佐宗鈴夫のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
『太陽がいっぱい』
初めまして (*・∀・*)ノ ハーィ
パトリシア・ハイスミス さん♪
こちらの本は…
イタリアに行ったまま帰らない 息子 ディッキーを連れ戻してほしいと富豪に頼まれ、トム・リプリーは旅立つ。その地でディッキーは、絵を描きながら女友達マージとともに自由な生活をおくっていた。ディッキーに心惹かれたトムは、そのすべてを手に入れることを求め、殺人を犯す………… って内容です(≖ᴗ≖ )ニヤリ
1960年には…
アラン・ドロン主演で映画化になっている名作♪
そして1999年には マット・デイモン主演
「リプリー」で映画化されています♥
映像も素晴らしいのですが…
本も素晴らしかった・:*+.(( °ω° ))/.:+
トム・リプリーの頭の回転の速さ
トム・リプリーの運の強さ
トム・リプリーの"ずるがしこさ"
もう…ゾクゾクする心理描写なんです
物語の中でも……
彼には物への執着心があった。たくさんの物が欲しいわけではなく、数は少なくても、極上のものを持っているのが好きだった。それらはけっして手放さなかった。物を持つと、自尊心が生まれる。所有とは、虚飾ではなく、質であり、質を大事にする愛情なのだ。
こういう一文があるのですが……
痺れちゃうでしょ(*´艸`)フフフッ♡
読んでいても…共感しちゃうところもあるのね
1955年の作品とは思えない作品
そして…この作品はシリーズ化されています!
〇 太陽がいっぱい
〇 贋作
〇 アメリカの友人
〇 リプリーをまねた少年
〇 死者と踊るリプリー
ゆっくりね!
ゆっくり読んでいこうと思います!
ただ、しょうがないんだけど…
ひとつだけ言いたい!
登場人物ひとりに対して 呼び名?
3つも4つもあるのね!
あれには困っちゃうの( ・᷄-・᷅ )
誰っ?てなっちゃう(-^艸^-)ヘヘヘ
ふかわりょうさん の
【世の中と足並みがそろわない】でも言ってたもん
今回だって…リチャード がディッキーに
なっちゃうんだから(*´艸`)フフフッ♡
なんで?なんで? どうして? でしょ?
文句言っちゃったけど
それでも 素敵な名作でした✨️ -
Posted by ブクログ
リプリーシリーズの5作目であり、最終作。
2作目『贋作』の続編にあたるため、3、4作目をすっ飛ばして、つい読んでしまった。
「ディッキー・グリーンリーフだ。おぼえてる?」リプリーが若き日に殺したディッキーを名乗る者から電話がかかってきた。一体誰が?なぜ…?
今まで殺人を犯しても罪悪感ゼロで過ごしてきたリプリーが、最終作では嫌がらせを受ける立場になる。
じわじわと追い詰められるリプリーを見ていると、最初は嫌いだった彼が可哀想に思えてきた。
シリーズを追うごとに、リプリーへの感情が「嫌悪」から「共感」へ、最終作では「応援」へと変化していったのは、自分でも驚きだった。
家政婦マダム・アネットの作る料理がとても美味しそう。今日のメニューは何だろう?と毎食ごとに楽しみになっていた。
朝食には庭で摘んだパセリと高級バターを入れたコドルドエッグ(半熟卵)、マダムが毎朝買いに行く焼きたてのクロワッサン。
庭に咲くダリアを一輪挿しにして食卓に飾ったり、庭の新鮮な花を友人宅へ贈ったり。
その日のメニューに合わせてワインを選んだり、フランスでの友人に囲まれた丁寧な暮らしが描かれている。
はじめはディッキーの真似から入ったけれど、いつしかリプリーらしい自分なりの優雅さを楽しんでいるように見えた。
リプリーは自分の邪魔をする相手には容赦ないけど、大切に思う人にはとても優しい。
はじめは損得感情で動いているように見えたけど、最終作では心から仲間を大事にしているように感じられた。その気持ちは家族や友人たちにも伝わり、リプリーが周りからも好かれている姿が印象的だった。
かつては誰も信じられなかった孤独なリプリーが、いまは妻のそばで安心して気を休め、家政婦マダム・アネットの献身的な働きぶりに癒され、友人たちに助けられながら、心から仲間を信じられるようになった。
その変化こそ、このシリーズの最大の魅力なんじゃないかと自分は感じた。(とはいえ、利己的な犯罪者であることに変わりはないけれど…)
これだけ悪事を積み重ねてきたリプリーを最後にハイスミスはどうするのか…それがずっと気になっていた。
この作品を書いた4年後にハイスミスは亡くなっている。
もし、もっと長生きしていれば続編が生まれたのかはわからないけど、自分としては、ハイスミスがこれを最終話として意識して書いたような気もする。
36年間もリプリーの人生を描き続けた、リプリーの“生みの母親”でもあるハイスミスにとって、(ネタバレになるので詳細は控えるけど)この結末は愛情あるかたちに思えた。
だからこそ、私はこの終わり方で良かったと思う。
ハイスミスにとってリプリーは、寄り添い続けてきた愛する息子のような存在だったんだろうな。
ちなみに、もう1つのハイスミスの代表作『キャロル』は、異性・同性にかかわらず、私は恋愛小説がどうも苦手で、途中で断念しました。 -
Posted by ブクログ
映画『リプリー』が大好きなので、原作をずっと読んでみたいと思っていた。
イタリアに行ったまま帰らない息子ディッキーを連れ戻して欲しいと、富豪に頼まれたリプリーだったが…
読んでいると、マット・デイモンとジュード・ロウ、グウィネス・パルトロウの映像が自然と脳内再生される。
倒叙が大好きなので、「バレる!バレる!もうダメだ!」と何度も叫びたくなるような、ハラハラどころではない緊張感がたまらない。
肩が凝るほどの張りつめた空気に、「早くバレて、楽にしてくれ」と何度も願ってしまった。
イタリアの明るくて美しい景色と、リプリーの内面に渦巻く劣等感や不安が対照的。
リプリーは、あれほどの知性と鋭い観察力を持っていながら、なぜそれを良い方向に活かせなかったのか…悔やまれる。
自分は嘘をつくのが苦手なので、リプリーのように平然と次々に嘘を重ねていくのは、どういう心理状態なのか、興味が湧いてしまった。
この主人公リプリーから「リプリー症候群」と呼ばれる心理用語まで生まれたのは、実際にこういう人が現実にも存在するからなのだろう。
【リプリー症候群】
自ら作り出した嘘を現実のものと信じ込み、現実と虚構の区別がつかなくなる状態のこと。
「絶対にバレない」という恐ろしいほどの自信も、本人がそれを「真実だ」と信じているのなら納得がいく。
映画『リプリー』は、原作を忠実に再現していると思いながら読んでいたけど、結末が違っていた。
まさかの結末で驚いたけど、この結末にしたハイスミスがますます好きになった。
読後もリプリーのその後を想像してしまうような、心に残る余韻が良かった。
映画『リプリー』も、この原作もどちらも同じくらい好き。
じわじわと狂気に変わっていくハイスミスならではの心理描写は、以前に読んだ『見知らぬ乗客』にも共通していた。
ハイスミスの違う作品をまた読みたい。
最近いろんなことがあって、本を前ほど楽しめなくなっていたけど、この作品は久しぶりに没頭できた。ハイスミス、ありがとう。
こういう倒叙が何よりも好きなので、迷いなく★10でした。 -
Posted by ブクログ
素晴らしい…
なぜも、こんなに、惹き込まれるのか。
まるで動く絵画を観ているかのような小説。
しかし、二度と叶わない望みとしては、、
映画を観る前に原作を読みたかった。
私は『リプリー』→『太陽がいっぱい』→『原作本』の順だったのだけど、
リプリーの印象があまりにも強烈すぎて……
終始マットデイモンとジュードロウ、ホフマン、パルトロウの姿で物語が進行していく笑笑笑
かなり不思議な感覚だったなあ
もしかしたら、このイマジネーションは映画を観た故のものだったのか……
ガチ記憶喪失でもしない限り、映画の影響ゼロで読むことは叶わないというもどかしさ。
しかし逆に言えば、だからこその楽しみ方ができたんだもの、ポジティブに考えよう。笑
実際、読んでいると「リプリーですら全然原作と違うー!太陽がいっぱいなんて、ほぼ全部違うー!」となってその意味でも驚きだった。
そして私、映画『リプリー』が大好きなのだが、事実の部分ではわりと原作と異なるものの、その奥にあるマインド的な部分をかなり原作に近い形で表現していて、アンソニーミンゲラすげえ…!ってなった。
そう思うとやっぱり、例え映画を先に観ていなくても、本書を読んだら同じような印象を受けたのだろう。
もしかすると、映画の『太陽がいっぱい』ファンの人にはあまりこの原作は刺さらないのかも?(知らんけど)
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Posted by ブクログ
ネタバレニューヨークで国税庁職員のふりをして詐欺をはたらいていたトム・リプリーは、かつての友人ディッキー・グリーンリーフの父親から「ヨーロッパへ行って帰ってこない息子を呼び戻してほしい」と依頼を受ける。トムがイタリアのモンジベロを訪ねると、ディッキーはマージという女性と共に悠々自適に暮らしていた。トムは徐々にディッキーと距離を縮め一つ屋根の下で暮らすまでになるが、二人のあいだには常にマージがいた。そしてある決定的な事件を境にトムはディッキーから疎まれてしまい、傷心のトムはディッキーを殺し彼になりすますことを思いつく。サンレモへの二人旅の途中、ディッキー殺害計画を実行したトムの危険な逃避行がはじまる。映画『太陽がいっぱい』の原作小説。
読み始めはどうしても昔見た映画版のぼんやりした印象といちいち照らし合わせてしまったのだが、話が進んでいくにつれこの作品もまた〈同性愛者の生き方〉を取り扱っていることがわかってきて驚いた。映画はヘテロセクシャルの物語として自然にみえるよう、筋がかなり変更されているようだ。(とはいえ、映画版にもホモセクシャルの要素があることは淀川長治が指摘していたらしい)
はじめに気になったのは『キャロル』の主人公テレーズとトムの境遇が似通っていること。二人とも孤児で他人の経済力に頼って生きてきたため、贅沢な暮らしに憧れ、今の自分の生活に嫌悪感を抱いている。テレーズは舞台美術デザイナー、トムは俳優を目指してニューヨークへ出てきたが夢破れ(かけ)ており、職業的に安定していない(トムが「デパートで堅実に働いていれば…」と考えるシーンも示唆的)。二人とも同性の友人がおらず、世間的に語られる“恋愛”に違和感をもっている。
ふたり旅が運命を大きく変えること(マージ視点から見たトム“と”ディッキーの旅はキャロルとテレーズの旅に似ていないだろうか?)、探偵とのハラハラする問答など、展開的にも『キャロル』と重なるところは多い。当時別名義で出版した『キャロル』のほうが先に出ているので、ハイスミスが『リプリー』でも共通のテーマを扱ったと考えても不思議ではない。トムの心理を詳しく見ていこう。
トムは打算まみれでディッキーの元へやってきたが、ローマでの夜遊びをきっかけに同居を許されてから本当に親愛の情を感じはじめる。このときトムの意識に性愛はなく、マージを疎ましく感じるのもディッキーをアメリカへ連れ帰るという目的のためだと考えているが、偶然ディッキーがマージの腰を抱いてキスするところを見てしまい、大いにショックを受ける。そして自分でもその衝撃の意味がわからないまま、ディッキーの服を着て鏡の前に立ちマージの首を絞めるという寸劇を演じるのだ。そこに帰ってきた他ならぬディッキーの言葉でトムが自覚を促され動揺するくだりは悲劇的だ。そしてトムが自身のセクシャリティにゆらぎを感じていたこと、「男を好きなのか、女を好きなのか、自分でもはっきりしないんだよ。だから、どっちもあきらめようと思ってる」というかつて言った“冗談”、しかしその言葉のなかには「事実もけっこうあった」「世間の人間と比べれば、自分ほど人の好い、心のきれいな人間はいない」という心情が読者に明かされる。
この日を境にトムはディッキーとマージから仲間はずれにされ、疎外感から精神的に不安定になっていく。ディッキーから決定的に嫌われてしまったことを認め「死にたいよ」と呟くシーンを起点に、ディッキーへの感情は反転して憎悪となり、ふたり旅に乗り気でないことを隠そうともしない彼をボートのオールで「たたき切るような感じ」で撲り殺す。犯行の直前、トムはひと気のない入り江で「ディッキーを殴りつけることも、飛びかかることも、あるいはキスをしたり、海に投げこんだりすることもできる」と考える。ここでキスを選ぶこともできたのだ。だがトムは自分の心を死なすより、ディッキーを殺すことを選んだ。孤児、あるいは(潜在的な)同性愛者だったがゆえに孤独を強いられていたトムは、殺人者になることで自らが選びとった孤独を手に入れ直したとも言える。この先なんどもそれを後悔するのだが。
〈殺害計画〉といってもトムのやることは全て行き当たりばったりだ。ディッキーに宛てたマージからのひどい内容の手紙(ホモフォビアがほんとひどい)で「何の取り柄もない人」と悪口を書かれるのも無理はない、とつい思ってしまうくらい、何から何まで運任せ。原題「The Talented Mr.Ripley」はハイスミスの皮肉だろう。トムに犯罪の才能はない。なんせディッキーの死体に引っ張られてボートから落ち、あやうく自分まで溺れ死にかけたりするんだから。彼にあったのは劇場では発揮できない類いの演技の才能だけ、つまり嘘つきの才能だけである。
ご都合主義的にも思える逃亡劇にハラハラドキドキさせられるのは読み手をトムにしっかりと感情移入させているからであり、ハイスミスがサスペンスの女王と呼ばれるゆえんを思い知る。ディッキーになりすましていたトムが自分の役に戻らなくてはいけなくなり、ディッキーのイニシャルが入ったブルーとストライプのシャツに涙をこぼすシーンや、「ディッキーとマージの関係についてあんな愚かな判断のあやまちを犯してさえいなかったら、あるいはふたりが自然に別れるのを待ってさえいたら、こうしたことはなにひとつ起こらなかっただろう。そして残りの人生をディッキーとともに暮らし、旅行をしたり、生活を充実させたり、楽しんだりすることができたのだ」とおいおい泣くシーンで、私はトムにすっかり入れ込んでしまった。ここでトムははじめて殺害動機をはっきりと読者に伝えている。トムはディッキーのような人生がほしかったわけではない、ディッキーとともに暮らす人生がほしかったのだと。その望みが完全に絶たれたと感じた瞬間に、殺したいほどディッキーを憎んでしまったのだと。
本書は、同性愛者であることを隠し続けて生きる疎外感と孤独の恐ろしさを殺人者・逃亡者の心理に重ね合わせているという意味で、クイーンの楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」にとても近い構造の作品だと思う。秘密を抱えながら常に道化を演じ、恋をした相手と同一化したいと望むナイーヴなトムの虚飾にまみれた姿は、フレディというよりカポーティのようだけど。
映画と異なり、トムはまんまと容疑を逃れ遺産まで手に入れるが、この結末ははたしてハッピーエンドなのか、ピカレスクとしてもモヤモヤする終わり方だ。最初に比較した『キャロル』のテレーズとはなんという差だろう。キャロルはテレーズのために一人娘の親権を手放したし、テレーズ自身は夢だった舞台美術の世界へ一歩踏み出した。対して、トムのために何かを犠牲にするような人は現れない。トムは憧れの俳優業に就く代わりに、人生をまるごと嘘に変えてしまったのだ。ハードボイルドな犯罪小説でも痛快なピカレスクでもない、他人の服を着ることではじめて大胆になれた臆病な男の心理小説として素晴らしかった。私にはハイスミスを読む喜びがこれからもたくさん待っていると思うと、こんなにワクワクすることはない。 -
Posted by ブクログ
ちょっと、三島由紀夫さんのような。
水面下に脈々と流れる、異常で変態な、ぞくぞくぬめっとする不安感というか。足下の地面がぐにゃっと軟化しそうな味わい。この本には、それが上手くマッチしていていました。
若くて才能があるのに、努力してもどうにもならない境遇の自分と。
なにもしなくても親の巨額な財産で、優雅に文化的に恋愛と芸術を謳歌する友人と。
物凄い格差を挟んだふたりの若者の、うたかたの交流と愛憎。
「格差の葛藤」という、まさに今現在の世の中の仕組みの脆さを突きつけて、突き刺し貫くようなキケンな小説でした。
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嫉妬。軽蔑。
絶望。羨望。
屈辱。怒り。
そんな主人公の心の襞を、舐めるようにねっとりと眺めていく、殺人の記録。
財産、金のために、友人を殺すんです。何が起こったか、だけで言うと。
でも、きっと違うんですね。
プライドのため。人生のため。
これは、リプリーの戦争なんですね。
戦争に善悪があるのか?
超・一級品の、犯罪小説。悪人小説。でした。
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「太陽がいっぱい」。1955年出版、アメリカ。
女流作家パトリシア・ハイスミスさん、34歳くらいの作品。
1992年河出書房、佐宗鈴夫さん訳。
佐宗さんは、僕の知っている範囲では「メグレ・シリーズ」も翻訳してます。
20年来の「メグレ・シリーズ」ファンなので、メグレを訳してる人、というだけで無駄に親近感(笑)。
まあつまり、佐宗さんと言う方は、仏語も英語も翻訳できる、ということですね。
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1960年のフランス映画「太陽がいっぱい」の原作です。
多くの人と同じく、僕もまず映画を知っていて「ああ、あの映画の原作か」という興味。
更に映画ファンとしては、ヴェンダース監督の傑作(というべきか、デニス・ホッパー出演の傑作、と呼ぶべきか)「アメリカの友人」(1977)の原作も、同じパトリシア・ハイスミスさんで、どうやら原作小説世界では「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンの後年の姿が「アメリカの友人」のデニス・ホッパーである!、という驚愕の事実から原作への興味を持った、というのが実情です。(更に言うと、「原作に興味を持った」というのがそもそも20年くらい前のことだったんですが...)
映画のことは置いておいて。
小説「太陽がいっぱい」の備忘録、概略。
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舞台はニューヨークから。時代は恐らく同時代、つまり1950年代でしょう。
まだビートルズ前です。まだまだ世の中は保守的で、アメリカは強く、ただ世の中の勝ち組・負け組構造は、もうかなりがっちりできて来ていました。
主人公はトム・リプリー。イケメンの若者。ただ、貧乏です。
どうやら孤児みたいな生まれ育ち。郊外で伯母さんになんとか育てられたようですが、その伯母さんともしっかりした愛情で結ばれているわけでもなくて。要は、ほとんど天涯孤独。
恐らく田舎のハイスクール出たくらいの学歴で、大したコネもなくニューヨークにやってきたのでしょう。
今の日本風に言うとアルバイトや契約社員みたいな仕事を転々としています。真面目につましく暮らしていこうにも、とにかく目先のお金が足りない。筋の良くない友人のアパートを転々としたり。当然、若いし面白くない。そういう仲間たちとくだを巻いたり。
ただ、このリプリーさんは、あることに、ちょいと才能と度胸があります。それは何か。犯罪です。
保険や税金関係の事務仕事をしていた経験から、税務署員と偽って税金と称して小銭を巻き上げる。そんな詐欺を働いています。
いつ警察に捕まるか?みたいな、不安なその日暮らし。そんなリプリーさんに降って湧いたのが、「イタリア行きの仕事」。
リプリーが浅く広く、ぐだぐだ付き合っていた若者たちの中に、ブルジョアの息子がいたんです。自称画家。金持ちニートです。ディッキー・グリーンリーフ。
そんなに仲良い訳でも無く、知り合い以上友だち未満くらいの関係。
このディッキーのお父さんが、突然現れて主人公トム・リプリーに声をかけます。
「息子の友だちなんだよね?息子が、画を描くって言って、イタリアに行ったきり何カ月も何カ月も戻ってこないんだ。イタリアに行って、説得して連れ帰ってくれませんか?当然、あご、あし、まくら、プラス諸経費一切、出させてもらうんで」
という夢のような依頼。
ディッキーの父親は、造船所のオーナー社長。紛うことなき億万長者。そして、トム・リプリーがケチなフリーターの軽犯罪者だとは思っていません。サラリーマンだ、くらいに思っているんですね。信用しています。(信用されるように細かく嘘を積み上げる技術が、リプリーにある、というのもあります)
まんまとアメリカ脱出。太陽がいっぱいのイタリアへ。
ディッキーと出会う。同じ年頃。同じ背格好。ふたりは一見、異国で肩を寄せ合って楽しく過ごします。
けれど、渦巻く格差の意識。底に流れる不信。そして怒り...。
この心理は、もう、絶品の小鉢のような極上の味わい。ピリリ山椒。
映画でも活かされていますが、リプリーが、ディッキーの服を勝手に着て鏡を見ていると、ディッキーが不意に帰宅している場面。このやりとり。
まさに、「小説」が「物語」から離陸する快感。
そして、リプリーは人生初の大犯罪に。
ディッキーを殺し、ディッキーになりすまし、財産を我が物にする...。
果たして、捜査の手から逃げ切れるのか?
ディッキーの恋人の眼は、ごまかせるのか?
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小説が、正直に言うと、事前の予想より面白かったんです。
このぞくぞくした、人間のダークで異形な部分の味わいは、只者ではありません。
リプリー・シリーズを全部読む(と言っても3冊か4冊でしたが)、というのが人生の楽しみに新たに加わりました。嬉しいことです。
と、いうハイスミスさんへの敬意を踏まえて。
それでもやっぱり思ってしまうのは、
「いやあ、映画もよくできてたよなあ」ということです。
原作ではアメリカ人なんですが、それがフランス人に。
そして原作と、細かくは言いませんが「終わり方」が圧倒的に違います。これはほんと、映画サイドの英断だと思います。
(映画の終わり方の方が素晴らしい、という訳ではありません。「映画にとっては」、映画版の終わり方の方が素晴らしい、と、思います)
そして、原作に存在する、ぬめっとした存在の不安のような味わいは、映画版では明確には描かれていないのですが、「アラン・ドロン」という異様なイケメン俳優のどきどきする危うい存在感が、それを十分に補てんしていると思います。
(原作では、50年代のアメリカで商業小説に許されるぎりぎりくらい、「同性愛っぽい匂い」というか「同性愛者だと思われることの屈辱とか偏見、恐怖」みたいな通底音が流れています。これだけで、つまりは「健全なる社会の構成員」であることへの皮肉な、そして暗い疎外感と敵対感がぬめぬめと醸し出されるわけです。
その要素は、映画版ではかなり排除されているのですけれど、排除しても排除しても、アラン・ドロンという人間の肉体と存在感から、同様の寂しさとか緊張感がだだ漏れに漏れてくるんですね。素晴らしい。これはまあ、ヘルムート・バーガーさんとか、やはり「ヴィスコンティの眼鏡に叶いし者たち」の持ち味というかなんというか…)
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映画版を褒めてばかりいてもナンなんですが、映画の題名、Plein Soleil「太陽がいっぱい」。これ、素晴らしいですね。脱帽。
原作にもはちきれんばかりに描かれる、くらくらする地中海の太陽の暑さ。若者の噎せ返るような不満と恍惚。そんな空気感をざっくりと表した題名だと思います。これだけは、うーん、ハイスミスの原題Talented Mr.Ripley 「才能あるリプリー氏」よりも、わくわくしますね。
ほぼ直訳だけど、日本語としてのセンスもいいなあ。やっぱり、洋画をカタカナタイトルで公開するのは、何かしら堕落を感じてしまうんですよね。まあ、興行業界には興行業界なりの、事情があるんでしょうけれど。
(とはいえ、じゃあStarWarsを、宇宙戦争、にしかなったのも英断だと思うので、まあ作品によるわけですが…) -
Posted by ブクログ
ネタバレ人間や社会にまつわるすべてのしがらみを断ち切って自然の懐に呑み込まれたい…程度の差こそあれ、誰しもの中に存在する(あるいはした)であろう夢想を極端な形で実行に移し、結果として望まぬ最期を迎えてしまったある若者の生が、自身も卓越した登山家である著者の取材と考察を基に紐解かれている。
私は個人的に、悲劇の主人公であるクリス・マッカンドレスが取った、文明から隔絶された森の中を目指すという衝動とその背景に共感を覚えるが、彼のものと態様こそ異なれど、同種の源泉から生じる渇望を身内に抱え、鬱屈するティーンエイジャーは古今東西において遍在しているはず。
その意味で、決してクリス・マッカンドレスの生涯は特異なものではなく、それ故本書も普遍的であると言えるだろう。
野生に還りたいという強い行動指針を持ちながら、例えば"飛行機はあかんけど車移動はええんかい!"と思わず突っ込んでしまいたくなるような、いわゆる"ぶれ"をも他方で体現しているという、甘さと矛盾を同居させた存在であることもまた、彼がリアルでヴィヴィッドな人間として読者に迫る理由であると思う。
子に先立たれる親というのは辛いものだ。
「楽しみをもたらしてくれるのは人間関係だけであるとか、人間関係を中心にそれを期待しているとすれば、それはまちがいです。」