朝永振一郎のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
熱の分子運動論ではなくてはならないマクスウェルの統計的手法から、ボルツマンはH定理に行き着く。そこには、力学と確率論の融合に対するロシュミットの疑義があり、それをボルツマンはエルゴード定理によって乗り越えようとするが、実験が伴わないという弱点もわかっていている。
この間の紆余曲折を臨場感たっぷりに、体感することができる。本当は数式で追うべき内容で、ところどころ言葉でない方がわかるかもと思いつつも、前回読んだ時よりずっと面白かった。
付録の講演は、現代への警鐘。
まさかAIがこんなに発達し、スマホが跋扈する、便利だけの世界でない現代がやってくるとは、先生も思っていなかったとは思うけど。
恐怖心が、わかっていても危険に手を出させる元となる状況は、今なお続いている。
人間らしい生き方を見つめた学問のあり方と、さまざまな分野の融合の時代が来ているのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
読み返しをしたくなる本がいくつかある。朝永先生の名著であるこの本も3度目だろうか。
丁寧に、飛躍なく、誰にでもわかるように書かれているけれど、頭を使って、時々手も使って考える、ということ無しでは読むことはできない。一般向けだけれど、わかりやすいところをサラッとという書き方ではない。一行一行大切に読みたくなるような、お人柄が伝わってくる文体で、お話を聞きたかったと思わされる。
上巻は、ガリレオ、ケプラー、ニュートンの力学の話と、カルノー、クラウジウス、トムソンの熱力学の話。
3度目の下巻も続けて読もうと思う。
世の中には、たくさんの本がある。その中で、これからも残っていき、日本にいる人、誰もが読むべき本は、もちろんたくさんあるだろうけど、この本を超えて選ばれる本は少ないと思う。 -
Posted by ブクログ
ある書店でSTANDARD BOOKSのフェアをやっていたのに偶然に出会い、何の気なしに朝永振一郎を選んだ。
本書所収の随筆「鏡のなかの世界」は不思議な一編だ。だって朝永振一郎を含めた科学者の面々が「なぜ鏡には左右が逆に写るのか」を真剣に議論しているから。私ならば「なぜ左右逆かって?鏡なのだから左右が逆に写るのは当たり前じゃないの?」で終わってしまう。だが物質がそれぞれに有する法則性を解明しないと収まらないのが真の科学者らしい。言い方を変えれば「当たり前」でわかったつもりで終えることを良しとせず、物事を統御する真理を自分なりにつかみ取らないと納得できないのが科学者なのだろう。
そう思って改めて鏡のなかの像について考えると、確かに不思議な現象だ。と言うのは、自分自身を鏡に写した場合、鏡に写った自分自身には心臓が右にあるのだから。つまりトリックアートのように製作者がひねって作り出した架空のものではなく、この世に絶対的にありえないものが実存の姿として現れており、科学者のアンテナに引っかかるのもわからないでもない。
鏡に関してどんな主張が科学者から出されているか…「幾何光学」「心理的空間」などの一般的ではない用語が飛び交い、それこそ侃侃諤諤。まあその一編では結論は出ていないし、著者も改めて解答を導き出すつもりもなく、1つの事柄に科学者はこれほどまでに熱中できるのかというその熱量の大きさを文章にしたかったようでもある。
私は結局文系の学部に進んだけれど理科や物理などの自然科学にも若干興味はあるので、朝永の一連の文章もおもしろく読めた。とは言っても、朝永は論文以外で文章を小難しく書くのは好きではなかったようで、この本では原子核物理学のことも花鳥風月のことも同じような調子で書かれている。その証拠に、この本では冒頭に「鳥獣戯画」という一篇がまずあって、飼っていたねこの話や、自然が残る武蔵野の生活風景を書いた随筆が続くが、その後の理化学研究所や留学先での研究生活を書いた各編も同じトーンで読める。
私が一番印象に残った一編は「暗い日の感想」だ。大昔の爬虫類の体格やマンモスの牙が種の存続という目的から逸脱しているとも思えるくらい巨大化し、それゆえに滅びたのではないかと朝永は書く(P188)。そして人類が無自覚に原子力を追求していくことへの警告を朝永なりの比喩で発している。だが朝永は“正直”ゆえに、原子力の研究自体をストレートに否定していない。しかし憂慮はしている。なぜなら朝永自身が尊敬するアインシュタイン博士やオッペンハイマー博士ですら止められなかったほど“手ごわい”ものだからだ。そんな難解な命題を前に朝永がとった選択肢は「歴史の中での評価に委ねる」ことだった。
当初私は朝永に対して、カール・セーガンのように強くて明確な主張と姿勢ではない軟弱なものとして拒否反応が出た。しかし朝永がいくらその道の専門家だからといって彼だけにその責務を負わせるのは結局自分が責任転嫁しているだけであり、正しくはない。この大きな問題が1人の人間だけで解決できるわけがないのだ。だから朝永の文章からは、自分をリレーランナーのように考えて、バトンを落とさず自分ができる限りの力によって走り、そして次のランナー(次の世代)にしっかりとバトンを手渡せばいいと、そう読めるように思えた。
端的に言うと私たちのような物理学の素人が原子力の平和利用を求めるのに原子核理論を学ぶことが要求されているわけではない。一方でその素人の私たちがノーベル物理学賞を受賞する可能性は限りなくゼロだが、私たちの世代が朝永の意思を正確に読解して受け継ぎ次世代に伝えられれば、私たち国民全体としてノーベル平和賞を受賞できる可能性は、必ずしもゼロではない。 -
Posted by ブクログ
三年前に『物理学とは何だろうか』に挑戦して、あえなく敗退した自分のレビューを見つけてしまい、ちょっと恥ずかしい。
スタンダードブックスシリーズ、第1期完結。
しかし、この人、随筆上手い!
引っ越した先で馴染めず、近所の猫と喧嘩ばかりするのだけど、ついに喧嘩相手が車に轢かれ、ほどなくして自身も車に轢かれてしまう「ねこ」の話。
家に来る小鳥のふんから、どんな樹が育つかを観察した「庭にくる鳥」。
こうした、日常を見る視点も面白いのだが。
副題になっている「見える光、見えない光」や「物理と哲学と政治」から一気に原子力について重みを持って書かれる科学的な話には、グッと引き込まれる。
決して難解ではない。
言葉の選び方が上手いのだと思う。
ノーベル賞を獲るような人というのは、どこか常ではない感性や思考の持ち主なのかと思っていた。
けれど、朝永振一郎が苦心して発見したことをあっさりと海外の研究者に発表され、そのことに落胆し、妬ましくさえ思うと書かれており。
けれども、自身の仕事や立場を、自暴自棄から簡単に投げ出すことも出来ないとも触れている。
こうした、人、の部分はきっと随筆という形態を取らなければ見えないものなのだな。
「原子物理学者の行き方に三つの方法がある。第一は現在の事実には一切眼をつぶって、千年先のことを考えて純粋な研究をすること。第二は千年先の研究は抛って、現在のことに捲込まれ、正しいと考える主張を実現すべく己を無にして努力すること。第三はどっちつかずの立場で、適当に研究もし、現実の問題にも捲込まれない程度にタッチする。
僕などは率直にいって、第一の方法が一番好きなのだが、止むを得ず第三の方法によっている。」
「原子核物理から生まれた第一子が、原子爆弾という凶器であったことはきわめて不幸であった。原子核研究の本流につきすすむことは人類の進歩のためにやめることはできないことだと信じても、原子核物理から生まれ出た鬼子があまりに凶悪であるので、原子物理学者たちは、自分の研究結果の悪用がいかに不幸なものかと痛切に感じさせられている。なるほどこれは物理学にかぎったことではなくて、科学全般の問題である。」 -
Posted by ブクログ
本書の完成前に著者が病気により逝去されたため、未完となった。上巻に続く内容として、近代原子論と熱の分子運動論に関する解説がなされており、この三章に加え、本書上下巻の原型となった講演、「科学と文明」が収められた形となっている。
朝永先生は晩年、熱現象の物理学への組み込みとそれに関わる分子運動論に熱心に取り組まれたという話であるが、これらを通して、物理学とは何かという事に対し、納得のいく解答を得ようと努力されたのではないか。
科学と文明においては、物理学の原罪について述べられている事が興味深い。知ってしまった事はもう取り消せない。現在の原発のような問題も、原爆の開発と同様に人間の本能に根ざす解決の難しい問題であろう。物理学の手法は自然を人為的に変える事によってベールの向こう側にあるものを見るのであるが、これからはこうした方法ではなく、自然をそのままに観察する事で自然法則を見出すような手法を持つ自然科学にある程度、席を譲る事になるだろうと述べている。これを読んで、寺田の物理学を連想した。要素還元法もやはり限界はあり、複雑なものを複雑なまま理解する手法を見出すのも必要になるのではないか。
物理とは何かという問題を通して、著者が提起された現代科学と人間社会の関わりについて、今こそ一人一人が考える時が来ていると感じた。 -
Posted by ブクログ
学生時代に買った本だが、正月休みの帰省の際にもう一度読み返してみた。著者はノーベル物理学賞を受賞された朝永振一郎先生。本書は二部に分かれており、古代の呪術、占星術、錬金術などがどのような過程を通して、物理学となるに至ったのかが述べられている。
改めて、基礎科学とはどういうものかという事を見直す事が出来た様に思う。序章において述べられる、
「われわれを取り囲む自然界に生起するもろもろの現象-ただし主として無生物に関するもの-の奥に存在する法則を、観測事実に拠り所を求めつつ追求する事」
という文章が、ケプラー、ガリレオ、ニュートンという時代の流れとその時代の考え方を追いかけることで、より明確になってくる。
第一章は主として占星術から天文学、古典力学に変遷する過程、第二章は錬金術から化学、熱学、熱技術が生まれる過程が主として述べられている。
題名通り、「物理学とは何か」という問題に対して一つの解答が得られた書である。 -
Posted by ブクログ
ボルツマンが分子論の立場に立って純粋に力学的な理論からどういうふうに熱学的な量を導くか非常に苦しんでいた。分子運動のエルゴード性については理解に自信がない。相空間で等エネルギー面上の運動について平均を取ることで、「長期のべ時間平均」を得る計算はミクロカノニカル分布を使った計算と同じだ。後者の計算はふつう等重率の原理から出てくるものでエルゴード定理とは関係がないとされる。ボルツマンが統計力学の基礎付けについて苦心したことというのは的外れだったのだろうか??
ボルツマンの良き理解者だったマクスウェルは早世し、信奉者だったプランクは一足遅かった(ボルツマンはロシュミットやマッハの厳しい批判をうけて最後はうつ病で自殺してしまった) 結局彼の理論は実験的な裏付けが得られなかった。著者は完全な理論はそれ自体が正しいかどうかテストする実験を提唱できるものだ、みたいなことを言ってて興味深い。
ボルツマンの理論について言えば、アインシュタインとかスモルコフスキイとかがブラウン運動について分子運動論に実験的な裏付けを与えたそうですが、それはちょうど彼の死のころのことだったそうだ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ著者の急逝によって、この本にどのような結末が用意されていたのかは永遠の謎となってしまった。しかしそれでも、この本を読んでおく価値はあると思う。
まずは上巻から読んでみると良いと思います。
化学実験の発展により、化合物の生成比が整数であることから、物質の構成要素が存在するのではないかと考えられるようになる。そして、気体の研究から分子の存在が明らかになってくる。この分子が、熱の起源として注目され始めるのである。
気体の分子運動論では、熱は分子の運動エネルギーであり、圧力は分子が壁に衝突する際の力であると考えられる。つまり、熱学における現象は、初めの条件を与えれば、分子の運動方程式を解くことにより明らかにできることになる。しかし、ここで問題になるのが分子の数である。空っぽの牛乳パックの中に入っている空気でさえ、0が20個以上並ぶような膨大な数の分子を含んでいるわけで、分子1個1個の運動方程式を解くなどということは、一生かかっても出来るわけがないのである。
ここで、新たな着想を物理に導入したのがボルツマンである。そもそも、熱の問題を解くのに分子1個1個を個別に考える必要はないのである。なぜなら、温度計にしろ、圧力計にしろ、分子Aがぶつかったから圧力を受けた、などと感じるわけではなく、ともかく何かがいっぱいぶつかったから圧力を受けるわけである。そこでボルツマンは、空間を見えない小さな箱に分けて考えることにした。同様に、分子の速度もある間隔ずつのグループに分けた。例えば、秒速280~290m/sのグループや、秒速290~300m/sのグループという具合である。
分子は自由に動き回るので、その箱から自由に出入りする。しかし、実験的に同じ温度では気体は同じエネルギー持っているので、この保存則も満たさなければならない。そこで、ある小さな箱の中にいる分子は、入れ替わったりはするけれども、速度のグループの割合としては変わらないという仮定をしたのである。例えるならば、あるアパートの201号室には60代の田中さんと40代の鈴木さんが住んでいたのだが、いつの間にか入れ替わって、60代の加藤さんと40代の佐藤さんが住むようになったという感じである。住む人は変わったが、201号室は60代1人と40代1人という構成は変わっていない。このような仮定を置くことによって、ある温度において分子がどのくらいの速度でどこにいるかという分布を考えれば、真面目に運動方程式を解かなくとも、物事を説明することができるようになったのである。
しかし、このようなある種突飛な考えが簡単に受け入れられるわけもなく、おそらくもともと神経質だったボルツマンは、マックスウェルなど援護射撃をしてくれる物理学者もいたのだけれど、マッハなどにボロクソに言われ、鬱になり、自殺してしまうのである。それはさておき、物理学は、自然現象を説明する法則を見出すという方法に加えて、仮定を置き、それを確かめる実験を行うことにより証明するという方法を得たことになる。
本書は、著者の他界により、ここで未完のままに終わっている。しかし、おそらくはこの後に続くはずだった議論を予期させるものとして、「科学と文明」という講演の議事録が掲載されている。
物理学の扱う対象は自然現象であり、それ自体に善悪の区別はないが、物理学を扱う者は人間である。前述したボルツマンとマッハの関係ではないが、最終的には正しい主張をする者も、中途では無理解や中傷、攻撃を受けることもある。ナチスが核を持つのでは、という恐怖は、現実に原子爆弾を生み出してしまう。著者がこれらの事実を受け止め、どのように考えていたのかを知る方法は、もはや永遠にないのである。 -
Posted by ブクログ
ネタバレノーベル化学賞は取れたけれど、今年は物理学賞は無理でしたね。著者は日本で二番目のノーベル物理学者受賞者です。
古典的名作として読み継がれてきた本書ですが、扱っているテーマも枯れた分野であることもあって、未だ古くなっていません。高校数学程度の知識で、物理学の成り立ちを知ることが出来る本です。
文明が発生して以来、すなわち日々の食料の確保に奔走せずとも生きていけるような社会が確立して以来、世界の成り立ちを知りたいという欲求は、知識人たちを思索に向かわせ、古代ギリシャでアリストテレス哲学に結実し、以後、占星術や錬金術を発展させてきた。しかし、占星術や錬金術は、物理学や化学の前身であることは確かだが、近代の物理学や化学とは別物であることもまた事実である。では、一体何があり何がなければ物理学であり化学というのか。中世の研究者たちの思考の後を辿ることにより、これを定義しようというのが本書である。
上巻では、まずは力学の成り立ちについて語っている。現代でもそうかもしれないが、中世の人々は占星術により運命を知ろうとした。占星術は天体の運行から運命を読み取る技術であるため、天体の動きを知ることが非常に重要であり、天体観測が発展した。この時代に登場するのがケプラーである。ケプラーも占星術師であったが、なぜ天体の運行が人の運命と結びつくのかということに疑問を持ったらしい。そこで、天体の運行の仕組みを明らかにすることにより、この関係性が分かるのではないかと考えた。
ケプラーは、師匠のブラーエが生涯を掛けて集めた正確な天体記録を継承し、未だ確立していない幾何学を駆使し、苦心の末、火星の軌道が長円であることを突き止めた。こうしてケプラーは、思索による哲学ではなく、実際の記録に基づく計算により、天体の運行が単純な幾何学により表されることを明らかにしたのである。
同時代に生きていたガリレオは、単なる観察に基づく計算だけでなく、自らの考えを証明するための装置を作成し実際に試すという作業、すなわち実験により、証明するという方法を編み出した。そして実験により、地上における物体がどのような運動をするのかを明らかにしたのである。
しかし、彼らの考えがそのまま受け入れられたわけではない。中世にはカトリック教会という大きな壁が存在していた。教会は聖書の記述を疑わせるような考えを否定し、弾圧したのである。
ケプラーやガリレオが世を去ったあとに登場するのがニュートンである。ニュートンは、完成した幾何学を駆使し、いくつかの法則を前提とすれば、ケプラーが発見した天上世界の運動とガリレオが発見した地上世界の運動を導き出すことができることを明らかにした。これにより、力学の世界を説明するための言葉を人類が手にしたことになる。
これまでは哲学的な側面から発展した物理学を見たが、物理学には技術的な側面からの発展もある。ワットによる蒸気機関の発明は、人類に産業革命を起こすと同時に、蒸気機関を改良する試みの中で、なぜ熱からエネルギーを取り出せるのかという疑問を生み、熱学の発展を促すことになるのである。