矢野利裕のレビュー一覧

  • 「国語」と出会いなおす

    Posted by ブクログ

     中高一貫校の教員として国語を教える傍ら、批評家として文学を語る著者ならではといった切り口に溢れていた。
     小学校から高校まで、当たり前のように学んできた国語という教科。国語を教えることそのものの意義や教える内容の妥当性、教える際に付き纏う危険性などについて、自分自身これまで考えたことがなかったので、本著の内容の多くを新鮮かつ興味深いものとして受け取れた。
     また、そんな国語と文学の間にある違いや課題、両者の理想の関係などに関する考察も興味深い。正直イコールな関係だと思っていた両者が、こんなにも異なることには驚いた。また、その差異を踏まえた上で国語と文学がどのような関係を築いていくべきなのかという話を通じて、文学を読む人だけでなく読まない人も含めた緩やかな共同性を生み出す、という理想的な展望が眺められて、なんだか少し幸せな気持ちになった。
     最後の試験問題に関する議論は理解するのが難しかった一方で、本書内で繰り広げられた論考や主張がぎっしりと濃縮されたように感じられる対談だった。

    0
    2026年09月27日
  • 「国語」と出会いなおす

    Posted by ブクログ

    タイトルからくる内容のイメージとちょっと違った。
    文学と、国語試験の関係を、国語試験出題者自らが
    謙虚に分析している本だった。
    本の最後に、出題者と、その題材になった著者が対談をして、
    その出題を著者が答える、というのはシュール。
    御多分に漏れず著者が誤答する、、、

    文学が学校教育の国語に矮小化される。
    国威発揚、国民の洗脳に使われてきた歴史。
    そして今の試験。
    こんな試験の正解が大学選別に使われるなんて、
    違和感しかない。
    文学なんて自由に読めばいいはずなのに。
    世の中正解なんてないのに。

    著者はそれをわかってあえて出題者にもなっている。
    生徒と寄り添い、極力楽しく国語を教えながら。
    確かに、批判しているだけでは変わらない。
    大学ではなく、中高一貫校で教えているという。
    「国語」を変えるための第一歩。

    ・・・全然関係ないけど、
    そういう意味では女性首相誕生はとにもかくにも第一歩ってことになる。
    最初から理想の女性首相が生まれるわけはない。
    まずは「女性が総理になれる!」ということを小さな女の子にも認識してもらい、
    何十年後かに本当に女性に優しい女性総理がうまれればいいのかも。

    話はそれた。
    「国語」の授業、「国語」の試験、、、
    この本を読んでその位置付けを再認識できた。


    はじめに
    第1章 国語は文学をわかってない!?
    第2章 物語と共同性
    第3章 最近の教科書を見てみよう
    第4章 書きすぎていない小説と試験問題
    第5章 文学史について考えよう
    第6章 「文学」を再設定する
    対談 滝口悠生×矢野利裕
    「国語が問うもの、文学が描くもの──出題者と作者による国語入試対談」
    あとがき
    参考文献

    0
    2025年11月17日
  • 「国語」と出会いなおす

    Posted by ブクログ

    批評家、国語教師の二足の草鞋を履く筆者は、学校で文学を読むことの限界を見据えつつ、文学を読む意義を見出しています。その問題意識と、国語教育の未来を見据える姿勢に共感しました。

    この本の1番の読みどころは、入試問題の出題者である筆者と、問題として選んだ作品の作者(滝口悠生さん)との対談です。「作者に問題を解いてもらえるんだ。こんなこと本当に実現可能なんだ!」と興味津々で読みました。その他、最新教科書事情や文学史を学ぶことの意義についての見解も興味深かったです。

    先生の解釈を聞いている高校の現代文の授業は、正直言って退屈でした。しかし、夏目漱石の「こころ」や中島敦の「山月記」など、高校生のときに出会って良かった作品があったことも事実です。授業で扱われなければ、自分から読むことはなかったと思います。本書や自分の経験から、文学作品を読む一歩としての国語の授業のあり方を、あらためて考えさせられました。

    私はこの本を読みながら、「国語」との出会いなおしに留まらず、昔の自分とも出会いなおしていました。高校の現代文のテストが難しくて悪戦苦闘していた自分と、教材研究に必死になって、本来の読書の楽しみが得られなかった20代から30代前半にかけての自分です。今は、読書を楽しめているので、ずいぶん自分も変わったなあと思います。

    0
    2025年06月12日
  • 学校するからだ

    Posted by ブクログ

     刊行時に話題になっていたことは知っていたが、何となく敬遠してしまっていた。喰わず嫌いを猛省。

     評論家としての著者の主張には正直賛成できないところもあるのだが、本書で描き出された学校空間の遊動性と交響性はじつに卓抜で、「これは私の知っている学校だ」という感覚がはじめから最後まで薄れなかった。何より学校という制度、教員という職業、生徒という他者と(斜に構えているようで)正対している様子が伝わってくる。教員を目指す学生たちに薦めてみたい。
     
     「自分が生きられる場所について、しっかりと足もとから考えながら、少しずつ言葉を織り上げ」る姿勢を忘れず、とはいえ、過剰に役割や責任を背負うわけでもない著者の遊動的なスタイルは、「ネタ」と「ベタ」の往還が日常である学校空間の秀逸な参与観察を生み出していると思う(だが、ここでキャラ化された教員や生徒たちは、この本を読んでどう思っただろうか)。

    0
    2025年05月17日
  • 学校するからだ

    Posted by ブクログ

    著者と同じ職に就いている自分にとって、とても面白いエッセイ?評論?だった。

    学校という現場は画一的な教育を施し、同じような人を増産していくような場所だと言われることも多いけれど、実際は様々な人が様々な思いを持ちながら毎日を過ごしている。「その違いも大切にしていこう」と著者の矢野さんが言っているように読んでいて思った。

    0
    2023年04月17日
  • 今日よりもマシな明日 文学芸能論

    Posted by ブクログ

    序論、町田康論、いとうせいこう論、西加奈子論とこの書籍のメイン部分を読んでいくと文学と芸能、そしてそれらと表裏一体である政治と社会の問題がスムーズに繋がっていくのがよくわかる。それが見事であり、町田康、いとうせいこう、西加奈子を読んでいない人でも問題なく読めるし、たぶん彼らの作品を読んでみたいと思うだろう。
    町田康はミュージシャンだった(現在も活動はしている)こともあり、彼の文体や言葉遣いが評価されることは多い。文体が物語を呼び、物語が文体を要請する。そして、その書き手である作家はある種「憑依」されている存在である。そのためには実は言葉を持ち、同時に持たない、という空洞さがいる。
    シャーマン的な要素というのは「芸」にとって太古から欠かせないものだった。そして、シャーマンがなにかに「憑依」されても、それを見たり聞いたりする視線(他人)がいなければ、それは世界に影響をなんら与えない。
    言葉がなければ世界は存在しないが、それは他者という存在が前提でもある。「芸」とはかつては神への祈りであったが、やがて大衆的なものへ降りていった。「祭り」とはまさしく共同体を維持するための行事であり、シャーマン的な存在がいなくても成り立つ大衆化された「憑依」ごっことも言える。
    現在ではたとえばそれがライブなどステージとそれを観るものだとすると、なにものでもない者がステージに上がればなにものかになってしまう。そしてそれを中心にして観客は祭りをたのしむ。ステージ上の「芸人」は神であり、同時に生贄である。
    時代を変えるようなカリスマが時折現れる。彼らは磁場の強い存在であり、民という砂鉄を引き寄せる。そうすると世界のパワーバランスが以前とは変わってしまう。一度変わってしまったものはもとには戻らない。だが、カリスマの磁場は次第に弱まっていき、あるいは新しい時代への生贄のように姿を消す(消される)。
    「芸人」はある時は神であり、同時にある時は生贄であるというその構造はずっと変わらない、河原から演芸場へ、そしてテレビになりユーチューブやネットに移り変わった。「笑いもの」にするという言葉があるように、優劣がどちらかに伸びているものを見て称賛し蔑む、そこにはもちろん差別的な構造がある。
    いとうせいこう論における「無数のざわめき」を拾い上げる、声や形にしていくこと、マイノリティと呼ばれる人たちが声を上げる場所を作る、それが染み出していくと世界に変化が起き始める。いとうせいこうの「芸」と「政治的なアクション」が繋がっているのは、社会やマジョリティーに届きにくい声、可視化されにくい姿を「芸」というフィルターを通して世界に繋げようとする試みでもある。たぶん、他人を信じているからできるのだと思う。彼のアクションはとても政治的であるが、そもそも「芸」と「政」がきってもきれない現実社会の写し鏡であり、表裏一体ということをわりとみんな忘れてしまっている。それを思い出させてくれる存在でもあり、失語症的になっていた彼は、自分の声ではなく「無数のざわめき」を知り、聞いたことでそれを自分を通して語ることで小説が再び書けるようになったという。
    琵琶法師についての話も出てくるが、『平家物語』はひとりの作り手の声ではなく、琵琶法師たちが語り継いでいき、各自が足したり引いたりしたそれぞれの語りのバージョン(無数の物語)の集大成(リミックス)である。見えないものを幻視し、聞こえない声を聞く、そしてそれらを紡いでいった声たちの完成形が現在の『平家物語』となっている。
    西加奈子論における「おかしみ」の話も「芸論」の大事な部分であり、共同体と逸脱者の関係性がある。かつては河原乞食と変わらないものであり、芸人になるということは社会からドロップアウトするという時代があった。しかし、逸脱しているからこそのおかしさとどうしても目が離せないということが起きる。そして、それを安全な場所から見ているという自分の差別意識に気づく。
    西加奈子作品はそれらを内包している。だれかがなにかを必死でしているが、失敗していたりすると笑ってしまうことがある。しかし、その誰かは夢中でなんとか物事を完成させようと達成しようとしている。次第にその「夢中さ」にこちら側は応援してしまう、その場所にいれば手を差し伸べようとしてしまう。
    「おかしみ」とは夢中と関係があり、「夢中」になっている当人ではなく、見ているものを関係者に、当事者の側に引き込んでしまう力を持っている。その「見る」という行為にある差別、「見られてしまう」という恐怖と光悦の関係。
    ここでも何作品か取り上げられているが、アニメ映画化された『漁港の肉子ちゃん』についても触れられている。共同体と逸脱者の話がメインで展開されているが、そこでも「肉子ちゃん」の「夢中」さによる「おかしみ」、それゆえに彼女は笑われるが、同時に手を差し伸べられる存在にもなると書かれている。この部分を読んで、なぜ明石家さんまさんがこの作品のアニメ映画プロデュースをしたのかがちょっとわかったような気がした。
    そして、補論として「小山田圭吾と文学の言葉」へ、という流れ。
    小説論としてもたのしめるけど、芸能論として「見られる」側の仕事をしている人にはすごく興味深く、感じ入る部分が多いのではないかと思う。芸能人というだけでなく、今や自分の顔を出して表現や仕事をすることが増えているので、かなり広い人にも人ごとではなく読める現在進行形の「文学芸能論」になっていると思う。

    0
    2022年02月28日
  • 「国語」と出会いなおす

    Posted by ブクログ

    ネタバレ


    義務教育で誰しも必ず通る「国語」という科目。大人になって色々な本を読むようになり、曲がりなりにも「文学」に触れた後で本書を手に取ると、改めて「国語」の位置付けを見直すきっかけになる、そんな一冊。
    この本を読んだ状態で「国語」の授業を受け直すと、また違った感想を抱くのだろうか。

    本書の末尾では、国語試験の小説問題の正解(≒出題者の意図)が必ずしも作者の意図と合っているわけではなく、作者としても文学に対して一律の読み方を強要することは喜ばしくないという話も挙げられている。
    そういう意味では、自分が学生の時に、小説問題で解いた小説が気になって読んだことが何回かあったけど、その時の問題は「国語」と「文学」の架け橋のような役割を果たした「良問」だったんだなぁと改めて思った。

    0
    2026年08月04日
  • 「国語」と出会いなおす

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    【感想】
    国語教師ならではの視点による文学論、日本語(教育)論。ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」や「せんせい、あのね」などの懐かしい教材を題材に、文芸評論や社会学的な視点からの分析や、ところどころに皮肉が効いた語り口が面白い。

    【今後の行動変容】
    矢野利裕さんの他の本も読んでみる。「今日よりもマシな明日」がおもしろそう。

    0
    2026年06月01日
  • 「国語」と出会いなおす

    Posted by ブクログ

    言葉を教えることの暴力性というのが突き刺さる。
    そもそも何かを教えるということは暴力性があるのかもしれない。

    文学はそもそも教えられるものではないという意見もよくわかるが、現場にいる立場でいえば、「教えなければどうやって出会うのか?」という気持ちも湧き起こる。
    筆者がいう、同じものを読んでいるが実は違うものを読んでいるということに、私は意味があると思う。
    読むことだけではないけれど、物語というのは受け止めた側の価値観が色濃く反映されて、意味付けがされると思う。
    同じ作品を読んでいても、印象に残るところは違うし、その理由も異なる。
    文学を教える立場としては、この読み方の違いをいつも意識してきた。
    だけど、試験をしなくてはならないから、共通認識ができるギリギリのところを狙って出題する。
    相手に自分の考えを理解してもらうために、文章のここにこう書いてあるからと説明させる。
    適切な読解を促しつつ、その先にあるどう思うか?どう解釈させるか?を大切にするのは難しいなと思う。
    でも、生徒に自分たちの感想を話しあわせると、だいたいは、他の人の意見が面白いとか、違った見方ができたと話す。
    文学は余白があるから、余白の部分を話し合わせて、共有することで、生徒の物の見方も広がる。
    そういうことを面白いと思える生徒を育てることって、クラスという集団に教える意味にもなるし、他人への興味とか、自己理解とかにも繋がるのではないかと密かに考えている。

    あくまでも個人的にだが、文学が国語と相性が悪いと感じたことはない。どこか道徳的かもしれないが、文章の論理を紐解き、自分の考えを構築する。
    この過程で生徒はとても成長するし、答えがないからこそ、生徒も夢中になれる。
    文学の力を感じることができれば、生徒の中で文学を読もうとする子も出てくるのではないかと思う。

    国語という教科を改めて考える良い機会になった。

    0
    2026年05月03日
  • 「国語」と出会いなおす

    Posted by ブクログ

    一読だけではなかなかどうして理解が追いつかない。

    これは二度三度と読む必要があるし、読んでおきたい本であると思う。

    入試制作に携わる身としては、勉強になったし、「そうだよね!」となるところもあった。

    どの教科もそうだが、国語は奥が深い。

    0
    2026年02月22日
  • 「国語」と出会いなおす

    Posted by ブクログ

    どこかの書評から、だったか。個人的な記憶では、国語の授業そのものには悪いイメージはない。ただ、こと現代文については、結局のところ経験値がモノをいう世界だとはずっと思っていたし、今もそう考える。話がずれたけど、本書が説くのは、学習面の効用ではなく、文学との関係性。いまだ文学とは距離を感じてしまう自分だから、関係性の点で、国語と文学を論じるだけの論点を持ち合わせない。意見としては、国語が役に立たない(むしろ害悪)とは思わんし、試行錯誤を続けながら、義務教育として在り続ければ良いと思う。

    0
    2025年12月15日
  • 学校するからだ

    Posted by ブクログ

    複数の高校で非常勤講師を務める先生の著書。学校を「先生が教え、生徒が学ぶ」という一方通行の場ではなく、「さまざまな会話、体育だけでない動き、阿吽の呼吸、授業という舞台に立つ人間の演技」など、体を使って表現したり感じたりする場と位置付け、考察している。中等教育では、規範を教えることが中心だが、教えた後の生徒は、これまでと異なる変化した個人となるはずであり、規範を超えた人になるわけで、かなりの矛盾を孕んでいる。一見、確固たる仕組みのようで実は危うい先生ー生徒という人間関係、バランスの上に成り立っているのである。こういう立場から見直すと、学校って実に興味深い場所であり、高校生の相手をすることも増えていることから、とても参考になる一冊だった。いろいろ試してみたい。

    0
    2023年05月15日
  • 「国語」と出会いなおす

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    教えるとはどうしても上下関係が出来るし、何かしらの押し付けになることとは思う。
    それでも、『文学を通してコミュニケーションを取ることが国語』と考えるのは素敵だなと思った。

    一方、書きすぎていない文脈を読ませる文学が評価される中、その点において評価されている『こちらあみ子』をあみ子は読めるのだろうか?と言う提起はゾワッとした。

    0
    2026年07月21日
  • 「国語」と出会いなおす

    Posted by ブクログ

    作家さんは国語嫌いやなぁ〜と思いながら楽しく読みました!ごんぎつねのくだりは笑えた!そういう子供の解釈が出てくるのか…みたいな感じでしたね

    0
    2026年04月19日
  • 「国語」と出会いなおす

    Posted by ブクログ

    『こちらあみ子』を題材とした設問は興味深い。国語教師の考えるべきポイント(とてつとなく広く深い)や、発達障害児への対応も含め学ぶことができた。

    0
    2026年01月13日
  • 「国語」と出会いなおす

    Posted by ブクログ

    友人が海外で、日本語を教えて欲しいと頼まれ「私は日本語教師ではなく国語教師です。」と話したのを思い出す。
    義務教育で「国語」を皆が通過する中で、寄り添うものであるように。まず、知ること。考え学び続けることができるよう、努めたい。

    0
    2025年12月02日
  • 「国語」と出会いなおす

    Posted by ブクログ

    ●「文学」について考えるために「国語」と向き合い、「国語にとって文学とはなにか」あるいは「文学にとって国語とはなにか」という問いを通して、「文学/国語」のありかたを再設定しようと試みた本。
    ●その結論の一つとして、「『文学』とは、文字を通じて再獲得された《私》たちが互いにコミュニケーションをする場所である」ということを著者は導き出した。ただ、これは本書でも語られた国語の授業風景が多分に含まれたがゆえの結論だと感じた。物語の共同性という視点には同意できるが、文学というものは「《私》たちが互いにコミュニケーションの場所」というよりは、やはり個人的な営みと考える人の方が大勢ではないだろうか。

    0
    2025年11月14日
  • 「国語」と出会いなおす

    Posted by ブクログ

    国語教育を通じて我々は異なるインクのしみを眺めているはずが同じ「物語」を読んでいるように感じる共同性を獲得しており、読解に必要な常識を無意識に身につけているが、それは時に解釈の枷になっているかもしれないとハッとさせられた。

    0
    2025年10月26日
  • 「国語」と出会いなおす

    Posted by ブクログ

    国語嫌いが増えている現在、何をしたら国語が好きになるのだろうか、といつも思っている。文学と国語が切り離されている感じはしていたが、本書の指摘を読んで少しなるほどと思った。

    0
    2025年10月18日
  • 学校するからだ

    Posted by ブクログ

    それなりの期間を生きてきた人は、自分というものを持っている。著者もそうなのだが、彼は批評家という立場でもあるのであって、そういう意味では感覚を言葉にする技術にはたけている。そんな彼が教師という立場から、学校というものを批評する。教育論、というのとは違う気がする。いろいろと語られているが、おもしろいのは、そこにいる人たちについての描写だ。
    この本の中で試みられているのは、人や出来事と接したときに、著者自身が受けた印象や感覚といったものを、自分の考え方や知識といったものをもとに批評しつつ、なにかを受け入れたり発見したりするという工程だ。それは未知の体験、カオスであったものを丁寧に受け入れて分析することによって、自分の言葉で表現するという作業だと思う。
    本になるようなクオリティになっているのは、彼が批評家という職業でもあるからなのだが、我々素人も自分の感覚を掘り下げて言葉にしてみるのは大切なことだと思う。
    冒頭で述べられている「自分が生きられる場所についてしっかりと足もとから考えながら、少しずつ言葉を練り上げていくことが、まずは批評の条件ではないか。だとすれば、批評の言葉とは自分が生きられる空間の感触とともになければ嘘ではないか」。これは著者が批評家だからこういう言い方になるのだが、人は、それぞれ自分の生きる現実に対して、マインドフルネスに接して解像度を上げていく必要がある。そうすることによってはじめて見えてくるものというのがあると思う。

    0
    2023年04月23日