見田宗介のレビュー一覧
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2020年を控え、今こそ大局観を持とうと購読。数千年の歴史の中で人類は大きな曲がり角を経験している。一つ目は紀元前後の世界的宗教が確立した頃。それまで群・部族でしかなかった集団が、「現世は来世の幸せのためにある」という一つの世界観を共有し、何千キロを隔てても共通の価値観でものを語れるようになった。同時に、この見えないもので争うようになったが、それはより良い未来のために覇権をかけての争いである。第二の曲がり角はまさに現代であり、「未来・来世とはからなず良いものである」と信じられない世界。未来・来世がどうなるかわからないから、ものを所有することに意味はないし、耐え忍んだり苦行する意味もわからない。もう一つの観点は、国内における世代間ギャップ。40代→50代→60代のギャップは大きいのだが、20代→30代→40代のギャップは小さい。これは消費行動やコミュニケーションにも現れていて、普段の活動の中で気づかされることもある。再読したい一冊。
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希望が持てる本であった。現代社会は歴史的に着実に進化している。マルクスが唱えた予言は資本主義が発展すれば、共産主義に移行するというものであったが、その予言が当たりそうである。ただし自由と民主主義があればとの前提だが。ただ、その予言がうまくいかなかったのは、1.否定主義(とりあえず妥当)、2.全体主義(三位一体という錯覚)、3.手段主義(終わりよければすべてよし)、が二十世紀を賭けた革命の破綻の構造だそうだ。「憎しみは人間を破綻に導く、最も強力な感情である」と、その通りである。この失敗を繰り返さないために、1.肯定的であること、2.多様であること、3.現在を楽しむ、これを統合したイメージが「胚芽をつくる」ということらしい。データも示され、説得力のある、明るい展望が開ける本であった。
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今ここに一つの花が開く時、すでに世界は新しい。
ポジティブなラディカリズム。肯定する革命。
人に喜ばれることを喜びと感じられるように生きる。
(欲望の相乗性)
有限性の自覚。
自己を目的化しない。
二重疎外からの脱出。
・かつてに比べ、世代の距離は、ほぼ消失している。
歴史は加速度的に進化する(人々が未来を信じていた時代)という団塊世代との乖離。
・地球は、無限であり、有限。
・グローバリゼーションによって実証されてしまった「有限性」。その有限性にどう立ち向かうか。
・封建制とは、戦闘合理性。→近代の現実原則としての合理性。
それは、近代の理念である自由と平等の対極。
=近代家父長制も人間の生の合理的・生産主義的な手段化。
婚姻、女性の子育て、も然り。
・キリスト教=生きることの意味を、未来の救済に求める。
→未来志向の発生
・ピダハン。
他者と自然の《交歓》を通じて、未来ではなく、現在の生「そのもの」を幸福に感じる。
ピダハンは、全世界を所有していると言える。
※サルトル的所有。
認識による世界の所有。滑走による雪原の所有。愛撫による女性の所有。
・未来のために現実を手段化する、ということが無意味になりつつあるのが低成長な現在。(生存のための物質的な基本条件は確保されている)
他者との交歓と自然との交感で、現在を楽しむことが必要。
・貨幣経済の本質は、世界の抽象化。等質化。
・感性と欲望の開放。幸福感受性の奪還。が必要。
・現代は、否定主義、全体主義、手段主義、を乗り越えるべき。
→肯定的、多様的、現在的(consummatory) -
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ネタバレ再読。現代が消費化/情報化社会であるとして、その欠陥点が〈消費〉の概念を社会全体が正しく捉えられていないこととして指摘、その解決を情報化と〈生の直接的な充溢と歓喜〉へと消費の概念を見詰め直すことに見出している。
以下、昔書いたまとめを。
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<一章要点>
・資本主義という一つのシステムが、必ずしも軍事需要に依存するという事なしに、決定的な恐慌を回避し反映を持続する形式を見出したという事、この新しい形式として、「消費社会化」という現象をまず把握しておく事が出来るという事。
・自己否定、自己転回
・デザインと広告とクレジットを柱とする、ソフトなより包括的な戦略、「消費者の感情と動機と欲望に敏感な」システム
・消費社会としての資本制システムが存立する事の前提は、(この労働の自由な形式に加えて、)<欲望の自由な形式>である。
・<欲望の抽象化された形式>、<労働の抽象化された形式>
・古典的な資本制システムの矛盾——需要の有限性と供給能力の無限拡大する運動との間の矛盾、これが「恐慌」という形で顕在化する。
・上記の矛盾を、資本の基本システム自体による需要の無限の自己創出という仕方で解決し、乗り越えてしまう形式が<情報化/消費化社会>。
・自己の運動の自由を保証する空間としての市場自体を、自ら創出する資本主義。
・<情報化/消費社会化>こそ、初めての純粋な資本主義である。
・誘われたままでいる事を享受し、あるいは寧ろ、よく誘惑するものであるか否を、鋭敏な批判の基準として選択する対処の仕方は、1970年代以降の世代達にとっては、平常の基礎的な情報消費社会の内部を生きる事の技法となっている。
・<大衆が消費する事は、それが資本の増殖過程の一環をなすからといって、それが大衆自身の喜びである事に変わりない>
・この社会の固有の「楽しさ」と「魅力性」という経験の現象、それがこのシステムの存立の機制自体の不可欠の契機である
<二章要点>
・「自動的な廃滅化という現代の傾向」
・上記の様に呼ばれているのは、「モードの理論」と同じ戦略によるものである。つまり、<消費の為の消費>を通しての繁栄というシステムの基本の論理そのもの。
・根源的独占は、商品システムというものが、必要を充足する為の他の方法を排除してしまう事を通して、生活の仕方を選択する自由を否定する。それは、自然的な他の共同体的な選択肢を解体してしまう事を通して、商品システムへの依存を強制する。
・農村と都市の構造から家族の形態に至る、日本社会の基本的な構造が変容したのは、1960年代を中心とする、「高度経済成長期」である。日本に於ける「現代社会」の創成期である。
・現在の<情報化/消費化社会>が、自分で自分の無限定の成長と繁栄の為に設定する無限空間——人間達の現実的な必要を離陸する<欲望の抽象化された形式>、あるいは<欲望のデカルト空間>とは、このような<消費の為の消費>、<構造のテレオノミー的な転倒>の、純化され、洗練され、完成された形式である。
・生産の最初の始点と、消費の最後の末端で、この惑星とその気圏との、「自然」の資源と環境の与件に依存し、その許容する範囲に限定されてしか存立しえない。
・現代の情報化/消費化社会は、資本制システムの「自己準拠化」の形式として成立した。
・人間達の「必要」に制約されない無限定の消費に向かう欲望を、情報を通して自ら再生産する。
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<一章>
現代社会は資本主義社会である。世界恐慌等を経験し、決定的な恐慌を回避し持続的な繁栄を実現する為に<情報化/消費化>した。というのも、<情報化/消費化>は「消費者の感情と動機と欲望に敏感」になる事で、需要の無限の自己創出を可能にしたからである。そして、このシステムが成立するのは、<大衆が消費する事は、それが資本の増殖過程の一環をなすからといって、それが大衆自身の喜びである事に変わりない>事とこの社会の固有の「楽しさ」と「魅力性」という経験の現象によって裏付けられている。
<二章>
一章で先述されている、『需要の無限の自己創出』とは、必要を充足する為の他の方法を排除してしまう事を通して、生活の仕方を選択する自由を否定する根源的独占と、人間達の「必要」に制約されない無限定の消費に向かう欲望を、情報を通して自ら再生産する事で可能となった。また、先述の日本に於ける『現代社会化』は農村と都市の構造から家族の形態に至る、日本社会の基本的な構造が変容したのは、1960年代を中心とする、「高度経済成長期」に起こった。 -
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言葉が手に取るように分かるとき、意味は胸に浸み込む。本書を読むと、ビジネス本の堅い言い回しが空疎に感じられてならない。本書は1968年周辺の世相を題材に取り、田舎から「金の卵」として大量に都市へと送り込まれた若者たちの孤独を鋭く抉り、『無知の涙』で知られる連続ピストル射殺事件の犯人の実像に迫る。1968年は僕らが現代日本を考える上で重要だ。それは、安田講堂落城、3億円事件、連合赤軍といった歴史的な事件があったせいではなく、貧しかった僕らの両親が青春時代を過ごしたからだ。本書で指摘されているように、「金の卵」と呼ばれた若者たちは従順な労働者として重宝されたのであって、自由意志を持つ者は「生意気だ」と排斥される。この構図はいまの僕らの時代にも大きく影を落としているわけで、「終身雇用」の完成のために多くの若者の夢が押しつぶされてきたというわけだ。もうひとつの論点として、都市への若者世代の流入が東北をはじめとした田舎を疲弊させ貧しさに拍車をかけたことが指摘されているが、いまの僕らの時代も同じことが起こるように思う。今度はグローバルなスケールで。TPP参加など世界はフラット化する一方であり、日本が環太平洋の中で過疎化するのではという危惧を最近強くしている。英語が話せる程度ではなんともならんのではないのか(僕は英語もロクにしゃべれません!)。価値を産み出すにはどうすればいいのか。いまこそ自由意志をもつべきだと思う。
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大学時代のバイブルです。最近読み返したら、鉛筆で線がいっぱい引いてあって、無い頭を捻りにひねって考えながら読んだことを思い出しました。
・・・どうやら「構造」というものがあるらしい。それによって世界はまわっていて、「南」の貧困、あるいは「北」のなかの貧困を固定しつつ、様々なリスクを生み出しながら、危ういバランスのうえで、ぼくたちは大学やバイトに行ったり、日々を生きている。
「途上国の8人家族が飢えに苦しみ・・・」というニュースを聞くと、何でそんなに子どもつくるんだよ自業自得!
「コーヒー豆がスタバに買い叩かれるんだ!」と荒ぶる農民をみて、じゃあ別の仕事しろよ依存してるだけやっぱり自業自得!
と辛口評論していた当時のぼくは、見田先生にあえなく論破されたのでした。 -
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「永山基準」で有名な、1968年に起きた連続射殺事件の本人・永山則夫が立脚していた意味世界を、見田宗介が鮮やかに描いた論考。
集団就職の時代、郷土から上京してきた青年は転職を繰り返した挙げく逸脱行為に走る。しばしば背景は、「都市が不可避的に課す孤独でや労働の問題である」と語られる。親密圏の形成や、労働疎外は現代でも無縁社会論や派遣の問題との布置連関で語られる。だけど、物事はそう単純ではない。
見田宗介が指摘するのは、「孤独」ではなく翻って「濃密な人間のまなざし」。上京青年を対象に行なった当時の統計資料をもとに、彼らが最も欲しかったものは、自分独りの空間と時間。
永山則夫を逸脱に走らせたのは、都市が含有する「他者のたえざるまなざし」、まなざ地獄であったのだと。
本当によく書かれています。 -
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「まなざしの地獄」、副題は「尽きなく生きることの社会学」。
この本は1960年代後半から70年代へと至る時期のの本社会にスポットを当てていて、その中でも連続射殺事件を起こした当時19歳の少年N・Nの境遇を基軸を置いている。少年は網走の刑務所で生まれその後青森に渡りそこでで母親に冬の間捨てられた経験を持っている。それゆえ彼は中学校を卒業すると同時に東京に上京する(故郷を捨てる)少年は東京で、“尽きなく生きようとしていた”、つまり自分自身の不可欠な存在としての確証を得ようとしていた。だが東京という都市が彼に提示したのは、社会的上昇と確固たる存在性という甘美なものではなく、「まなざしの地獄」であった。彼がどんなに容姿を整え一生懸命働けども、網走の刑務所の生まれで青森からの上京者という抽象的な表相性を持つ限りにおいて、まなざしは彼のアイデンティティの総体を規定し、そしてとらえる。なぜ“地獄”なのか。それは、まなざしによって自身のアイデンティティを否定的に意味づけられるからだ。(都市のまなざしは、具象的な表相性において、抽象的な表相性においてひとりの人間のアイデンティティの総体を規定し、予料する。)そして少年は、奇しくも犯罪によって、「存在すべからざる者としての存在」についての確証を得たのは、皮肉だと思う。この論文は現代においても応用可能で、秋葉原の通り魔事件や「酒鬼薔薇聖斗」に関する考察も解説部分にある。
この少年はまなざしの囚人になり、発狂したけれども、僕らも彼に比べれば軽度であるけれども十分まなざしにとらわれているんじゃないかって思う。いや、むしろそれが当たり前のことだろう。注がれるまなざしを一方的に思い込むことで外見を気にするし、アイデンティティや生い立ちももちろん気にする。僕もここ東京で、尽きなく生きようとしている一人の人間なんだ。