あらすじ
「群像」誌上に発表し、話題となった傑作文芸批評をまとめた試みの作家論集。
序論 町田康論 いとうせいこう論 西加奈子論 ほか小山田圭吾、みうらじゅんにも言及。
「自分ならざる者を精一杯に生きる」
“今日よりも少しはマシな明日を迎えるために”
――《芸能》の核心は、この「ウソ/本当」の二分法を貫く、一生懸命で心を込めたいとなみに宿っている。このような意味において、小説もまた《芸能》のいち形態である、と言える。小説もまた、音楽や映画や漫画といった他の表現と同様、ここにはない喜びを、悲しみを、憎しみを、愛しさを現前化しようとする。
小説とは、わたしたちが生きる日常とはまったく異なる出来事が上演される場所だ。作中人物たちはゆたかな世界を演出すべく、小説の舞台を動きまわり、読者の気を引こうとする。そして、彼らの行動を追い、彼らに感情移入さえする読者は、ほんのつかのま、読書行為を通じて、普段の自分とは違う何者かになる。もしかしたら、読むまえと読んだあととでは、世界が一変しているかもしれない。すぐれた《芸能》とはおうおうにして、そういうものだ。
大事なことは、《芸能》の世界が少なからず、現実の世界なり社会なりと異なっている、ということだ。逆に言えば、現実の社会を追認するような《芸能》は物足りない。退屈な社会を生きるわたしたちが、ほんのひとときでも、《芸能》に触れて日常から抜け出す。その逸脱による解放的な喜びこそ、明日以降を生きるための活力となるのだ。
いち生活者の僕は、だからこそ、小説を読む。だからこそ、音楽を聴く。明日以降の生活を少しでもマシなものにするために。――(本書序論より抜粋)
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Posted by ブクログ
序論、町田康論、いとうせいこう論、西加奈子論とこの書籍のメイン部分を読んでいくと文学と芸能、そしてそれらと表裏一体である政治と社会の問題がスムーズに繋がっていくのがよくわかる。それが見事であり、町田康、いとうせいこう、西加奈子を読んでいない人でも問題なく読めるし、たぶん彼らの作品を読んでみたいと思うだろう。
町田康はミュージシャンだった(現在も活動はしている)こともあり、彼の文体や言葉遣いが評価されることは多い。文体が物語を呼び、物語が文体を要請する。そして、その書き手である作家はある種「憑依」されている存在である。そのためには実は言葉を持ち、同時に持たない、という空洞さがいる。
シャーマン的な要素というのは「芸」にとって太古から欠かせないものだった。そして、シャーマンがなにかに「憑依」されても、それを見たり聞いたりする視線(他人)がいなければ、それは世界に影響をなんら与えない。
言葉がなければ世界は存在しないが、それは他者という存在が前提でもある。「芸」とはかつては神への祈りであったが、やがて大衆的なものへ降りていった。「祭り」とはまさしく共同体を維持するための行事であり、シャーマン的な存在がいなくても成り立つ大衆化された「憑依」ごっことも言える。
現在ではたとえばそれがライブなどステージとそれを観るものだとすると、なにものでもない者がステージに上がればなにものかになってしまう。そしてそれを中心にして観客は祭りをたのしむ。ステージ上の「芸人」は神であり、同時に生贄である。
時代を変えるようなカリスマが時折現れる。彼らは磁場の強い存在であり、民という砂鉄を引き寄せる。そうすると世界のパワーバランスが以前とは変わってしまう。一度変わってしまったものはもとには戻らない。だが、カリスマの磁場は次第に弱まっていき、あるいは新しい時代への生贄のように姿を消す(消される)。
「芸人」はある時は神であり、同時にある時は生贄であるというその構造はずっと変わらない、河原から演芸場へ、そしてテレビになりユーチューブやネットに移り変わった。「笑いもの」にするという言葉があるように、優劣がどちらかに伸びているものを見て称賛し蔑む、そこにはもちろん差別的な構造がある。
いとうせいこう論における「無数のざわめき」を拾い上げる、声や形にしていくこと、マイノリティと呼ばれる人たちが声を上げる場所を作る、それが染み出していくと世界に変化が起き始める。いとうせいこうの「芸」と「政治的なアクション」が繋がっているのは、社会やマジョリティーに届きにくい声、可視化されにくい姿を「芸」というフィルターを通して世界に繋げようとする試みでもある。たぶん、他人を信じているからできるのだと思う。彼のアクションはとても政治的であるが、そもそも「芸」と「政」がきってもきれない現実社会の写し鏡であり、表裏一体ということをわりとみんな忘れてしまっている。それを思い出させてくれる存在でもあり、失語症的になっていた彼は、自分の声ではなく「無数のざわめき」を知り、聞いたことでそれを自分を通して語ることで小説が再び書けるようになったという。
琵琶法師についての話も出てくるが、『平家物語』はひとりの作り手の声ではなく、琵琶法師たちが語り継いでいき、各自が足したり引いたりしたそれぞれの語りのバージョン(無数の物語)の集大成(リミックス)である。見えないものを幻視し、聞こえない声を聞く、そしてそれらを紡いでいった声たちの完成形が現在の『平家物語』となっている。
西加奈子論における「おかしみ」の話も「芸論」の大事な部分であり、共同体と逸脱者の関係性がある。かつては河原乞食と変わらないものであり、芸人になるということは社会からドロップアウトするという時代があった。しかし、逸脱しているからこそのおかしさとどうしても目が離せないということが起きる。そして、それを安全な場所から見ているという自分の差別意識に気づく。
西加奈子作品はそれらを内包している。だれかがなにかを必死でしているが、失敗していたりすると笑ってしまうことがある。しかし、その誰かは夢中でなんとか物事を完成させようと達成しようとしている。次第にその「夢中さ」にこちら側は応援してしまう、その場所にいれば手を差し伸べようとしてしまう。
「おかしみ」とは夢中と関係があり、「夢中」になっている当人ではなく、見ているものを関係者に、当事者の側に引き込んでしまう力を持っている。その「見る」という行為にある差別、「見られてしまう」という恐怖と光悦の関係。
ここでも何作品か取り上げられているが、アニメ映画化された『漁港の肉子ちゃん』についても触れられている。共同体と逸脱者の話がメインで展開されているが、そこでも「肉子ちゃん」の「夢中」さによる「おかしみ」、それゆえに彼女は笑われるが、同時に手を差し伸べられる存在にもなると書かれている。この部分を読んで、なぜ明石家さんまさんがこの作品のアニメ映画プロデュースをしたのかがちょっとわかったような気がした。
そして、補論として「小山田圭吾と文学の言葉」へ、という流れ。
小説論としてもたのしめるけど、芸能論として「見られる」側の仕事をしている人にはすごく興味深く、感じ入る部分が多いのではないかと思う。芸能人というだけでなく、今や自分の顔を出して表現や仕事をすることが増えているので、かなり広い人にも人ごとではなく読める現在進行形の「文学芸能論」になっていると思う。