上田信のレビュー一覧
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中国の人口を通史的に扱っている。大まかな王朝の推移にも触れているので、人口自体に焦点を当てた箇所が意外に少ない気もした。注意しなければならないのは、過去の人口推計は王朝が把握していた戸数に基づくものなので、大幅な振幅が生じているが実態を反映しているわけではないこと。
清代に人口爆発が起きるが、税制が戸との結びつきを離脱したことで人口が炙り出されたこと、新大陸由来のトウモロコシなどの作物が導入されたことを一因とするも、それだけでは説明できないとする。本書では、女児を対象とした子殺しが減ったことや貨幣経済の浸透で他の農業サイクルに依存しない人が増えたことを資料をもとに説明している。なお、女の嬰児殺 -
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いわゆる後期倭寇の時代。中国周辺での海賊行為を止めさせ、明朝の元での華夷秩序を回復すべく、無位無官の侠士・鄭舜功は広州を発ち、日本に向かう。暴風の影響もあり、彼はに行くことはできず、豊後大友氏の元にとどまる。しかし、同じく日本に来ていたライバルの動向もあり、彼は部下を京都に向かわせつつ、自らは中国に戻る。しかし本国の権力争いもあり、彼の功績は全く報われなかった。そんな彼の書いたものが『日本一鑑』。
確かに著者が紹介するように、鄭は尊大な偏見を持つことなく、日本の在りようをそのままに観察したように思われる。
ただ、彼の行程を見ると、
・1556年6月 広州出発
・同年7月 豊後着
・1 -
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人口の動向という観点から中国史を考えたことがなかっただけに非常に新鮮で刺激的だった。考えてみれば国家を運営していくためには税金徴収、調達できる兵力・労働力の計算に当たっては重要な項目であるわけで、秦の時代だけではなく、夏殷周の時代から記録があって当然だったのだ!遼については記録が紛失しているということであるが、人口よりむしろ戸数そして丁数(男の人数)が重要な概念だったということも理解できる。18世紀半ばごろに人口爆発が起こったという理由も中国でかつて行われてきた女乳児の間引き(溺女)が抑制されたこと、また生産力のアップ、戦乱のなかったことなど、面白かった。また周辺の先住民族が取り込まれて行って
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絵を並べて見せれば誰しも間違うことはないが、いざ定義を聞かれると答えに窮する。
どこで聞いたかわからずとも、誰もがなんとなく知っている『足軽』とは一体何だったのか。
文献にて確認できるのは平安後期から。
その名称は、徒歩の武装者として足を軽々と動かして主人に付き従う姿から。
平安、鎌倉時代では付添人、介添人として戦場の脇役としての立ち位置だったが、
混乱期にはむしろ徒党を組んで乱暴狼藉を働くはぐれ兵を指す言葉としての扱われ方が多かった。
しかし、戦国時代において長槍や鉄砲を用いた歩兵中心の集団戦術が発達すると、足軽は戦場の中心となる。
本書ではそんな時代における足軽の食、排泄、医療、博打、盗