いしいしんじのレビュー一覧
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ネタバレいしいしんじさん読むの4つ目。「トリツカレ男」「プラネタリウムのふたご」「ぶらんこ乗り」。
どれも世界観と文章がとても好きなんだけど、これ読んで確信した。ストーリーが自由に進んでいくようで、実はものすごーーーく緻密に構成されてるんだよ。印象的な途中のエピソードや何気ない小道具が後からバチバチバチって嵌っていって物語の中で意味を持ってくる。それが凄いの。鳥肌。
いやオムレツのエピソードに不意打ちされて涙がぶわってなりましたよ…あんなのむりだろ…うう…
クライマックスで、すべてがつながってひとつの音楽を奏でる、暗闇の中での観客たちがそれぞれの音を鳴らす、ホッチキスやはさみやおもちゃの合奏。生きている人たちのたてる雑多な音が音楽になる。
このシーンを読んだ後ふと本から顔あげると、窓の外から聞こえてくる電車の音とか、家族の足音とか、空を行くヘリコプターの音とか、そういう世界の音がなにもかも愛おしくなるような気がした。
そしてねこのおかあさんの話のあとの一文。これがこのどこまでもやさしい物語におけるもうひとつの核心でもある気がする。
「たったひとつの『ひどい音』、一瞬の音とそのこだまが、あらゆる吹奏楽の音色、それまで過ごした生活すべての彩りを、真っ暗に塗り替えてしまうってことが、この世ではまちがいなく起こり得るのだ」
そうなんだよな、残酷な悲しい出来事は起こり得る。どこにでもやみねずみは潜んでいる。
だけどそれに飲み込まれないために音楽を奏でる。合奏をする。シャドウボクシングをする。
いしいしんじさん、いままで読んだのも全部好きだったんだけどこれはホントとくに衝撃というかもう…やられた…ってひっくり返りました。ため息。 -
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ネタバレ村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』をもっと童話チックにした作品。だれかと一緒にだまされ同じ夢を見ることが、いかに人生を豊かでおもしろいものにするか、ということが手を変え品を変え実演される。手品に、まじない、言い伝え、それからもちろん小説も。目の見えない老女が家出した亭主の名をかたって書いた自分宛ての手紙を、その内実を察しながらも素知らぬふりして朗読をつづけるタットルや、「泣き男」がプラネタリウムに映してみせた見せかけの星に魅了される村の人たちや、タットル扮する熊をいつまでたっても撃ち逃してしまう猟師たちや、テンペルになりきったタットルに騙される「栓ぬき」とおなじように、一読者として私も存分にだまされ、そして楽しんだ。
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いしいしんじさん、「トリツカレ男」と「プラネタリウムのふたご」以来久しぶりに読んだのです…
あーもー、これは好きなやつだなあと最初の3ページくらいでわかる…。
小川洋子さんとも通じるんだよねえ。こう、静かな語りとどこか外国の童話のような世界。なんていうか、黒電話を使ってて、出窓のある洋館に住んでいて、肉屋で夕飯用の肉を買うような。
賢い弟とそれを見守る姉、両親、おばあちゃん、犬の家族。
母は画家、父は額縁職人。それぞれ個性的だけど愛し合って暮らしている家族。
いやほんとね、前も思ったけど、いしいさんの物語は繊細なだけにこう、薄氷の上に立ってるような危なっかしさが漂ってるというか、いつ大きな不幸が襲ってきてこの登場人物たちのささやかなしあわせが踏みにじられてしまうんだろう、みたいな怖さがずっとあるんだよな…
だけど、あ〜〜〜後半のほう、そうだったのか〜〜〜って畳み掛けられてきてずっと泣く。
長い詩のようにうつくしい物語なんだけれども、小説としての伏線がいくつも張られてたって最後に気付いてにウワーーーッてなりました。
良かったー。良かったー。
ひやひやしたけどハッピーエンドで良かった… -
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ネタバレすごく密度が濃い。きちんと、読んだ、とは到底思えない。
この小説自体がうたみたいなもので、読むというより原始的な、もっと感覚的な体験という気がする。
自分の中に感応するところが出てくるたびにかちんかちんとスイッチが入って、からだの中にぶわっと感情と記憶の波がまき起こる。タマさんのサックスみたいに。電車の中でぽろぽろ泣いてちょっと恥ずかしかった。
「全身にひびきわたる鐘みたいな」歌、音楽にそういう領域は確かにある、と思う。音楽のなすがまま意図しない心の奥の奥まで揺さぶられて、しまっていた記憶も思いも溢れてしまううた。
その深いところで、自分の現実と夢を行きつ戻りつしながら、みんながつながっていく。太古の昔より長い間、時間も距離も越えて、奇縁に引き寄せられて、わたしたちは触れたり離れたりして、大きな波に揺られていく。別にそれって不思議やファンタジーじゃない。これがわたしたちのありようなのだ、きっと。
昔部活で吹奏楽をやっていた頃、とても楽しかった合奏の後につい友達に「さっき私、あんまり楽しくて音に包まれて浮きあがってる感じがしてた」って言ったら「私も!すごかった!」と何人もに返されて、とてつもなく嬉しかったことを思い出した。うたの浅瀬だったのだろう、と今にして思う。 -
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自己で声をうしない、動物たちのことばを理解することができるようになった弟と、彼ののこしたノートに記されているいくつもの物語をたどる姉をえがいた作品です。
著者はしばしば、「物語作家」ということばで紹介されることがあります。本書でも物語の美しさにひたる歓びを読者にあたえてくれますが、それだけではなく、いろいろな読みかたに開かれている小説です。
本作は、死んでしまった弟がのこしたノートを姉が受けとることからはじまります。そこに記されている物語は、弟が動物の語る声に耳を傾け、聞きとったものとされています。そして本書の終わりのほうでは、飛行機の事故に遭いもはやこの世にはいなくはずの両親からの手紙がとどけられます。これらのことから明瞭にうかがえるように、本作はメタ物語的なモティーフを含み込んでいる小説だといえるでしょう。
いうまでもなく、ミステリにおいてこうしたメタフィクショナルなモティーフは自覚的に追求されてきました。しかし、それらの試みは現在、袋小路に入り込んでしまっているのではないでしょうか。佐藤友哉までもが民俗学的な想像力に「物語」を開放する可能性を求めたのは、個人的にはこうした主題からの明らかな後退であるように思えます。
これに対して本作は、「他者」や「異界」からの呼びかけを聞きとることに物語の「起源」を求めようとしてはいないといえるでしょう。たしかにそれらの物語は、動物や死者、エクリチュールなどのかたちで姉のもとにとどけられているのですが、「他者」や「異界」へと遡行するわれわれの試みは、それらの物語が相互に嵌入しあうような作品世界のなかに巻き込まれていくことになります。 -
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この著者の童話の世界観と言葉のリズムが好きである。
いいこと?わるいこと?
とクーツェはうたった
みんなおなじさ、麦ふみだもの。
録音された音楽も、ごくたまに生演奏をうわまわる。ただし音楽家であるためには耳なりがするほど生演奏にふれること。どんなひどい演奏であっても、生の楽器演奏には、音楽家のための栄養がわずかながらそなわっているからだ。
独立した特殊な事件など、この世には何も起きていないような気がしてくる。クーツェの言ったように、大きい小さいは距離の問題。
それらの嘘によって、街のみんなには楽園の風景が見えた。おおきな代償を支払いはしたけれど、みんなの手に、なにひとつ残らなかったわけでもない。ぼくはやっぱり、今もそうおもいたい。
へんてこはあつまらなくっちゃ生きていけないってそう思ってな。へんてこはひとりじゃめだつ。めだつから、ぼんやりふつうにいると、ひとよりひどいめにあう。
この世のところどころにしがみつくへんてこなひとたち。彼らはそれぞれの技をみがく。自分のへんてこさに誇りをもとうと。まじめに、まるでばかにみえても。
熟練のティンパニ奏者のように、ぼくは待つことを学ばなけりゃならない。それはなかなかに難しい。ばかといわれてもへんてこ呼ばわりされてもけっしてばちを捨てず、ステージのいちばんうしろでじっと立っていること。そのときをききのがさぬよう、ちゃんと耳をかたむけて。
音楽のよろこびの大きな部分を合奏のたのしみが占めている。 -
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プラネタリウムの解説員である「泣き男」は、村で水死した女があとに残した双子を引き取って育てることになる。
双子には、太陽の周りを三十三年周期で回っているテンペルタットル彗星から、テンペル、タットルと名が付けられる。
勝ち気で活発なテンペルは、村にやってきたサーカスの一座についていき、やがて世界的な手品師として、旅から旅の暮らしを送るようになる。
対する穏やかなタットルは、村に残り、郵便配達員として、また父の仕事を手伝ったりして暮らしている。
中身は対照的でも見かけがそっくりなこの双子は、「熊」に関わってそれぞれの運命を歩んでいく。
いしいさんの作品には、いろいろなものが詰まっている。
身体の苦しみ、心の痛み、思いやりや知恵。
ここで描かれる世界は決して理想的なものではなく、雑駁で残酷なものも含まれているけれど、どこか温かい。
『麦踏みクーツェ』よりも、本作の方が好きかもしれない。 -
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能も狂言も人形浄瑠璃も見たことないので、
実際にどのような”動き”をするのかは全く想像するしかないのですが。
後書きでは「舞台での人形は本当に死ぬ。首が飛ぶ、崖から落ちればそのまま動かなくなる」とありそれを想像しながら読むと心に迫ります。
【「能・狂言」新訳:岡田利規】
能「松風」
磯に立つ一本の松の木。
行平中納言の一時の寵愛を受けた二人の女の情念。
能「卒塔婆小町」
若き日は美しかった。
その昔戯れに扱った男の怨念が憑り付いて、
いまでは卑しく年を取った。
能「邯鄲」
”邯鄲の夢”の能舞台化。
狂言「金津(かなづ)」
「はい、こうして登場したのが誰かと言いますと、金津というところに住んでいる人です」
新築したお堂に置くための地蔵を求める金津の住人と、
詐欺師”すっぱ”の悪巧み。
”すっぱ”の子をお地蔵様として金津に送り込んだ!
狂言「木六駄(きろくだ)」
伯父へのお使い品を使い込んでしまった太郎。
さあどうやって誤魔化す?!
狂言「月見座頭」
座頭と男は気が合って楽しい時間を過ごすが、
男には相手が盲目と言うことで意地悪心が湧き上がり…。
【「説経節」新訳:伊藤比呂美】
語り物「かるかや」
刈萱(かるかや)の総領、加藤左衛門重氏は、花見の最中に浮世を離れることを決意し、妻と幼い子供たちを残して出家する。
父を恋う子供たちは、長じて父を探しに出る。
すれ違う親子。
しかし僧門に入った重氏は、現世への思いを断ち切る。
立ち去る父の哀れ、追えない子らの哀れ、待つ身の妻の哀れ。
【人形浄瑠璃 近松門左衛門「曽根崎心中」新訳:いとうせいこう】
天満屋の遊女お初と将来を誓い合った平野屋の手代徳兵衛は、
金銭詐欺にひっかかり身動きが取れなくなってしまう。
弁明は聞かれず、無実にして死罪は免れなかろう。
お初と徳兵衛はあの世への道行を進む…。
***
最後の道行の文章が美しく美しく。
これは近松門左衛門がすごいのか、
いとうせいこうがすごいのか。
舞台で見たらさぞかし胸に迫るだろう。
【人情浄瑠璃 近松門左衛門「女殺油地獄」新訳:いとうせいこう】
油や河内屋の次男与兵衛は、生来の遊興癖、怠け癖とズル賢い気質から借金を重ねる。
向いの小さな油問屋豊島屋(てしまや)の嫁のお吉は娘三人を育てる気風のいい女。
良からぬたくらみを持った与兵衛は、豊島屋へと忍び入る…
***
動きのある文章でテンポよく話も進み、
お吉の明るさで弾みもつき、
そんななかで何も考えないかのごとく
与兵衛の行動がひたすら深みに堕ちていく様相が
不穏さを見せ続ける。
激しくしかし密かな家族の愛、
クライマックス”油殺し”惨劇の迫力、
そして殺人が露見するミステリー要素…
これは確かに見事な脚本。
【「菅原伝授手習鑑」新訳:三浦しをん】
梅は飛び 桜は枯るる世の中に 何とて松のつれなかるらん
菅原道真の領地の四郎九郎の三つ子、梅王丸、松王丸、桜丸は、
それぞれ菅原道真、藤原時平、斎世の宮の牛車番。
斎世の宮は道真の娘刈屋姫と駆け落ちし、
時平は道真の筆法伝授を巡り道真を失脚させる。
主人たちの関係が変わった三つ子たちは、それぞれの主人に従うこと気持ちを示す。
梅王丸は道真の流罪先を訪ね、桜丸は自害する。
道真への忠誠を指した梅と桜に対し、あくまでも彼らを追及する松。
しかし松王丸は、誰よりも苛烈な方法で道真への忠誠を示していた。
これらの話がのちの世まで知られているのは、天神さまとなられた菅丞相の御恵みであろう。
…という、シリアスな話を「少年少女名作文学集」かなんかで読んだのですが、いざ全体版を読んでみたら、以外に軽妙だったりユーモラスだったり色艶っぽかったりという場面も多かった。
悪役時平公が、牛車で大立ち回りを演じる場面などさぞかし迫力であろう。きっと人形の首がクルッとかわって怒髪天を抜くかのような顔面に変わり…などなど頭に浮かんできます。緊迫場面、ゆったりした場面、人間心理の妙、じつにバランスが取れています。
【人形浄瑠璃 ・歌舞伎 「義経千本桜」新訳:いしいしんじ】
壇ノ浦にて平家を滅ぼした義経だが、兄の頼朝に追われることになる。
義経の正室卿の君の犠牲、暴れる武蔵弁慶、義経を慕う静御前、そして忠臣の佐藤忠信。
捕る者逃げる者らの思惑を経て、義経一行は北上する。
海の上で義経以降は、壇ノ浦に沈んだはずの平知盛の襲撃に逢う。
知盛は壇ノ浦を逃げ延び、安徳天皇を擁し再起を図っていた。
宿敵との戦いは、共通の目的を持ち…
清盛の直径でありながら、平一門からはぐれた平維盛は、 正室若葉の内侍はわが子六代との再会を目指し、身を潜めていた。
そしてやはり壇ノ浦から逃れた平教経との邂逅…
後白河法皇から賜った鼓に情を寄せる狐の思慕、
男女、親子、そして主従の情景が絡み合い…
…ということで、「●●は生きていた!」「▲▲は実は※※だった!」などなど、想像を広げまくって自由闊達に書かれた脚本でした。
【人形浄瑠璃・歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」新訳:松井今朝子】
「江戸時代の赤穂事件を足利尊氏の執権高師直に置き換えて上演」ということは聞いていましたが、高師直相手に仇討なんてしたらさすがに歴史を変えすぎないか…?と思っていたのですが…いやあ、筆は強かった、史実なんてかっ飛ばして仇討しちゃいましたよ(笑)
高師直は、塩谷判官の妻”顔世”に恋慕するが、袖にされた恨みを判官にぶつける。
塩谷判官は高師直に切り付け、切腹と家の取り潰しを申し付けられる。
塩谷判官の家老大星由良助は、遊びに興じる振りをして仇討の機会を探る。
由良助の嫡子力弥は、判官の同僚桃井若狭守の加古川本蔵の娘小浪と婚約していたが…
…えーっと、高師直を討ち取ってしまいましたが、今後の歴史をどうするつもりなんだ(笑)。人がエンターテイメントを求める気持ちは史実を超越する(笑) -
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「手品師の舞台は、演芸小屋や劇場にかぎらない。私たち手品師は、この世のどんな場所でも、指先からコインをひねりだし、カードを宙に浮かせ、生首のまま冗談をとなえつづけなければならないのだ。いうなれば私たちはみな、そろいもそろって、目に見えない六本目の指をもっている。手品師たちのその見えない指は、この世の裏側で、たがいに離れないよう、密かに結ばれあっているものなのだよ」
ファンタジーの名手いしいしんじの傑作長編。
山間の村にただひとつあるプラネタリウム。そこに捨てられた双子のテンペル・タットルを中心に悲喜こもごもの人間模様を綴る。
剣も魔法も出てこないけど、この人の書く本はすべからくファンタジーだと思う。
どこかにありそうでない街。現実離れしてるようで、現実を引き継いだ世界観。よい人もいれば悪い人もいる、正直者もいればずるい人もいる。金持ちも貧乏人も、大人も子供も、強者も弱者も……そして彼の作品の主人公は普通の人より少し不器用で、少しだけ世界からずれたところに存在する者。
プラネタリウムに捨てられた双子は泣き男に拾われ育てられ、銀色の髪の美しい少年に成長する。
毎年工場では父親のわからない子供が産まれ養護施設に預けられる。煙突が吐き出す煙のせいで空は曇り、星は見えない。労働者は皆疲れている。そんな村で唯一、村人の娯楽として偽の星空を映し続けるプラネタリウムでは様々な出来事が起きる。
十四歳になった時、テオ座長率いる手品師一座が村を訪れたことによって、二人はそれぞれ別の道を歩むことになるのだがー……
優しくて哀しくて痛くて切なくて、いろんな感情で胸が一杯になる。
綺麗で楽しいばかりがファンタジーじゃない。
実際、作中では少なからぬ悲劇がおき、少なからぬ涙が流される。
時に、不幸に打ちのめされた人の心は絶望の闇で塗り潰されそうになる。
けれど
「くらやみなんです」
「もちろん、そこには何も見えません。見えないから、闇というのです。でもだからといって、そこに、なにもないとは、いえませんでしょう。なにかがあると感じるからこそ、われわれはきっと闇にひかれ、そして闇をおそれるのでしょうから」
作中泣き男が語るこの台詞こそ、本作の、ひいてはいしいしんじ作品すべてに通底するテーマを象徴する。
作者は目に見えないことやものを軽んじず、尊重し、あくまで純粋に向き合い、描き出そうとする。
哀しい過去を背負った不器用で真摯な人間達。
彼らが哀しみと折り合いをつけなんとかやっていこうとする姿勢が、自分が辛い時さえどん底の誰かをすくい上げようとする優しく気高い志が、「感動」の一語で括れない深遠な余韻を帯びて胸に迫る。
犬と兄貴のエピソードには思わず泣いた……。 -
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今思うと笑っちゃうけど、幼稚園児の頃だと思うけど、よく押し入れに閉じこもった。真っ暗な中で何してたんだろ?よく思い出せないけど、何だか想像上の自分の世界を作って、そのなかで、誰かに話かけたりしていたような、ぼんやりとした記憶がある。親でもない、兄弟でもない、現実の友だちでもない“その誰か”と、心のなかで話続けていたような・・・
この物語の主人公の「ぼく」は、その生まれもった体格などから、小学校で同級生や先生から何となく「へんてこなもの」として遠ざけられる。それは、最初の方は、ほとんど独り言だけってことからもわかる。
そんなとき、ぼくは屋根裏で「へんてこなひと」に出会えるようになる。とん、たたん、とん、という足ふみの音とともに屋根裏に現れる“クーツェ”にぼくは、いろいろと話かけるようになる。でもクーツェの答えは謎かけのようなものばかりで、ぼくもわかったような、わからないような、という毎日を過ごす。
そうするうちに、主人公を取り巻く、おじいちゃんや父さんや、町のたくさんの大人たちのいろんな“事件”に巻き込まれていき、おじさんや先生や女の子という、他人からは見たら「へんてこ」と見えるかもしれない人たちに出会い、彼らに対して自分を不器用ながら、自分の言葉で伝えようとすることで、「へんてこ」は実は「へんてこ」じゃなく、ある意味輝きをもったものだってことが少しずつわかり始め、それが彼らやまわりの多くの人の共感となって広がり、ぼくは、すごい「仕事」をなしとげることができるまでになる。
最後に、ぼくは、おじいちゃんが生まれた土地を訪れる。ぼくはもう、自分の体格や生い立ちで卑屈になったり自分の殻に閉じこもったりはしない。自分のルーツを確かめるかのように、ぼくはクーツェがしていたように、自分で足をあげて大地を踏みしめる。その時、ぼくはクーツェに会いに行く必要はなくなっていた。
(2010/2/28) -
Posted by ブクログ
まず、とても面白いし童話なんだけどそこらの童話とは内容のスケールが桁違いに広い
結局クーツェは「あ〜」って感じなんだけど、もちろん登場人物は個性的で魅力的で、いろいろな人間が居る様にいろいろな人生があるんだよって言われてる気もした。
ねこには才能があったといえば簡単だけど、周りの雑音に左右されずに個性を追求する芯がなかったらみんなと同じで、本当は強い人間なんだけど一見弱い感じなのが不思議だった。
楽しい作品で童話チックで細かくというか隅々までねこの故郷や挑戦するために訪れた大都会も描かれててすごくキレイで、特に故郷はねこが羨ましいほど美しい!