J.L.ボルヘスのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
エピローグと訳者あとがきがぬくもりに満ちていて、本文に接する姿勢が変わる。掟破りだとしても、これらを先に読むことをオススメする。
語りかけるような講演集。きわめて個人的なようで、それでいて多くの人の心を動かすような。
第4夜 仏教、第5夜 詩、第6夜 カバラが俄然面白かった。翻訳も良いのだろうが、読んでいて心地よく深淵に至る。第7夜 盲目について、はその極致だ。打ちのめされる名文だ。
・私も自分の運命が、何よりもまず文学的であると常に感じてきました。つまり私の身には悪いことはたくさん起きるが良いことは少ししか起きないだろうという気がしたのです。でもけっきょくのところ何もかも言葉に変わって -
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Posted by ブクログ
ボルヘスは決して多くのことを述べているわけではないが、示唆に富んだ事柄ばかりを述べるため、豊富に世界が拡大していく。
・生は詩から成る。
・リンゴと口の接触が必要。
・詩は一回限りの経験。
・書物は美の契機。
・詩とは何かを心得ているために定義できない。
・隠喩……人間は断定よりも暗示を信じる。
・数えられるパターンから無限に近い変奏。
・未来においては状況や歴史や詩人の名前や生涯よりも、美そのものに関心が向けられるかもしれない。
・日常的な言葉から、魔術的な源泉を、詩人は呼び出す。
・ストーリーは信じられないがキャラクター(存在そのもの)は信じられる。ドン・キホーテ。ホームズ。
・人間の一生 -
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Posted by ブクログ
様々な人物の末期(まつご)が淡々と叙述されていくところは
山田風太郎『人間臨終図鑑』のようだ。
表題作を除いては幻想的でもメタフィクショナルでもないが、
我々と異なる時代、遠い場所に生まれて死んだ人たちの――
恐らく多くは作者が
実体験・聞き書きに尾鰭を付けたと思われるドラマが
味わい深い。
晩年、作風がアッサリしていったのは、
視力の衰え(最終的に失明)から
口述筆記に移行したことと関係があったのだろうか。
以下、特に印象的な作品について。
「じゃま者」
ならず者が暮らす地域に住んでいたニルセン兄弟の逸話。
彼らは一人の女を共有したが……。
自ら招いた三角関係の無残な清算。
「 -
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Posted by ブクログ
1977年77歳の著者が7夜にわたって行った7つの講演—こんな煽られ方されたら、レジに直行する。
と言いつつ、『砂の本』で初めてラテンアメリカ文学に触れたとき、あまり楽しめなかったと記憶している。難解というか何かノリきれないものがあったのだ。
その後のボルヘス体験は、『幻獣事典』とアレックス・コックスが監督した映画版『デス&コンパス』を観たくらい。
レビューするにあたり、試しに『砂の本』を引っぱり出してみたら、意外と平易な文章で驚いた。
マルケスにどっぷりハマり、リョサやプイグにちょっと触れ、ボルへスがデビューさせたコルタサルに幻惑されたあとだからこそ、そう感じるのかもしれない。
本書の中 -
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Posted by ブクログ
ボルヘスの講演集、1978年ベルグラーノ大学にて。
□ 「書物」
情報とは、何か或る即物的な目的に従属しその目的に奉仕することだけが求められる手段としての知識でしかない。しかし書物は、単に情報を伝達する媒体なのではなく、それ自体として独立した意義をもつ存在なのだということ。単なる媒体以上である本の存在理由、それは本の「物質」性、その「物質」としての存在感、の内に在る何かではないか。以下は、「物質」としての本の魅力を表現した最も詩的で美しい文句であると思う。
「私は今でも目が見えるようなふりをして、本を買い込み、家じゅうを本で埋め尽くしています。先だっても、一九六六年版のブロックハウスの