J.L.ボルヘスのレビュー一覧

  • 語るボルヘス 書物・不死性・時間ほか

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    ボルヘスの講演集、1978年ベルグラーノ大学にて。


    □ 「書物」

    情報とは、何か或る即物的な目的に従属しその目的に奉仕することだけが求められる手段としての知識でしかない。しかし書物は、単に情報を伝達する媒体なのではなく、それ自体として独立した意義をもつ存在なのだということ。単なる媒体以上である本の存在理由、それは本の「物質」性、その「物質」としての存在感、の内に在る何かではないか。以下は、「物質」としての本の魅力を表現した最も詩的で美しい文句であると思う。

    「私は今でも目が見えるようなふりをして、本を買い込み、家じゅうを本で埋め尽くしています。先だっても、一九六六年版のブロックハウスの百科事典を贈り物にいただきました。家の中にその百科事典のあることがはっきり感じとれ、私は一種の至福感にひたっていました。今の私にはそのゴシック文字は読めません。地図や図版も見ることはできないのです。それでも、書物は間違いなくそこにあり、私は書物が放つ親しみの込もった重力のようなものを感じていました」

    私は本を読むのが好きで、本を読み終わるのはもっと好きだが(そこから私が本の中に自由に吸収されて、こうした文章を書いている)、一番好きなのはそうして読み終わった本を本棚にしまうときだ。「物質」としての本を収集し・分類し・排列する、それは自分の内なる世界を外化するということ。しかし、書物によって積み上げられたその世界は、作者だとか読者だとかいう個体化された存在を超え出てヨリ大きな何かに人を接続していく、そんな予感をボルヘスは何度も書いているように思う。

    「バーナード・ショーはある時、聖書は聖霊によって書かれたと言われますが、あなたは信じますかと訊かれて、《再読に耐える本はすべて聖霊によって書かれたのだ》と答えました。これはつまり、一冊の本は作者の意図をはるかに超えたものになるということにほかなりません」

    「人は二度同じ川に降りていかない、とヘラクレイトスは言いました(・・・)。誰も二度同じ川に降りていかないとは、流れゆく川の水はつねに変化しているということです。しかし、それにもまして恐ろしいのは、われわれが流れゆく川に劣らず移ろいやすい存在だということです。われわれが書物を読むと、もはや以前に読んだ本と違っていますし、語の意味も違うものになっています。しかも、書物には過去も詰め込まれているのです」

    「古い書物を読むということは、それが書かれた日から現在までに経過したすべての時間を読むようなものです」

    世界や人間と同じく、書物も生成流転する(「書物はひもとくたびに変化する」「書物は読者によって豊かなものにされてきた」)。


    □ 「探偵小説」

    新しい文学ジャンルの発明は、新しい型の読者の発明を同時に意味するということ。知的遊戯としての読書行為の誕生。純粋に知的な快楽のために本を読む読者の誕生。

    次の一文は、現代的で些か”難解”な小説を読んでいるさなかにふとミステリを読みたくなる感覚を、よく説明してくれている。

    「探偵小説擁護のために何が言えるでしょう? ひとつ、疑いもなく明白な事実があります。つまり、現代の文学は混沌へ向かっているということです。詩は韻文よりも容易な(本当はむずかしいのですが)自由詩へと舵を切り、小説は登場人物やプロットを喪失し、一切は漠然としたものに変わりつつあります。混沌とした現代にあって、慎ましやかではあるが、古典的な美徳を今も保ち続けているもの、それが探偵小説なのです。起承転結のない探偵小説など考えられません。・・・。・・・、現在いささか軽視されている探偵小説は、無秩序の支配する現代にあって秩序をもたらしています」


    □ 「時間」

    無限が無時間的に一括的に存在する事態としての実無限と、無限が時間的に継起的に生成していく自体としての可能的無限。その構造の差異。

    物理的な時間・空間は、実数によって量化されているが、それらが本当に実数の集合によって1対1対応が可能であるとする根拠はあるのか。例えば時刻 t=0 から t=1 までの間にある時刻は、それを全て埋め尽くす濃度として実数の濃度が一致するのか。有理数のみで足りるということはないのか、実数だけでは足りないということはないのか。実数の連続性という性質が、物理学が時間・空間という概念に要請するものとして、過不足がないと言える根拠は何か。

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    2019年07月27日
  • ブロディーの報告書

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    他のアルゼンチン生まれの人とどこかイメージ違うなー、とwiki
    ってみた所、お父さんがイングランド、お母さんがウルグアイの人なのね。

    つらつらと短編を読んでみました。ちょいちょい本人が出てきて、これは創作?昔話?

    本文中にグスタフ・マイリンクの「ゴーレム」がサラリと話題にのぼり、あれしかまともなのないと。それは褒めてんだよきっと。
    夢の中で夢を見ていると表現していて、ハッとした。

    静かなあじわい。

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    2018年11月27日
  • ブロディーの報告書

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    ボルヘス後期の短編集。ガウチョがたくさん!やや単調。最後のブロディーの報告がよい、ボルヘスらしいと感じる。

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    2014年05月08日
  • ブロディーの報告書

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    ボルヘス後期の短篇集。南米特有の場末の雰囲気には、日本の小説では味わえない異国感がある。「マルコ福音書」の終わり方がよかった。書かれないラストに思いを馳せ、書き出しに立ち戻る。「めぐり合い」の二本のナイフの物語はロマンチックだ。p68「物は人間より持ちがいい。」

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    2014年01月20日
  • ブロディーの報告書

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    ボルヘスは”鬼面ひとを脅かす”ところが好きなので、物足りなさはある。「じゃま者」「マルコ福音書」「ブロディーの報告書」は寓話的で好みの雰囲気。

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    2013年07月20日
  • ブロディーの報告書

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    ボルヘスの短編は基本2種類に分けられる。1つは西洋形而上学を自在に駆使して構築される高尚文学。そしてもう1つは、故郷アルゼンチンを舞台にガウチョや荒くれの人生が伝聞されていく口承文学的な作品だ。本書は後者のタイプの作品を大部分とする事で自らをアルゼンチンの土着的文脈に再定義。そしてラスト前の「マルコ福音書」はその民族性が西洋史の起点と交差し超克する瞬間を描き出し、最後の表題作はガリバー旅行記とアルゼンチンの歴史を合わせ鏡とすることで自国文化の非西洋的側面を肯定する。南米の味がするボルヘスもまた、悪くない。

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    2013年07月12日
  • ブロディーの報告書

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    ボルヘス後期の代表作ということで、作家の全仕事における本書の位置づけやら意味付けは、解説を読むのが一番。
    一読者としては、面白かったか否かだけを。

    それなりに面白かったけど、それまでのボルヘスファンが落胆を禁じ得なかったというのも頷ける。
    老作家は意図して作風を変えたわけだけど、フツーになっちゃった的感想は少なからずあったんじゃないだろうか?
    ボルヘスの名を伏せて読ませたら、別の作家でも通ったんじゃないかという。
    特にチンピラものについてはコルタサルを想起させるものがあって、なぜボルヘスが感は否めないかも。

    『めぐり合い』『ファン・ムラーニャ』『マルコの福音』などが秀逸。

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    2013年02月20日