湯澤規子のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
『「おふくろの味」幻想~誰が郷愁の味をつくったのか』『胃袋の近代―食と人びとの日常史―』からの『焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史』。はっきり言って自分の中では湯澤規子ブームです。前著2冊での「家庭料理」「外食近代史」とテーマを変えながら今までの歴史に中では見過ごさされてきた個人的な「食べる物語」を繋げて生き生きと描かれる日常生活の近現代史に引き込まれてきました。今回は産業革命以降の工場労働者の「食」のストーリーということでは『胃袋の近代』に隣接していますが、テーマを「女性」にフォーカスしたことでまた新たな物語が浮かび上がっています。『胃袋の近代』でも取り上げられていた細井和喜蔵の『女工哀史』と彼の内縁の妻である高井としをの『わたしの「女工哀史」』の違いに心を寄せた著者の着眼が新たなる歴史を浮かび上がらせています。それは日本に留まらず太平洋を挟んだ対岸の女性たちの自己実現の物語に繋がっています。そこに今年5000円札に登場した津田梅子という仮の補助線を引くことでシスターフッドという精神的な紐帯が浮かび上がるのです。それは現在のジェンダーの問題にも繋がっていると思います。たまたま聞いた平野紗希子さんの「味な副音声」というポッドキャストの番組に湯澤規子さんが登場した回を聞いたのですが違う分野で響き合うシスターフッドみたいな気分を感じました。エピローグで語られる「一人ひとりが生きているという事実の重み」に気持ちが熱くなりました。いつものように最後になって著者の想いがほとばしります。『無名になって「わたし」を探し、「わたし」を取り戻し、「わたしたち」を生きる』…湯澤規子アンセム、グッと来ました。
-
Posted by ブクログ
食にまつわるビジネスをしている知り合いに「食べる」って観点で昭和・平成・令和の社会変化を研究している人っていない?と聞いたらすかさず推薦されたのがこの本の著者の湯澤規子教授でした。で、本書もめちゃ面白い、とおすすめされました。なので、即読み。あまりに面白かったので、すぐ「胃袋の近代」に手を伸ばして、こちらの新書の感想は後回しに。題名からうすうす感じていましたが、冒頭から『結論からいえば、古代、近世、近代、そして現代に至るまでずっと変わらず「お母さんがごはんをつくってきた」というのは実は誤った認識である。』とぶちかまされます。「おふくろの味」というキーワードがどうして生まれ、どう広がったか、という探索ですが、家庭料理という食の形態から見つめる近現代史なのです。その追求は後半に進むにつれ、著者の自分ごとになっていき、それが大きな歴史とつながる感覚にはちょっと興奮を覚えました。この本棚でも中原一歩の「小林カツ代伝」とか阿古真里の「小林カツ代と栗原はるみ」を読んでいたので、何かが繋がった感覚になりました。何よりも、ミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』の著者、ミシェル・ド・セルトーが提起する、「空間は人間が創る物語と関わる舞台である」という言葉に出会ったのは大きいです。バラバラの要素を寄せ集め、一枚の表を作り出す舞台を「地図」と定義する…この本棚もそんな「地図」になれたならいいな…
-
Posted by ブクログ
「おふくろの味」と聞いて思い浮かべる料理や
定義は何でしょうか。
「家庭料理」「家庭で作られる料理」と思われ
るかもしれないです。
でも家庭で作られたとしても、カレーライスや
ハンバーグはちょっと違う気がします。やっぱ
り「肉じゃが」かな。でも他に思い浮かばない
人は多いのではないでしょうか。
と言うのが現在の男性の意見かと思います。
この本で考察されているのは実は時代によって
「おふくろの味」から受けるイメージが異なっ
ているのです。
高度成長期には「故郷の味」、バブル期には漫
画「美味しんぼ」で題材にあった「家庭の主婦
が作る毎日食べても飽きのこない料理」、そし
て令和の今では「地域に残る郷土料理」といっ
たところでしょうか。
「いや、そうじゃないだろう」と反対する人も
いると思います。それぐらい「おふくろの味」
とは曖昧であり、時代による変化が大きい概念
なのです。
それを一冊の本にまとめ上げるのは大変な苦労
があったのではないかと思います。
たとえ一冊にまとめられても、まだ異論を唱え
る人が多数出てきそうな程、「おふくろの味」
とは実態のない味覚なのではないかと思わされ
る、そんな一冊です。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ現代において、ウンコはトイレに流せば、目の前から見えなくなる存在である。
この言葉は本書の中にあるが、まさにその通りである。幼稚園・小中学校の教育の中で「ウンコは毎日出た方がいい」「健康な証拠」などという事はあるが、一方でその処理の仕方にまでフォーカスしていくのは「タブー」視されている。
我々が子供の頃には、学校のトイレは和式が多く、特に男子は個室に入ればその目的が分かるだけに茶化されるのではないか、という懸念があった。
現在、私自身が教員として小学校に勤務している中で、男子が大便をしづらいということはないように感じる。結構、給食後に行っている男子は多い。自分自身は我慢をしていただけに、随分と雰囲気が変わったものだと思っている。
しかし、筆者が主に後半部で述べている「循環」という点で言えば、そこに言及して子どもたちに接しているかといればNoである。
「下肥」というありふれた日本の農業習慣にも当然本書は言及しているが、徒に「糞便で育った野菜など食べられるか」という感情だけで物を言うのではなく、いかにして「循環型社会」を作り上げていくかという大局的な視野が大切であると実感した。 -
Posted by ブクログ
本来、人間が普通に生活するにあたって絶対に
無視できないのが排泄、つまりウンコを出すこ
とです。
食と同じくらい、この最も身近な行為は、見て
見ぬふりされていました(見てないか)。
とは言っても子どもはウンコが大好きなのです。
NHKのチコちゃんによると、子どもはウンコを
自分の分身と考える傾向があるから好きなのだ
とか。
とにかくタブー視されているウンコを真面目に
研究したのが本書です。
最近見直しされつつある江戸時代の循環社会で
ある、下肥(つまり堆肥ですね)にお言及して
います。古くて新しいのです。
個人的な感想ですが、本書の中でウンコを最初
に扱った漫画のは、あの鳥山明氏の「Dr.スラン
プ アラレちゃん」と言っています。
違うだろ。同じ少年ジャンプではあるが「トイ
レット博士」だろ。とツッコミを入れてしまう
人は年代が分かります。 -
Posted by ブクログ
ヨーロッパの歴史系の映画や、アニメのヨーロッパ風の街並みの風景は綺麗に描かれていたが、実際は窓からウンコや小便を放り捨てていたのでかなり汚かった。
しかし、アジアではウンコも小便も肥料にしており、道端が糞尿まみれにはなっていなかった。
江戸時代では居住人がウンコを回収する農民にお金を払うのではなく、農民が居住人からウンコを買っていたという話が大変面白かった。
ヨーロッパとアジアでウンコに対する向き合い方が異なっていて面白い。
明治維新以降は、都市部に人口が集中しすぎてウンコが大量に生産されてしまい余りすぎたために、肥料として使うことから段々と離れてしまったが、この再利用する姿勢はこれからも残り続けて欲しいと思った。 -
Posted by ブクログ
食べる事は生きる事
そんなフレーズがあった。
もちろんその通りだと思う。
母の看取りの時、母が食べられなくなった時に、その最期を思ったが、本当に最期の予兆は排泄出来なくなった時だった。
食べたら、出す。
生きていく上で、どちらかだけでは成り立たない。
食べ物の歴史は排泄の歴史とセットでないと、完全とはいかないのかもしれない。そして、私たちが食べている、牛や豚や鶏も食べて排泄している。
家の近くに、養鶏場も牛の牧場もあるので、風向きではその『香り』が漂ってくる。
視界に入る糞と、なんとも不快な香りに顔を顰めていたが、この本を読んで、なんと私は傲慢なのかと思った。
牛も豚も鶏も生きているので、当たり前に排泄をするし、臭いもあるのだ。
子どもたちが、肉をパックされた姿でしか知らないことが問題だと言う言葉を聞いたことがある。この肉がかつて生きていた動物であることを知ってもらうなら、それらの動物が食べて排泄して臭うことも知らなければ、食育とは言い難いのではないか?そんな事を思った。
今は、自分の排泄物すら見る機会も無くなってきている。臭いだけで、汚いと顔を顰める時代だ。
人糞が下肥として農地の肥料となり、育てられた作物を人が食べ、そして排泄物がまた下肥となって作物を育てる。
江戸時代のそのサイクルに戻そうという気にはならない。そこから切離した事で、救われた命もあるからだ。
でも、食べる事と排泄する事を切り離して考えては、より生きにくい世界になっていくのではないか?不快なものは世界から排除する、不寛容な世界観に繋がるのではないか?論理の飛躍かもしれないが、そう感じた。 -
Posted by ブクログ
女性の近代史を、日常茶飯という観点から整理し、当時の女性の内面に迫った一冊、非常に面白かった。
特に近代における、産業革命からの働き方の変わり方、これが日本とアメリカで意外な接点があり、パッチワークキルトのように全体像が浮かび上がってくる。自分で稼いだお金で、自分の欲求のために使う、というのがどれだけ重要な事であったか。
骨太な一冊であるが、タイトルからは内容が想像しにくく、このタイトルにするのであれば、もっと間食に焦点を当てるべきで、結論も間食に持っていった方が良いのではないかとも思うが、この注目されない感じも、日常茶飯事なのだろう。 -
Posted by ブクログ
テーマは「働く女性の日常茶飯 in 近代日米」(漢字多…)といったところか。
有名無名問わず、歴史上語られてこなかった女性たち、”彼女たち”の生の声がいくつも取り上げられている。名前を再掲されたら何とか思い出せる程度であるが、取り上げる範囲が広すぎて把握するのに難儀した…というのが本音。
でも歴史上スポットが当たらなかった…ではなく、当てられてこなかった事実なだけに、どの話も興味を掻き立てられた。
第一部「日本の女性たち」
『女工哀史』や米騒動で伝えられた女性たちの生き方が教わったものと違う。只々労働の辛さに打ちひしがれ、あるいはまるで本能のままに米問屋を襲撃したと言われる姿が1ミリも見当たらないのだ。
『女工哀史』の筆者 細井和喜蔵は内縁の妻だった高井としををモデルに女工を描写した。しかしあくまで登場人物の一人であり、としを自身の言葉で語られることはなかった。本書の言葉を借りれば、「『わたし』という主語の不在」ということになる。
しかし後の聞き取りで明かされたところによると、としをは空いた時間に読書や短歌を嗜むという非常に向学心の高い女工だった。労働集会でも積極的に発言し、そこで工場食の改善を訴えた。(ちなみに採用された驚)
富山の米騒動は話し合いで済んだという。70名ほどの女性が店の前に集まり店主に嘆願していたのを米穀店の娘が見聞きしていた。その後店主は速やかに救済に動いたそう。
逆に大都市にまで波及していた米騒動は、アナキストの力が働いて全国的にエスカレート。実状は富山の分も含め、民衆暴力に訴えた「男性の言葉」に変換されていった。
「新らしい女は多くの人々の行止つた処より更に進んで新しい道を先導者として行く」
第二部「アメリカの女性たち」
津田梅子の視点を交え、現地の女性問題を分析。新しい女性の生き方を示した女流作家の紹介も、読書好きとしては嬉しい。それに日本ほど「わたし」「わたしたち」が制限されていなかったことも。
そして、ここでもフォーカスされるのは日常茶飯である。
自分同様、本書のタイトルが気になった方も多いと思う。焼き芋は、日本の女工たちが間食として休日に好んで購入していたもの。一方ドーナツは、アメリカの工場労働者(大半が女性)にとって主食同然だった。
働く”彼女たち”の胃袋に欠かせないものに変わりはないが、後者は明らかに栄養面において危うい。その問題を解決すべく、アメリカではエレン・スワロウ・リチャーズという女性科学者が、安価で栄養価の高い料理を提供する「パブリック・キッチン」を開設している。
「『少なくともここでは孤独ではない』と確認する場、つまり、孤立した胃袋が、集団のなかで居場所を見つけた胃袋となる場であった」
ここで語られる日米の”彼女たち”は日常茶飯をしっかり見据え、下手すれば男性以上に思慮深かったといえる。偏った歴史観が綿々と語り継がれているのは情けないこと。
何かを学んだ際は、著者の言う「対岸の歴史」も気にしていかないと…と肝に銘じた一冊だった。 -
Posted by ブクログ
このタイトルを見た時に、「なんて著者は冷たい人なのだろう…。この人の真意はなんだ?見てみよう!」と思い、この本を手に取りました。
しかし、この本を読み進めると、「おふくろの味」を解明する中で、日本における食事の価値や家族のあり方、さらにはその背景にある社会情勢を感じとることができ、「おふくろの味」という言葉から壮大な世界に連れて行かれた気がしました。
特に印象に残ったのは、私たちが食べ物をいったいどこで食べているのかについて、
“つまり、戦前期と戦後すぐの時代はとにかく空腹を満たすために「胃袋」で食べ、次に戦後になって美味しさを味わう余裕が出てくると「舌」で食べ、さらに見たmの美しさや珍しさを「目」で食べ、そして最後に食べ物の成分や昨日や栄養などを理解し、選別しながら「頭」で食べる時代へと移り変わってきた“
という部分です。
私も実際、ダイエットのために栄養面を重視して、毎日同じような食事を摂ってしまっている事が多く、本当は食べることが大好きなのに、食事の楽しみの面に目を背けている自分がいることにはっとさせられました。
「おふくろの味」は確かに幻想であり、これといった定義もなく、時代や年齢、ジェンダー、地域、これまでに育った生活環境によって異なるものであるし、それに対して、安心感を求める人もいれば、プレッシャーになって呪縛のように感じる人もいる。ですが、「おふくろの味」という幻想は、誰の心にもある孤独感や、閉塞感を解放して、地元や家族のような心がほっとするような空間で、ゆっくりと食事を味わうことで心を満たしていく、そんな思いが詰まっているという考えを著者から感じ、人々の幸せや安らぎを食を通して感じて欲しいという思いが込められていて、決して著者は冷たい人ではないと反省しました。
私の中にある「おふくろの味」をみつけたいと思える本でした。 -
Posted by ブクログ
ネタバレウンコが現代人にとって忌避すべき存在であるが、それが忌避されるべき存在になったのかを歴史資料や文学資料、マンガまでを駆使してまとめている。
特に江戸時代は肥料として、お金を払って取引されていたが、屎尿として処理されるまでの経緯を丁寧に辿っていく研究が、彼女の本来の研究分野であるが、一番面白かった。都市化と衛生という概念が、糞尿を屎尿にしていくのは近代化の象徴でもあるし、それが今の世界中の共通認識になりつつある姿を見ると、失ってきたものの大きさを感じない訳にはいかない。
著者自身のトイレ体験から書き起こしているが、私自身、汲み取りも水洗も、また糞尿の肥料として使うのも経験していたので、この50年ほどの変化が実体験に照らして読む事が出来た。