労した
税理士になろうと仕事しながら勉強した
5科目中2科目受かったが後が続かず、挫折した
その2科目と、会社での職種がある会社で必要になった
友人の開業とパワハラに背中を押されて転職した
。。。物語。
これらはすべて事実だが、
何度も語るうちに美化、更新しているのかもしれない。
よくわからない、、
しかしそれだからなんだというのか、
一冊読み終えたが、
結局よくわかってない、、
哲学だから、いいのか。
一緒に考えたから、、、
序章 人生は「物語」ではない
▼物語篇――物語の魔力と危うさ
第1章 物語批判の哲学
1 他人を物語化することは正しいか
2 自分語りの罠
3 感情と革命
4 キャラクターをアニメートする
▼幕間――物語から遊びへ
▼探究篇――物語ではない世界理解
第2章 ゲーム批判の哲学
1 人生はゲームなのか
2 ゲーム的主体と力への意志
3 競争しながら、ルールを疑う
第3章 パズル批判の哲学
1 陰謀論と考察の時代
2 パズル化するポストモダン
3 答えなき、なぞなぞとしての世界
第4章 ギャンブル批判の哲学
1 人はなぜギャンブルに飛びこむのか
2 ギャンブラーが生きる「現実」
3 ギャンブル的生の解放
第5章 おもちゃ批判の哲学
1 原初、世界はおもちゃだった
2 すべてを破壊する「おもちゃ遊び」
3 遊び遊ばれ、ニルヴァーナ
終章 遊びと遊びのはざまで
あとがき
参考文献
さらに考えたい人のために ブックリスト
〇 誤解を生む「自分語り」(第1章 物語批判の哲学)
〇「感情的だ!」という批判をする人こそ、実はもっとも「感情的」(同上)
〇 アイデンティティは服のように「着替えられる」(同上)
〇 人生を「攻略」しようとする人が陥る「視野狭窄」(第2章 ゲーム批判の哲学)
〇 なぜ人は「考察」と「陰謀論」にハマってしまうのか(第3章 パズル批判の哲学)
〇 真のギャンブラーが欲しいのは「お金」ではない(第4章 ギャンブル批判の哲学)
〇 残酷だけど創造的な「おもちゃ的生き方」(第5章 おもちゃ批判の哲学)
Posted by ブクログ
生身の推しがいるオタクたちは、「4、キャラクターをアニメートする」を読んでくれ〜!己の加害性に向き合おう!
推しが自分の理想とは違う動きをしたとき/または期待した行動をしてくれなかったとき、「裏切られた」がっかりしてしまうのはなぜか。オタクは他者を勝手に規定することの暴力性を自覚したほうがいい。
Posted by ブクログ
◎人生を解釈しすぎるから心身に不調が訪れるのではないか
◎私は自分の人生の作者ではない(ハンナ・アレント)
かなり興味深い。ただ、文章が難しくて内容の反復も多いので、目が滑って読むのに時間がかかった。引用している論文や思想については最近発表されたものも多く、内容的にも現代思想の最先端だと思う。しかし単なる思想の列挙というより、現代人の感情や欲求を認めつつ、否定よりもやわらかい表現でそこに潜む危険性を教えてくれる本だった。
気になった箇所のメモ
・自己語りがまともなものになるためには、人は自己の一貫性を危険に曝すこと(=批判的で率直な友人や家族に自己の歴史を語ること)を喜ばなければならないが、そもそも自己語りをする人の多くは一貫性を求めて自己語りをしているというジレンマがあるp.34
・気分なしに世界を理解することはできない。気分は情動へと焦点化し、情動は気分へと拡散していくp.68
・私たちから「感情的」になることを引いたら何も残らない。何も決定することはできず、価値付けることもできない。気分や情動を私たちから引き算できている、と思っている人は、そのとき最も「感情的」な人間の一人であるp.69〜
・自己理解とは流動的なもの。自己をキャラクター化してその性質を固定的に捉えるより、服を試着するようにアイデンティティを着替えるつもりでいた方がいいp.91
・物語は現実世界において役に立ちすぎている。だから自己や世界を理解するためのヒントになるが、物語だけがその大役を担っているわけではなく、映画や音楽、ファッションなど他の芸術や趣味も手段として機能している。p.100
・メタファーは特定の側面を強調することで、世界についての見通しを与えてくれる。しかし同時に、特定の側面を削ぎ落とすことなしにはメタファーを使うことはできないp.110
→人生をゲームに喩える場合、数値化できない困難や定義しにくい幸福、失敗からの学びは取りこぼされる
・ローカルなゴール(数値的な指標、成果など)が生活において前景化することへの危惧p.128
・他者に対する愛や連帯を可能にするのは〈遊び心〉
遊び心とは、自分も相手も固定化しないこと、オープンさ、不確定性への寛容さ、自分を過度に重要視しないこと、馬鹿げたことや冗談に身を投じる柔軟性など。相手を受け止め、自分も一時的に別の自己を遊んでみること。p.220
Posted by ブクログ
本書の第1章を読んで、なぜ自分がSNSを苦手なのかが少しわかった気がする。
SNSの記事にするためには、大なり小なり自分のことを物語化する必要があり、それに対する心理的な抵抗感があるからのようだ。
自分に起こった出来事や感じたことの中から、わかりやすく伝わりやすい物語を作るために、あるものは捨てて、あるものは少しだけ改変することへの罪悪感のようなものがその抵抗感の源だと思う。
だったら、SNSに書くときに、物語化などせずに、起こったことや感じたことをそのまま書けば良いではないか、という反論が自分に対して浮かんでくる。
ただ、そんな事実の羅列では、本人でさえ読むに耐えないような退屈な代物になることは明らかだ。またそもそも「そのまま書く」と言うこと自体が実は極めて難しい。
というわけで、SNSをはじめとして、他人の目に触れるような文章を書くときには、多かれ少なかれ物語化をすることになる。それは自明のものとして認める必要がある。
次に問題になるには、私のような文章の素人が物語を描き始めると、どうしたってありきたりでどこかで聞いた様な物語になってしまうことだ。自分の感じたことや行ったことを的確に伝えるよりも、自分が採用した陳腐な物語に沿った事実を拾い上げ利用し始めてしまう。
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ナラティブという言葉をよく聞くようになり、物語について肯定的な世間だが、それについて一石を投じている書名なので気になった。
出典の哲学についてよくわからないが、それでもわかるように記述されており、予想したよりも深いところまで引き込まれたと思う。
ギャンブルと物語の関係など、言われると唸ってしまうような項目も多く、視野を広められたと感じる。
Posted by ブクログ
人生の意味をいかに見つけるか(=生き方であり遊び方)として、物語的、ゲーム的、パズル的、ギャンブル的、おもちゃ的という5つの人生観を整理したうで、現代の生き方で最も現実的とされている物語的・ゲーム的生き方が伴う危うさと、1つの遊び方に呑み込まれないことを説いている本。
現代の資本主義のもとでビジネスと向き合っているなかでは、当たり前のように物語的主体やゲーム的主体の考え方が正しいとされているが、遊び方はそれだけではなく多様なものであるとハッとさせられる。「人生を意味を感じるのに必ずしも物語を通す必要はない」というのは、物語化を生業としている人こそ意識しておくべき言葉。当然、人生理解と事業推進などでは文脈も異なるが、なにもかもストーリーに落とし込むことが是とするのは、解釈の独占を行うような物語的不正義を生じさせるほか、解釈の楽しさを削っている行為とも考えさせられる。
物語化批判というタイトルの通り、近年特に過大評価されている物語化への批評に尽きるかと思いきや、最後のおもちゃ的哲学の展開はまさに哲学的で面白かった。おもちゃ遊びは意味や目的を持たず、偶然の遊びを優先する。そこには物語のようなエモさも、ゲーム的なフロー状態も、パズル的なハッとする経験も、ギャンブル的な崇高も、人生のだいそれた意味はあまりない。物語化批判の展開としてそうした偶然性に委ねる遊び方にロマンを求めるのは論理的であるとは思うものの、誰しもが経験するおもちゃ遊びとして捉えるところに非常に面白さを感じた。
Posted by ブクログ
ずっと思っていた違和感に言葉が与えられた感じ。そうか、自分は何かを物語化することが嫌いだったんだ。わかるわかる、もっと若いときに読んで、周りの人にもこういう考え方があるって共有したかったな。
と思ったら、後半はホイジンガの遊びの類型を現代風にアップデートした哲学が出てきて、ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃのそれぞれの魅力と危険性、物語との比較がなされる。なんで遊び?となるが、自分の物語からもっと自由になるためのエクササイズであることがわかる。あとがきでも触れられるが、これはあくまでラフスケッチ。それぞれの遊びの哲学について書きたいとのこと。意欲的だ。
Posted by ブクログ
物語には力があると思っている。宗教が消えない理由でもあり、広告としての感染力が強い。この本はその悪用に力点をおいたものであり、別の遊び方として紹介されているゲーム・パズル・ギャンブル・おもちゃの、やはりマイナス作用を論じている。
総じて、フレームの設定により取りこぼしが発生してしまうということだろうか。この世は名前のない曖昧なもので満ちていて、どんな大枠で世界を見るかで整理された理解しやすい世界観を構築するが故にそのルールからはみ出たものが出てしまうというか。統計や言語認知の方面でも感じた感覚だった。
Posted by ブクログ
私たちの感情は物語に支配されている。各メディアでは喜怒哀楽を表現する様々な物語が流布され、とくにSNSの発展にともなってそれらの利用時間や広告価値を最大化させるために積極的な物語活用(エモさ)が日々垂れ流され続けている。
例えば就職活動において、私たちはガクチカと呼ばれる経験談を物語的に話すことを求められる。日常の惰性で学校とバイトの往復をしていたような学生がドラマティックな経験による自己の成長を表現する通過儀礼は、その後の資本主義社会に適合するための踏み絵として機能している。そしてそのプロセスはそれぞれの人生をある種の定型にはめ込むリスクを伴う。
MBTIのような近年流行の性格診断も、16種類の物語に自らをはめ込むことで相互理解を推奨している。しかし20世紀の血液型診断と何ら変わらない精度と信ぴょう性に基づいた占い的要素に過ぎず、むしろそれらを過信することによるラベリングや安易な評価は差別の温床となり得る。本来的には人間の性質とは様々な要素のグラデーションにあるはずが、この物語化による分かりやすさ・二極化によって生きづらさや孤独感の原因となっている。
この物語化に対抗する手段とは何か。五感を高め、日々の暮らしの微かな変化を感じて楽しむといった、生活におけるゆとりや遊びといった部分にあると筆者は説く。結論ありきの物語ではなく、不確実性や不明確さを意図的に取り入れて工夫しながら柔軟性を取り入れていくリアルな効用が必要だろう。
Posted by ブクログ
かなり面白かったです。
「物語り」と言う概念は私達の生き方や生活にとても影響を与えていると日々感じていました。小説や漫画、テレビ番組、私達が消費するコンテンツは殆ど全て物語りがベースに存在します。
そんな物語りをベースに生きている私たちの人生は時に、主人公の様に生きたり、はたまた他者から敵としてキャラクター付けされたりなど、様々な角度や視点から物語りとして語る/語られます。そんな物語り性は常に、物を語る主体が先行し(自分が見た視点)、本来別の視点から見た時の見え方や(他者が見た視点)、考え方、語られ方を隠蔽する側面があるのがあると思います。
本書ではその様な「物語り」を批判的に捉え、物語りが持つポジティブな魅力ではなく、そこに存在する暴力性や隠蔽性などを鋭く批判しています。他者から押し付けられる物語りや、物語りを捏造してしまう事。そして物語りを共有する事で大衆を動員し、そこにある問題点や批判性を隠蔽し、無し崩してしまう危険性を提示しています。
また、本書では「物語り」を批判するだけのみならず、そこから人生における生き方の多様性を提示し、「物語り」から「遊び」への道標をロジカルに示してくれています。これは人生における主体のあり方は様々で、決して物語り的な主体(ストーリー付けされた人生)だけが正解ではないと言う事を語っています。
本書で描かれた様々な主体のあり方は物語りを考える上でとても参考になると同時に、別の主体の在り方を提言してくれる指南書でもある優れた本だと感じました。
とてもおすすめです。
Posted by ブクログ
『私は自分の人生の作者ではない。私はその共同制作者似すぎない』
物語化やナラティブによるコミニュケーションや語り、思考は流行りみたいな感じがある。でも何者かになるために活動をしたり自分自身のラベリングやキャラクター付けもほどほどにするのが良し。時には寄り道をしたり遊び心を持って世界に触れることも大切。
Posted by ブクログ
近年の社会に物語に対する感じる違和感。歴史を編むことによって溢れる自己や常に先導される情動、キャラクター化によって逆に規定される人格。そのオルタナティブとして、ルールのハックを通じたゲーム的理解、唯一の回を追求するパズル的理解、崇高な偶然に身を浸すギャンブル的理解、そしてそれらを破壊して弄ぶオモチャ的理解という世界の見方を提示している。それはまるで道化師のように飄々と世界を渡り歩き、価値観の違いさえも楽しむ態度であった。
Posted by ブクログ
凄く興味深い考えで面白かった。
自分自身も物語化批判の精神を持っていたので、筆者の物語化批判の論には共感することが多かった。特に、自己語りによる歪みや、MBTIを含む自分や他人をキャラクター化してしまうことに対して批判的な考えを持っていたので、上手く言語化されていて自分が何に嫌悪感があったのかを整理できたと思う。
人間は多面的であるから矛盾している。人間は矛盾に満ちているのが良いんだ。私らしさは矛盾から生まれるからこそ、矛盾を肯定しようという気持ちになった。
そして、物語・ゲーム・パズル・ギャンブル・おもちゃという遊びを考察していく。自分がどれに当てはまるのか読み終わった今も思いつかない。振り返ると、物語的な面も、ゲーム的な面も、パズル的な面も、ギャンブル的な面も、おもちゃ的な面も持ち合わせていて、全てが融合しているような気がする。難波優輝さんのこれからの本が益々気になり、今後追っていきたいと強く思った。そして、この論の展開を追いつつ、自分自身についても考えていきたい。
本書で触れられていたBaba Is Youが面白そうすぎたのでやってみて無事ハマっています。面白すぎ!
Posted by ブクログ
## 物語化批判の哲学 私の人生を遊び直すために
-
- 面白かった!
- 要は画一的な価値観を持つと他の面を見れなくなって危険だよ、でもかといってポジションを全く取らないと何も得ることができないよね、
- じゃあどうすれば良いか?いろんな遊びに首を突っ込んで、でも執着せずに楽しむこと
- それは常に内省的であること
- でも反省ではなく、自分がどうなっているかの確認程度にしておこう
- 自分はダメなんじゃないのか?ではなく、自分は今大丈夫なのか?
- 具体的な行動に落とし込んで自分を結果的に守る
-
- 物語批判の哲学
- 物語ることはセラピー的に必要ではあるが、自己を定型化してしまう恐れがある
- その結果、固まったアイデンティティの中で入りていることになる
- 自分語りが自己理解に寄与するか?
- 人は自由に過去を改変して一つのストーリーを作る
- 自己認識だけの自己語りは危険
- 自己語りがもたらす認知脳がみは他人に対する理解を歪める
- それが一つの単一的な物語でないと、自分のアイデンティティが揺らぐことになる
- 他人を語ること、他人を理解することも、海底排除性、目的閉鎖性が付きまとう
- 他人を誤解して、解釈を奪うような暴力
- 他人の解釈を奪い取り、解釈の独占をする危害
- 物語的徳
- 不必要に他人を物語的に理解するのではなく、今の自分の理解を手放し、相手を物語叙述の世界に閉じ込めないこと
- 今日もやろうとした、注意
- いつ物語的理解を行うべきで、そうでないのか判断する能力を身につける
- つまり、今の自分で大丈夫かと常に問いかけること
- 物語的には理解不可能な相手を相手の言い分を聞くことで理解しようとすること
- 相手を理解できないものとして尊重することが物語的徳
- 憧れ、真似
- 他人をコピーしようとすること、それも物語的
- しかしこれ自体は悪いことではない、当然
- でも上のように物語的徳を意識しないといけない、ともすれば狭い理解、狭い枠組みの中に自分が閉じ込められてしまう
- ゲーム批判の哲学
- ゲーム的、目の前の課題をこなして行った先に成長達成があるとする考え方
- 第一の目的ではなく、第二の目的を目的とする考え方
- 特定の構造がない時に不安になってしまう
- 資本主義を肯定する感覚ではある、これをプライベートに持ち込む奴はそりゃ嫌われる
- ゲーム的であることを超えて、自己満足的に生きるためには、必ずしもそうでない自分をどう扱うか?と言う課題がある
- 1つのポジションのに甘えるのは単純化の作業で、そうではない曖昧さの中に向き合う必要がある
- これはきっとみんなやっている、ストレス耐性の話と繋がる
- パズル批判
- 正解が一つであると言う姿勢
- 仮説形成が楽しいのは人間の創造性の源ではあるが、健全な思考としてはそこに止まってはいけない
- いろんな意見を統合比較し、誤りを見つけていく姿勢が必要
- パズル的徳
- 自分が今取り組んでいるといが本当にパズル化して良い対象か?
- 一つの答えに辿り着いて快感を得ることを急がずに、複数の可能性や反論を受け入れることができる姿勢
- 分からなさ、がいつまでも残ることで、むしろ思いがけない連想、多様な視点、面白さに出会えることができる
- ギャンブル批判
- 日常では発揮されない性格・行動様式が現実化される
- 確かに
- ギャンブルは、その状況に自分が必要ないと考えて退屈を覚える人間にはまりがち
- おもちゃ批判
- 疲れてきてメモが減ってる
- 脱目的性:偶然で目的がない
- 中動相性:おもちゃが自分なり、自分がおもちゃになる
- 同調と浮遊:軽やかな裏切り
- 責任感を持たないと言う責任感
- 自分の遊びに固執しない
- 他の人の遊びに首を突っ込む
- 摩擦の中で遊ぶ
- 一つの遊び方に没入しすぎない倫理
- 一緒に遊びながら、没入しすぎない態度
- 入りすぎると自分が疎外されるので、それを防ぐ
-
Posted by ブクログ
作者の意図とずれてたらアレだけど、世の中の常識やステレオタイプ(物語)で自分の範囲を決めてしまう事のリスクや、ゲーム性、パズル性、ギャンブル性、おもちゃ(目的のない行為)の重要性、これら5つのバランスが大事とか、今までの人生経験で感じてたことがそのまま文章になってた。
あまり新しい発見がなかった(出来なかったのかも)のが残念だが、良い復習の機会になった。
なんか文章が無駄に難解。話の流れも散らかってて、読んでて体力使う。
Posted by ブクログ
現代日本の批評家である難波優輝(1994-)による現代文化批判。2025年。
本書は、物語を愛するという著者が、人生を物語として意味づけようとする現代の風潮に対して、違和感を表明するところから出発する。①そこから現代人が物語を欲してしまう理由と物語的な意味づけの危険性とを分析し、②さらに物語に代わって生と世界を意味づける多様なスタイルについて検討し、③最後は物語を相対化することを試み、そこから他者との連帯の可能性を探る。
「愛するということは、支配されるわけでもなく、支配するわけでもなく、独特のバランスの中で惹かれ合い、反発し合うことなのだと考えている。」(p7)
人はなぜ物語を欲するのか。それは、根源的には生と世界が無意味であるという端的な事実性と、その無意味さに自足できない人間の過剰さとに起因するといえる。人は、物語を通して生と世界を整序することによってはじめて、それらを有意味なものとして理解することができるようになる。本書は「生と世界の無意味さを前にして人はいかに生きていくべきか」という問いに、他者との連帯の可能性を接続しながら、応答していこうとする。
□ 「物語」批判
本書では、無意味な生と世界を意味づける多様なスタイルの例として、物語(「人生(世界)は来るべきエンディングに向かって進んでいく物語である」)、ゲーム(「人生(世界)は課題を克服してハイスコアでクリアすべきゲームである」)、パズル(「人生(世界)は唯一存在する単純明晰な正解を発見することによって解き明かされるべきパズルである」)が挙げられている。ここでは、人生(世界)をひとつの意味を有する体系として解釈する、これら多様なスタイルの総称として、カッコ付きで「物語」の語を用いることにする。
「物語」とは、生と世界をひとつの意味の体系として解釈することである。「物語」には以下のような困難がある。
第一に、「物語」による意味づけは必然的に不十分である。例えば、人は突然の災難や喪失に見舞われると、それまでの日常においては確かなものとして感じられていた他者や世界との紐帯から断ち切られて宙吊りにされてしまう。そこで起こっているのは、それまでの安定的な日常を成立させていた「物語」の無効化であり、このとき人は強い存在論的不安に襲われる。こうした危機的状況にあって、人は、他者や世界との関係の中に自己を位置づけ直し、再び自己の生の意味と目的を回復すべく、自己が置かれている状況に新たな「物語」の枠組みをあてがうことを試みる。新たな「物語」を通して、過去を構成し直し、現在の苦難の意味を解釈し直し、進むべき未来の行き先を設定し直すことで、何とかして自己を新たに立て直そうと苦闘する。そこでは、複数の「物語」を試行的にあてがってみて、それらの中で存在論的不安を最も緩和してくれる「物語」を生きようとする。では、それら複数の「物語」の中から最適なものを選択する基準は何か。「何がしたいか」(欲望、エスの観点)、「何をしたほうがいいか」(功利、自我の観点)、「何をすべきか」(当為、超自我の観点)など、どの様相の観点から「物語」を選択し、そこからいかにして具体的な「何」を導き出せばいいのか。実はここで、この問いの解を導いて、最適な「物語」を選択するための、meta-levelの「物語」が要請されている。しかし、これは無限背進である。よって、「物語」は決定不可能である。人は、生の意味の根拠を求めて「物語」を欲するにもかかわらず、無根拠にひとつの「物語」を選び取らねばならない。このように、「物語」は、あくまで暫定的なそのつどの代物なのであって、常に改訂可能性に開かれているのであり、決して普遍的不変的な真理を約束してくれる枠組みなのではない。
第二に、上述の不十分さにもかかわらず、「物語」による意味づけは過剰に陥る懼れがある。則ち、生や世界を理解可能なものとして整序するための「物語」が、適用可能な範囲を超えて濫用され、自己や他者に対して暴力や抑圧として作用する可能性がある。なぜなら、自己や他者の在り方は無限に多様であるためその全体を単一の「物語」の枠内に押し込めてしまうことは不可能であるのだが、にもかかわらずこの事態は、人を「物語」の不十分さ(改訂可能性、適用可能範囲の限界など)への認識には向わせず、寧ろ「物語」に還元し切れない理解不可能な部分を「その人に相応しくない不純物」として排除する方向に向かわせてしまうから。ここでは、「物語」がそれを包摂可能であるか否かという「物語」の側の解釈の問題が、それが自己や他者に「相応しい」か否かという客観の側の価値の問題にすり替えられてしまっている。これは、人が「物語」の不十分さを受け止められず、「物語」と適切な距離を取れなくなっていることに起因する。
□ 「物語」的徳
以上の「物語」批判を踏まえて、「物語」的徳(「物語」との適切な向き合い方)として肝に銘じておくべきことを列挙しておく。
①「物語」は可変的である。つまり、「物語」は既に完成されたものではなく常に改訂可能性に開かれており、ひとつの形に固定せず改良し続けなければならない、ということ。②「物語」は複数的である。つまり、自分の「物語」は数多ある「物語」の中からたまたま自分の都合によって選び取られただけのものであり、他者は常に自分とは異なる「物語」を生きている可能性に開かれている、ということ。③「物語」は部分的である。つまり、単一の「物語」に他者や世界の多様性の全体を包摂させることは不可能であり、そこから排除されてしまう外部に対して常に想像力を働かせなければならない、ということ。なぜなら「物語」は、排除された部分に対して(それが自己であれ、他者であれ、世界であれ)、現実的な暴力や抑圧として作用し得るものであるから。④「物語」はイデオロギー的である。つまり、「物語」は自らが可変的、複数的、部分的であることを隠蔽し、自らを不変的、単一的、全体的なものとして偽装するため、「物語」に対して常に批判的な距離をとって外部から対象化し、そのイデオロギー性を自覚しなければならない、ということ。
「ここで重要なのは、「人生はゲームである」というメタファーは、社会制度や経済制度、道徳的規範といったルールを変更不可能な「前提」としてしまうという点だ。「ルールの改変」はゲームのメタファー中に埋めこまれづらく、それゆえに、多くのゲーム的主体は、ゲームのルールを攻略する、適応する、うまくやる、という発想しか出てこない。/けれども本来は、「ゲームそのものを新しく作り変える」ことや、「既存のゲームのルールを大胆に変更してしまう」行為も可能なはずだ。〔略〕。われわれは常に、プレイヤーでありながら、同時にデザイナーでもある。/その二重性を力として活用できるとき……そのときはじめて、「ゲームとしての人生」というメタファーは、資本主義の存続のための役割や、人生の意味を注入する手段としてではなく、人生と社会を編みなおし、リデザインする、抵抗のための重要なメタファーとなるのだ。」(p134-140)
「つまり、パズル的な最良の態度とは、謎解き(問題解決)の「じりじり」を愛する探究心を持ちながら、社会学的想像力によって個人の経験と社会の構造を往復し、「ハッとする」ことを楽しみながらも、一つの単純な答えに固執しない柔らかさと、再び「じりじり」を味わい、解けなさと共に生きる粘り強さを兼ね備えることにあるといえる。」(p170)
□ ギャンブルによる「物語」の無化
ギャンブルを通して「物語」は無化される。ギャンブルとは、生と世界の無意味性に放下することである。これはハイデガー的な本来性と決断の議論であるといえる。國分功一郎『暇と退屈の倫理学』で展開した、ハイデガー『形而上学の根本諸概念』における「退屈の第三形式」に関する議論とつながるように思われる。
ギャンブルとは、日常において有効な計算的理性によっては制御し切れない、究極的には単なる運不運によって左右されてしまう非日常的な偶然性に、我が身を曝すこと。ギャンブルによって、どこまでも擬似的で欺瞞的なものでしかあり得ない「物語」の被膜が生と世界から剥ぎ取られ、ギャンブラーは非本来的な日常(ラカンの「象徴界」)の惰性態を突破し、本来的な非日常(ラカンの「現実界」)に、則ち生と世界の無意味性という端的な事実性に、我が身を放下する。このとき、「物語」は無化される。こうして一切の「物語」つまり意味連関から切り離された人間は、そこに自らの根源的な「自由」の可能性を見出す。この「自由」の可能性はそのつど「決断」(一切の「物語」に依拠することなく無根拠に何かを選び取ることで、自己を生と世界へと投げやること)によって現実化される。ここに「物語」からの「自由」が実現する。
「空中の綱に乗っているとき、生きているのさ。降りているときは待ち時間だね」(p176、サーカス曲芸師の言葉)
しかし、一切の「物語」が無効化した非日常(「現実界」)を、ギャンブルを通してほんの一瞬だけ垣間見ることは可能であるかもしれないとしても、そこにおいて安定的に社会生活を継続することは極めて困難である。なぜなら、非日常(「現実界」)において無化された「物語」とは、日常(「象徴界」)的な社会生活の基盤となる「象徴秩序」を含むのであり、この「象徴秩序」によって社会はカオスに陥らずにいられるのだから。「物語」の危険性に対して、ギャンブルによる「物語」の無化は、現実的なオルタナティヴたり得ないだろう。
□ 遊びによる「物語」の相対化
遊びを通して「物語」は相対化される。遊びとは、生と世界の意味の複数性を遊動することである。これはポストモダン的な両義性と戯れの議論であるといえる。同じく國分功一郎の前掲書で展開した「退屈の第二形式」に関する議論につながるように思われる
「自分も相手も固定化された存在ではない。オープンさ、不確定性への寛容さ、自分を過度に重要視しないこと、馬鹿げたことや冗談に身を投じる柔軟性。これがルゴネスの遊び心だ。/異なる価値観や規範の中で生きる相手に対して、相手の想定外の行動や発言を柔軟に受けとめ、自分も一時的に別の自己を遊んでみること。〔略〕。相手の「世界」に一度旅してみること。/こうした態度こそが、ルゴネス曰く、異文化・異人種の女性たちが互いを「自分と等しく主体的な存在」として認め合う道筋を作り出し、愛や連帯を可能にするのだ。」(p219-220)
「そう。おそらく、おもちゃ的世界というものは、他のすべての世界とつながる交通経路のような細く伸びた世界なのかもしれない。他の「世界」の明確で一貫した論理に呑みこまれそうになりながらも、それらから逃れ出て、すぐに他の世界へと旅していける。」(p222)
「もしおもちゃ的主体が、ただ自己の楽しみだけに没頭するのでなく、相手の「世界」を面白がり、互いに軽やかに遊び合うことができれば、それはある特殊な連帯へと転じる。/それは共感の連帯というよりも、その場所でともに遊ぶ連帯だ。」(p225)
複数の「物語」間の遊動について、フッサール現象学の用語を流用して整理してみる。①日常において「生と世界の意味は、「物語」の外部に、それ自体として実在している」と素朴に前提してしまっている(意味定立)。②しかし、生と世界は端的な事実性において無意味である。③つまり、意味定立は、素朴ではあるが根拠のない思い込みに過ぎない(自然的態度)。④そうした自然的態度およびそのもとで営まれる自然的経験から批判的に距離を置くために、意味定立の判断を一旦停止し(エポケー)、そうした判断を前提とすることを一切禁止する。⑤こうして、生と世界の意味は、「物語」の外部にあるのではなく、その内部に引き戻される(「物語」論的還元)。⑥生と世界の意味は、「物語」の外部に実在するのではなく、「物語」の内部に引き戻されて(「「物語」論的」)、そこにおいて個人と文化との相互関係によって共同的に構成される(「間主観性」)ことになる。この働きを「物語」論的間主観性と呼ぶことにする。⑦「物語」の外部を前提していた自然的態度は、「物語」論的還元によって、「生と世界の意味はそのつど選び取られる「物語」の枠組みの内部において構成されるものである」ということを自覚する「物語」論的態度に切り替わる。⑧一方において、「物語」論的間主観性は、生と世界の意味を、「「物語」の外部に、それ自体として実在している」という「「物語」的な存在意味」をもつものとして、構成する。「「物語」的な存在意味」とは、「物語」論的間主観性が、生と世界の意味を、自らと切り離して、自らとは無関係なそれ自体として、客観化、実在化するということ。これは上述した「物語」のイデオロギー性につながる。⑨他方において、生と世界の意味は、「物語」論的間主観性によって構成されたものとして、「物語」論的間主観性の相関項として、それ自体として存在するのではなく「物語」論的間主観性にとって相対的に存在するものとして、則ち「「物語」論的相対性」において、存在する。「「物語」論的相対性」とは、生と世界の意味が、「物語」論的間主観性との関係において、あらしめられる、ということ。⑩生と世界の意味を、「「物語」論的相対性」のうちに捉えるか、「「物語」的な存在意味」において捉えるかによって、「物語」論的態度/自然的態度という相異なる態度が採られることになるが、人はいつでも一方から他方へと態度を切り替えることができる。このように、「「物語」論的相対性」と「「物語」的な存在意味」とのあいだを任意に往還することで、特定の「「物語」的な存在意味」に縛られることなく、いつでも別の「「物語」的な存在意味」に移動することができる。
このように「「物語」論的相対性」によって個々の「「物語」的な存在意味」の相対性が認識されることで、上述の「物語」的徳を獲得することができる。例えば、自他にとって暴力や抑圧として作用する「物語」があれば、それに固執することなく、別の「物語」に着替える可能性にも開かれている。また、遊びを通して、自他の「物語」に対する執着が相対化され、互いの「物語」に乗り入れ合ってみせることで、他者との連帯の可能性が開かれる。この意味で、遊びは「物語」と適切に向き合うことができる現実的なスタイルであるといえる。
□ 「物語」をおもちゃにする
「物語」を、現実の生と世界の意味づけではなく、現実から自律した全く別の世界、虚構を創出する遊びに用いてみてはどうか。「物語」をおもちゃにする遊び。現実から自律した世界の原理、法則、言語、地図、歴史、価値、社会などを、体系的に構築していく。虚構とは、現実とは別に、現実の外に広がる可能性のことであり、虚構への想像力は、現実が、無限にある可能性の中の、偶然のひとつに過ぎないことを教えてくれる。虚構というものの可能性を考えることは、「現実とは何か」「現実感とは何か」「現実と虚構はどのような関係にあるか」「現実と「物語」はどのような関係にあるか」という現実そのものに関する問いを考えることにつながっていくと思われる。虚構は現実を逆照する。
「物語が、何の社会的意義も見出されず、攻撃性も扇動力も持たず、ただひたすらに単なる物語として愛される社会。そんな社会こそ、私にとってのユートピアだ。」(p99)
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当たり前だが人生の捉え方が多様にあるということが改めて分かった。
自分はゲーム的、物語的な人生の捉え方をして今まで生きてきたと思う。「大変な時も自分の能力が上がれば乗り越えることができる」、「理想の姿に向けて成長することが大切」、常にゲームクリアや成功を目指して努力することに価値を見出していた。
『人生をRPG的に捉えることは、あらゆる出来事をクエスト達成のための通過点とみなす態度を助長しかねない。人間関係の葛藤や挫折、悲しみも「レベル上げのための必要なイベント」と解釈してしまえるからだ。そこにある一回一回の痛みや本当になすべきだったのかという倫理的な葛藤がなきものにされるかもしれない。』
この言葉が胸に刺さった。成長することに価値をおきすぎると、苦しいことや大変な状況に対して、それは当たり前であると考えてしまう。そして、苦難を乗り越えればその先に成功が待っていると思ってしまう。でも、人生はそんなゲーム的に作られていないし、人間の心はそんな機械的にものごとを処理できるわけではない。だから、一回一回の感覚や感情を大切に生きること、この本でいう「おもちゃ的」な人生の捉え方も重要だと思った。
Posted by ブクログ
要は、緩やかにバランスよく生きようということなのかなぁと思った。かくあるべきも違うし、流されるのも違うし、答えを出すべきなのも違うし、、、ということか。
還暦前に不安もあるけど、なるようにしかならんもんだし、しなやかに余生を過ごしていきたいなと思うよ♪
Posted by ブクログ
掴みが良かった。うちら物語に人生の自由もとい批判的な思考力を奪われてない?という認識があったので、危機感とともに本書を手に取った。
物語には情動を動かす作用が含まれており、良い点も注意すべき点もある。情動をさらに深掘りしていくと、ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃというオルタナティブに行き着くという考察を行っていた。後半は分かるようで分からないような…。要素としては理解できるんだけど、他にもあるんじゃないか?という落ち着かなさがある。
「今後のキャリアはどうしていきたいか?のような人生の計画を立てたくない。行き当たりばったりで生きていたい」願望にめちゃくちゃ共感した。PDCAサイクルみたいな装置に人生を侵されたくない。
Posted by ブクログ
最近悪用されているナラティブの矮小化に興味があり、読んでみた。(私は神話や優れた物語など大きなナラティブの力を信じているが、ネット社会になり急速にナラティブが矮小化しているように思う。)
デマや陰謀論、ポピュリズムなどナラティブの悪用や、押し付けられた物語などへの批判、それはその通り。
現在の事象としてのナラティブを様々な文脈で切り取っているが、結局のところ、ネットの言説からの距離感、有象無象の物語に意味を持たせることをやめて、物語に絡め取られないように軽く逃げ切れ。
という主張なのかな。(これだけ語ったけど、これもそもそも遊びなんで、という結論で、まぁ、そうかとしか言えない感じだが。)
資本主義とギャンブルのところは面白かった。
Posted by ブクログ
正直なところ、きちんと理解しきれていないです。
物語の持つ力が大きいからこそ、物語としていろいろなことが描かれていることに注意をしなければならない、物語ににまきこまれすぎす、適度な距離感や客観的視点をもつバランス感もひつようである。
というのが第一章の理解。
第二章からは、物語だけで人生を語る以外の方法として、遊びもあるよということなのかなと。ゲーム、パズル、ギャンブル、おもちゃ、とそれぞれの特徴と、その批判があると。そのなかでも、人類普遍的なおもちゃという考え方に物語のオルタナティブがある。
という理解。
まだ明確な自分の意見は持ち合わせていないが、数々の視点をもち、人生を遊びなおすのは、行きやすさにもつながるのかもと漠然と思いました。
Posted by ブクログ
現代思想チックな語りとテーマは大いに興味を引かれるものの割に、読後感がしっくりこない。ギャンブルの話題などはとっつきやすかったが、個人的な感性として合わないのかも。
Posted by ブクログ
“もし人々が、「与えられたゲームを上手にこなす」ことだけに集中するあまり、ゲーム自体をリデザインする可能性にまったく目を向けなくなったとしたら、社会システムや規範に対する抜本的な問い直しや、ルールを再設計する創造的な試みが消え去ってしまう。”(p135)
新書にしてはすごい構成だ
個人メモ: ギャンブル批評の章、美的感覚について若干記載あり