「携帯を握り締めても思い出はできない」
手に入れてもずっと大切にできるものだけが大事なものだと聞いたことがある。
でも人間はそんなに上等にできていない。
手に入れようとしても手に入れられないものほど愛おしい。
青春って、青春の中にいる間は、それが青春だと気づけない。
猫を飼えば、猫を飼いたかった自分を永久に失うように、なにかを手に入れるということは、なにかを失うのと同義だ。
どうせ死ぬ。
どうせ傷つく。
行きたい所には行ってみる。
気になる所には飛び込んでみる。
家にいたって思い出はできない。
バカげていると思っていたことほどやると楽しい。
風呂は風呂に入るまでが億劫なように、旅は旅に出た後あんまり後悔しないものだ。
行って無価値だと知ることも勉強だ。
何かを失うというのは、何かを失うことを得るということでもある。
学生の本分は勉強です。
しかし、取り返しのつかない青春をちゃんと取り返しのつかないものにすることも、ただ一度きりの人生において、重要な勉強であり、学生の本文、使命でもあります。
何ができるから分からないということは、なんでもできるということ。
美しいとは、おそらく、外見でも内面のことでもない。
ただ一つの目的に向かって迷うことも臆することもなく、恐るべき速度で飛んでいく、その行動的な狂気のことだ。
あるいはその予感を孕む、静的な狂気のことだ。
自己嫌悪は暇人がすることだ。
わざわざ誰かに会う理由が一つもない時、廊下や階段の踊り場、駅前のコンビニや裏道で、偶然すれ違う可能性に賭けることの何が悪いのだろう。
ありえない思いをありえない形で救われたいと願うことの何が悪いのだろう。
最高なことも最悪なこともいきなり襲ってくるから予定を立てても意味はない。
仮に予定通りの人生があったとして、誰がそれを必要としただろう。
幸せになりたいと願う人間が、いつまでも幸せになれない理由を知ってるか?
今の自分は全く幸せではない、と自分で自分を呪い続けるからだ。
幸せになろうとすればいつまでも幸せになれないのと同じように、普通の人生や普通の恋愛や普通の生活に憧れた時点で、おまえは絶対にそれを手に入れられない。
断言してもいい。
そもそも人間は普通に生きられない。
普通を望むのは、奇跡を望むに等しい。
仮に、おまえが完璧に普通に生き了せたとする。
おまえの人生はその普通を手に入れた時点で終わるだろ。
あとはそれを守るだけだ。
確かに尊い。
でもそれって楽しいか。
おまえはこうあるべきだ、という台詞には、だからどうしたと言ってやれ。
SNSなんて無料で見れる他人のクソだ。
他人と比較してもおまえの価値は上がりもしないし下がりもしない。
おまえは、自分で自分の値段を決めろ。
最高の復讐とは幸福に生きることだ、とはスペインの諺だ。
もちろんここは日本だ。
昼寝が文化の国じゃない。
残業が文化だ。
前に進んでも地獄、後ろに進んでも地獄、立ち竦んでも地獄だ。
どうなったら幸せかは誰も教えてくれない。
だから何が幸福か、自分で決めないといけないんだよ。
そもそも、本当にやりたいことって、三億円あってもなくても、誰も応援してくれなくても、時間が全然なくても其れを本気でやりたい人は勝手に始めてる。
人は長所で好かれ、欠点によって愛される。
どうでもいい人にモテることは、モテるとは言わないよ。
不特定多数にモテることはモテるとは言わない。
自分が好きな人にちゃんと好かれることが、モテるってことなのであって。
忘れられたこともあるし、まだ忘れられてないこともあって。
忘れられなくても、でもどうすることもできないものはやっぱり時間が忘れさせてくれるんだよ。
時間に強制終了させられるの。
もしずっと怒ってたら、きっと身体が持たない。
たまに起こり続ける人っているけど、それってきっとすごい辛いことでもある気がする。
行動したら、失敗するものだ。
でも行動し続けなければ、何もないままだ。
この戦略がダメなら、別の戦略に切り替えるまでだ。
預金も学歴も職歴もフォロワーの数もその他の数字も、目に見えるものなんてのは何も意味はないんだぜ、と黒服は出会ったあの夜、私に言った。
「目の前の相手に何をしたか、何をしようとしたか、結果、何ができたか。
それだけがすべてなんだ」と。
たぶんこの世には、同じものを好きでも、ずっと互いにその事を知らないまま別れてしまう人たちがいるんだよ。
永遠になれないことは永遠だし、同じになれないことは同じ。
会いたいのに理由なんているの?