近年、(主に米国の)先端産業の経営者がSF作品のファンであることにも起因して、SFというジャンルが注目されているようだ。
そこで、SFを積極的に経営に活かしていこう、というムーブメントが生まれ、これがSFプロトタイピングとして市民権を得たものであろうと思う。
「ドラえもん」、星新一から始まり、フラン
...続きを読むク・ハーバート、アイザック・アシモフ、神林長平、ウィリアム・ギブスン、士郎正宗、ダン・シモンズ、伊藤計劃などを濫読してきた身としては喜ばしいことだ。
実は私が1990年代に所属していたSFコミュニティでは、「SFの終わり」が語られていた。
もはや現実がSFに追いついたというのである。
もちろん、現実がSFの中のテクノロジィが全て現実のものとなったというわけではなく、SFが描く未来像が輝かしいものではなくなり、世紀末的な終末観と相まって、「テクノロジィがこれ以上進化しても、先が見えている」といった気分を生み出していたのだろう。
要は、「未来の終わり」(宮台真司風にいえば「終わりなき日常」)のような雰囲気が、当時のSF界隈には漂っていたのである。
私見では、当時のSFも時代の気分とは無関係ではなく、見通しの暗い未来を前に「パンク」するしかなかったのかと思う(実は、私はスチームパンク作品も好物であり、中でもティム・パワーズはファンダジィ作品も含めてお気に入りだった。)。
しかし、現在、SFプロトタイピングが注目されている事実は、むしろ現実がSFに近付いたこと(あるいはSFが現実に近付いたこと)が、SFに新しい意義を与えたことを意味するのではないかと、本書に気が付かされた。
柄にもなくSF語りをしてしまったが、このレビューをもって、こうしたことを考えさせてくれた本書への感謝に代えさせていただく。