あらすじ
知られざる壮大な連鎖が浮かびあがる。
津田梅子が二度目の留学で学んだウッズホール海洋生物学研究所。その前身施設を設立したエレン・リチャーズは女性で初めてマサチューセッツ工科大学に入り、家政学を確立した人物で、彼女が大学を志すきっかけとなった雑誌の寄稿者の一人が『小公女』らで知られるバーネット。
その雑誌や『若草物語』のオールコットらによる労働文学の読者に、マサチューセッツ州のローウェルの女工たちもいた。彼女たちは女性だけの共同組織を作り、雑誌の発行も行っており、それらを含めたアメリカの女性教育を見聞して日本での教育拡充も訴えたのが森有礼だった。
■集会と焼き芋は喜びとささやかな抵抗
■日本でもアメリカの女性運動を同時代的に参照し、実践していた
■ローウェルの工場の窓には新聞の切り抜きが貼られ、それは窓の宝石と呼ばれていた
■ドーナツは主食のように見なされていた
女性労働者は一方的な弱者でなく、実は「わたし」の人生を強かに拡張していた。
ではなぜ、「わたし」という主語で語る術を私たちは失ってきたのだろうか?
【目次】
プロローグ――「わたし」を探す
第一部 日本の女性たち
第一章 糸と饅頭――ある紡績女工のライフヒストリー
第二章 焼き芋と胃袋――女工たちの身体と人格
第三章 米と潮騒――100年前の米騒動と女性の自治
第四章 月とクリームパン――近代の夜明けと新しき女たち
第二部 アメリカの女性たち
第五章 野ぶどうとペン――女性作家の誕生
第六章 パンと綿布――ローウェルの女工たち
第七章 キルトと蜂蜜――針と糸で発言する女性たち
第八章 ドーナツと胃袋――台所と学びとシスターフッド
エピローグ――「わたしたち」を生きる
あとがき――「わたし」の中に灯る火
主要参考文献
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
『「おふくろの味」幻想~誰が郷愁の味をつくったのか』『胃袋の近代―食と人びとの日常史―』からの『焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史』。はっきり言って自分の中では湯澤規子ブームです。前著2冊での「家庭料理」「外食近代史」とテーマを変えながら今までの歴史に中では見過ごさされてきた個人的な「食べる物語」を繋げて生き生きと描かれる日常生活の近現代史に引き込まれてきました。今回は産業革命以降の工場労働者の「食」のストーリーということでは『胃袋の近代』に隣接していますが、テーマを「女性」にフォーカスしたことでまた新たな物語が浮かび上がっています。『胃袋の近代』でも取り上げられていた細井和喜蔵の『女工哀史』と彼の内縁の妻である高井としをの『わたしの「女工哀史」』の違いに心を寄せた著者の着眼が新たなる歴史を浮かび上がらせています。それは日本に留まらず太平洋を挟んだ対岸の女性たちの自己実現の物語に繋がっています。そこに今年5000円札に登場した津田梅子という仮の補助線を引くことでシスターフッドという精神的な紐帯が浮かび上がるのです。それは現在のジェンダーの問題にも繋がっていると思います。たまたま聞いた平野紗希子さんの「味な副音声」というポッドキャストの番組に湯澤規子さんが登場した回を聞いたのですが違う分野で響き合うシスターフッドみたいな気分を感じました。エピローグで語られる「一人ひとりが生きているという事実の重み」に気持ちが熱くなりました。いつものように最後になって著者の想いがほとばしります。『無名になって「わたし」を探し、「わたし」を取り戻し、「わたしたち」を生きる』…湯澤規子アンセム、グッと来ました。
Posted by ブクログ
赤毛のアンシリーズの割と後ろの方に、ボストンに行く話が出てくる。そのあたりの感覚なんだろうなと読み進めた。日本の話のほうは、晩年しばらくやっかいになった明治末生まれの大叔母大正デモクラシーの話や女子美ができたころの話(女子美西洋画の一期生だった)を思い出しながら読んだ。それより二回り位前の話になるのか。シスターフッドも日常茶飯も聞き書き運動も涙が出そうになった。
Posted by ブクログ
女性の近代史を、日常茶飯という観点から整理し、当時の女性の内面に迫った一冊、非常に面白かった。
特に近代における、産業革命からの働き方の変わり方、これが日本とアメリカで意外な接点があり、パッチワークキルトのように全体像が浮かび上がってくる。自分で稼いだお金で、自分の欲求のために使う、というのがどれだけ重要な事であったか。
骨太な一冊であるが、タイトルからは内容が想像しにくく、このタイトルにするのであれば、もっと間食に焦点を当てるべきで、結論も間食に持っていった方が良いのではないかとも思うが、この注目されない感じも、日常茶飯事なのだろう。
Posted by ブクログ
テーマは「働く女性の日常茶飯 in 近代日米」(漢字多…)といったところか。
有名無名問わず、歴史上語られてこなかった女性たち、”彼女たち”の生の声がいくつも取り上げられている。名前を再掲されたら何とか思い出せる程度であるが、取り上げる範囲が広すぎて把握するのに難儀した…というのが本音。
でも歴史上スポットが当たらなかった…ではなく、当てられてこなかった事実なだけに、どの話も興味を掻き立てられた。
第一部「日本の女性たち」
『女工哀史』や米騒動で伝えられた女性たちの生き方が教わったものと違う。只々労働の辛さに打ちひしがれ、あるいはまるで本能のままに米問屋を襲撃したと言われる姿が1ミリも見当たらないのだ。
『女工哀史』の筆者 細井和喜蔵は内縁の妻だった高井としををモデルに女工を描写した。しかしあくまで登場人物の一人であり、としを自身の言葉で語られることはなかった。本書の言葉を借りれば、「『わたし』という主語の不在」ということになる。
しかし後の聞き取りで明かされたところによると、としをは空いた時間に読書や短歌を嗜むという非常に向学心の高い女工だった。労働集会でも積極的に発言し、そこで工場食の改善を訴えた。(ちなみに採用された驚)
富山の米騒動は話し合いで済んだという。70名ほどの女性が店の前に集まり店主に嘆願していたのを米穀店の娘が見聞きしていた。その後店主は速やかに救済に動いたそう。
逆に大都市にまで波及していた米騒動は、アナキストの力が働いて全国的にエスカレート。実状は富山の分も含め、民衆暴力に訴えた「男性の言葉」に変換されていった。
「新らしい女は多くの人々の行止つた処より更に進んで新しい道を先導者として行く」
第二部「アメリカの女性たち」
津田梅子の視点を交え、現地の女性問題を分析。新しい女性の生き方を示した女流作家の紹介も、読書好きとしては嬉しい。それに日本ほど「わたし」「わたしたち」が制限されていなかったことも。
そして、ここでもフォーカスされるのは日常茶飯である。
自分同様、本書のタイトルが気になった方も多いと思う。焼き芋は、日本の女工たちが間食として休日に好んで購入していたもの。一方ドーナツは、アメリカの工場労働者(大半が女性)にとって主食同然だった。
働く”彼女たち”の胃袋に欠かせないものに変わりはないが、後者は明らかに栄養面において危うい。その問題を解決すべく、アメリカではエレン・スワロウ・リチャーズという女性科学者が、安価で栄養価の高い料理を提供する「パブリック・キッチン」を開設している。
「『少なくともここでは孤独ではない』と確認する場、つまり、孤立した胃袋が、集団のなかで居場所を見つけた胃袋となる場であった」
ここで語られる日米の”彼女たち”は日常茶飯をしっかり見据え、下手すれば男性以上に思慮深かったといえる。偏った歴史観が綿々と語り継がれているのは情けないこと。
何かを学んだ際は、著者の言う「対岸の歴史」も気にしていかないと…と肝に銘じた一冊だった。